一九三九 ( 昭和一四 ) 年九月一日早朝、ナチス・ドイツは、宣戦の予告もなしに、 ポーランド戦争 ポーランド攻撃を開始した。九月三日、英・仏は、ポーランドに対する保障義 務を履行して参戦、第一一次大戦がはじまった。 ドイツ軍は、まずゲーリング配下の有力な空軍部隊を使ってポーランド各地の重要軍事施設を たたき、ついで戦車、装甲車などを中核にした一五〇万からなる地上部隊を、東プロイセン、ポ ンメルン、スロヴァキアなど、いたるところからポーランド領内に侵入させた。ドイツ軍の急降 下爆撃機、装甲部隊、歩兵部隊のあいだには、緊密な協同行動がとられ、その機動性は従来の戦 場にみられないほどのものであった。装備の上ではるかに劣っていたポーランド軍は、たちまち 壊減状態におちいり、ドイツ側は、一一十日ごろには主要作戦を完了、抗戦をつづけたポーランド 第二次大戦の勃発 ポーランドの反 ナチスの落書 42 イ
の首都ワルシャワも二十七日には陥落し て、「再興ポーランド」は姿を消した。 立ちおくれた英・仏は、ただこのヒトラ ーの「電撃戦ーの成功を傍観するばかり であった。 ところで、ヒトラーは、 奇妙な戦争 ポーランドの粉砕という 所期の目的をいちおう達成したものの、 英・仏との戦争状態継続という厄介な問 題に直面していた。そもそもポーランド 攻撃は、英・仏の対独態度に対するヒト 行行みみ〃 ののー ラーの大きな賭けのうえになされたもの 遂遂画案イ 計考。 ス 十ーランド戦争にあたっ なのであった。 : 年年年年 ( 「 て英・仏がほとんど手出しのできなかっ たことは、ヒトラーの目算がいちおう当 たったことを意味してはいたものの、 。モスフワ ・ト ) イ トルコ マデイラ諸 カナリー諸島 ' ・ ギリンア リビア 炙ルデ岬諸 ヒトラーの作戦 ( 1939 ~ 40 年 ) 425 第二次大戦の勃発
一九四〇 リトアニアのメーメル地方が独領に編入される 独がダンチヒ併合とポーランド回廊を要求する スペイン内乱終結 伊がアル・ハニアを占領する 7 ・日米通商条約破棄を米が通告する 7 月・ヘネシュがロンドンにチェコ亡命政権樹立 8 ・四独ソ通商協定調印 ノモンハンでソ連軍が日本軍を総攻撃 独ソ不可侵条約調印 英とポーランドの相互援助条約締結 独がポーランド攻撃を開始【第二次世界大戦始 9 ・ノモンハン事件日ソ停戦協定が成立 まる ・ 9 インド国民会議派が独立を要求する 3 英、仏が参戦 貯ソ連軍がポーランドに侵入 Ⅱ・ 3 米が中立法を修正、武器禁輸を撤廃し、交戦国 への輸出は現金自国船主義とする ソ連軍がフィンランドに侵入 貶月介石が第一次の共産軍討伐を開始する 貶・国際連盟がソ連を除名する ・ % 日米通商条約更新交渉が不調、条約は失効する 1 ・ 四毛沢東が『新民主主義論』を発表 4 ・ 9 デンマークが独に降伏。ノルウェーの港市が独 ・汪兆銘が南京国民政府を樹立 軍に占領される 5 ・英にチャーチル挙国一致内閣成立 独軍がプリュッセル占領 ノモンハン事件おこる 5 ー 8
中世末期になると、ユダヤ人はもはや社会の不可欠の集団ではなくなり、むしろ一種のよけい ものとなったので、各地ではげしい迫害をうけた。そのうちドイツ地方から追放されたユダヤ人 は東ヨーロツ。ハに逃げ出して、リトアニア、ガリチア、とくにポーランドに移住した。もっと遠 く口シア地方にまで逃げのびたユダヤ人も少なくなかったが、ロシア帝国はしばしばユダヤ人法 規を改めて彼らを外国人として圧迫し、あらゆる職業からしめ出す政策をとったので、彼らの一 部はふたたび西に転じてポーランドに入り込まなければならなかった。 当時ポーランドは、いまのウクライナの西半を所有していたが、一三三四年の法令でユダヤ人 に市民権といろいろの特権をあたえており、とくに彼らの自治体には、ほとんど独立権をあたえ たうえに、各地のユダヤ人自治体を一つの特別なグループに結集することを許した。ユダヤ人集 団が東ヨーロツ。ハの各地で市民階級の役割を代行する形をとったのである。ゆえに一六世紀から 一八世紀にかけては、これら「東方ユダヤ人」の全盛期で、ユダヤ人の経済的繁栄と民族文化の 向上がめざましく、タルムード の研究、民族文学と民族音楽などがこの地方に栄えた。 の こうして、ポーランドを中心とする東方ユダヤ人が発展した。彼らの使用するヤ イティッシュと ゲッ 言語は「ユダヤ人ドイツ語」、すなわちイディッシュである。このことばは中ュ 世ドイツ語をもととし、それにヘブライ的表現やたくさんの外国語を交えたもので、一五世紀以 7 来北イタリアから中部ヨーロッパと東ヨーロッパ一帯のユダヤ人に用いられた。一九世紀の初め
英・仏が参戦したことは、ヒトラーにとって大きな重荷であった。しかも、国内では、ヒトラー の無謀な戦争政策に批判的な軍人たちが策動するおそれがあったし、対外的には、「鋼鉄の同盟」 ( 一九三九年五月に締結 ) によってドイツへと結びつけておいたつもりのイタリアが、いざ戦争とな ると口実をつくって中立へと逃げてしまった。十月初旬、ヒトラーは英・仏に対して和平提案を おこなったが、これは、内外に対して平和主義者のポーズをしめし、なんとか情勢をきりぬけよ くにくさく うというヒトラーの苦肉の策にほかならなかった。しかし、英・仏はそのような各個撃破の戦術 にはもはや乗ろうとせず、ポーランドの旧状の回復を和平の前提として主張してゆずらなかった ので、ヒトラーは、ひそかに西方攻撃の準備をすすめることとなった。 一方、英・仏の側にしても、戦争のなりゆきについて確たる見通しがあるわけではなかった。 もともと英・仏の参戦は、「もし自国領土の防衛にポーランドが専念しているこの最中に、英・ 仏がポーランドを見捨てるようなことがあれば、中東欧ではドイツの侵略に抵抗する国はもうな くなる。そしてドイツは、これら諸国をすべて組織したうえで、英・仏を攻撃する絶好のチャン スをあたえられることとなろう」 ( 米国国務省外交文書集 ) というせつばつまった判断にもとづくだ けに、両国は、現実には戦争の主導権をにぎるべき軍事力を欠いていたのである。 イギリスの軍備強化は急ビッチですすめられつつあったが、開戦一カ月以内には、わずか八万 の陸上兵力をフランスに揚げたにすぎなかったし、フランスが要請したイギリス空軍によるドイ 42 石
ドイツとの和解工作の余地を捨て去ることには決心がつぎかねていたのである。 英・仏・ソ提携交渉は、四カ月にわたってだらだらとつづいたが、英・仏側の提案は、ソ連邦 を満足させることができなかった。チェイハレン政府の優柔不断な態度に勢いづけられたヒトラ やくじよう ーは、さらにひそかにソ連邦にはたらきかけて、ポーランド攻撃のさいの同国の中立の約定をと りつけようとした。こうしてソ連邦は、大きな岐路に立たされることになった。 「大戦勃発を覚悟のうえで独力にたよるか、それとも、〔他国との提携によって〕行動の自由を しばられても大戦防止の可能性の方につくか、ソ連邦はいまや二者択一を迫られている。だが、 英・仏案では、行動の自由はしばられるし、大戦の勃発も阻止できないことになる」と、当時の 駐英ソ連大使は、英外相に対してもらしていた。 ソ連邦が、どの時点で、どのような決断をおこなったかは、現在入手できる史料のかぎりでは ふた 明らかでない。八月中旬には、英・仏・ソ間に軍事会談がひらかれる段取りとなったが、いざ蓋 をあけてみると、それまでの三国間折衝で出ていた懸案が未解決のまま持ち越されているにすぎ哀 ないことが明らかとなった。軍事会談が完全なデッドロックに乗りあげた八月一一十三日、独・ソ 0 不可侵条約の成立が公表された。ポーランドの孤立化に成功したナチス・ドイツは、ポーランド 政撃の準備をいよいよ整えたのであった。
。只日チェコ全土を占領し、また ( ンガリーがカ このときすでに国境を越えていたドイツ軍よ、卩 ルバトールテニア地方をかすめとった。この混乱した情勢を利用して、イタリアはアルバニアを 占領、ドイツはまた、ヴェルサイユ条約のいま一つの申し子ポーランドをつぎの侵略目標に選定 していた。将来の対西方戦のことを考えると、ナチス・ドイツとしては、どうしても東隣りのポ ーランドをとりこにして背後の安全をかためておきたいところだったのであるが、ポーランドは いさぎよ 属国化を潔しとしなかったので、ヒトラーは、ダンツイヒ自由市のドイツ帰属その他の要求を押 しつける一方、ひそかにポーランド粉砕の軍事作戦を準備しはじめたのである。 このようなナチス・ドイツの露骨な行動のなかに、はじめてその挑戦を読みとった英・仏政府 じゅうりん は、おくればせながらそれまでナチスの蹂躙にまかせていた東ョ 1 ロッパ諸国との連帯を強化す る政策にのりだした。ところで、東ヨーロッパに強力な対独抵抗帯、チェンパレンのよぶところ の「平和戦線」をつくりだすためには、東方の大国ソ連邦との提携が絶対に必要なのであった。 反面、いざ戦争となったばあい、対独戦争の重荷を主になってひきうけなければならない立場 にあるソ連邦を、これまで悪評高い宥和政策で同国からすっかり疑惑の目でみられるようになっ ていた英・仏が、「平和戦線」の協力者として説きつけるためには、よほどの配慮が必要なので あった。だが、チェイハレン政府は、ソ連邦との提携にはあまり乗り気ではなかった。 ごんげ チェン・ハレン政府にしてみれば、ポルシエヴィズムの権化ともいえるン連邦とむすんでまで、 イ 22
央ロシアの都市にいたタタール人などが儀牲者となった。そういう散在せる少数民族のなかで、 いちばん数の多いユダヤ人の粛清はとくに目だっていた。 非ロシア民族や少数民族群の迫害は、外国人スパイに対する恐怖とむすびついていた。その結 果、ソ連に住む外国人、ならびに、かって外国にいったことのあるもの、あるいはソ連内で外国 人と交渉をもったものが大量逮捕された。ソ連に住む外国人について問題になったのはコミンテ ルンの人たちである。そのばあい、西欧民主主義諸国の共産主義者は慎重に処置され、ファシス トや独裁的な政府の国々の共産主義者は容赦なく処置された。 ポーランドの共産主義者はほとんど全部銃殺または投獄され、一九三八年にポーランド共産党 はコミンテルンによって正式に解散されてしまった。ドルフス ( 一八九一一ー一九三四年 ) のために 労働者組織が粉砕されたのちソ連に亡命したオーストリア人は、ファシストのスパイとして逮捕 ーゴの指導者も大部分姿を消した。 された。ドイツ共産主義者も多く同様な運命に見舞われた。ュ エジョフシチナの「エジョフシチナ」とよばれる大粛清の最後の犠牲者は、大粛清の手先の秘嵐 の 最後の犠牲者密警察そのものであった。 = ジョフは一九三八年そのポストを追われ、姿を 消してしまった。警察の要人、強制労働収容所の所長、粛清を処理した裁判官、こういう連中が粛 儀牲者とおなじ運命に泣くことになった。 ハチェフスキー元帥らが処刑されたときがそうだった ( 、裁判官たちは「軍法会議」の調書に
れた。クリミア会議議定書は、第一に、戦後に樹立されるべき国際機構についての討議の内容を 明らかにしている。ここに、英・米・ソ三国が新しい国際連合への組織に積極的な協力をしめす ことになったのである。さらに、この議定書は、ドイツ降伏後のドイツ占領・管理の問題、賠償、 およびドイツ領土の処理に関連してポーランド問題についての原則を決定した。 この会談では、ソ連の対日参戦にスターリンが同意し、秘密協定が結ばれた。これによると、 ソ連はドイツ降伏の二カ月あるいは三カ月後に参戦すること、樺太南半部のソ連への返還、千島 そしやく のソ連への引渡し、ソ連による旅順の租借権および大連における優先権の承認、東清鉄道・南満 ごうべん 州鉄道の中ソ合弁経営の承認、外蒙古の現状維持の承認など、日本にとって重要な問題がふくま れていた。 ローズヴェルトがソ連に対して、あまりにも多くの代償をあたえすぎたという批判は、その後 米ソ間の「冷たい戦争」の発生によって生じてはいるが、ローズヴェルトの戦争遂行外交は、こ のようにソ連との協力を得たことによって大きな成果をあけたのであった。 からふと 450
である。」 小国の側でも、大国との分業意識が芽ばえだしていた。発足以来、国際連盟には総会と理事会 が設けられ、理事会は常任理事国と非常任理事国から構成されて、常任理事国はたいたい大国、 という不文律のようなものがあったのであるが、一九二〇年 代の中ごろに大国気取りのポーランドや南アメリカの一部小 グ ン国のあいだで、常任理事国の席を要求しようとする動きがお こった。このとき、スウェーデンがチェコスロヴァキアや他 のスカンディナヴィア諸国と密接な連絡をとりながら説得工 プ 代作をおこなったが、この事件ののち、理事会の常任議席は平 和維持のうえで責任の重い大国にしめさせ、のこりを小国の あいだでまわり持ちにするという慣行ができたのであった。 左 こうしたなかで、軍縮準備委員会は国際世 催軍縮会議の失敗 論の期待を集めながら開会されたが、そこ の 議では、列強はいかにしてすこしでも自己に有利なかたちに軍 会 縮をみちびくかに専念し、そのため、はてしのない混迷にお 0 ちいった。とうとう会議が強国のあいだの馴れ合いにおわる 阜