軍隊 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ
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1. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

月七日、元老院はシーザーの召還をきめ、戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。三 日後にこの情報を得たシーザーは、しばらく熟慮したのち、古代にも諺となっていた「骰子は投 げられた」の句を吐いて、自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り、十日の 夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミヌムを占領した。 ポン。ヘイウスは、イタリアでの決戦を避け、元老院の仲間とともに・フルンディシウムから海を 渡ってパルカン半島に拠り、東方の軍隊を結集してシーザーに対抗する策をとった。イスパニア のかれの部下と軍勢は、イタリア挾撃に役立っと期待された。シーザーは・フルンディシウムに逃 。しったんローマに引き揚げたのち、 げる敵を急追したが、敵の逃げ足は早かった。そこでかれよ、、 後顧の憂いをなくするためにイスパニアを鎮圧し、前四八年初め軍隊をアドリア海の対岸に進め た。ポン。〈イウスは決戦を避け、敵軍を孤立疲弊させる策を立てていたが、元老院仲間の声に抗 しきれず、この年の夏テッサリアのファルサロスの会戦となった。数に優ったポンペイウスは騎 兵をもって敵を包囲する策をとったが、敵の歩兵はシーザーにあらかじめ教えられ、投槍を放た すに手にしたまま騎兵の顔をねらって突き上ける作戦を用いたので、騎兵の力を発揮できずに潰 走し、これで勝敗が決した。 逃走したポンペイウスはかって恩顧を施したエジプトの王朝に保護を求めた。しかし幼主プト レマイオス一三世の側近の宦官ポティノスは、ローマの内乱の波及をおそれ、ベルーシオン港に かんがん ことわざ 372

2. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

の侵入に脅かされ、出動したローマの正規軍団がたびたびこの蛮族のために大敗をこうむってい た。前一〇四年、二度目のコンスルとなったマリウスは、北辺の防備のために出征し、それ以来 前一〇一年まで連年コンスルに選任されて、みごとに任務を果たした。ゲルマン人がはじめの勝 利ののち、すぐにイタリアに南下して来なかったことは幸いだった。前一〇二、一〇一年にかれ らが侵入を企てたとき、マリウスはそのあいだにかれが養成した新しい軍隊によってこれに快勝 することができた。 クラックス兄弟の改革も失敗に帰して、もうこの時代には市民軍の原理によって正規の軍団を つくることは極度に困難になっていた。そこでマリウスは無職の貧民を志願兵として採用し、厳 重な訓練によって、いわば職業的な兵士を養成することにした。そしてすべての兵士に投槍と長 剣を与え、部隊編成にも改良を加えて蛮族への勝利を得たのだった。パ ートタイムの市民軍から 職業武人へのこの変革は、こののち、おそらく改革者の予 像測しなかった重大な政治的意味をもつようになった。 年 胸 前一〇〇年マリウスは六度目のコンの 乱 理市民権をめぐる戦争 スルとなったが、ゲルマンの撃退に内 功をたてたかれの老兵への土地分配をめぐって、閥族とマ ウ マリウス派とのあいだに激しい争いが起こった。部下を解散

3. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

などによっても知られ、解放奴隷の身分からローマ司教になったものさえあった。しかし奴隷制 度廃止の思想はキリスト教にはまったくなかった。キリスト信者の奴隷主は使役する奴隷を親切 に待遇するように勧告されるとともに、信者の奴隷もかれの主人に対して「主キリスト」に対す るごとく奉仕すべきことが命ぜられ、奴隷身分からの解放を求めてはならぬといましめられてい る。教会が基金をもって奴隷を買いとった例はごくまれにしかない。しかも教会の発展によって 身分の高い人々が教会に加わるにつれ、奴隷を兄弟とみなす態度も次第にうすらいできた。 世俗の職業に関してもきびしい態度がとられ、異教の偶像崇拝や不道徳にそまりやすい職業、 たとえば剣闘士、俳優、美術家などは、洗礼をうけるまえにやめるよう勧告された。官吏と軍人 も同様な恐れがあるとされ、とくに皇帝礼拝、軍旗への忠誠の誓い、流血の業から避けられない 軍隊はキリスト教とは相いれないものと断定されたが、二世紀末頃からは事実上キリスト信者の 官吏や軍人も存在するようになった。 このころのキリスト信者の世俗社会のなかにおける自己意識は、無名の人の筆になる『ディオ グネトスあての手紙』につぎのように美しく描かれている。 「キリスト信者は各自が定められたままにギリシア人の都市またはル・ハロイ ( 夷狄 ) の都市に居 住し、服装も食事もその他の生活もその土地の風習に従いながら、かれら自身の生活態度におい て驚嘆すべき、たしかに世の常ならぬものを示している。かれらはおのれの郷土に住んでいなが 438

4. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

女王として首都ローマの凱旋行進に加えられる屈辱を甘受した。これはかってクレオパトラが死 をもって拒否した屈辱であった。ここに本来マケドニア人の血をひくクレオパトラとオリエント 生粋の女性たるゼノビアとの差異を認めてもよいのではあるまいか。ゼノビアは後半生をティヴ オリまたはローマで静かにおくったと伝えられている。 パルミラはその後ふたたび昔の繁栄を回復することができず、東西の通商路も移動して廃墟と ろうらん してとり残された。オリエントの楼蘭ともいうべき隊商都市国家の興亡はこうして終わった。 昨日の富豪もアウレリアヌスはローマ帝国から分離していたガリア、プリタニアをも回復し、 今日は乞食新たに鋳造した貨幣に「帝国の再建者」という文字を刻んだ。かれは経済問題 にも気をくばり、ローマ市の職業組合の統制を強化した。首都ローマの市民に対しては、これま での穀物分配のかわりにパンを与え、油、塩、豚肉をも配給した。しかしかれも暗殺の悲運を免 れず ( 二七五年 ) 、その後もわずか一〇年間に六名もの皇帝が相ついで立つなど混乱はつづいた。 しかし、ようやく帝国の前途にほのかな光がさしそめてきた。 軍人皇帝時代には元老院は次第に無力となり、軍隊が推戴した皇帝を名目的に承認するだけで、 たまに権威を回復しようとくわだてても実力の裏づけがないため失敗していた。軍人皇帝たちは 元老院議員を含めた富裕階級の財産没収をおこなったので「昨日は最も富裕な人々も今日は乞食 になっている光景が毎日見られる」といわれた。 426

5. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

れるような結果を生む登録法がとられたことは少なかったが、政府は自由な中小農民の土地と生 活を守るための適切な政策をうち出さなかったので、農民は重税に苦しめられ、逃亡したり、大 所領主の保護を求めたり、さらには暴動をおこしたり、蛮族の助けを求めたりした。西部では東 部のように農民の小経営が芽ばえるには、移動してくるゲルマン人の共同体の発展をまたねばな のクらなかった。 イ の ザ この時代にはまた通貨価値の下落 そ で変則な国家経済 と物価の暴騰によって、政府は多 知数の軍人や役人の給与、辺境防衛のための厖大な軍需 景タ品の調達に困惑し、実物納入を主とする税制をしき、 光ル のカ官吏や軍人への給与も現物支給を原則とし、さらに組 領合に編入された商工業、運輸業者の国家〈のサービス 所ろ れ のあ 者でを義務づけたたけでなく、武器、煉瓦、貨幣、織物、 そ 有主 所領染色なども原料産地や軍隊駐屯地に近い辺境地方に国 地が 代 土物営の仕事場を設け、主として奴隷や囚人を使役して国古 大人 期た , ( 末。営生産をおこない、物資の現物調達をはか「た。 一にしかしそれは通常考えられるように貨幣経済から実 べ

6. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

ンにの長期の豪雨のなかを行軍して疲労しきった軍ははじめてはっきりと反対の意志を表明した。 かくしてようやく帰還のための行進がはじまった。かれはすでに建造を命してあった艦隊を指 7 揮してインダス川をくだり、部隊は艦隊と並行して河岸を歩いていった。沿岸の土民は一二万の 大部隊の行進を物珍しげに眺め、歓迎さえした。しかし抵抗したマルロイという部族との戦いに アレクサンダーは危うく命を失うところだった。敵の矢がかれの胸甲をつらぬいて胸にささり、 ふかで 「血と息がいっしょにほとばしり出た」ほどの深傷で、多量の出血のため失神してたおれた。部 下は王の最期と思ったが、やがてかれは意識をとりもどした。 インダスの三角州から西への帰路でも、陸路と海路とに分かれ、たがいに連絡をたもって進ん だ。かれは陸軍をひきい、今日のベルティスタンの砂漠を通って苦しい行軍をつづけた。海軍は ネアルコスがひきい、海岸に沿うて西進し、ベルシア湾に入って目的のティグリス河口に着いた。 前三三一年にパビロンを出てから前三一一四年にここに凱旋するまでにほぼ八年の歳 平伏の礼 月が流れていた。表面は勝利の連続であったこの大遠征の間に、軍隊にも、アレク サンダーにも、またその「仲間」のあいだにも、いろいろと変化がおこった。 最も重大なのよ、、 をしままで支配民族であったベルシア人との関係だった。かれらを征服地の知 事に任ずる方針は早くから採られたが、遠征が東に東にと伸びた結果、兵士の補充の困難からペ ルシア人を軍に編入することが避けられなくなった。それと同時に、アレクサンダ 1 、自身がベル

7. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

たローマの為政者の見識にはまったく感心させられる。城壁がポリス的な分立、封鎖を象徴する のに対し、道路は開放性を物語ると言えまいか。 たしかに、ローマが短日月のあいだにイタリアの統一を実現したのは、そのよく訓練された重 装歩兵の軍隊や軍事植民市や軍道の建設、そして元老院の堅忍不抜の戦争指導等々いろいろ軍事 的な優秀さがあげられようが、それよりももっと大きな理由は、ローマ以外の都市や部族ー・・・ーそ の大部分は一度はローマの敵だったーーーに対する政策が賢明だったことに求められる。この点は あのアテネ帝国の失敗の跡と比較するとき、最もよくわかると思う。 第一に市民権賦与についての寛大さがあげられる。この市民権には、ローマ市において役人に 立候補したり投票したりする参政権をも与えられる完全市民権と、民法的にローマ市民と対等の 権利を認められるだけの「参政権なき」市民権との二種があった。ローマ市の直接の領域の人た ちばかりでなく、ローマ人の植民市の人たちも、ギリシアの植民とちがってローマ市民であった。 遠隔地で参政権の行使が困難にしても、あくまで母市の市民であった。なおローマ市を中心とす ツリプス る完全市民の領域は次第に広くなり、行政区域の数もそれに応じて前二四一年には三五になった。 しかし、その後は領土がひろがっても行政区域の数をふやさず、新領域の市は三五の区のどれか に帰属させることとし、都市国家的な形式を保存した。 完全な市民権と不完全な市民権があり、それらが被征服共同体にいろいろの事情に応じて与え 240

8. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

ていた。自分から言い出して合戦に臨んだクレオ。 ( トラは、その艦隊を率いていち早く逃亡し、 アントニウスもその後を追って戦いはアッケなく終わった。 翌年八月一日、アレクサンドリアが陥落し、アントニウスもクレオパトラも自殺して果て、ク レオパトラの遺児カイサリオンが処刑されたとき、プトレマイオス家三〇〇年の支配は名実とも に減び、一〇〇年にわたったローマの内乱も、ここにようやくおさまった。 内乱の末期にギリシアはたびたび戦乱の巷となった。そのたびにギリシア都市はローマの軍隊 のために徴発や献金で苦しめられ、早くからはじまっていたその衰頽はますますひどくなった。 それは昔のギリシアの栄光といまの衰微をくらべて感傷を述べるのがラテン文学の一つの流行と なったほどであった。 人々が平和の再来に安堵の胸を撫でおろし、オクタヴィアヌスの功業を祝っているとき、オク タヴィアの気持ちは複雑であった。アントニウスは自分を離縁した人であり、弟のためには除か こうして彼女 れねばならぬ人であった。しかしあの人が自分の夫だったことには変わりはない。 は、アントニウスとのあいだに生まれた娘たち、それにかれとフルヴィアとのあいだの子供まで、 自分の前夫マルケルルスとのあいだの子供と同様に育て上げ、熱心に教育した。これからのちロ ーマの宮廷には有名な悪女たちが幅をきかした。しかし帝政成立の激動のかげにはこういう気だ ての女性もあったのである。 ちまた 328

9. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

丿 / トロールにあたったが、もはや海賊の 海軍は主としてイタリア海岸および近接海域や河日の。、 心配もなくなっていたので陸軍にくらべると重要性はうすく、乗組員は属州民が多かった。 きよしゆっ 軍隊を維持するために、アウグスッスは軍事金庫を設けて私財を醵出し、ローマ市民に課した ーセントの売上税によって補った。ちなみに帝国の財源として 五パーセントの相続税および一。 は、直接税のおもなものは地租や人頭税で属州民が負担し、間接税としては関税、奴隷解放税な どもあった。課税や募兵を的確に行なうために周期的に人口調査と資産評価がなされた。元老院 が管理し、イタリアと元老院統治の属州よりの収入を受納した国庫とは別に、皇帝の属州から フィスクス の収入を扱う金庫が設けられ、皇帝はその収支を独占し、国庫にも間接に監督をおよ・ほし、なお 広大な皇の私領地の収入は、別に「カエサルの金庫」で扱った。 このような堅固な軍事体制をしき、東方の強国パルティアとの決戦を避けてユーフラテス川を もって境として事を構えなかったアウグスッスも、ゲルマニア方面でははじめかなり積極策をと り、軍をエルべ川にまで進めさせたが、ここにまったく予期しない惨劇が起こった。 紀元七年以来ゲルマニア方面軍司令官に任ぜられていたヴァルスは北辺の事情にうとく、まえ に属州シリアの知事であったとき「一人の貧乏人として豊かな属州にはいり、金持ちとなって貧 しい属州をあとにした」といわれるように私腹をこやす失政をした。これをゲルマニアで繰り返 し司法権を強行したので、自由の気性に富むゲルマン人の憤激をかった。そこでかってローマの しふく アエラリウム 34 イ

10. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

イタリアの争乱の鎮定に、老齢のマリウスとは比較にならぬ功績をたてたスル ローマへの進軍 ラは、前八八年のコンスルに選ばれ、抽籖による属州の割りふりに、万人注視 のアジア州を、つまりミトラダテス討伐の指揮権を獲得した。骨の髄まで貴族のかれに対しては、 マリウスをかつぐ反対派の動きがさっそくに起こった。このときである。マリウスの行なった軍 隊の私兵化が、はじめてその不倶戴天の政敵によって利用され、内乱時代は内戦時代へと一歩を ーニヤのノラの町を包囲中 ふみ出した。スルラは上にのべた「同盟者」との戦争の続きでカンパ だったが、急遽その軍隊とともに首都に進撃した。ほとんど抵抗を受けずに首都を征圧したスル ラは、民主派弾圧の対策を講じたのち、翌年ミトラダテスとの戦いに出発したが、軍隊を政争の 具に使い、ローマ人がポメリウムという神聖な境界によって軍隊の入ることを禁じていたローマ 区を軍靴でふみにじった点で、かれは共和政崩壊史に新しいページを開いた。 マリウスはいち早くアフリカに逃亡したが、名門出でかれに同情していたキンナのイタリア各 地から集めた軍隊をあてにして帰国を企て、エトルリアに上陸した。奴隷たちに解放を約束して 味方につけ、ティベル河口のオスティアの港を占領してローマにはいった。マリウスの、反対派 に対する復讐は血に飢えた者の行為であった。奴隷の一部からっくられた親衛隊は「マリウスに 挨拶しても挨拶を返されぬ者を殺してよいとしてつぎつぎに片づけた」と伝えられる。キンナは あまりの殺戮に反感をもったが、マリウスは最後まで復讐の手をゆるめなかった。前八六年にか 292