には乗組員同士の甲板での格闘が勝敗を決するのであったから、工夫の余地がないではなかった。 いそいで建造されたローマの軍艦には前代未聞の装置がついていた。先端をマストから綱で吊 った一種の桟橋であり、そのはしには強力な鉄の鉤がついている。敵船に近づいたとき綱をゆる めてこの桟橋を打ち込み乗組員を敵船に一挙に送りこもうというのであった。前一一六〇年シシリ 北岸で行なわれた海戦に、相手をあなどって来たカルタゴ海軍はこの新型艦のために大敗をこ うむり、農民の海軍は大いに自信をつけた。 前二五六年、二人のコンスルの指揮する二三〇隻の大艦隊がカルタゴ討伐に出航した。シシリ ー南岸のエクノモスの大海戦に勝って、ローマ軍ははじめてアフリカの土を踏んだ。しかしこれ は大失敗に終わった。スパルタ人でクサンティッポスという傭兵隊長がみごとに仕込んで指揮し たカルタゴ軍のために包囲殲滅されてコンスルが捕虜となった。そのうえに残存兵をのせた艦隊 は帰国の途上暴風で難破して大損害を受けた。 その後、戦場はシシリー島西部に移った。カルタゴの若い士官ハミルカルハルカスがここで 活躍する。両国とも長年の戦いに疲弊の色が濃かったが、ローマ市民は私財を投げ出して一一〇〇 隻の艦隊を造ったのに対して、カルタゴはそれに対抗しうる海軍を用意していなかった。かくし てシシリー西端沖の海戦にローマは楽勝し、カルタゴを再度衝きうる態勢となったので、カルタ ゴも前二四一年、無条件降伏を申し入れた。 さんばし かぎ 24 ど
が、ニキアスに対立したかれは、極端民主派と結んでニキアスの和平主義を捨て、スパルタの仇 敵アルゴスと同盟し、その結果アテネ軍は前四一八年スパルタ軍と戦って大敗を喫した。その翌 年、自分が陶片追放にあいそうになったとき、かれは急にニキアスと手を握り、ラン。フ製造業者 冫いたってきわ で民衆に人気のあったヒベルポロスを追放してしまった。陶片追放の悪用もこここ まったわけで、さすがのアテネ人も以後はこれを用いなかった。 このヒベルポロスは、シシリーのある市がアテネに救援を求めて来たことから、シシリーを、 できればカルタゴまで征服しようと主張していたが、新たに救援を求める使いが来たときアルキ ビアデスはギリシアの第一人者となる絶好のチャンス到来と考えた。ニキアスは当然これに反対 したが、 シシリ 1 の島の大きさもよくわからぬ大衆は勇ましい計画に魅せられ、空前の大遠征を 決議した。そしてアルキビアデスのほかにニキアスが心ならずも指揮官に選ばれた。前四一五年 争 のことである。 戦 ス 約六千の歩兵をのせて大艦隊が出航しようとしていたとき奇妙な事件が起きた。アテネの道辻 の諸所に立っているヘルメス神の像の首が、一夜にしてみな欠け落ちていた。嫌は平素から行ポ 状のよくないアルキビアデスの仲間にかかり、その上かれがエレウシスの秘儀のまねを酒宴の席べ でしたという訴えが出た。しかし、この重大な漬神罪の審理は、とにかく遠征終了後にもちこさ れることになり、艦隊は出航した。ところがシシリー到着後まもなく、アルキビアデスに対する
これまでのローマの歴史には、一度も海軍や海上貿易のことが出てこなかった。 カルタゴ人 ギリシアのポリスの歴史とはたいへんな違いがある。実際ローマ人がこれまで海 上に活動したことはなかったし、むしろそのような必要を感じていなかったと思わせる事実が伝 えられている。それはこのときまでにローマとカルタゴとの間に結ばれた条約である。いちばん 古いのは共和政成立の第一年のものとされ、つぎのは前四世紀の半ばと推測されているが、これて らの条約で、カルタゴ人は西部地中海を自分の海としてローマ人の進出を許さず、ただ第二回目越 を の条約でシシリー島西部とカルタゴ市だけをローマ人の商業に開放している。一方、カルタゴは海 3 ローマ人のラテイウムにおける支配に異議を申し立てぬことをこれらの条約で認めた。。ヒュルロ 4 こさぎ 2 スが南イタリアに侵入したとき、前一一七九年、カルタゴはこの野心家の鋒先がシシリーをへて自 海を越えて イ′ カルタゴ人がシシリーで 前 5 世紀末から 4 世紀前 半の間に鋳造した貨幣
西北のキリキア生まれのクレオンという者で、牧場に働く奴隷であった。奴隷制の農業、牧畜は この島でも盛んだったから、二つの反乱は急激に大きくなっていった。そしてクレオンがエウヌ スの王位を認めてその下に合流したことにより、全島をあげて一本の大反乱となった。 エウヌスは無差別の復讐や掠奪を制するだけの思慮があった。そしてエンナの捕虜は、大部分 を殺したが、武器製造に役に立つ者だけは生かして縛ったまま働かせたという。この大騒ぎに乗 じて都市の無産者が掠奪をはじめた。はじめたかをくくっていたローマ当局は、十分の軍を送ら なかったので、かえって奴隷軍に名をなさしめた。前一三三年から翌年にかけて、コンスルがみ ずから陣頭に立つに及んで大反乱もようやく鎮圧された。 このシシリ ーの反乱は、ローマやアテネのラウリオン銀山やデロス島に波及して奴隷が蜂起し たが、それらはすぐおさまった。またベルガモン王国でも、前一三二年にアリストニコスという ヘリオポリテス 者が隷農や貧民や奴隷を率いてローマや市民に反抗して立ち、「太陽国市民」の支配をうちたて ようとした。これら一連の事件は、シシリーの反乱のニュースを知ったうえで起こったことは事 実であるが、反抗運動としての統一は全然認められない。 奴隷の大反乱は前一〇四年から四年間にわたってシシリーでもう一度起こり、またイタリアで グラディアトール も剣奴の乱が人々を脅かしたが、その指導者たちに、はたして奴隷制度を否認する考えや共産 主義社会建設というような意識があったかどうかは極度に疑わしい。少なくともかのエウヌスに 282
カルタゴへの勝利によって、ローマは巨額の賠償金のほかにシシリー島を獲得 ニつの戦争の間 した。これまでローマはイタリア半島内でいくども戦いに勝ち、領土も獲得し てぎたが、それは地理的に遠く離れていても、制度上は都市ローマの郊外の延長のようなもので あった。ところが今度獲得した大きな島に対しては、これを純然たる戦利品とする方針がとられ た。つまりイタリアの半島は、その内部こそ直接の領土のほかに多数の植民市や「同盟者」から 成ってはいるが言ってみれば本国であるのに対し、海外の新領土はローマに隷属する属州 9 ロ ヴィンキア ) とされたのであった。 イタリア内に対してはローマは課税をしない原則をとっていたのに反し、市民の所有物である 属州の土地に対しては生産物の一〇分の一を徴収し、その取り立てには入札による徴税請負の制 度を用いることとした。このためには行政官の派遣、駐兵など、いままでイタリアでは原則的に 行なわなかったことが当然必要の措置となった。もちろん島の東半のギリシア都市の世界はこの 扱いを免れたが、西半の旧カルタゴ勢力圏に対しては、この処置は当然と考えられた。この属州て の獲得はローマの発展史に新しい一。ヘージを加えた。ヨーロツ。ハ史上、空前絶後の大帝国建設の越 第一歩が踏み出されたからである。しかしそれはイタリアの統治には知られなかった問題を含ん海 でいた。それはやがてローマ中央の政治、社会にはね返ってくるであろう。 シシリーの獲得ののちまもなく、ローマは在来カルタゴの勢力圏にあったサルディニアとコル
を失い、「リクルゴス的国制」は加速度的にくずれていった。 しかしテーべの覇権もながくは続かなかった。一時は北のテッサリアからマケドニアにまで干 渉の手を伸ばす勢いだったが、ペロ。ヒダスがそこで戦死し、前三六二年には。ヘロポネソスのマン ハミノンダスがスパルタ軍に勝ちながら戦死してから、この有能な指導者を ティネアの戦いにエ。 失ったテーべはふたたびふるわなかった。 シシリ ーのシラクサには古代の遺跡が多い。石切場のことは前に述べたが、す シシリーの僣主 ばらしく大きな劇場も見のがせない。前五世紀の前半に着工され、前三世紀に 完成したものだが、舞台からオルケストラそれに座席の全体が、自然の岩をけずって造られた珍 はざま しいものである。ところがその近くに奇妙な形に岩をけずった一種の狭間があり、物音がすごく 反響するので名所になっているところがある。これが「ディオニシオスの耳」とよばれているの は、昔の僣主ディオニシオスがここに政治犯人たちを入れて、かれらの密談を狭間の上からこっ そり盗み聴きさせたからだと言う。これは作りごとにすぎないが、作りごとにしてはわりに気が きいている。 シラクサは前五世紀初めの僣主政ののち民主政となっていた。アテネの遠征軍は幸いに撃退で きたものの、やがて西方からカルタゴ人がギリシア植民市をつぎつぎに占領して東進して来た。 この危機に際して、シラクサの武将から身を起こして僣主となり島内のギリシア人を糾合してカ 73 &
てはここに大きな不満があった。前三世紀以降のローマの戦いに、兵力の半数以上が「同盟者ー から出ていた。それなのに、戦利品の分け前においてすら、同盟市の人はローマ市民よりひどく 少ないものにきめられている。ましてローマ市でのさまざまのよいことからいっさい除外されて いるのは人をばかにしすぎているー、ーこういう気持ちが強まり、ローマ市民のなかにもこれに同 情する良心派がないでもなかった。 うか 内乱時代の開始を告げる烽火は、シシリー島の奥地の少数の奴隷たちによって 奴隷の王 アンティオコス うち上げられた。前一三五年のことである。シラクサの西方、島の中央に近く エンナというところがある。その付近にシリア生まれのエウヌスという奴隷がいたが、かれはロ から陷を吐く妖術を行ない、また予言の力に恵まれていた。主人の虐待にたえかねた近所の奴隷 が、シリアの女神のお告げにより王位につくことを約東されたと公言したエウヌスをかついでた ったのが大反乱の起こりであった。エンナの町を襲って占領したのち、奴隷たちの会議において、 = ウヌスはかれらの王に選ばれ、みずからアンティオコスと号し、反乱者を「シリア人」とよん年 だ。王位についたエウヌスは、王にふさわしい衣冠をつけ、多数の親衛兵をもって身を守り、料の 理番その他の役を任命し、また諮問のための会議を設けた。かれの前からのつれ合いの女は女王内 こよっこ 0 ちょうどそのころ、シシリー島の西南部でも別の反乱が起こった。それを率いたのはシリアの
国に及ぶのをおそれてローマと同盟関係に入った。それが、わずか一五年ののちに第一回ポエニ 戦役とよばれる長期の大戦争をする仲になり、それはローマにとっても、西洋古代史にとっても 新しい時代の開幕を告ける事件であった。 これまでローマとカルタゴが仲よくして来られたのは、二つの国柄があまりにも違いすぎて喧 カルタゴは、ポエニすなわちフェニキア人のティ 嘩にならなかったためと言えるかもしれない。 ルスの人たちが前八〇〇年頃にアフリカ北岸の中央部、今日のテュニス湾の岬に設けた植民市で いちいたいすい あるが、シシリー島とは一衣帯水、東西貿易の最もよい位置を占め、一路発展の道を進んだ。前 六世紀の後半、ギリシア人の西部地中海における植民活動を抑え、サルディニア「コルシカ島、 イベリア半島東南岸、それにアフリカ北岸の西半分を勢力圏に収めて多くの植民市を設けていた。 シシリー島西部のフェニキア人がカルタゴを背景に東部のギリシア人と争いを続けていたことは すでにたびたび触れたとおりである。 ギリシア人が「ヘラクレスの柱、とよんだジ・フラルタル海峡も、このころは、通航をゆるされ るのはフェニキア人だけという有様だった。この海峡のかなたにこそ最も有利な産物があった。 錫は青銅の製造になくてはならぬものだが、地中海岸には出ず、プリタニア ( いまのイングランド ) から得られる。アフリカの西海岸を南にくだると黄金や象牙が豊富であった。カルタゴは、エト ルリア人と結んでギリシア人を撃退したのであったが、エトルリア人は前五世紀以来衰頽してい 244
伝えられる。和議ではサムニウム人の独立は認められたが、ローマは戦争中の獲得地、新設植民 市、同盟条約などすべてを確保し、イタリア内でのその地位はもう容易に動かせぬものになった。 2 そこに現われたのがエピルス王ビュルロスである。この顔合わせは、西洋古代史のちょっとし た好取組であった。ビュルロスといえば野心家の代名詞のようになっている。アレクサンダー大 王の名声にあやかりたい気持ちに燃え、あの「後継者戦争」にすでに一役買っていた。しかしそ こあ れがどうも思うにまかせぬところに来たのが、ローマと小竸り合いを起こしていたタレンツムか らの救援の依頼であった。 ロスは、 前二八〇年に歩兵、騎兵、弓兵、投石兵それに流行の象まで連れて海を渡ったビ = ル ローマ軍との二度の合戦に勝つには勝ったが、味方もひどい損失をこうむった。敵の手ごわさに くさっていた王に、今度はシシリーのギリシア人からカルタゴ人を討つようにとの依頼が来た。 ローマとの和議に失敗したまま、かれはシシリーに渡り善戦したが、どうしても島の西端からカ ルタゴ人を追い出すことはできなかった。前二七五年ふたたび南イタリアにもどった王は、ベネ ヴェンツムでローマ人と戦ったが、前の戦いで象に悩まされたローマ側は矢と投槍を象に集中し て敵陣を混乱させ勝利を収めたという。 結局、ビュルロスは何一つ目的を果たさず、感謝もされずに東方に帰った。才能のある人物だ ったが、その大きな野望に見合うだけの忍耐力がなかったために、後世の物笑いの種となった。
召還命令がやって来た。かれの政敵の策動により即刻審理を行なうことが決議されたためである。 かれは本国召還の途上たくみに逃亡したが、アテネ民会が死刑を決議したとき、昨日までの宿敵 ス。ハルタに逃亡した。 シシリー遠征軍はこの島の最有力ポリスのシラクサを包囲したが、スパルタの援軍が来てから 包囲軍の立場が次第に悪くなり、前四一三年の夏、陸戦において惨敗を喫した。一刻も早く帰国 する以外になくなったが、ニキアスにはなかなか決断がっきかねた。いよいよ出航ときまった日 の前夜に完全な月蝕が起こり、それはニキアス以下に何か重大な不幸の前兆と考えられたので、 出航はさらに一カ月延期された。この延期のおかげでシラクサ軍はいっそう力を加え、最後にア テネ軍はシシリーの内地に活路を求める以外になくなった。悲惨をきわめた退却ののち、ニキア スはついに敵に追いっかれて投降し、死刑にされた。残存部隊は、シラクサに今ものこって名所 になっている深くて大きな石切場に閉じこめられ、病気や飢えのために死んだと伝えられる。 プルタークによると、月が満ちたり欠けたりすることについては、あのアナクサゴラスが確実 な説明を書いていた。民衆は日蝕については月の作用によることをどうやら知っていたが、月蝕 については理解しなかったと言う。このときの事件は、少数の天才が出たにもかかわらず、科学 知識の普及の点ではギリシア人も他の古代人と大差のなかったことをよく物語っている。 大遠征はかくして一大悲劇に終わった。しかもアテネへの打撃は別の方角から、もっといやな 778