アテネ - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ
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1. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

やがて具体的にみるであろう。 商工業の発達にもかかわらず、ここには中世都市のギルドに当たるものは全然生まれなかった。 その理由は、市民以外の外人や解放奴隷や奴隷が商工業に占めていた意味を考えればすぐにわか る。それゆえ、中世都市市民が「経済人」であったのに対し、古代市民は「政治人」だったとい う批評は、古代市民の性格の一面を巧みにとらえたものとせねばならない。 ギリシアーローマの遺跡はかぞえきれぬほどたくさんあるが、アテネの アテネのアクロポリス アクロポリスほど感銘を与えるものはあるまい。高さ一五〇メートル、 すばらしい眺望をもっこの岩山の公共建築は、。ヘリクレス時代のアテネを偲ぶこのうえないよす がであり 、パルテノンはまさに古典期のギリシア精神の集中的表現である。巨匠フィディアスの 手になった象牙と黄金製の処女神アテナの像は早く失われてしまい、神殿自体も、一六八七年、 貯蔵された火薬の爆発で大破してしまったが、とにかく古今の建築の範とされたこの神殿が今日 治 の程度にのこったことをわれわれは喜ばねばならない。ギリシア美の根本性格は単に高度の写実 政 にとどまらず、均斉、調和にあるとされるが、フィディアスの精神をよく偲ばせる内陣彫刻帯の民 浮彫り、観る者の錯覚を計算に入れて完璧な合理的精神で設計された神殿の構造を、一一四〇〇年古 後の今日もわれわれは自分の目で眺めることができるのである。幾かかえもあるドーリア式の大 理石柱を見ていると、この岩山の上にこの大神殿を造る労働たけでも並大抵のものではなかった

2. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

哲学ばかりではない。文芸でもアテネは伝統の強みを発揮した。前四世紀前半以来の中期喜劇 のあとをうけて、その世紀の末に、有名なメナンドロスが出て新喜劇を大成した。そこには古喜 劇の政治批判がまったく姿を消したのはもちろん、中喜劇にみられる社会諷刺もなくなり、もっ せたい ばら世態、人情を描いて人々を娯しませるものとなった。このように演劇までがポリスの衰頽を 忠実に反映したのである。 ヘレニズム時代のアテネが国際政局から超越できたと考えたら大まちがいである。前三世紀の 半ばには、エジ。フトと同盟してスパルタとともにマケドニアに開戦したこともあった。しかしそ れは完全な失敗に終わった。マケドニア王のさしがねで、役人になるには財産資格が必要となり、 この時代から富裕な名門が市政に幅をきかすようになってゆく。その後もアテネは政治の嵐にま きこまれたことがないではない。しかしこの時代のアテネは一口で言えば過去の栄光によって尊 敬され同情される古都であった。 ヘレニズム時代にはギリシア方言の差はだんたんなくなって、アテネの方言が ニ人の改革王 ひろまったが、それは、アテネのそれまでに果たした役割を考えれば当然であ ろう。このアテネの方言を主体としてイオニアの要素を混じた言葉が、この時代には共通語とし てギリシアのみならず東方の新世界にもひろく行なわれることとなった。そしてこの時代にもお きっすい びたたしい歴史書が書かれたが、ローマ時代以後、むかしの生粋のアテネの文学を尊重する風が たの 782

3. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

シシリーでの大失敗はアテネの内政にも影響を与えた。アテネ人も民会の多数決がよい推導者 を欠いてはすこぶるあぶないことに気づきはじめた。そこで年輩の人々から成る一〇人の「先議 委員」の制度を設け、国策の審議に当たらせることとした。かように寡頭政への傾向が芽生えて いるのに目をつけたのがアルキビアデスであった。スパルタ人の間に自分に対する妬みと反感が 生まれているのを祭したかれは、新たに一策を練った。アテネに寡頭政を実現させ、それは到底 永続きしないから、その動揺したところで民主政の復興者として民衆の歓呼のうちに故国の土を 踏もうというのである。そのためにかれは、寡頭政体となればベルシアはアテネと結ぶだろうと いう理屈を、まずサモスのアテネ軍の寡頭主義者に火き込んだ。 極端民主政の時代にもアテネには寡頭政を礼讃する分子がなかったわけではない。現にかれら の間で生まれた筆者不明の『アテネ人の国制』と題する小冊子は今日まで伝わっているが、寡頭 派の側からみたアテネの政治、社会の皮肉な描写として貴重な史料をなしている。その他、かれ らの考えた「古き善き時代」のアテネの国制についてのパンフレットなるものも、いろいろあっ たことが知られている。いまやかれらにとって念願を果たすべきときが来た。前四一一年五月の ことである。一応民会決議の形はとったが、実際は武力の威圧の下に参政権を四〇〇人の市民が 掌握することとなった。しかしこの政権は、スパルタとの和議に失敗し、海戦に敗れてエウポイ ア島を喪失した結果わずかに四カ月でたおれ、五千人のみずから武装しうる市民が参政権を握る 720

4. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

経済生活には欠くべからざる階級であった。小さな商人、また土木工事などに働いた自由労働者 にも居留外人が少なくなかった。しかし居留外人のなかにはアテネの学芸に貢献した者もあった ことを忘れてはならない。その最大の例は前四世紀のアリストテレスであり、かれはトラキア海 岸のスタゲイラの生まれであった。かれはアテネに学園をひらいて講義していたが、外人なので アテネの役所に出入りができず、おそらく市民である弟子を通じて資料を入手して、今日アテネ 研究の第一の史料である『アテネ人の国制』という本を書いた。 ベルシア戦役以後、ギリシア一般、ことにアテネの奴隷の数が急に増加したことは事実である が、四〇万人もいたという古代の伝承は食糧事情から推しても明らかに誤りで、アテネの人口の 最も多かった前四三一年に一〇万前後だったとみるのが今日の通説である。市民である一八歳以 上の男子の数は統計がないのではっきりしないが、四万くらい、その家族をあわせれば一五万前 後であったろう。奴隷は史料に現われたところでは、召使いとしての家内奴隷のほかに、いろい ろの工業の製作場にまとまった数のものが使われていた。ことにラウリオンの銀山では国家から治 採掘権を得て経営するのは市民であったが、労働はすべて奴隷が行ない、 一千人もの奴隷を所有注 してこれを鉱山経営者に賃貸ししていた富裕市民もあった。重装歩兵として出征した農民が奴隷 なしですませたこともちょっと考えにくい。喜劇を読むと、農民や小市民が主人公の場合でも、 必す一、二の奴隷が登場する。

5. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

ペリクレスは前四五一年に民会に自分で提案して、今後アテネ市民とはア 市民、居留民、奴隷 テネ人である父と母の間に生まれたものに限ると決議させた。これは提案 者にとって実に皮肉きわまる結果を生んだのであるが、それはのちに述べることとして、この決 議によりアテネというポリスは法制的、形式的に完成したと言ってよい。それはいわばポリスの 封鎖化であった。外人の場合に市民権は、自国に特別の恩恵を施した民会の決議を経て与えられ たにすぎない。全国土と地下資源は市民共同体のものとされ、外人は土地を購入することができ ず、土地、家屋の取得権の賦与にも民会の決議を要した。スパルタはこの点アテネよりなお徹底 していたが、要するにポリスはかような封鎖的な共同体の面をその根本の性格のなかにもってい きざし たので、この原則がゆるむのは、発展というよりも衰退の兆であった。 アテネの民主政や市民の性格を考える場合、市民でなかった自由人、つまり居留外人と解放奴 隷、それから奴隷のことが重大な関係をもってくる。まず居留外人であるが、これはデロス同盟 の盟主として大きな消費の中心になったアテネに例外的に多かった。かれらは税や軍務の負担が あるのに参政権は全然なく、じつに割に合わぬ身分だったが、アテネの外港。ヒレウスが当時の地 中海第一の商港となり、海外貿易や両替え、またそれから発展した金貸しにはまたとない場所だ ったから、大勢集まって来たのは当然であった。なかには多数の奴隷を使って武器の製造に従っ ていた者もあった。不動産の所有権がないので、し・せん、商業、工業の方面に活躍し、アテネの

6. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

人たちの数は九千くらいであろう。 いよいよ開戦となって、かれらはミルティアデスの指揮のも と重装歩兵の密集隊戦術の力を遺憾なく発揮した。敵の矢が雨のように降ってくるなかを、武装 の重みをものともせず、隊伍整然と駈け足で敵陣にせまった。白兵戦となればもうこちらのもの ・こっこ 0 ギリシア側の死者はたった一九二人だったと伝えられる。かれらを合葬した塚は今日ものこっ ており、アテネの名所の一つになっている。負けた。ヘルシア軍はあわてて船に乗り、岬をまわっ てアテネ市の前面に現われたが、アテネ軍が間もなく市に馳せつけたのを知って、そのままアジ アに引き返した。 マラトンの勝利は、ミルティアデスとアテネの中堅市民とによる陸戦の テミストクレスの知恵 傑作であった。しかしこの名将が、戦いの翌年に一つの遠征に失敗し、 「市民をあざむく者」とされて失脚したとき、待っていたように擡頭したのが、ギリシア史上も っとも天才的な政治家と言われるテミストクレスであった。かれはマラトンの戦いの前からアテ ネの将来は海上にあると確信してビレウスの軍港の建造に着手していた。前四八六年ベルシアで は、ダリウスのあとをうけてクセルクセスが王位につき、マラトンの敗北への復讐のため大変な 準備をしているとの噂がギリシアに伝わってきた。ちょうどそのころ、前四八三年のことだが、 アテネ領内の銀山で豊かな鉱床が発見された。アテネではそれまで国家の必要をみたした残りの

7. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

の他のトーリア人の習俗や制度に現われているように、自由な共同体成員が軍の指揮者としての 王の下にがっちりと団結して戦ったのに対して、城塞王のために搾取されつづけた人民の間には 本当に国土を防衛する意識も力も出なかったのであろう。 トーリア そこで一「三百年の間、征服、移動の大混乱の時代が続き、ギリシア本土の大部分が。 人やその他のギリシア人の侵入を受けた。この大事件は古代の伝説では「英雄ヘラクレスの子孫 の帰還」という話になっているが、そのことは後世のギリシア方言からもわかる。ギリシアの都 市国家はおのおの自分らの言葉を公文書に誌していたので、前五、四世紀のギリシア方言の分布、 また地域によってはその混合の状態から、いま問題の時代の侵入定着の様子を推察できる。ここ でも言語学は歴史研究に大きな役割を果たしてくれる。 この混乱の時代について一つだけ大事なことが伝えられている。それはアテネの王コドロスが、 一身を儀牲にすればアテネはドーリア人の侵入を免れるとの予言に従って、アテネの国土を救っ た話である。後世のアテネ人は、自分らがギリシアの「生え抜き」であることを誇りとしていた。 それでわれわれは、アテネだけがミケーネ時代からそのまま続いた国だと考えてよい。のちにア テネがギリシアのなかでずばぬけて重要な国家となった理由の一つは、ここに求めてよいかもし れない。 伝説は、アテネがエーゲ海の対岸 ( 小アジア西岸 ) のイオニア地方へのギリシア人の出発点とな

8. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

四九二 四九〇 四八八 紀四八六 四八〇 世 四七七 四五〇 四四五 四四三 前 四三〇 四二九 紀四〇五 四〇四 四〇一 。ヘルシア戦争開始 マラトンの戦 アテネでオストラキスモスが初め て実施される アテネでアルコンが市民のくじび きで決定されることになる テルモビレーの戦、サラミスの海 戦 デロス同盟が結成される ( ~ 四 00 ) ローマに十二表法が作られる 平民と貴族の結婚が法的に承認 ペリクレスが毎年将軍となる ( ~ される ハルテノン完成 ペロポネソス戦争 ( ~ 四 0 四 ) ペリクレスがベストで死亡する アイゴスポタモイの海戦でスパル タがアテネに勝っ スパルタとアテネが和議 クセ / フォンの「一万人の退却」 説では四七一年 ) マガダ国がガンジス川流 域を統一 493 年表

9. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

結果はじつに重大であった。すでに前四世紀の後半のころ土地の少数者への集中が相当に進み、 この国の制度ではそれは完全市民の激減を意味した。 スパルタがアテネに勝ったのは、ベルシアの金によって有力な海軍をもつようになったからだ った。当時のギリシア人は、。ヘルシア人を異民族 C ( ル・ ( ロイ ) の代表的なものとし、その専制王 の下にあった状態を自由の何たるかを知らぬ者として軽蔑していたが、その王の財宝がギリシア の規準からは桁はずれなものであることをよく知っていた。そしてその魅力に打ちかっことがい かに困難だったかはスパルタがすでに示したし、前四世紀のギリシア史がよく物語っている。一 方、。ヘルシアの側としては、ギリシアが無数のポリスに分かれてたがいに争っていることがつけ 目である。これが統一したら大変な力を発揮することはもうこれまでの歴史で十分わかっていた。 スパルタの覇権をくつがえそうとアテネ、テーべ、アルゴス、コリントが同盟していわゆるコ リント戦役 ( 前三九五ー三八六年 ) を起こしたのは、ベルシアがスパルタの覇業を危険視し、分裂 抗争を起こさせることを狙ってアテネその他を喜んで経済援助したためであった。この戦いでは、 アテネの将軍がベルシアの海軍によってス。 ( ルタ海軍を破るという妙なことがあり ( 前三九四年 ) 、 スパルタの海外支配の夢はこれで破れ去った。一方アテネはこのころ次第に国力を回復し、破壊 された長城もベルシアの経済援助で再建した。戦争はいっ果てるともわからなかったが、スパル タが遠路ベルシアの首都スサまで送った使節が、アテネのすみやかな復興に不安を覚えはじめた ー 34

10. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

に妬みと不安を覚えていたが、おもてむぎは三十人派を助けるとの名目でアテネに出かけ、じっ はリサンドロスのアテネに対する野心をくじくために干渉の手をさしのべ、民主派の帰国を実現 させた。寡頭派は一時エレウシスに移ったが、民主派が暴に報いるに暴をもってしない態度に出 たのでやがて完全な和解が成り立った。アリストテレスはこのときのアテネ大衆の態度はまこと に立派だったとほめている。 かようにして前四〇三年からアテネはもとの民主政に復し、細かい点は別として前四世紀を通 じて同じ政体が続いた。クレイステネスの改革以降のアテネの政治史のうえからみると、まえの 四〇〇人の支配にしても、このいわゆる三十僣主の支配にしても、ほんのつかのまの例外にすぎ ない。それにしてもこの二度の変革は古代民主政と近代立憲国家の政治とのいちじるしい差異点 を物語っている。それは市民の間の党争であり、アテネなどはむしろそれの弊は少なかった方で、 小さなポリスでは外部の勢力の影響もあって寡頭派と民主派の争いが執拗に、ときには激しい内 訌の形で行なわれた。財産を没収されて追放された亡命者は、外国の力をかりても帰国して政権 をとりもどそうと企てた。市民団の下には搾取された階級として奴隷があったが、スパルタのヘ ロットのような単なる身分上の奴隷は別とし、一般の購買奴隷は、ローマにみられたような集団 的使用が少なかったこと、たがいの連絡組織が困難だったこともあって、反乱を起こした例は伝 えられていない。せい・せい逃亡を企てるのが唯一の反抗の手段であった。この戦いの最中にコル 724