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検索対象: 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ
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1. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

一方、エーゲ海のキクラデス諸島に、 ン 紀元前一一千年以上前から独自の文化が生 まれていたことも明らかになった。今日オ 蒐集家に高く評価されている極度に単純 ャ 化された手法の大理石彫刻を生んだキク ラデス文明も、やがてクレタの影響を強 くうけて「自然主義」的な壁画を生んだ。 またギリシア本土でも、ミケ 1 ネの近く島 のティリンスやテーべから出た壁画の断レ ク 片、それにミケーネの浮彫りなどは、古 い時代のエーゲ海一帯に一つの文化圏が 栄えていたことを容易に考えさせた。 本 ア シ 今日エーゲ文明と呼ばれるこの文明の 中心がク / ッソスにあったことは、われギ われがすでに見た古代の伝承からも発掘 された王宮の規模からも、ひろくみとめ 前 3000 2900 2800 2700 2600 初期ヘラス文化初期ミ / ア文化 2 0 2400 2300 2200 2100 エジフ。トの中 中期ミノア文化トロヤ第 6 市王国 2000 1 0 中期ヘラス文化 1800 印欧語族の侵入 ′、ンムラビ王 1700 ミケーネの墓域 B クレタの最盛期 エジプトの新 1600 末期ヘラス文化末期ミノア文化 王国 ミケーネ人のク 1 0 ミケーネの墓域 A レタ侵入 ヒッタイト帝 1400 ミケーネの最盛期 国 1300 トロヤ第 7A 市中国の殷の盛 1200 ヒ。ロス王宮の破壊 の破壊 ( 1275 一時 1240 頃 ) 1100 ミケーネ王城の破壊 エジプトの古 王国 トロヤ第 2 市 ( 2400 ー 220 の 2

2. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

アのキメ沖の海戦で h トルリア人に大勝した。いまでも地中海のうちイタリアとスペインの間の 部分をティルレニア海と言うのは「エトルリア人の海 , という意味で、かれらの海上発展を偲ば せる名であるが、それもこの敗戦以後めつきり衰えた。 ふたたびエーゲ海の方にもどると、ここでは、ベルシアの侵入軍は撃退されたが テロス同盟 またやって来ぬとも限らないし、やっとベルシアの支配を離れたギリシア諸市を 保護するためにも、なんらかの組織が必要であった。これまでスパルタはギリシア第一のポリス とみなされ、ベルシア戦役にも陸軍海軍を間わず最高指揮権はスパルタ人が握っていた。マラト ンとサラミスの勝利は、アテネが少なくともスパルタに劣らぬ強国であることをギリシア人に広 く知らせたが、サラミスの戦いの後しばらくはスパルタの摂政の。 ( ウサニアスが連合艦隊を率い ていた。しかしわれわれがもうよく知っているように、鎖国を国の方針としていたスパルタ人が エーゲ海の安全のために活動するのは、そもそも無理であった。そのうえ、。フラタイアイの勝者 として、また艦隊を率いてベルシア勢力の撃退に功のあったこの人物が、その尊大で粗暴な態度 のためにイオニア人に嫌われはじめ、かれらがアテネ人に対して連合艦隊の指導者となるように 申し出たのは、まことに自然の成り行きだった。 新たな指導者の下に前四七七年に成立したのがいわゆるデロス同盟であり、この名は同盟諸市 の資金がエーゲ海の中央にある小島デロス島のアポロンの神殿に保管され、同盟の会議もここで

3. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

こういう事実から、侵入してぎたギリシア人の祖先は、高い文化をもった先住民に出会って、 これを絶減することなく、それからいろいろのことを学んだにちがいないと結論できる。 古代ギリシアの伝説は、トロヤやミケーネのほかにも数々の物語の中心地を伝えて 謎宮の正体 オイデイプス物語の中心のテーべなどもその一つであるが、エーゲ海南部の大きな島クレタ島 の北岸のクノッソスには、大むかしにミノスという有力な王があって、エーゲ海の他の島々まで 支配していたと伝えられる。その妃が美しい牡牛に恋して、その間に牛頭人身の怪物ミノタウロ スが生まれた。ミノス王は海上支配の手をギリシアの本土にまでのばし、その結果アテネ人は九 年ごとに未婚の男女七人ずつをクレタの王宮に送らねばならなかった。そしてかれらは謎宮の奥 に棲むミノタウロスの餌食となったが、アテネの英雄テセウスがみずからすすんでクレタに送ら れる仲間にはいり、かれに惚れこんだミノスの王女アリアドネに謎宮へ導く糸をあたえられて、 説 伝 ついに怪物退治に成功したという。 っ “エヴァンズによって一九〇〇年からは え クノッソスの謎宮を発掘する大仕事は、英人アーサー じめられ、その成果は実にはなばなしいものであった。そして伝説の正しさはここに三たび証明み されたのである。 第一にその王宮の規模の大きさ、ことに斜面を利用してつくられたこの建築のおびただしい部

4. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

何はさておぎ戦争だけは御免だ、これが現在の大部分の日本人の気持ちであろう。 民族の危機 平和の確立とか自衛の名で人間がたがいに殺し合った大小の戦争は世界史の上で まったくかそえきれぬほどあった。今日の日本の歴史記述からそれらはほとんどすべて姿を消し た。それでよいのである。しかし武器の発達や軍制の変化が政治に重大な関係をもっているよう に、世界史の上でのいくつかの戦争は、そののちの歴史の歩みにじつに深い関係をもった。そし治 てそのような大戦争の筆頭にあげてよいのが、前五世紀の初めにアケメネス王朝のベルシア帝国 代 とギリシアとの間に戦われた、いわゆるべルシア戦役である。 この戦争がどうしてそんなに重い意味をもっているかは、このときまでの古代オリエントの歴 史の進みをふりかえり、一方、エーゲ海をへだてたギリシアのそれと比較してみれば容易に理解 古代民主政治 アテネの民衆裁判の投票 具。青鋼製。アゴラ出土

5. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

うに豊富になった。それならば、かれが生涯その史実であることを信じていたトロヤ戦争はどう なったのであろうか。 今日でもそれをまったく文学的フィクションだとする学者もある。もちろん、アガメム / ンの 弟メネラオスの妃だった美女ヘレネがトロヤの王子により誘拐されたという戦争の原因の話はフ イクションである。しかし、ミケーネ時代のギリシア人にとって、エーゲ海がかれらの海になっ ていた事情が明らかとなり、トロヤとの交通も確実である以上、ミケ 1 ネの王を総帥としたギリ シアの英雄たちが、あの黒海への入口を抑えていた城塞を攻めたことは、けっして単なる空想の 産物とは言いきれない。古代の伝承は、トロヤは前一一八四年頃に一〇年の包囲ののちに陥落し たと伝えている。年代をもっと古くおく伝えもある。とにかく絶対の反証が出ぬかぎり、われわ れは古代ギリシア人とともに、それがギリシア史の初期の大事件であったと考えよう。伝説の背 景になんらかの史実のあることをわれわれはもうたびたび教えられたのであるから。

6. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

第イ - ように考えねばならないのである。 王国の領域はさして広くなかったにしても、その国土の住民がことごとく王家の経済のために 動員されていたことが想像される。国内に自由な交換経済がどの程度発展していたかはわからな いが、王家がほかの地域とさかんに交易していたことは推測してよいであろう。 ミケ 1 ネで作られたかまたはその系統をひく陶器が前一四、三世紀のエーゲ海東部にひろく輸 出され、また当時ギリシア人の植民地がロードス島やキプロス 島にまであったらしいと考えられている。ミケーネ時代末期の 文様化された装飾画をもっ壺は、トロヤやシリア、エジプトに までたくさん出ている。そしてこの時代に小アジアに栄えてい 城たヒッタイト帝国の文書にアッヒアヴァという国との交渉が見 六えているが、それがギリシア人の国の意味であることは今日ほ説 ヤ・ほ確実とみられるにいたった。それがミケーネの王国のことか、た え あるいはその出店であったロードス島、またはキプロスだった み よ か、これは今後の課題である。 シュリーマンがトロヤの丘に鍬を入れてから約一世紀の間に、 青銅器時代のギリシア史についてのわれわれの知識は、このよ

7. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

たえないのとよい対照をなしている 歴史時代のギリシア語は印欧 ( インドーヨ ーロツ・ ( ) 語族に属している。それで後世のギリシア 人の主体をなした民族は、おそらく南ロシアあたりにあった印欧語諸民族の「故郷」から、西紀 前二五〇〇年頃に移動しはじめて、前一九〇〇年代パルカン半島の南端に侵入したと推定されて 東はインド人の言葉から西はアングロサクソンの言葉にいたるまで、じつにさまざまの言語が 印欧語族にはいるのであるが、それらに共通している単語をしらべることによって、われわれは 印欧語族の諸民族がまだ「故郷」から分かれて出なかった当時の文化について、かすかながら推 測することができる。たとえば、かれらは馬、牛、羊のような有用家畜をもち、のちのギリシア 人の間ではゼウス、ローマ人の間ではジュピターとなった天空神をあがめ、また強い父権のもと に父系制の家族を形成していたことなどがわかるのである。 そればかりではない。ギリシア語の本来の性格があきらかになると、エーゲ海一帯にはこれと ちがう言語を語った有力な先住民のあったことがわかった。山や川や集落などの名前に、本来の ギリシア語ではありえないものが無数に見いだされるばかりでなく、後世のギリシア人がっかっ た普通名詞のなかにも先住民系統の言葉がたくさん発見された。アテナのような神々の名にもお なじことがみとめられる。 、 0

8. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

ポンべイウスのシーザーの伝記によると、かれはロードス島に遊学する途中、エーゲ海で海賊 海賊退治 に捕えられたが、巨額の身代金を調達するまで一カ月余海賊といっしょに暮ら した。それを払って自由になると、ミレトスからさっそく追手を出して海賊を捕え、全員を磔刑 にたという 。いかにも後年のかれを思わせる話だが、かれのように名門で顔のきくものでなけ れば身代金の借金もできない。 この時代の海賊はローマの政争による亡命者なども加わって堂々 と艦隊まで組み、西はセルトリウスやスパルタクス、東はミトラダテスと連絡して、一口に海賊 ねじろ といっては片づけられないものになっていた。かれらの根城は東地中海であったが、イタリアの 海岸がかれらの仕事場になっていた。ローマの当局の最も困るのは、ローマ市への小麦の輸入が かれらの跳梁によって阻害され、都市の無産者が騒ぎだすことだった。 もちろん当局も、この事態に手をこまねいていたわけではない。前一一世紀末以来、海賊掃討の ためにはいろいろ苦心が払われたが、成績はいっこうに上がらなかった。なにしろ東西に長く、 海岸線の複雑な地中海で、相手は逃げ足が早いのだから、全体をおさえねばとうてい目的は達せ られないが、それは空前の難事業にちがいなかった。 いままで海賊退治に出動した人は一人も成功していないのだが、ここにうまい引受け手が現わ れた。それは、今までトントン拍子に名声の上がったポンペイウスである。スルラにより高く買 われ、セルトリウスを片づけ、奴隷反乱鎮定の仕上げまでしたかれは、手下の軍隊の圧力により 298

9. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

の変革をも甘受せねばならなかった。完全市民権は一定の財産ある者に限られて、大衆の反抗運 動が防止された。追放されたデモステネスは自殺した。 そののちアテネはアンティ。 ( トロスの息子のカサンドロスが任命した市民のデメトリオスの支 配の下に立った。かれは立派な学者であったが、このような支配はポリスの国制にはないもので あった。アテネに限らずギリシアは、何と言っても過去の栄光に輝く地域であったから、「後継 者ーたちはたがいの角逐にギリシア都市の好意を得ようとして、しばしばギリシアの解放をスロ ーガンに掲げたが、それはだいたい政治的宣伝にすぎなかった。 複雑をきわめる「後継者ーたちの四〇年の抗争ののち、乱れに乱れた天下は、イラン、メソボ タミアから小アジアまでを領するセレウコスの王国、エジプトのプトレマイオスの王国、マケド ルよ ニア、それにエーゲ海一帯のポ 。名争。 ) 有戦たリスの地域、この四つにようや 代 女こ継ら 時 のる後作く固まった。 ム 利亠の【ーに 勝でば念 こうして成立ニ ( りれ記 マケドニア王国 ケ誇よの した三つの王へ ニのに利 の館説勝 5 ケ術通の国は、専制君主国という点では メ】、ラ美、戦 トルは海みな同じだったが、その支配領 モヴ刻の サ一彫中

10. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

キモンは一〇年の追放から帰国すると、ふたたびベルシアとの戦いに出動した。かれはキ。フロ ス島を攻めているうちに病死したが、その海軍はベルシア海軍に対し前四四九年に大勝した。 「イオニアの反乱」以来まさに半世紀にわたったベルシアとの戦いはこの海戦をもって一応幕と なった。というのは、。 ヘリクレスが東方の大帝国ときりのない抗争を続けることを愚として和平 を決意し、ここに正式の和議が成立したからである。この条約で、ベルシアの陸軍がイオニアの 都市を占領したり、その海軍がエーゲ海に現われたりすることはしないと認められたから、デロ ス同盟の本来の成立理由は解消した。ことにアテネに向けて各市が毎年貢賦金を出さねばならぬ のは理屈に合わぬことだった。同盟市の不満はもちろん、アテネの保守派の間にもこれについて 激しい批判の声があがったが、。ヘリクレスは強引にそれを押し切り、同盟はいよいよアテネ帝国 に変化してゆく。 もちろんこの間にアテネに反抗した同盟市がなかったわけではない。しかしそれは散発的で、 そのつど武力により鎮圧された。一般の同盟市が艦隊のかわりに貨幣による代納の方法をとって治 政 主 武事を怠ったために、団結して反抗することも不可能だった。 民 ベルシアとの和議ののち三年して、アテネはスパルタとむこう三〇年間の和約を結んだ。これ古 で本当にひさしぶりにギリシアに平和の時代が来た。それは前四三一年スパルタと最後の決戦に なるまで、わずか一五年しか続かなかったが、世界文化史の上でこの一五年は特筆に値する時期