ポンペイウス - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ
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1. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

スとクラッススを招き、三頭政治の強化、延長策を講じた。大勢の元老院議員がはるばるルカま で伺候に来たなかで、かれら三人は、 : ホンペイウスとクラッススが五五年のコンスルとなり、任 が終わったのちそれそれイスパニアとシリアを五年間治めること、シーザーの現在の地位をさら に五年延長すること、を勝手にきめた。翌五五年のコンスルは、本来なら前年の夏の選挙できま っていたはずであるが、三頭政治の横車のために、五五年はついにコンスルなしで明けた。しか し特別選挙でポンペイウスとクラッススが当選してルカでの申し合わせを合法化し、その年の末、 クラッススはパルティア討伐の大望をいだいて任地シリアにおもむいた。しかしポンペイウスは、 あの穀物調達長官の役を口実に任地イスパニアには代理を送って首都を去らなかった。 政略結婚だったにもかかわらず夫をふかく愛していたポンペイウスの四度目の妻ュリアが前五 四年に死んだのは、三頭政治の前途にとって不吉な前兆であった。その翌年、クラッススがメソ かなえ ボタミアへ向けての遠征の途中パルティア軍に敗れ、欺かれて殺されたために、三頭政治は鼎の 一脚を失って、それまで陰にこもっていたポンペイウスとシーザーの対立が、否応なしに表立っ てきた。それとともに首都の無秩序はますますひどくなり、前五一一年の初頭それは頂点に達した。 コンスルも法務官もない無政府状態のなかでクローデイウスがミロの暴力団によって殺され、そ の報復に広場の元老院議場やその他の建物が焼き打ちされた。空前の混乱のうちに、元老院はポ ンペイウスを単独のコンスルという、共和政はしまって以来前例のない役につけて事態を収拾し フォルム

2. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

った今日のクリミ ア半島にのがれたが、自分の息子をはじめその地方のギリシア都市にそむかれ、 せつばつまって自殺してしまった。それは前六三年のことだった。ポンペイウスは逃げた王を追 わずに、まずアルメ = アを保護国として東のパルティアに備えたのち、前六四年ミトラダテスの いなくなった小アジアの整理を、元老院を無視して独断で行なった。ポントスをローマの属州に したり、ガラティア人の王国の境界を定めたりして、小アジアをローマの属州と保護国の世界に した。かれはまたいくつもの都市を新設した。 小アジアの東南には、かって〈レニズム三君主国の一つとして栄えたシリア王国があった。こ ないこう のころ、その領土はまったく言うに足りず、その内部は王家の内訌によってアナーキーの状態を 呈していた。ポンペイウスは前 , ( 四年にシリアに進軍してこの有名無実の王国に終止符を打ち、 駈これを新しい属州とした。シリアの南のパレステ 「作イナでは、シリア王国の支配に抗してマッカ・ ( イ ロ代 。年オス家の反抗が起こ 0 たのち、 ( スモン家の王朝年 胸前が支配していた。ちょうどこのころ、王家のなかの 乱 スれで王位の争いが起こっていたが、 : ホンペイウスは内 」 ( 第それに引き込まれて前六三年エルサレムを攻め、 . ポ出三カ月の包囲でそれを降し、。 ( レスティナを 0 ー 4

3. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

た。シーザーはこのときガリアの大反乱に手一杯でこの処置に反対しなかった。 東方平定から帰ったとき、元老院に煮え湯を呑まされながら持ち前の慎重さで正面衝突をしな かったポンペイウスは、非常事態のおかげで元老院と手を握り、事実上の独宰官として国政を切 りまわせることになった。かれは買収禁止と治安維持のため厳重な禁令を発布した。 前五一年と五〇年、ローマ政界は、ガリア平定の大業を成しとげたシーザー 骰子は投げられた にどう対処するかの議論に明け暮れた。ローマの役人は、在職中は非違があ っても告発されえぬ規定であった。また政務官になりたい者は、一私人としてみずからローマ市 において立候補するのが伝統であった。シーザーが、その属州知事としての在職期間の切れる前 四九年に、ガリアに軍隊を率いたままで四八年のコンスルに立候補することを認め、かれが当選 すると仮定すると、反シーザー派としてはかれのガリアにおける勝手な行動を弾劾する機を失う こととなる。議論の続出するなかに、シーザーが買収によって味方につけた前五〇年の護民官ス クリポニウス“クリオの出した、シーザーも。ホンペイウスもいっしょに属州と軍隊とを放棄する年 という妥協案は、元老院を通過したが結局実行されなかった。元老院派との争いにシーザーは終の 始妥協と譲歩の形をとって自分の行動を正当づけることに成功しているが、優柔不断のポンペイ内 ウスが前四九年一月一日の元老院会議で強硬態度を主張し、会議がシーザーに対しその統治する 属州の返還要求を決議するに及んで事態は急速に悪化した。キケロの調停の努力も効がなく、

4. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

ガリア平定が、シーザー個人のこれからの生涯に対して果たした役割は決定的であるが、それ がまたローマ史に、 いな世界史に及・ほした影響も実に甚大であった。これから古典古代史ははじ めて地中海の周辺からほんとうに内陸に足を踏み入れる。地域の広さにおいてアレクサンダーの 東征には及ばぬが、アジアのヘレニズムが世界史の一挿話に終わったのに反し、強い文化的伝統 のないガリア人の世界にギリシアーローマ系文化はしつかり根をおろし、ここに西欧形成の端緒 がひらかれたのである。 シーザーはクローデイウスを自分の腹心として前五八年の護民官に推していっ 無秩序の首都 たが、元老院派もかれに対抗してミロという者を翌年の護民官につけ、この二 人は、民会の運営に暴力団体の力をかりることを辞さなかった。前五八年にローマの貧民への穀 物の無料分配が決定された。前五〇年頃この恩恵に浴した者の数は三二万人と伝えられる。民主 きたい 主義の生命であるはずの民会の運営が危殆に瀕しているときに、「消費者的。フロレタリアート」 と評される古代貧市民の理想が実現したというわけである。しかしこれだけの人数をただで食わ年 百 の せてゆくのはなかなかの仕事である。そこで追放を解かれて前五七年に帰国したキケロの案で、 乱 内 ポンペイウスが新設の穀物調達長官の重職についた。 この間シ】ザーはガリアで着々と戦果をあげていたが、首都ではその勝手な行動に対する強い 反対の動きが起こった。シーザーはこれに先手をうって前五六年北イタリアのルカにポンペイウ

5. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

はいえぬほどによくわかるのである。 かくかく 前六一一年末、ポンペイウスは海賊掃討以来の赫々たる武勲をになって南イタリアの 三頭政治 プルンディシウムの港に上陸した。そこでかれは人々の危惧に反して部下の軍隊を 解散し、ローマに着いてからも元老院尊重の態度を示して、自分の軍隊への土地分配とかれの東 方で行なった施策の承認を求めた。自分の功業の偉大さからみれば軍隊を使っての示威などは不 必要と考えたのであったが、ルクルルスやカトーを中心とする元老院は、ポンペイウスの当然な 要求に対して承認をしぶった。 光栄の絶頂から思わぬ失敗に突き落とされたポンペイウスを救ったのはシーザーであった。か れも元老院に憤慨する筋があったが、自分の昔の。 ( トロンだったクラッススを抱きこみ、それに ポンペイウスとも手を組んで元老院に報復しようというのである。かれはキケロも仲間に入れよ うと働きかけたが、キケロはこのような結託には応じなかった。かくして成立したのが、いわゆ る第一回の「三頭政治」である。前五九年のコンスルとなったシーザーは、ポンペイウスの要求年 を実現するための大規模な土地分配案をまず元老院に提出したが拒否され、これをツリ・フス会議の にかけた。かれの同僚で元老院派のビ・フルスが反対したとき、かれはポンペイウスの老兵のカで内 反対派を議場からひきずり出してついに案を可決させた。この土地法も私有地には手をふれず、 0 ーニヤ地方の公 当時のこっていた公有地を分配するものだったが、かれの第二の土地法はカンパ

6. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

のこるのはミ + ラダテスである。この敵に対してはルクルルスが、前七三年以来 東方の平定 苦労の多い戦いを続けていた。かれは一時アルメニアまでも攻め込んだが、前六 七年の戦線は東征開始前とたいしてちがわなかった。この人が戦争のあいまに属州アジアで断行 した負債の切捨ては、あの徴税と、それに伴う高利貸しが、いかに属州民を苦しめていたかを物 語る。昔栄えたイオニアの都市などは、ローマの金貸しのために、まったく首がまわらなくなっ ていた。したがってルクルルスの善政は、アジア州の人々には神の救いであったが、首都の「騎 士」連中にはたちまち大不満をひきおこし、かれの東征指揮権まで問題となってきた。 海賊退治で人気のいよいよ上がったポンペイウスは、うまく機会をとらえ、またしても護民官 の提案でミトラダテス討伐権を認められた。このように護民官と民会のカで重要な司令官の人選 がきまることに、元老院は当然反対した。しかし、前七〇年に元老院側の前シシリー知事ヴェル レスの属州民搾取を徹底的に攻撃して元老院を顔色なからしめた新進のキケロが、このたびも 「ポンペイウスの命令権について」という演説でかれを応援した。この演説では、属州アジアの 安全がいかにローマ全市民の経済に重大であるかが力説されているが、それはアジアでの「騎士」 仲間の経済的活動の資金に、持株の形で、多くのローマ市民が関係していたためである。 ポンペイウスは運がよかった。スルラ以来、ことにルクルルスとの多年の交戦によって、さす 力のミトラダテスも弱っていた。ポンペイウスのためにポントスの本国から追われ、その領土だ 300

7. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

施政が永続すると信じていたとすれば、それはよほど政治のセンスがなかったことになる。 セルトリウスとスルラが、隠退した翌年の前七九年に歿したのち、かれの制度は一〇年ほど続 剣奴の乱 いたが、この前七〇年代にローマはふたたび内憂外患に悩んだ。まず外患の方 はイベリア半島のセルトリウスから起こった。この風変わりな人物はマリウス派の生きのこりで あったが、知事として赴任したこの土地に拠ってスルラの政権への対抗政府をつくりあげていた。 イベリア半島はローマがカルタゴからとったのちも内地のケルトーイベリア族の反抗が強く、ロ ーマ軍もこれの統治にはひどく手を焼いた。前一三三年にあの小スキビオがかれらの堅塁ヌマン ティアを降してから、ようやく一応治安が確立してきた。セルトリウスは原住民に対する税の軽 減などで民心を得たほか、かれらのあいだの名門の子弟をビレネー山麓のオスカというところに 集め、ギリシアーローマ系の学問をさずけ、「将来の政治参与」の準備をさせた。これは、実際 はていのよい人質だったかもしれない。また三〇〇人からなる元老院を設け、ローマ風の政務官 を任命したが、これらはすべてかれとともに亡命したローマ人に限「た。かれがゲリラ戦によっ年 てローマの将軍を悩ませつづけたとき、政府は前七六年に、無官のポンペイウスの出動を乞うた。の 一方セルトリウスは、小アジアのミトラダテスの申し出に応じ、攻守同盟を結んだ。しかし、こ内 の奇妙な同盟が効果をあらわす前に、ポンペイウスは着々と失地を回復し、前七二年にセルトリ ウスは部下のベルベルナに暗殺されてしまった。この裏切者をも簡単に始末したポンペイウスは、

8. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

月七日、元老院はシーザーの召還をきめ、戒厳令を発布してポンペイウスに指揮をゆだねた。三 日後にこの情報を得たシーザーは、しばらく熟慮したのち、古代にも諺となっていた「骰子は投 げられた」の句を吐いて、自分の任地の属州とイタリアとの境をなすルビコン川を渡り、十日の 夜のうちにアドリア海岸の要衝アリミヌムを占領した。 ポン。ヘイウスは、イタリアでの決戦を避け、元老院の仲間とともに・フルンディシウムから海を 渡ってパルカン半島に拠り、東方の軍隊を結集してシーザーに対抗する策をとった。イスパニア のかれの部下と軍勢は、イタリア挾撃に役立っと期待された。シーザーは・フルンディシウムに逃 。しったんローマに引き揚げたのち、 げる敵を急追したが、敵の逃げ足は早かった。そこでかれよ、、 後顧の憂いをなくするためにイスパニアを鎮圧し、前四八年初め軍隊をアドリア海の対岸に進め た。ポン。〈イウスは決戦を避け、敵軍を孤立疲弊させる策を立てていたが、元老院仲間の声に抗 しきれず、この年の夏テッサリアのファルサロスの会戦となった。数に優ったポンペイウスは騎 兵をもって敵を包囲する策をとったが、敵の歩兵はシーザーにあらかじめ教えられ、投槍を放た すに手にしたまま騎兵の顔をねらって突き上ける作戦を用いたので、騎兵の力を発揮できずに潰 走し、これで勝敗が決した。 逃走したポンペイウスはかって恩顧を施したエジプトの王朝に保護を求めた。しかし幼主プト レマイオス一三世の側近の宦官ポティノスは、ローマの内乱の波及をおそれ、ベルーシオン港に かんがん ことわざ 372

9. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

着いたポンペイウスを、出迎えると見せて艀のなかで 暗殺した。 ポンペイウスを追いかけて来たシ 1 ザー 天下統一 は、クレオパトラとのローマンスで内乱 史に色気とスリルに満ちた一幕を加えた。プトレマイ オス家のエジプト支配は前二世紀以来、王家内部の争 いと原住民の反抗運動により弱体化の一路をたどって いた。早くからローマの属国化し、その併合も時日の 問題になっていた。このころプトレマイオス一三世と その姉のクレオパトラが、この王朝の奇妙な伝統によ り、実の兄弟でありながら夫婦で共治の王と女王にな っていた。この二人が不和になり、アレクサンドリア厖 ・フ の市民は王側についていたところに現われたのがシ 1 ・ ザーであった。クレオパトラはヘレニズム的教養を身 きぐらい につけた才女であり、女王の気位といっしょに妖婦の 魅力を兼ね備えていた。かの女がアレクサンドリアの じっ はしけ ゲルマニア リア 駝乂・アレンアン リき文ム 6 ′、イレルタⅸ。 乃ウム 4 フ , 騎収 又ミテア ・ドリア シーサーの軍事行動の跡 ( 前 58 ~ 51 年におけるガリア内部での活動は示されていない ) 引 3 内乱の百年

10. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

それから一カ月後、。ハルティア遠征への出発を三日あとに控えて三月の十五日に、元老院の会 議がポンペイウスのつくった石造大劇場付属の広間で開かれることになっていた。壮途の前の最 後の会議に、シーザーはイタリア内では独宰官、イタリアの外では王となる、という妥協案を出 すつもりでいた。かれの着席するのを待って一人の嘆願者が進み出た。願いを容れられないでか れはシーザーの衣を捉えた。それを合図に、短剣をかざした人々がシーザーに襲いかかった。傷 にひるまず身をかわして抵抗したかれも、プルーッスを認めたとき顔を上衣でおおい、カ尽きて ポンペイウスの立像の下に斃れた。 ・フルーッスとカッシウスを首謀者に六〇人以上の同志を集めた暗殺計画はみごと キケロの死 に成功した。シーザー自身もそのような危険に全然無知ではなかったが、護衛で 身を固めたりしなかったところに、われわれはやはりかれがローマ市民であったことを認めてよ いかもしれない。 きず 独裁者は一一十三の創を負うて斃れた。元老院は自由の再来に湧きかえり、陰謀の仲間は共和政 もくさん 擁護の英雄として歓呼される ・フルーッスやカッシウスのこの目算は誤りであった。短剣にお びえた議員たちがわれさきに議場を逃げ出し、ガランとした議場に血だらけの屍と陰謀仲間だけ がとりのこされた。 十七日にキケロの発案で、元老院は暗殺者たちの大赦令を出した。一一十日、シーザーの葬儀が たお たいしゃれい 3 ー 8