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検索対象: 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦
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1. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

長いあいだの失業によって、人々は働く意欲を失い、たとえ職につく幸運に恵まれても、すぐ には活動的な働きはできず、疲れたり、ヒステリックになるというありさまたった。 公式の統計では、この不況のため餓死した者はないとされているが、ニューヨーク市では、一 九三三年だけですくなくとも二九名の餓死者を出し、一九三四年には主として幼児だが一一〇名 の栄養失調による死亡者を記録している。フィラデルフィアでは、一九二八年から三一一年のあい だに栄養失調症の患者が約六〇パーセント増加したと報告されている。ミルク、卵、新鮮な果物 の消費が急激に減少したことが、これらの大ぎな理由であろう。一九三一一年のシカゴ市の記録の じんかい 一部には、「塵芥運搬のトラックがとまると、約三五名の男女や子供が集まってきた。トラックが 塵芥を捨て去るやいなや、棒などを手にして、食物をあさっていたーとある。 精神病者の数も、一九一三年から三〇年までの平均に対して、一九三〇年から三一一年のあいだ には三倍に達している。ワールド・オルマナックによると、一九二九年には一〇万人に対して四 三九名、三一年には四四七名の割合だったが、三二年には四五八名、三三年には四七一一名となっ ている。大恐慌によって自殺した者が多かっただろうと予想されるが、これは、じつは大したこ とはなかった。一九二九年の十月および十一月のニューヨーク市の自殺者は二一九名で、前年の 同期の二一一三名に比べて少なかったのである。しかし、全国の自殺率は、一九二九年は一〇万人 につき一四名だったのが、三一一年には一七・四名になっている。これは恐慌による自殺者という ー 02

2. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

じめていた。建築は一九二五年を頂点として下向きはじめ、工業生産指数も一九二九年六月が頂 点で、それ以後下降に転じている。株価の暴落が恐慌の深刻化に拍車を加えたことは明らかだが、 大恐慌そのものの真の原因ではない。株価の暴落は、いままでいくらもあ 0 たことだが、一九一一 九年のばあいは、恐慌はますます激化するばかりであった。 ーディールの開始された時 恐慌の最低点は、一九三三年三月であった。この株式暴落とニュー 期とを比較すると、物価が急激に下落していることがわかる。一九二六年の指数を一〇〇とする おろしうり と、卸売価格は、二九年には九五・三であり、三三年には六五・九に下がっている。数百万の投 資家はこの間に財産を失い、数万の会社が物価下落により破産し、外国貿易は、輸出入ともいち じるしい減少をきたし、約五千の銀行が閉鎖を余儀なくされ、九〇〇万人の預金口座は役にたた なくなってしまった。また工業生産は、一九二九年と三二年のあいだに三七。 ( ーセント減少して いる。一九二三年と二五年のあいだの平均を一〇〇とすると、一九三三年三月には、工業生産指 数は六〇、建築は一四、工場雇用は六一、工業労働者の賃金は三八に、いずれも減少している。 不振をつづけていた農業は、恐慌によってさらに困窮の度を増し、一九三〇年の春には、抵当 に入っている農地の価格は九六億ドルに達した。これは一九一〇年にはわずかに三二億ドルにす ぎなかったのである。一九二九年から三三年までのあいだに、自作農から小作農に転落する農民 ノバーセントにすぎなかった小作農地 の数は激増し、一八八〇年には全アメリカの農地の二五・六

3. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

れた。世界で最も歴史の古いイギリス工業には老朽施設もまたきわめて多かった。この老朽施設 こうしん の更新が生産性の増加となり、イギリス工業の国際的な竸争能力を増進したことはいうまでもな 3 。また住宅建築プームもこの時代の特色であって、一九三 0 年から四〇年のあいだに約二七〇 万戸が建設されたが、国家の補助をうけたものは七〇万戸、あとは住宅建築協会が低利で資金を 集めて建てたものである。こうして俸給生活者や労働者には低廉な住宅とア。 ( ートが提供され、 貧民窟の整理も大規模にすすめられた。一九三九年までに住宅問題はかなりの程度まで解決され、 建築・フームは景気の回復に大いに役だった。 政府は経費節約のために失業手当を削減し、手当をうけることのできる者もできるだけ制限し、 手当の額も家族に収入があれば削減するという、 みみっちい政策をとったので、失業者は怒って 各地に飢餓行進やデモを展開した。しかし、景気の回復とともに失業者数も減少して、失業保険 加入者のうちの失業者は、一九三三年一月の二九五万人から、同年八月の二五〇万人、三五年七 月の二〇〇万人以下、と減少し、三六年七月には一六〇万人前後になったが、それ以後あまり変 化がなく、第二次大戦の勃発直前ですら約一五〇万人をかぞえた。失業者の減少も、国内消費の 増加となって現われたのである。イギリス産業の生産指数も一九二九年を一〇〇とすれば、一九 三一年八四、一九三一一年八五、一九三四年一〇四、一九三五年一一〇、一九三七年一二四と向上 ていれん

4. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

スターリンは血を好まぬ首切り反対者として語っている。しかしこの首切り反対者は、のちに トロッキーやジノヴィエフやカーメネフの首を切ったのである。 そして最後に、集団指導をおまじないのようにうやうやしく唱えるのである。 「委員会をのけものにして党を指導してはならない。ィリィッチのいないあとで、そんなことを 空想するのは愚かなことである ( 拍手 ) 。そんなことは語るも愚かなことである。」 ところで、スターリンが集団指導のつつましい使徒たることをやめて、個人崇 独裁者の座 個人崇拝拝の堕落がはじまったのはいつだろうか。スターリンの個人崇拝は、フルシチ ョフのいうように、一九三四年以後にはじまったのだろうか。じつはそうではない。個人崇拝は すでにフルシチョフのいう時期よりも五年前の一九二九年にはじまっているのである。 一九二九年までに、トロッキーは党を追われ ( 一九二七年 ) 、中央アジアへ流され ( 一九二八年 ) 、 国外へ追放されている ( 一九二九年 ) 。またジノヴィエフやカーメネフも蹴おとされてしまった。 スターリンはトロッキーやジノヴィエフなどの「左翼反対派ー ハーリン ( 一八八八ー一九三八年 ) やルイコの 、、 \ にりフと争「たときは、プ フ ( 一八八〇ー一九三八年 ) など「右翼」と手をにぎった。そし粛 リ偏て「左翼反対派」の頭目連をかたづけてしまうと、こんどはモ , 右絡ロトフ、ヴォロシーロフ、カガノヴィッチ、オルジョ = キーゼ、

5. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

そして、彼の私生児としての汚名は、ネーポムクの努力によって、一八七六年の秋にやっとの ハンゲオ ことでぬぐわれたが、そのときには、すでに二〇年ちかく前に死んでいた義父のヨ】 ちゃくしゆっし ハンゲォルクは一八五七年に死んでいたので ルクの嫡出子という名義にされたのである。ヨー 、ノ " ゲォルクが自分からアロイス あるから、ふつうのヒトラー伝に書かれているように、ヨー′、 を嫡出子として認めたのではない。 アロイスの家庭生活も複雑だった。彼は一八七三年に三六歳で、一四歳年上のつまり五〇歳の 婦人と最初の結婚をした。これは持参金目あてだったと推定されている。この妻に子供がなかっ たので、妻が病気になったのを機会に一八八〇年に一一四歳年下の婦人と同棲して妻と別居した。 この若い婦人はフランツイスカといって、一八八三年には第一の妻が死去したので、アロイスと 正式に結婚した。彼女は、アロイス ( 若アロイス、一八八二ー一九五五年 ) とアンゲラ ( 一八八三ー 一九四九年 ) という二人の子供を生んでいるが、一八八四年にははやくも病死してしまった。そこ でアロイスは、養父ネーポムクの孫娘クララベルツルと三度目の結婚を一八八五年一月におこ なった。前述のようにアロイスはネーポムクの庶子であったかもしれないのだから、クララはア ロイスの姪であったかもしれないわけである。そうすればアドルフの偏狭な性格は近親結婚の結 果と考えることもできる。クララもアロイスより二十三歳年下であった。彼女は、夫の前であま り笑わなかったし、失望した婦人の印象を他人にあたえていたという。しかし彼女は、継娘のア

6. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

こころざ 樹立せんと志した。オランダ政府は弾圧をつづけ、共産党もまた過激な方針をもってこれに対抗 したが、二六年十一一月にジャワ、二七年にスマトラで、それぞれ武装蜂起をおこない、いすれも 弾圧された。 これより以後、共産党は合法面から姿を消し、より穏健な民族主義団体として新たにインドネ シア国民党が発展してくる。 この国民党の指導者アフマッドスカルノ ( 一九〇一ー七〇年 ) は・ハンドンの工業大学を卒業し、 学生時代から民族主義運動に参加していた。彼は深くガンディーのサティアグラハ運動の影響を 受け、非暴力、非協力の方針をとったが、一一六年の共産党の蜂起に懲りたオランダ政府は、二九 年国民党をも禁止し、彼は逮捕された。 三二年に出獄したが、三三年ふたたび逮捕、小スンダ列島フロレス島に流され、さらに三八年、族 南スマトラのべンクーレンに移された。四二年、日本軍がスマ諸 トラを襲ったとき、彼はオランダ側から脱出、日本軍に身を投フ ア A 」 争 イシドネシア民族の九〇パーセント以上が貧しい民 ( マルハ戦 ーエン ) だ。自分はこのマルハ ーエンを動員し、組織し、支配 者のオランダ人や、オランダ人と結びついている上流階級とた インドネシア国民 党指導者スカルノ

7. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

ンの経済政策は「右翼偏向ーとして正式に否決された。そして翌一九二九年、『プラウダ』編集 局を ( 二月 ) 、コミンテルンのビューローを ( 七月 ) 、党の政治局を ( 十一月 ) 追われた。 いまやスターリンの指導権は完全に確立され、『プラウダ』や『イズヴェスチャ』紙、婦人子 供の雑誌や大衆諷刺雑誌『クロコディール ( わに ) 』にいたるソ連のあらゆる新聞雑誌が彼の写真 をいっせいに掲載し、功績と名誉をたたえた。一九二九年十一一月二十一日のスターリンの五〇回 つつうらうら 誕生日はじつに盛大に祝われ、彼の名前や肖像はすでに津々浦々までゆきわたっていた。 一九二九年のスターリンの第五〇回誕生 勝利者たちの党大会 日は、彼の個人崇拝のはじまりであった。 。・・ ? 、 = 度 , 第一次五 " 年計画はターリン崇拝とむすび 0 きながら進行し 「の年た。そして一九一一九年から一九三三年にかけて、スターリン崇 」一 0 拝の祭壇には、「反対派」党員の粛清の犠牲のみならず、農民、 タダ ス = 旧インテリ、少数民族など、おびただしい数の、名もなく、よ むこ の し一るべない、無辜の儀牲がささげられた。 一九三三年の初めに、スターリンは第一次五カ年計画の総決粛 ~ 0 算を発表した。誇らしげにスターリンは凱歌をあげた。そして 翌一九三四年一月から二月にかけて第一七回党大会を開いた。

8. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

年三六一万トン、一九四四年一四二万トン、一九四五年四月まで四 六万トン。船舶建造トン数、一九四三年一四五九万トン。一九四四 年一三三五万トン、一九四五年四月まで三八三万トン。 ) 駆逐艦と潜水艦の戦闘も技術の戦いとなった。魚雷を正確 冲に発射すること、一方、これをそらすこと、などのたたかい がつづけられたが、ついには米・英側の物資的な優位が勝敗 中を決定した。一九四一一年と一九四三年を比べると、ドイツの 潜潜水艦の損失は三倍 ( 八五対二七一一 l) となり、一方、ドイツ側 の撃沈したトン数は七七〇万トンから三二〇万トンに減少し た。すべてで一一六〇隻のドイツ潜水艦のうち七三八隻は沈 没し ( ただし八十九隻は戦争の終わりに自沈 ) 、乗組員の四分の 三は戦死している。 つぎに、大戦中の技術の進歩については、まずジェット推進機をあげるべきで 戦闘技術の進歩 あろう。 しかしジェット戦闘機は、ドイツ側では数が少なかったし、燃料も不足しており、また熟練し た操縦士が足りなかったので、大きな成果をあげることができなかった。米・英側でもジェット 4 1 492

9. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

トっ一カの結果であった。 レ一一 ガ主ン恐慌にさいしては、まずマルクシズムが大きくアメリ マ化イカのインテリ層をゆさぶり、ナチスの擡頭によって、全 た画ヴ い映イ体主義がアメリカ人の一部にひろがったのである。しか 書のヴ をこと し、伝統的なアメリカの自由主義は、権威を求めようと り央一さまよう人々に明らかな指針をあたえることができたの 去仲ゲ に史 = であった。ソーントンワイルダー ( 一八九七年ー ) の 共女ク とル一。ヒ = ーリツツア賞受賞戯曲『わが町』 ( 一九三八年 ) や歴 『チク 説ッた 史学者カール“べッカー ( 一八七三ー一九四五年 ) の『近 代デモクラシー』 ( 一九四一年 ) などは、この傾向をよく しめしている。 しかし、一方においては、ロマンティシズムによって現実から眼を離そうという風潮がまった ーアドヴァ くなかったわけではない。ハーヴェイ“アレン ( 一八八九年ー ) の『アンソニ ス』 ( 一九三三年 ) や、マーガレットミッチェル ( 一九〇〇ー四九年 ) の『風と共に去りぬ』 ( 一九 三六年 ) が、ベスト・セラーになったことも、いわば、危機意識からことさらに逃避しようとい う安易な考えにすぎなかったようである。 たいとう ノ 64

10. 世界の歴史〈15〉 ファシズムと第二次大戦

かこく すいこう とくにウクライナでは苛酷な食料品の徴発をおこ 度も厳重に遂行された。そして東ヨーロッパ、 トイツ軍とドイツ本国 なったから、これらの地方の民衆は悲惨な生活状態につきおとされたが、・ の住民とドイツの工場で強制労働をさせられていた六〇〇万人の外国人労働者を養うだけの食糧 は、一九四四年の末まで確保することができた。しかし、一九四五年になると食糧配給量は、つ いに生存を維持できる最低量を割ってしまった。 イギリス側の調査委員会の報告によれば、ドイツ一般市民の摂取したカロリーは、一九三九年 一九四四年から四五年にかけては二四五〇カ から四〇年にかけては毎日平均二七〇〇カロリー、 ロリーであった ( ただしヤミ食糧による配給以外の食事をふくむ ) 。しかし一九四五年の初めにはそ れが二一〇〇カロリーに落ち、とくに非ドイツ人の食物摂取量はついに二千カロリーを割ってし まった。また国民の三分の一に及ぶ普通の消費者に対する配給量はいちじるしく悪化して、ドイ ツの降伏した当時には一六〇〇カロリーとなっていた。 「ヨーロツ。ハ要基」一九四二年秋には、ドイツ軍の占領地はドイツ史はじま 0 て以来の広さにお の内部 よんでいた。しかし四一年末のモスクワ攻略戦失敗以来、ヒトラーの軍事作 戦に対する干渉が露骨になって、将軍たちとの不和が増大した。ただし、あらゆる軍事的成功が いつも将軍たちの手柄であり、あらゆる敗北がいつもヒトラーの個人的責任であったわけではな い。ただヒトラーは、若千の作戦指導に成功したためにうぬぼれて、まったく違った状況のもと 496