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検索対象: 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦
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1. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ったので、ポーランドに三五〇万人 ( 同国の総人口は二七〇〇万人 ) 、リトア = アに一一五万人、ラト ヴィアに一〇万人、エストニアに八千人、ロシアに三〇〇万人 ( 一一〇〇万人がウクライナ地方 ) 、オ 3 ーストリアに三五万人、 ( ンガリーに五〇万人、チェコに三五万人、ルーマニアに九〇万人、 ィッに五六万人であった。アメリカ合衆国には一八八二年には二五万人しかいなかったが、ロシ ア帝国におけるはげしいユダヤ人迫害のために、このとき以来洪水のようにユダヤ人が殺到して、 第一次大戦後は最も多くユダヤ人の住む国家となったのである。一方パレスチナ地方にはごくわ ずかしかユダヤ人が残っていなかったが ( 一八八一一年に一一万人 ) 、おなじくこの時分からユダヤ人 が流入しはじめ、土地と職業をアラブ原住民と争って険悪な形勢となったが、全世界のユダヤ人 の支援を得て移民がつづけられ、一九一四年に八万五千人、一九一一〇年にはイギリスがパレスチ ナ地方を委任統治してユダヤ人に自治をあたえたために、入国者がふえて、一九三九年末には四 四万五千人、パレスチナ人口の三〇パーセントとなった。ユダヤ人の入国希望者はもっとはるか に多かったが、イギリス当局は、アラ・フ原住民がやたらに追い立てられるのを防ぐために、さら にアラ・フ人とユダヤ人を相互に対立させるために、ユダヤ人の入国をかなり制限したのである。 ナチスとドイツの保守帝政派 ( 旧支配者層 ) との意見が一応鋭く対立したのは、 ユダヤ人絶減政策 ユダヤ人絶減政策と対ソ戦争の遂行策 ( 東ヨーロッパ征服策 ) についてである。 反ユダヤ主義そのものは、キリスト教文明と切り離せない関係にあるのであるが。

2. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

の機会はもっと多かったかもしれない。しかし、確実な見通しももたずに、自分らの生活共同体 に背を向けるユダヤ人はまずいなかった。ユダヤ人はあらためてキリスト教社会にいれてもらえ ない自分たちの立場を考えなければならなかったのである。 ユダヤ人のかなりの部分は、キリスト教世界への接近を断念し、キリスト教世界から独立した 地点に自分たちの安住の地を建設しなければならない、と結論した。テオドル“ヘルツル ( 一八 六〇ー一九〇四年 ) を中心とする第一回シオニスト会議が一八九七年パーゼルで開催されて、パレ スチナの地にユダヤ人の居住地を建設する運動がはじまったのである。シオニズムとは、このよ うな目的をもっ運動であって、反ユダヤ主義者が主張するような、ユダヤ人の世界支配を実現す るための陰険な運動ではない。近世の東ヨーロッパ各地には、救世主を待望するユダヤ人の熱狂 的で絶望的な宗教運動がおこっているが、そのような運動はシオニズムのかたちでやっと政治的 性格を獲得したのであった。 ユダヤ民族の総人口は確定しにくいが、だいたいの見つもりでは、一九一四年現在で総数一四運 九〇万人、そのうち三分の一一が東ヨーロッパと東南ヨーロッパに集中していた。約七〇〇万人がヤ ュ ロシア帝国 ( とくにポーランドとウクライナ ) に、 一一二五万人がオーストリア・ハンガリー帝国に、 二五万人がルーマニアにおり、アメリカ合衆国に三〇〇万人、ドイツに六〇万人、イギリス帝国 に五〇万人 ( イギリス本国とアイルランドに二五万人 ) いた。第一次大戦後は、国境の変動が大きか

3. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

以来、西ヨーロッパでは、各国政府のユダヤ人同化政策によ 人 ダって減びつつあったが、東ヨーロッパでは日常用語としてひ ュ るろく用いられ、第二次大戦前には約一二〇〇万人のユダヤ人 住にとって母国語となっていた。現在では東部と中部ヨーロッ 国パのユダヤ人が大半虐殺されてしまい、また、アメリカ合衆 ら か国のユダヤ人は同国の同化政策によってこのことばを忘れつ イつあり ( 約五〇〇万人に近い同国ユダヤ人のうち、イディッシュを 話すものは、一九四〇年現在で一二五万人 ) 、またイスラエル国 一を家では〈・フライ語を国語としているために、このことばは全 体として死減しつつある。 ユダヤ人の居住地区は、よくゲットーとよばれている。そ してゲットーを広い意味にとれば、あらゆるユダヤ人居住地 ; 第第ら ~ 物区をさすことばと考えることも誤りではない。しかし狭義の ゲットーは一五一六年ヴェニスにおこったもので、一五五五年、法王パウルス四世 ( 在位一五五 五ー五九年 ) の勅令にもとづくユダヤ人の恒久隔離制度によって完成された。狭義のゲットーは全 ドイツのフランクフルトなどが イタリアのほか、フランスのアヴィニョン、チェコのプラーハ 378

4. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

すでに北アメリカのイギリス植民地では一七世紀以来ユダヤ人の平等権が実現していたが、イ ギリス本国でも一七世紀の名誉革命以来、 = ダヤ人の地位は向上し ( 解放が完成されたのは一八五認 八年 ) 、フランスでは、大革命の結果、一七九〇年から翌年にかけてユダヤ人の同権が発令され、 その後この法律がだいたいにおいて効力を失わずに存続した。 一八一五年のウィーン会議ののちになって、自由主義運動が進展すると、ドイツの自由主義政 治家たちは、ユダヤ人のキリスト教への改宗、ユダヤ的要素の漸次的解消、ドイツ民族への同化、 という政策を通じて、ユダヤ人を解放しようとした。その結果、ユダヤ人が大量にキリスト教に 改宗して、ドイツ諸王侯国の公民として出世するようになった。一八五〇年代の産業革命期に入 ると、ドイツ諸王侯国のユダヤ人平等化がすすみ、一八七一年のドイツ帝国憲法でいちおう平等 権が確立した。 よくあっ このようにユダヤ民族は、キリスト教諸民族が絶対主義的抑圧から解放される度合に応じて、 せんみん 賤民としての差別待遇から解放されつつあった。たとえば、産業革命の進行につれて、ドイツに おけるユダヤ人とドイツ人の同化も進行し、彼らは「ドイツに住むユダヤ人」から「ユダヤ系の ドイツ人」へと変化した。大都会と新時代の職業の渦巻のなかで、ユダヤ人たちの特殊な性格が しだいに失われはじめたのである。 その結果、ユダヤ教の内部でも、正統派の信仰に対して自由派が分離し、自由派はドイツ人と んじ

5. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

中世末期になると、ユダヤ人はもはや社会の不可欠の集団ではなくなり、むしろ一種のよけい ものとなったので、各地ではげしい迫害をうけた。そのうちドイツ地方から追放されたユダヤ人 は東ヨーロツ。ハに逃げ出して、リトアニア、ガリチア、とくにポーランドに移住した。もっと遠 く口シア地方にまで逃げのびたユダヤ人も少なくなかったが、ロシア帝国はしばしばユダヤ人法 規を改めて彼らを外国人として圧迫し、あらゆる職業からしめ出す政策をとったので、彼らの一 部はふたたび西に転じてポーランドに入り込まなければならなかった。 当時ポーランドは、いまのウクライナの西半を所有していたが、一三三四年の法令でユダヤ人 に市民権といろいろの特権をあたえており、とくに彼らの自治体には、ほとんど独立権をあたえ たうえに、各地のユダヤ人自治体を一つの特別なグループに結集することを許した。ユダヤ人集 団が東ヨーロツ。ハの各地で市民階級の役割を代行する形をとったのである。ゆえに一六世紀から 一八世紀にかけては、これら「東方ユダヤ人」の全盛期で、ユダヤ人の経済的繁栄と民族文化の 向上がめざましく、タルムード の研究、民族文学と民族音楽などがこの地方に栄えた。 の こうして、ポーランドを中心とする東方ユダヤ人が発展した。彼らの使用するヤ イティッシュと ゲッ 言語は「ユダヤ人ドイツ語」、すなわちイディッシュである。このことばは中ュ 世ドイツ語をもととし、それにヘブライ的表現やたくさんの外国語を交えたもので、一五世紀以 7 来北イタリアから中部ヨーロッパと東ヨーロッパ一帯のユダヤ人に用いられた。一九世紀の初め

6. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

「アイヒマン裁判」に関連して、ナチスのユダヤ人迫害について、いろい 古代末期のユダヤ人 ろと新しく報道されたし、『十三階段への道』にはじまる多くのドキュメ ンタリー映画もなまなましい光景を明らかにしてくれた。この章では、ナチスのユダヤ人迫害に ついては最後でちょっとふれることにして、そのまえに、ユダヤ人の歴史と反 = ダヤ主義運動の 性格についてごくあらましを述べたい。 = ダヤ人の歴史をたどることはまことに憂欝な仕事であ運 人 る。それはキリスト教とヨーロッパ文明の暗黒面だけをたどることになるからである。 歴史の教科書にも出ているように、ローマの圧政に対するユダヤ人の二度の反乱は、紀元後七 = 〇年と一三五年の敗北によってともに悲惨な幕をとした。ユダヤ人のエルサレムへの入市が厳禁 3 されたので、エルサレム神殿中心のユダヤ教団時代が終わり、各地のユダヤ教会 ( シナゴーグ ) 中 ユダヤ人の運命 強制収容所ガス室 の入口。浴室にみ せかけてある。

7. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ヒトラーのユダヤ人迫害政策は、一九三三年四月一日のユダヤ人商店に対するポイコット令に 始まって、第一一次大戦中の絶減政策によって完成した。戦争中に絶滅されたユダヤ人の数を確定 することは、正確な記録がないので不可能であるが、最低四一九万四千人あまり、最高は四八五 万一千人あまりと推定されており、戦争直後の見つもりでは五七二万一千人あまりとなっている。 ユダヤ人は第二次大戦が始まるまでのあいだに、あらゆる職業からつぎつぎに閉め出されて、 強制労働にかり出される以外に生きてゆく途がなくなっていたが、なお絶減政策が決定されたわ けではなかった。この政策が決定されたのは独ソ戦が開始された後であって、ユダヤ人を海外に 追放する機会がなくなったためであり、一九四二年一月二十日に ( イドリヒの下で開かれたいわ ゆるヴァーンゼー会議で、この政策が決定された。このときに絶滅の対象となったのは、イギリ スをふくむ全ヨーロツ。 ( のユダヤ人全部 ( 約一一〇〇万人 ) であった。彼らを東ヨーロッパで強制 労働に酷使したうえで絶減するというのがそのプランであったが、老人や子供、病人、多くの婦 命 人は、強制労働にたえないのですぐに殺された。東ヨーロッパの四カ所にたてられた収容所、〈運 ルムノ、ベルゼック、ソビポール、トレプリンカは、そのための施設であって、運び込まれたユャ ダヤ人はただちにガス室に入れて殺された。アウシ = ヴィッツも絶減収容所の性格をもっていた = が、ここでは連れてこられた囚人の一部は、ただちに殺されるが、残った強壮なものたちは、労 働力が完全になくなるまで酷使された。マイダネック取容所もだいたいはおなじであ「た。

8. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

後世にいたるまで有名である ( 他のヨーロッパ諸国では、厳密な意味でこの制度はけっしてひろくおこ なわれなかった ) 。狭義のゲットーの特色は、その周囲が壁と門によって囲まれており、その門は 夜間やキリスト教会の特定の祭日には閉鎖されることである。ゲットーはいちおう独立の行政単 位をなしており、かなり大幅の自治権を認められていたが、結婚できる者の数まで制限しており、 そこに住む者は例のユダヤ人の服装をせねばならなかった。こうして初期資本主義経済が発達す るにつれて、ユダヤ人と一般キリスト教徒とが、日常生活の上でひろく交際するチャンスがふえ てきたときにあたって、かえってユダヤ人を隔離し差別待遇する制度が完成したのである。ここ へんきよう に絶対主義国家とキリスト教会のもつ一種の偏狭さをみとめるべきであろう。 しかし貨幣経済の発展とともに、ユダヤ人の地位が改善される機会もふえてき ユダヤ人の解放 た。近世絶対主義国家は、教会から独立したユダヤ人統治権をもっていたから、 もしもユダヤ人が富を創造することができ、また国家の有用な市民になることができるときには、 しゅうよう 彼らを寛容し、重用することをためらわなかった。一六世紀のオランダは、ス。ヘイソに対する独運 すいこう 立戦争を遂行するためにユダヤ人を歓迎したし、一七世紀のイギリスも、スペインやオランダとヤ 争うためにユダヤ人を好遇した。後進国であったドイツでも、一八世紀になると産業政策や財政ュ けいもう 政策の上で君侯に重用されるユダヤ人が続出している。、こうして啓蒙思想の普及と市民革命の進 3 展につれて、ユダヤ人の解放がすすんだ。

9. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

一方、ヨーロッパに移住したユダヤ人たちは、ギリシア、イタリアの各地に集落をなして生活 しており、はじめは比較的優遇されていた。彼らの地位が急激に悪化したのは、ローマ帝国がキ リスト教化したときからである。ユダヤ人は「陰険な、堕落した」民族であり、神を否定し、キ れいぞく リストを殺害したために、神に呪われている民族である。彼らが隷属的な身分につき落とされて、 全世界に四散させられたのも当然の報いである、とキリスト教会は主張した。しかし呪われた存 在とはされていたものの、ユダヤ人はいつの日にかは神の恩寵をうける民族である。とくに個々 のユダヤ人としては、キリスト教に改宗し、洗礼をうければ、罪がつぐなわれ、呪いから解放さ れて社会的尊敬すら得ることができる、と説かれてきた。 西ヨーロッパにおける中世ユダヤ人の生活は、国により地方によってまちまち 中世のユダヤ人 である。しかし概していえば、はじめのあいだは読み書きのできる知識人とし て、また機敏な商人として、とくに東洋との広い連絡網をもっ貿易業者として、ある程度優遇さ 命 れていた。しかし西欧諸民族の文明化がすすみ、商業、貿易、手工業、医師などの職業が、それ運 ら各民族自身によっておこなわれるようになると、ユダヤ人の地位は悪化し、彼らに対する迫害ヤ が本格化した。 ュ すでに六世紀から七世紀にかけて、西ゴート ( いまのスペイン ) の法令によって、ユダヤ人のキ ばくひ リスト教徒との結婚、医者としての治療、ユダヤ人の家でキリスト教徒が僕婢として働くこと、 おんちょう

10. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

最後に、ソビポール、トレプリンカ、アウシュヴィッツにおける、囚人の絶望的な武装蜂起と 集団脱出事件も報ぜられている。 ( 蜂起したうちの何人かは脱出に成功した。 ) そしてソビポール、ト レ・フリンカ収容所は、その結果、ついに廃止されねばならなくなったのである。これらの収容 所のポスは多くドイツ人であったが、ときにはユダヤ人でその地位につくものもあった。 以上の収容所のありさまは、ユダヤ人だけに関係したことではない。しかし収容所の囚人は、 後になるほどユダヤ人が多くなっていた。 ヒトラーはユダヤ人絶減をよく口にしていたが、具体的なプランはもっていな ナチスの 欧州新秩序計画かった。彼に絶減政策を推進させたのは、ナチス下級幹部、ドイツ軍占領地の 軍政および民政当局である。彼らは西方から続々と東ヨーロツ。 ( に輸送されてくるユダヤ人を、 さらにシベリアへと追放することができないので、その処置に困って部分的絶滅政策へとのめり 込んだ。ドイツ国民はユダヤ人が好きではなかったが、その殺害は犯罪であると考えていた。 現在では、私たちはヒトラーのヨーロッパ新秩序計画なるものを知っている。独ソ戦後に確立 された計画によればスラヴ人の大半は西シベリアに追放、故郷に残る者には武器を与えず教育も 授けず、ただ自分の名前が書けて五〇〇までかぞえられればよい。また命令がわかる程度のドイ ツ語を教える。つぎに彼らの出産率を低下させる方法をとり、とくに、病気になっても病院には 入れない。町村落の生活についての自治はあたえるが、それ以上の権利は許さず、集落相互間の 396