世界経済恐慌 繁栄の頂点取引所の全盛一九二〇年代の世界世界経済恐慌国際対 立の険悪化と恐慌対策プロック経済と自給自足経済 アドルフ“ヒトラ ヒトラーの祖先アロイスの生涯少年時代のヒトラーの家庭ウィーン時 代の生活ウィーン時代の思想民族主義と反ユダヤ主義ミュンヘン移住 戦争と革命政治活動の開始ナチス党の確立・ハイエルンの王党と極右派 ミュンヘン一揆 ナチズムの特色突撃隊軍部の保護突撃隊の発展一九二三年の秋 ゼークトの独裁計画カール総監極右派「太鼓たたき」ヒトラー イエルン対ベルリン 「もはや待てない」カール対ヒトラー ビャホール一 揆軍部の反対 『わが闘争』と政権の獲得 目次
ヒトラー自身は、一九二四年、ミ、ンヘン一揆に失敗したあとで、・ ( イエルンの人民法廷に立 たされたとき、昔を回顧して「私は決定的な反ユダヤ主義者、反マルクス主義者としてウィ を立ち去った」と述べている。そして彼の漠然とした思想傾向は、この時代に形成されたと考え るべきであろう。 とうべき都であった。 とにかく、ヒトラーの経験したウィーンは、ゆがんで、罪悪にみちた、い 明るくてはなやかなウィーンについて、彼はなにも知らなかった。それゆえに彼は、この都をに くみ、そして全世界がゆがんで病毒におかされているように考えた。ヒトラー主義の根本にある ものはこのような強烈な感情である。 ヒトラーがウィーンを去ってドイツのミュンヘンに移住した理由についても、 ミュンヘン移住 彼は大きなウソをついている。オーストリアーハンガリー帝国の腐敗堕落にた えきれなくなったために移住したのだと彼自身は説明しているが、そうではない。彼がウィーン でのみじめな生活にあきあきして、生活の転換を求めていたのは事実であろう。しかし別の、もヒ フ っと切実な問題もあった。すなわち、彼は一九一〇年春に徴兵検査を受けなければならなかった のに、これをサポり、一九一一年春に検査のうけなおしができたのに、これもサポり、 ア 年春には検査をうける最後のチャンスがあったのに、ごれも無視した。その結果、彼は徴兵忌避 者となってしまい、発見されしだいに捕えられて、一年以内の刑に処せられたうえに二千クロー
かったし、ヒトラーのビストルでおどかされてやむなく一揆に賛成したわけでもなかった。ヒト ラーの目標とカールの目標とは、さしずめすこしも違っていなかったし、ヒトラーは・ハイエルン をカールたちにまかせていた。カールはヒトラーの行動を利用して・ ( イエルンを支配し、王政を 復活するという目的すら、ほほ達成したのである。 ミュンヘン市軍司令 一揆に対する反対はカールたちのあいだからはおこらずに、 軍部の反対 官ダンナー将軍以下、軍部の将官たちのあいだからおこった。将軍たちはロッソ ウのベルリンに対する反逆には早くから反対していたし、ゼークトの独裁プランにはまったく賛 成であった。彼らは中央政府やゼークトの指令を待っことなしに、非常事態に応じて一〇時四 0 分までには自発的にミュンヘンの支配権を握り、地方都市においても非常警報が伝達されるに応 じて、一揆派との協力を拒否する軍部支配権が確立した。すなわちゼークトの線による軍部支配 が全パイ = ルンに成立し、極右派は権力からしめ出されて武器を入手できなくなったのである。 一〇時四五分にミ = ン〈ン市軍司令部にあらわれたロッソウは、自分の幕僚たちが自主的につく りあげた既成事態に直面して、ただ賛否を表明するのみとなった。そして国防軍の団結を保った めに、部下の固い決意に服するほかなかったのである。こうしてヒトラー一揆の運命が決定され カールとザイサーも、ロッソウの転向を知ってヒトラーと決裂する決心を固め、十一月九日の
日に国防軍を退役して政治運動に専念することとなった。建築と絵画、そして音楽に対するあこ がれは、生涯を通じて消えることがなかったが、職業としては「政治家」および「著述家」をえ らんだ。当時ヒトラ 1 が近づいた政治家のなかには、大戦の英雄であり、ドイツ右翼派の偶像と なっていたル 1 デンドルフ将軍もいた。ルーデンドルフはやがてミュンヘンに移住してヒトラー ゃ。ハイエルン反動派とさらに密接な関係を結ぶようになった。 また大資本家のうちでヒトラーの。 ハトロンとなった人には、奇妙なことにはじめのあいだ、相 当の年輩の婦人たちが多かった。プルクマン出版社長の夫人、。ヒアノ製造業者べヒシュタインの 夫人、その他の上流夫人が、母性的なまたは準母性的な好意をヒトラーによせた。ヒトラーの性 格のうちには、彼女たちをひきつける魅力がそなわっていたらしいが、この夫人たちの支持は、 運動の発展のためにも、また彼個人の生活のためにも、きわめてつごうのよいことであった。 この間、運動はぶイエルン政府と軍部の支持を得て順調に発展し、一九二〇年八月 突撃隊 には、ヒトラーがミュンヘンで最も「悪評の高い」演説家といわれるまでになり、 同年末には党員三千人に達した。 党が発展するとともに党に対する反感も高まってきた。とにかく挑戦的反社会主義で固めたア ジ演説をしてまわるのであるから、反対派としてはとうていだまって引きさがるわけこよ、 いのであるが、反対派と冷静な討論のできる空気などは演説会場にまったくなかった。ために反
m よき協い - み一諸担 方ン状 行交ネ以内の罰金を支払わねばならない身となった。 一がたこうして、彼は恐怖心におそわれて、一九一三年 ラ局し ト当出 ヒ市に五月二十四日にウィーンを去ってミュンヘンにむ たツ局 しン当かったのである。このすぐあとからオーストリア 避リ察 忌て警警察がヒトラーの住居をねばり強く追及しはじめ をいの 役っン 兵に〈たありさまも、いまでは全部判明している。 以上が、これまでは不明とされていたヒトラー の青少年時代の生活のあらましであって、いろいろと新しいことが判明したが、まだはっきりと わからないことも多いから、あるいは今後さらに別の結論が出るかもしれないのである。 もしもヒトラーが芸術家としての道を歩むことができたとしたら、彼の人生コースも、ドイ ツ・ファシズムの性格もちがっていたかもしれない。しかし彼は芸術家としては失敗し、ウィー ンの下層社会という愛のない学校で、鋭い憎悪と冷酷さをもって世間を見ることを教えられた。 そしてミュンヘンに移ってからも、知人のいない大都会で、郵便カードに絵をかいたり、広告用 の絵や図案をかきながら、ほそぼそと暮らしたのである。このころのドイツの税務署はヒトラー の年間収入を一二〇〇マルクと査定している。これは労働者とすれば上級労働者の収入であった が、材料費などの支出もひじように多い「画ェ」としては、けっしてめぐまれた生活のできる収 興 . POI レを第 : ぐ 0 義 8
ヒトラーの目標もカ 1 ルやロッソウの目標と当面の政策ではおなじであった。 カール対ヒトラー すなわち、ベルリンの政府を倒し、ワイマール共和制を破壊するために、ま ずミュンヘンに独裁的な「ドイツ政府」を樹立し、国防軍と警察と右翼諸軍事団体が協力して・ヘ ルリン進撃をおこなうことである。ベルリンに樹立する政府は軍事政府であるべきで、ルーデン ドルフが全ドイツ独裁者、ヒトラーはその政治的協働者になる。行政官になるのではなくて宣伝 家、「太鼓たたき」として国民意志の形成と普及に努力するというのである。 ヒトラーが蜂起を決定したのは、十一月八日の午後八時からカールがビュルガープロイケラー ミュンヘンの名士と有力者を前に政府の政策について演説する、と聞いたときである。すで にヒトラーの部下たちは行動を待ちきれなくなっており、しかもロッソウは、右翼諸団体を育成 し援助してきた費用がなくなった、と打ちあけたのであった。ナチス下級指導者はヒトラーの同 意を得ないでもベルリン進撃を強行しようと決意しているし、他方ヒトラーは独裁政権のプラン から排除されたばかりか、カールは十一月六日に全運動の独占的な指導権を要求したのである。 ヒトラーたちは独力で国民革命を起こせるほど強力ではなかった。カール以下の企てている。フ ランを、ヒトラーたちが実行するという形をとって、カールや軍部を運動に合流させる以外に運 動を成功させる方法がなかったのである。それはあくまでもカールたちを運動にまき込むための ク 1 デターであって、軍部と政府に対する反逆などではありえなかった。一揆のあっけない失敗
もした。売上げはヒトラーと ( = ッシ = で半々に分けた。ヒトラーは『わが闘争』のなかで、一 九一〇年のころから「独立した画ェ」として生活できるようになったと自慢しているが、最近の 調査によると、翌年の初めには故郷の叔母から二千クローネ内外の遺産をもらっており、これだ ーマンが二年間らくに暮らせたの けあれば、独身のサラリ である。したがってこのころのヒトラーは、孤児恩給や両 親の遺産や叔母の貯金やで、生活費を大幅に補 0 ていたよ 0 うである。ただ彼は、一九一〇年の初めごろから一九一三 、 " 0 年の春にミュンヘンに移住するまで、独身者合宿所という 風最低の宿舎で、ウィーンの低所得の市民たちと鼻をつき合 ン わせて暮らしていたのであって、ぜいたくな生活をするた 、第ウめに叔母の援助をうけていたわけではないのである。 それでは、このころの彼はどのよう ~ 描ウィーン時代の思想 な思想をもっていたのであろうか ? フ ヒトラーは『わが闘争』のなかで、自分の世界観はウィ ア : 第いーン時代のきびしい生活体験と読書のうちから生まれたも ので、この時代に世界観が確立したのであり、それからお
自治要求は激しさを加え、ドイツは、これを外部から支援して、 チェコ政府に威嚇を加えた。 フランスはチェコと相互援助条約を結んでおり、チェコのた 邦る 連す めにたたかう義務があったし、ソ連邦もチェコ援助の用意を示 画を唆していた。だが、チェン・ハレンは、ヒトラーとの宥和の道を 漫と 。のこえらび、九月、英・仏・独・伊の四国間できめた解決案をベネ 会れシ = 大統領につきつけた。 ン報「ヒトラーのような人物と面と向かったら、自分は彼を暗殺す ュけ 、、除るしかないー ともらしていた・ヘネシュも、ズデーテン地方のド ィッへの割譲という屈辱的な提案に同意したのち、ロンドンへ と亡命の旅に向かった。東ヨーロッパの問題をソ連邦の面前で、 だんごう しかもソ連邦を排除した枢軸勢力との談合によって決定したこ のミュンヘン協定の成立は、ソ連邦や東ョ】ロッパの小国の、英・仏に対する不信を決定的なも のにした。東ヨーロッパの「平和のとりで」であった小協商はくずれさり、一方、英・仏にして も、こうした儀牲をはらってまで獲得した「わが時代のための平和」 ( チェイハレン ) が、いつま でつづくかは不明であった。 すうじく イ 20
の死、埋葬などについての関係者の証言は、だいたい信用されたようであった。その後ヒトラー ミュンヘンの『レヴュ の死体はモスクワにあるという間接の証言が、一九五六年二月十一日に、 ー』紙にあらわれている。 『ベルリン陥落』というソ連の豪華な天然色の記録映画 ( 一九四九年一月に撮影開始 ) が・あるが、 そのなかではヒトラー夫妻が毒薬自殺をしたことになっている。ヒトラーがビストル自殺をした こうてい ことは動かしがたい事実であるのに、ソ連映画がこの点を肯定しなかったのは、ヒトラーが「軍 ロウ・ハーは 人らしい」死にかたをしなかったことにしておきたいからであろう、とトレヴァー 死 考える。彼は、ソ連がながいことヒトラーの死の 一一をかくしていた理由としては、 C ソ連内部にお ヒ AJ , 部ける政治的党派の争い ( 軍部がヒトラー死亡説を 中とり、官僚派はこれに反対した、など ) 、Üヒトラわ ン の ーが死んだことにすると、その聖遺物、聖骨、 戦 - 巡礼地、聖堂などが現われてナチズ、の再興を次 ~ 一理 1 後助け、、反共産主義十字軍のおこされる助けとな第 敗る心配があること、スターリンがヒトラー生 などの点を想 存説を盲信して横車を押した よこぐるま
政権を確実に樹立できると確信していたものの、その時期を、もうすこし待っこととした。 十一月三日の午後、カールの使者ザイサー ( ・ハイニルン警察長官 ) と要談したさい、ゼークトは ザイサーに対して、大ドイツの建設、議会に制約されない国民的独裁、社会主義の鎮圧という目 的は同じだが、事件のテンボについての見解がちがうし、かつ自分は合法路線を守る、とのべた。 ゼークトは大統領エーベルトに対しては、時局を収拾できるものは彼以外にないことを説明し てシュトレーゼマン内閣の打倒をはかるとともに、カールに対しては、つぎのように切望した。 「貴下と自分とはおなじ目的をもっているが、政策の実行方法とその時期についての見解だけが 違っている。しかもいま、パイエルン政府がベルリンに対して反乱をおこし、ドイツの愛国者た じちょう ちが内乱によって相争うようなことになればその結果は破減的であるから、自重して自分らに協 力されたい。」 この手紙は十一月四日に書かれたものであって、カールはザイサーの報告とこの手紙によって ゼークトの意志を了承し、早まった行動をひかえて、ゼークトか一 ン ミュンヘンで一揆へ クラースと協力する決意を固めた。ヒトラーが をおこして敗れたのは、このような事情があったからである。 ・ハイエルン政権の内部では極右派と王党派の対立 カール総監 と協力とが依然としてつづけられていた。一九ニ ユ - ーくノレト