あった。 国際連盟は一九二〇年代後半には、まがりなりにも「全盛時代」を迎える 全盛時代の国際連盟 こととなる。すくなくとも表面にあらわれたかぎり、ヨーロッパの国際関 係は安定してきており、国際連盟が強国間の対立といった難問にぶつかることはなかった。戦勝 国の同盟にすぎないといわれた国際連盟にも、旧敗戦国ドイツが加盟していた。国際連盟が旗印 にかかげていた軍縮も、ようやく本格的に着手されるかと思われ、 一九二五年十一一月には軍縮会議のための準備委員会がつくられた。 フその発足当時は、資本主義諸国のソ連邦に対する同盟だといわれ イたものであったが、この点でも連盟の性格は、ようやく変化を見 せていた。 ) 一すソ連邦側にしても、公式の言明の場では、国際連盟を否定する 態度は変わりなかったが、ソ連外務人民委員リトヴィノフ ( 一八 で 、ゞ、 ( 羅端絵七六ー一九五一年 ) は、軍縮準備委員会に出席して積極的にソ連邦の 側の意見を述べ、またソ連の要人たちの個人的な談話のなかには、小 国もし連盟が反ソ的な性格のものでなくなるならば、ソ連邦の連盟 に対する態度も変わるであろう、といった発言がみられるように
になっておられます。』」 一九三四年、ソ連邦は国際連盟に加盟した。ソ連外相リトヴィノフは、国際連盟の内外で、 「世界のいかなる部分でおこった侵略も、われわれ共通の関心事として対処しなければならない」 という、あの有名な「平和不可分論」を唱えはじめた。 一九三五 ( 昭和一〇 ) 年におこったイタリアのエチオ。ヒア侵略は、国際連盟にと エチオビア紛争 って、このうえない試金石なのであった。しかも事は、たんなるイタリア制裁 しうまでもなく、ナチスードイツの対 問題につきるものではなかった。つぎに来るべきものは、、 外侵略だったのであり、したがって、イタリア制裁 」ト の成否は、以後の国際ファシズム勢力の行動に対し し長て、国際連盟がいかほどの防壁をうちたてることが 国できるかという問題に直接につながっていたのであ 「停える。イタリア制裁にあたっての諸国の協同行動は、 オ侵略防止のための大国・小国間の提携方式について と 国 ュ 先例をつくりだすことにもなるのであった。 ~ いフすでに国際連盟は、満州事変における対日本制裁 シイに失敗しており、その威信も低まってはいたが、エ ワヴ
なった。また、かってウイルソンの期待を裏切って国際連盟には加わらなかったアメリカも、軍 さんかく 縮会議その他、国際連盟の主宰する国際会議には、実質的に参画しようとしていた。 つぎに、当時の連盟における小国の位置とか役割といったことについて、すこしふれてみるこ とにしよう。 国際連盟規約は、五大国一致の原則をとっている国際連合と異なって、すべての国が平等であ るという建前をとっており、大国・小国といったものをとくに区別してはいないが、しかし実際 に連盟が動きだしてみると、きわめて興味深い現象が現われた。当時の一論者は述べている 「平和への愛は現在まだあまねくゆきわたっていないから、戦争を防止するには、すべての平和 的な国々が有効に協力し合わねばよらよ、 オオし。この協力作業では、大国にいちばん重い義務がかか ってくることは疑いないが、 しかし、小国にもまた演ずべき役割がある。〔小国の〕代表者は、 比較的責任が軽いものだから、大国の代表たちよりもずっと自由に、国家的・国際的利益にふれ るような議論や微妙なことがらを口にする。彼らは、心にあることをずっと自由にしゃべれるも のだから、大・小国を問わず世界にゆきわたっている一般民衆の感情を、ずっと素朴に誠実に吐 露することができるのだ。だから小国の代表たちは、大国の指導者たちの外交的な雄弁や不可解 な沈黙ではしばしばっかむことのできない、民衆の信頼や支持を、連盟のためにとりつけること ができる立場にある。これは、諸小国の代表たちが軽視したり、逃がしたりしてはいけない機会 4 む 6
一九四五 9 ・ 9 ド " ゴールの臨時政府成立 Ⅱ・米軍の日本本土爆撃開始 ャルタ会談 3 ・ 7 ューゴにチトー政権成立 ローズヴェレト・、 ノカ死去・ ・トルーマンが大統領と なる ソ連軍がベルリン攻撃を開始 サンフランシスコ会議 ( ~ 6 ・ % ) 米ソ両軍がエルペ川岸のトルガウで邂逅 人民裁判によりムッソリーニが銃殺される ヒトラー・目殺 5 ・ 7 独臨時政府が連合国に無条件降伏 6 ・国際連合憲章調印 ・ニューメキシコ州で最初の原子核爆発実験成功 1 ~ 8 ・ 2 ポッダム会談 % ポッダム宣言発表 8 ・ 6 広島に原爆投下 8 ソ連が対日宣戦 9 長崎に原爆投下 Ⅱ日本がポッダム宣言を受諾する 天皇の終戦放送 9 ・ 2 米艦ミズーリ号上で日本が降伏文書に調印 中ソ友好同盟条約 インドネシア共和国が独立宣言 9 ・ 2 ヴェトナム民主共和国独立宣言 月中国で国共の内戦始まる ハーレーが毛沢東と会談 Ⅱ・川汪兆銘が名古屋で病死 アラ・フ連盟結成 5 幻年表
ンドンのキングス・カレッジの講壇に立って、「世界大戦後の諸小国の問題」という演題のもと のうり に熱弁をふるっていた。彼の脳裡には、おそらく、一〇年まえ、スラヴ学教授として招かれ、こ のおなじ講壇から、「ヨーロツ。ハの危機における諸小国」の問題を説いていた、彼の師であり同 志であるマサリク ( 一八五〇ー一九三七年 ) の姿が、彷彿としていたことであろう。いまベネシュ がその片腕となっているマサリク大統領は、当時は、まだ実現しないチェコスロヴァキア独立の ために、大戦のさなか、連合諸国のあいだを説きまわっていたのであった。いま、この少壮気鋭 の外相は、そのときのマサリクの講演の内容を思いおこしながら、解放された東ヨーロッパの諸 小民族を代表して、戦後世界に生まれた民主主義的な国際平和機構ーーー国際連盟への信頼を物語 っているのであった。彼のことばはまた、東ヨーロツ。ハのみならず、国際連盟へ加瞿したすべて の小国の立場を代弁しているのであった。 ハプスプルク帝国たが、ベネシュが国際連盟に対するこ ~ ・、」ダの遺産 のような期待を告白したのは、とりわ クけ切実な理由があってのことである。もともと、チェコス 0 レ アロヴァキアをはじめオーストリア、ハンガリー ゴスラヴィアのうちク 9 アのトランシルヴァニア地方、ユ 二 = ロアチア、スロヴェ = ア地方は、第一次大戦前には ( プス ほうふつ
を鮮明にしていた。イタリアに対する第一の石油輸出国であるルーマニアは、ソ連邦とともに、 石油禁輸措置をとる用意があると言明していたし、ユ ーゴスラヴィアにしても、地理的に近接し たイタリアの敵意を買う危険をおかしているのであった。チェコスロヴァキアのベネシュ外相も、 平和の大義のためにイタリア制裁に加わるべきである、と説いていた。 しかし、以上のような諸小国の積極的な動きにもかかわらず、経済制裁の不徹氏さと、またな によりも英・仏などの西欧民主主義「大国」の側での侵略者宥和の動きは、イタリアに対する国 際連盟加盟国の協同制裁の効果をうすめ、連盟の実験は失敗に帰したのであった。 イタリアのエチオ。ヒア侵略に対する国際連盟の集団制裁措置が無効におわった 北欧諸国の動向 ことは、諸小国のあいだに大きなショックと失望をあたえた。諸小国の側では、 自己の利益を儀牲にまでして協同制裁に参加したことが、何の役に立ったのか、と自問せざるを えなかったし、英・仏がもはや小国の運命に関しては無関心である、という観念が根をはるよう スカンディナヴィア諸国のばあい、国内の保守的な勢力は、制裁が大国に対してはほとんど効 果をもたないことが、いまや明らかになったとして、対外政策の目標が自己自身の安全の強化に あるべきこと、そのためには、軍備の増強とスカンディナヴィア諸国間の協力の増進がなされる 3 べきことを主張した。これに対して、社会民主党などの革新派は、基本的には集団安全保障への ゅうわ
このようななかで、一九三三年一月、政権についたヒトラーは、十月、国際連盟と軍縮会議か らの脱退というはなばなしい芝居をやってのけ、諸小国の期待もむなしく、国際的な軍縮の意味 は失われるのである。国際連盟の使命も、軍縮から、いまや国際ファシズム勢力の登場に対して いかに平和愛好諸国の安全を確保するかに変わり、そこで諸小国も、新たな、かっ困難な試練を 受けることとなるのである。 世界恐慌と、それがもたらした国際対立の暗い雲行きのなかで、東ヨーロ 激浪のなかの小協商 ッパの小協商は国際連盟への忠誠をしめしつづけた。一九三一年九月、満 州事変がおこると、チェコスロヴァキアのベネシュ外相はユーゴスラヴィアとルーマニアの完全 な支持のもとに、日本の侵略行動に対する国際連盟の制裁行動をつよく要求したが、英・仏の連 盟内での引き延ばし作戦とアメリカ側の態度の混迷によって成果を生まなかった。小協商諸国代 表はいずれも、ここで連盟が失敗するならば連盟はほろびるだろう、というせつばつまった感情 をあらわにしていた。 たいとう 一九三三年、ナチス・ドイツの擡頭直後には、はやくも、このような小協商諸国とその信奉すの 国 る国際連盟にとって、不吉な出来事がおこった。三月に、ファシスト , イタリーのムッソリーニ が、おりからローマを訪問していたイギリス首相マクドナルドらに対して、四国協定構想という ものをしめし、国際連盟を完全に無視し、小協商諸国のような小国を排除して、イタリア、ドイ
ツ、イギリス、フランスの四カ国だけで向後いっさいのヨーロッパの問題を相談し、とりきめる ことにしようともちかけたのである。 この事件は、二月にジュネーヴで小協商の会議がひらかれ、三国間の外交・経済政策の一体化 と会議の常設機構化をとりきめたばかりのところにおこったもので、小協商諸国は、ポーランド とも協力して、四国協定反対の猛烈な働きかけをやり、とくにそれらの同盟国であるフランスに 圧力をかけた。このため四国協定の内容は、けつきよく毒にも薬にもならないものとなったが、 しかし、この事件は、諸小国にとって英・仏といえども簡単には信頼がおけず、将来が楽観でき ないことをしめしたものであった。しかも、この四国協定が先例となって、英・仏・独・伊だけ で国際連盟のわくの外でヨーロツ。 ( の問題のとりきめをやろうという思想は、以後の英・仏歴代 ゅうわ 政府のファシズム諸国宥和という、悲劇的な政策上のあやまりを生んでいくのである。 ルーマニア外相ティテュレスク ( 一八八三ー一九四一年 ) は、チェコスロヴァキア外相のベネシ ュと並ぶ国際連盟支持者であったが、四月、小協商の特派大使としてロンドンにおもむいたおり、 イギリス首相マクドナルドにむかって、四国協定のやりかたでいけば、国際連盟は崩壊するであ ろう、そして、かならずや戦争になるだろう、と警告した。彼はいった 「手帳を出して書きつけてください。一九三三年四月六日、小協商特派大使ティテ、レスクは、 つぎのように閣下に警告します。『首相よ。閣下は、平和への近道をとろうとして、戦争作成者 こう・こ イ 10
カンディナヴィア諸国などの伝統的な「中立ー諸国すら、いまや活路を民主主義的な国際組織の なかにもとめて、国際連盟に加入したのであった。 だが、反面、国際連盟の実情がこうした理想像からほど遠いものであることも、否定でぎない がいひ 事実であった。国際連盟の表面うるわしい理想主義の外皮のもとには、いままでどおりの「カに よる政治」の場がおおいかくされていたからである。こうした理想と現実の離反は、なによりも、 国際連盟が、戦敗諸国をふくまず、ソ連邦を排除した、事実上戦勝諸国の戦果確保機関として発 足し、この種の国際平和組織になくてはならぬ包容力を欠いていたことに、明らかであった。そ して、こうした矛盾に敏感に気づいていたのは、理想の盲信によって最も手痛い被害をうける立 場にあった諸小国なのである。諸小国は、一面連盟の理想主義的な原則を高唱しながらも、他面 こうした連盟の実態に対しては利口に立ちまわった。 たとえば、その地理的な位置が大国の相剋の中心から遠ざかっており、伝統的に国際政治から かくっ 自己を隔絶することで生きおおせてきたスカンディナヴィアなどの小国は、連盟規約の定める侵 略国協同制裁の義務からっとめてのがれようとした。一方、これらと対照的に、チェコスロヴァ悲 けいそう 国 キア、ルーマニアなどは、ドイツ、ハンガリーなどの戦敗国との領土上、少数民族上の係争問題 をかかえており、またヨーロッパにおける列強の抗争からは、まず超然とはしていられない位置 にある。そこで、この地域の新興諸国の外交主導権をにぎっていたベネシュがとったのは、一種
一九三二 一九三三 ヒトラー内閣成立 2 ・独の国会議事堂放火事件 国際連盟総会がリットン報告書を四一一 3 ・ 4 フランクリンローズヴェルト米大統領就任一対一で採択する 七に激増する 墺のクレディットーアンシュタルト ( 中央銀 6 ・中村大尉事件 7 ・ 2 万宝山事件 行 ) が支払いを停止する 7 ・ 6 フーヴァ ーモラトリアムが発効 柳条溝事件 " 満州事変発生 8 ・英で挙国一致内閣成立 ( マクドナルド首相 ) 9 ・幻国民政府が柳条溝事件を国際連盟に提 0 . 1 ・ 独でナチス、国家人民党、鉄兜団によるハルツ訴する ・フルク戦線が結成される Ⅱ・ 7 中華ソヴィエト共和国臨時政府成立 っ乙 . 0 英で総選挙【労働党が大敗、挙国内閣派が大勝 国際連盟理事会が満州問題調査委員会 の設置を決定 する っ . 1 ー 11 1 英でウエストミンスター法制定 大養政友会内閣成立 独でパーベン内閣成立 1 ・ 4 インド国民会議派が非合法となる 7 米が日本、中国にステイムソンードク 7 ~ 8 月オッタワ会議【英帝国・フロック経済構想 ・引独で総選挙】ナチスが第一党となる トリンを通告 ・ 2 独でシュライヒャー内閣成立 上海事変おこる 3 ・ 1 溥儀を執政とする満州国建国を宣言 五・一五事件】大養首相の暗殺 日満議定書調印 1 ・ 1 リットン報告書が日本政府に提出され る 574