だといったのだ。そしていやしくも社会主義の党を名のり、 社会主義者と称するからには、ソ連とその「天才的指導者」 「天才的教師」スターリンの最高権威を認めなければならな そうく 宮かった。そうでない社会主義者は資本家の従僕または走狗で、 労働階級をだまし、裏切るものだといったのだ。 ム レ 最後に、世界革命は依然としてソヴィエト政策の目的とな っている。世界革命は目的自体であるとともに、また「社会 ら 主義の祖国」をまもる手段でもあった。「社会主義の祖国」 ソ連は、「資本主義四周」の存在するかぎり、必然的に危険 モにさらされていると考えたからである。ところで、その「世 界革命」は、一九三〇年代以来ちょっとちがった意味をもっ てきた。社会主義の青写真が一つだけあれば、ほかの国々に それを押しつけるだけで世界革命が達成される。「ソヴィエ 、と、うのである。第二次大 ト化の地域の拡大ーをやれま、 戦後の東欧衛星諸国は、「解放」という美名のもとに「ソヴィエト化 」を押しつけられて誕生し た国々であった。 242
イエトの労働者は、スタハノフ主義者となって、高い生産額を維持していれば、、、 し生活を送る ことができた。一九世紀のアメリカでも、一生懸命働く熟練工だったら、やはりおなじことであ った。卑賤の生まれでも、衆にすぐれた才能をもったソヴィエト市民は世にときめくものになれ た。アメリカでもそうだった。ソ連邦の社会上層のもっ諸価値は、一八三〇年のイギリス、ある いは一八七〇年のアメリカの新興資本家のもっ諸価値を思わせる。ソヴィエトの工場支配人は、 ロックフ = ラーやフォードの個人主義とくらべたらすこしがさつかもしれないが、やはりみずか らたのむところがあり、あまりしりごみもしないし、一種の個人主義を発揮している。ソヴィエ トの新興階層のもっ美的価値もまた、五〇年前あるいは一〇〇年前の西欧の新興資本家階級のそ れとそっくりである。おなじように独創性を嫌い、おなじようにがっしりと、もったいぶった、 派手な宮殿が好みで、おもしろくて覚えやすい小歌曲 ッ 、を一が 侶タたを愛するのである。ジ = ダーノフが作家や音楽家に出 。功。した指令は、ジ = ダーノフ自身やスターリンの個人的 の 正の成た ンー。もは 0 な好みばかりでなく、ジ = ダーノフの属していた社会社 連 ~ 伝て建敗グループ全体の希望や偏見を反映していた。ソヴィ = のみ経は 9 動にの動トの支配者の非ロシア諸民族に対する態度はまた、ヴ 3 連蛛代運 2 教蜘時教イクトリア朝時代のイギリスの支配者のそれと似てい 〕小郎ン宗 反女リ反 1
をを : 第 怖はつづいた。 スター 丿ン憲法と以上の血の共水の大粛清がはじまったさなかに、いわゆるスターリン憲法が その実際 生まれた。この新憲法が採択された日、すなわち一九三六年十一一月五日はソ 連の国祭日となった。 スターリン憲法は「世界で最も民主的な」憲法だと宣伝された。 たしかにこの憲法は、ことばの上では「民主的」である。しかし 景 ス光その実際は、憲法にしめされたソ連の政治や社会の構造には共産 会党の支配がつらぬかれており、世界で最も民主的な憲法というの トたは、たんなるフィクシ = ンにすぎない。 さ イ択ソ連の国家権力の最高機関は最高ソヴィエトだという ( 憲法第 三〇条 ) 。ところがその最高ソヴィ = トの第一院にあたる連邦会 証議 ( 第一一院は民族会議という ) がどのようにして選挙されるかとい 」第うと、選挙民に共産党がえらんだ候補者 ( 党員および非党員 ) のリ 法ストがっきつけられるのである。選挙民には選択の自由がないの粛 年ン・である。 こうして選ばれた最高ンヴィエトが政府を選ぶ。これが人民委
の抗日勢力が発展することをひたすら望んだ。中国共産党また、コミンテルンの指令に従うと同 時に、一方、日本と南京政府が協力して中国共産党を討波することを警戒し、徹底的な抗日を終 始主張する。 はやくも一九三一一年四月二十六日、中華ソヴィエト臨時中央政府は、日本に対する宣戦布告の 電報を発し、また、すすんで満州国内における共産系反満抗日軍の培養に乗り出した。ソ連もま た、一方で先に述べた不侵略協定の締結をしばしば提案し、また一九三五年、北満鉄道を満州国 に売却するなど、日本政府を刺激しないようにつとめながち、他方満州における共産系反満抗日 軍へのひそかな援助は終始つづけ、また東シベリアにおける極東軍を急速に充実かっ近代化した。 一九三三年、中華ソヴィエト政府は、広く抗日統一戦線の必要を説き、四月十五日付で、 「左の条件の下に、紅軍はいかなる軍隊とも作戦協定をおこない、日本帝国主義の侵略に反対す る準備を有している。 一、ソヴィエトへの攻撃を停止すること 一一、民衆の民主的権利を保障すること 三、民衆を武装すること」 といった宣言を発した。 ぎよふじきゅうかい また白色地区においても、抗日風潮はますますたかまり、左翼の指導する国民禦侮自救会 ( 会 298
ちょうほ 経済封鎖、道路の構築および碾堡政策 ( 占領地帯にたくさんの碼堡、つまり小さなトーチカをつくって 相互に網の目のように連絡をはりめぐらし紅軍のゲリラ部隊の活動を封すること ) によって、じりじりと その包囲網を縮めていった。紅軍はまず塩をはじめ食糧に苦しんだ。一九三四年一月、首都江西 すいきん 、第第一省瑞金において、第二回ソヴィエト区大会が開かれたが、 廃この大会の雰囲気は悲愴味をおび、もはや赤色地区は往年 、 , その盛大さはみられなかった。 一九三四年十月、中央ソヴィエト区の紅軍は、ついに江 第一一西省 0 根拠地をすて、一〇万の紅軍は西に向か 0 て旅立ち、 物ここに江西省中央ソヴィエト区は、南京国民政府の手にお 中央区の紅軍は毛沢東、朱徳にひキいられて西貶 、長征 に去り、雲南、貴州を遊撃した。一九三五年一 じゅんぎ 、〕、月、貴州省遵義において開かれた中共中央の会議において、ソ 嵂 3 澱それまで党を指導していた留学生グループは左翼日和見主中 物、曲義としてしりぞけられ、毛沢東の全党に対する指導権が確 ト ~ 回立されたといわれる。ただし今日のところ、遵義会議の記
る。ソヴィエトの歴史家は、キルギーズ人や は初 の最 たのタタール人がツアーリに征服されたのは幸福 成測わだったと説明するのであるが、これはマルク ~ 完い 。義ス・レーニン主義版のキプリングである。 ム主た 。ダ会っ要するに、ソヴィエトの工業化もヨーロッ - 社と ル「ひ プ。のパやアメリカの工業化とおなじ社会現象を生 ニ勝み出した。ただソ連には、私的利益や生産手 ド四の 段の私有が存在しないという欧米諸国との相 違があることを別にすれば、何から何までお なじである。マルクス主義者はこの相違こそ最も重要だと考えるのだが、これは実際上そう大し て重要ではない。プロレタリアートの搾取、芸術上の俗物主義、帝国主義、そういった不愉快な 現象の多くは、マルクスによって資本主義の産物とみなされていたが、それらはむしろ、急速な 工業化の所産だと考えられる。資本主義体制のもとであろうと、社会主義あるいは共産主義体制 のもとであろう . と、工業化はおなじような社会現象を生み出すのだ。 スターリン革命としかしソ連の経済的また社会的なパターンは、産業革命のヨーロッパやアメ 全体主義 リカのそれと類似しているが、政治的パターンはまったく別物である。ソヴ 240
金の林を、コルホーズの収穫祭を描いてこそ、秋の真価がある。しかるにプホフの風景画は人の 気力をそごうとするものだ。 , 一 しうことぐらい、このとおりすっかり暗誦してごらんにいれられる。サプーロ 批評家の諸君の、 フの作品が二点出品になったから喜んでいたら、だれもひとことだってほめるやつがいない。お れの「キャンプ・ファイア」に夢、中になりやがって : ソヴィエト社会の労働者や農民は国家から搾取されていたし、インテリゲンツィアは欲求不満 ニつの不満 に悩んでいた。このようにソヴィエト社会には、一方に搾取される労働者・ 農民、他方に欲求不満に悩むインテリゲンツィア、という二つの不満があったと考えていい。 もしこの両者の不満が合体したら、スターリン体制の命取りとなったであろう。ところがこの ことは、スターリン体制のもとではツアーリ ( ロシア皇帝 ) 体制のもとにおけるよりもはるかに困 難であった。スターリンの警察は帝政時代の警察よりも敏腕だったし、情容赦もなかったし、ま た隅々まで監視の眼がゆきとどいていた。両者の不満の合体をさまたげたものは、まずこの強い 社 警察権力であった。 連 またスターリン体制の指導者たちは、歴代ツアーリとちがってプロバガンダの重要性をよく承 知していた。彼らは敵性思想を除去するだけで満足しなかった。さらにすすんで国民の精神を一 定の鋳型にいれようとした。マス・メディアを独占しているので、新聞やラジオを通じて、くり いカた
彭湃 ( 一八九五ー一九二九年 ) は早稲田大学に学び、ここで社会主義の洗礼をうけた。高津正道 らと親しか 0 たということである。その後中共に入党、故郷海豊県に帰ってまっしぐらに農民の 組織化に従事し、強力な農民組合をつくった。北伐に従った彭湃の留守中も、この農民組織は農 村地帯をおさえていたのである。 十月三十日、この彭湃のひきいる海陸豊の農民は武装蜂起し、 海豊県城を占領、つづいてほとんど全海陸豊地区を支配下に収め、 り ~ 、ろ′ つづいて十八日、海豊県ソヴ ハリ ~ 会十一月十三日、陸豊県ソヴィエト、 表イエトの成立を宣言した。中国における最初のソヴィエト政府で、 の 俗に海陸豊ソヴィ = トと称せられる。この政権は、小・フルジ = ア党 ジーもふくめて地主、・フルジョアジーを徹底的に消滅させるぎわ国 】ヴ めて過激な政策をとり、大量処刑をおこない、その地帯を血でいと 、 , ろどり、翌年三月までもちこたえたが、三月、反共軍の急襲にあ = ヴ って潰減、それ以後、山間地区にあってゲリラ戦をつづけた。消 一が長はあったが、太平洋戦争中も東江縦隊とよばれる共産系ゲリラ中 一彭部隊は活躍をつづけた。その指導者古存は一時広東省長の要職 にまですえられたが、一九五八年党中央から批判され、現在広東 かいほれノ
ソ連の市民全体の運命に深刻な影響をおよぼした。十月革命では大衆が積極的な役割を演じたが、 第三革命は政府が猛烈な社会再編成を上から強行した革命であった。十月革命は新しい道をきり ひらくために古いものを一掃する破壊的な性質をもっていたが、第三革命はその精神や目的にお いて建設的なものであった。だが実際上、この建設は結果においてひじような犠牲をともなった。 のろ その意味でスターリン時代は呪われた時代であった。しかしまた、この苦しい建設の時代をへな かったならば、ソヴィエト体制は第二次大戦の危機をあるいは乗りきれなかったかもしれない。 スターリン革命の第一の内容は、前に述べたように農民の間題であった。農民 都市の食糧不足 は一九一七年の革命以前にくらべたら、たしかに土地も多くなったし、食糧に も恵まれるようになった。ところが、消費物資がじゅう・ふん出まわらなかった。そこで彼らは、 穀物をどしどし作って売り出す意欲を失った。それに総人口が年々ふえていたこと、また穀物の 出来高が天候次第で変わらざるをえなかったことも都市への食糧供給を不安定にした。そんなわ けで、一九二七年から翌年にかけて、都市への食糧供給はますます不足を告げた。ソヴィエトの 指導者は、主として軍事的な理由から工業を急速に発展させねばならぬと決意していたので、こ の問題をなんとか解決しなければならなかった。スターリンの革命は、この都市への食糧供給の 不足の結果としてはじまったのである。 農民に対して二つの政策が考えられた。第一の政策は、彼らに経済的な刺激をあたえることで
れた。 いままでの日本に これ以後、南京政府内でも抗日を主張する人々の勢力がにわかにたかまり、 対する譲歩的態度を捨て、積極的に抗日風潮の波に乗ろうとする傾向をしめす。しかし、なにし がっさく ろ約一〇年にわたってたたかいつづけてきた国共双方のことゆえ、第二次合作はなかなか実現を 冫いたるのである。 みないうちに、一九三七年の七月七日こ 5 中華ソヴィエトと中国共産党