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検索対象: 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ
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1. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

の世紀には南のインドにまで支配をのばした。ヘレニズム文化の東方への波及を最もよく物語る ものとして紀元後一世紀から三世紀頃のガンダーラの仏教美術が知られているが、それは・ハクト リアのヘレニズム文化の余波であった。いま一つはヘレニズムにとっては反動ともいうべぎイラ ン民族の独立である。アルサケス家のパルティア ( 漢籍の「安息国」 ) は、イランにおこって、その 後一〇〇年のうちにユーフラテス川の東の全域をセレウコス家から奪うにいたった 東方に対しては失地回復を試みた王もあるが、セレウコス家はエジプトとのたびたびの戦いに もみられるように、地中海東岸のことで手いつばいの有様だった。その間ギリシア文化による国 内の統一という方針を堅持し、事実、ローマ帝政期までこの地域からはギリシア文化を継いだ学 者文人が輩出している。・ハビロニアの神官べロッソスはこの地方の歴史をギリシア語で誌した。 共」語 0 ギリ〉一語が」か = 普及したかは、あ 0 選民意識をけ 0 して捨てなか 0 た = ダヤ人まで がかれらの民族的な財宝ともいうべき旧約聖書を自分らの手で前三世紀のうちにギリシア語に セプトウアギンタ 訳していることで明らかであろう。いわゆる『七十人訳聖書』である。 そればかりではない。エルサレムのユダヤ人のなかには、ヘレニズム文化に心酔する者まで現 われてきた。セレウコス家には前二世紀の前半にアンティオコス四世というギリシア文化の普及 にえらく熱心な王が出た。かれは、自分の領域内のユダヤに対しへレニズム強行の策に出た。当 時エルサレムには、ユダヤ人の手でギリシア的生活の象徴である体育竸技場が造られていたほど 202

2. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

、デ : みー彡なを歩 1 ツ のもとにゆき、どこそこやらにもさまよって、それにスキティ 長 部アの冬さえがまんし : : : 」とからかわれたほどである。教養あ ら くのる皇帝も負けてはおらず、「フロルスなんそにはなりたくない、 に居酒屋の間を泳いだり、料理屋の間をうろついて、ふとった油 ト虫までがまんし : ・ : ・」としつべ返しをくわせた。 ン グ帝かれの時代に対外政策は守勢に転した。ブリタニアにハドリ ヌアヌス長城を築いて北辺の守りを固め、ゲルマニアでも防壁を の 、在制強化し、パルティアとは和を結び、アルメニアを保護国の地位 ににもどしパルティア系の王を認めた。アラビアとダキアに対し ア てだけは別であったが、大体においてトラヤヌスの征服の成果 ・フを手離した。 ハドリアヌスは旅行の間、属州都市の育成や公共施設の充実に力をつくした。とくにギリシア 文化の愛好者としてアテネの市街の美化には熱心で、中心市域を拡大し、オリンビエイオン神殿 を完成し、すこしあとに出た富豪で文人のヘロデス“アッティクスとともにアテネ復興の恩人と なった。エジプトには一都市を建設したが、これはかれに同行していた愛する美少年アンテイヌ ースがナイル川で溺死したのを悼んで記念したものである。帝の治世には内政も整備され、ロー 弩 イ 02

3. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

果を生んだ。ローマとのいま一つの、さらに重大なちがいはカルタゴ軍の内容である。海上貿易 を生命とした国であるから海軍には市民が乗り組んだ。しかし陸軍は、北アフリカの近隣の民を 徴募したほか地中海西部の各地からかき集めた傭兵から成り、市民はこれに加わらなかった。 カルタゴの文化については深く立ち入る必要はあるまい。この時代にはヘレニズムの皮相の影 ひとみ・こくう 響があったが、オリエント系の宗教の支配が根強く、人身御供の風習は発掘の結果からも今日実 証されている。商業を生命としたにもかかわらず、貨幣鋳造はようやく前四 0 〇年頃からはじめ られ、工業にも特記すべきものはなかった。精神文化がふるわなかったのは、フェニキア人全体 に通ずることで、カルタゴにかぎらないが、要するにギリシア文化に感化されはじめたこの頃の ローマ人にとり、ポエニの名はけっして尊敬の響きを伝えるものではなかった。 戦争はいつでもつまらぬことをきっかけに起こる。しかしながいあいだ平和共存 農民の海軍 ついさきごろ同盟まで結んだロ 1 マとカルタゴの開戦のいきさっ を確認し合い は、今日の世界にとっても一つの生きた教訓となるであろう。 前一一六四年、ローマにメッサナからの使節がやって来てローマとの同盟を求めた。メッサナは 今のメッシナで、シシリー島の東北端、イタリアの長靴のはしからは指呼のところにある。ギリ シアの植民市であるが、このころはマメルティニ ( 軍神マルスの子ら ) とよばれたイタリア出身の 傭兵どもの手にあった。かれらはシラクサのヒェロン ( 二世 ) が攻撃して来たとき、カルタゴに 246

4. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

一方、エーゲ海のキクラデス諸島に、 ン 紀元前一一千年以上前から独自の文化が生 まれていたことも明らかになった。今日オ 蒐集家に高く評価されている極度に単純 ャ 化された手法の大理石彫刻を生んだキク ラデス文明も、やがてクレタの影響を強 くうけて「自然主義」的な壁画を生んだ。 またギリシア本土でも、ミケ 1 ネの近く島 のティリンスやテーべから出た壁画の断レ ク 片、それにミケーネの浮彫りなどは、古 い時代のエーゲ海一帯に一つの文化圏が 栄えていたことを容易に考えさせた。 本 ア シ 今日エーゲ文明と呼ばれるこの文明の 中心がク / ッソスにあったことは、われギ われがすでに見た古代の伝承からも発掘 された王宮の規模からも、ひろくみとめ 前 3000 2900 2800 2700 2600 初期ヘラス文化初期ミ / ア文化 2 0 2400 2300 2200 2100 エジフ。トの中 中期ミノア文化トロヤ第 6 市王国 2000 1 0 中期ヘラス文化 1800 印欧語族の侵入 ′、ンムラビ王 1700 ミケーネの墓域 B クレタの最盛期 エジプトの新 1600 末期ヘラス文化末期ミノア文化 王国 ミケーネ人のク 1 0 ミケーネの墓域 A レタ侵入 ヒッタイト帝 1400 ミケーネの最盛期 国 1300 トロヤ第 7A 市中国の殷の盛 1200 ヒ。ロス王宮の破壊 の破壊 ( 1275 一時 1240 頃 ) 1100 ミケーネ王城の破壊 エジプトの古 王国 トロヤ第 2 市 ( 2400 ー 220 の 2

5. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

ヘレニズムという言葉は広狭一一義に使われる。広い意味ではそれはギリ 天下麻のごとくに乱る シア系の文化を意味する。へ・フライズムに立っキリスト教とヘレニズム とを調和させたものが本当の教養だ、などと主張される場合には、むろんこの意味である。ヘレ ニズム時代とかへレニズム文化とか言う場合はもっと限定された用法で、アレクサンダーが死ん でから、前三〇年に地中海一帯がロ 1 ・マ帝国によって統一されるまでの約三〇〇年の時代や文化時 をさしている。古典期の。ホリスの盛時とはちがうが、ギリシア文化は新しく開かれた世界にひろ = く普及し、新しいギリシア風の文化が生まれたからである。ヘレニズム時代の名は、本来文化史へ 的な現象から生まれた呼びかたであるが、社会史、政治史の面からみても新しい時期を意味して 3 っノ いる。ポリスの世界に代わって三つの専制君主国がギリシア史の主役を演するからである。 ヘレニズム時代 プトレマイオス二世と その妃のアルシノエ、 またはアレクサンダー とその母オリンビアス を表わした浮彫りの 瑙。前 3 世紀のもり

6. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

設がいかに盛んだったと言っても、それは広い原住民の世界に蒔かれた一にぎりの種子にすぎな かった。しかも原住民はギリシア都市とは異質の社会を形成し、そのうえにしばしばながい伝統 に立っ文化をもっていた。スタートのはなばなしさにもかかわらず、ヘレ = ズムが東方において 結局は凋落せざるをえなかったわけはここにある。 ヘレ = ズム時代の三〇〇年の間にギリシア文化はイタリアのローマ人の間にも着々と根をおろ していった。それは普通〈レ = ズムの名ではよばれないが、実際には〈レ = ズムがほんとうに勝 利を得たのはこのローマ人の間であり、オリントではなくて西欧がギリシア文化の継承者にな ったのもこの事実に由来する。ローマ人の社会が本来ポリスに似た市民の共同体であり、かれら が固有の高い文化をもっていなかったためにこのような東方とはちがう結果が生まれたのである。 紀元前一一〇〇年といえばローマ人の間でギリシア文化への心酔がいよいよ高まってきた時代で あった。そしてかれらはギリシア文化の本場と直接に接触しはじめるのである。 ヘレ = ズム時代の三つの王国は、いわば鼎立の形でパランスを保っていた。この三者がうまく 協力したら西方の実力者も相当にてこずったにちがいない。 ところが実際はまったくちがう途を たどった。それを述べるまえにわれわれはローマ史のそれまでの歩みを顧みることにしよう。 ていりつ 270

7. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

名な『国家学』 ( 政治論 ) の一部を書きあけていた。それゆえ若い王子が倫理学や政治学の手ほど きを受けたことは容易に察せられるが、師の感化はけっしてそれにとどまらなかった。アレクサ ンダーは、のちの遠征中のことから見ても、なかなか筆まめでよく手紙を書いているが、また天 性学問ずきで読書を好んだ。ことにホーマーの『イリアド』を愛読し、短剣といっしょに枕の下 に入れて寝たほどで、またアジア遠征中にも三大悲劇詩人の作などをギリシアから送らせている。 ギリシアの文化についてのこのような深い愛着は、アリストテレスの感化に負うところが多かっ たであろう。 しかしもっと注目すべきはかれの自然科学への興味の点である。われわれのもっているアリス トテレスの著作は、かれがアテネに移って開いた学園での講義の草稿であるが、それはけっして 今日の意味の哲学に限られていない。天文学、生物学にまでわたるその学識のひろさと、。フラト ン、いなそれまでのギリシアの哲学者一般の風とちがって、経験的事実をひろく集めて帰納する 方法とを特色としている。古今無類の博学家であり、同時にそれまでの知識を組織だてた人であ アレクサンダーの遠征軍には学者たちも従軍して、はじめて見る地域の動植物や地理を記録し、 またエジ。フトに入ったときには、調査隊がナイル川の上流まで送られ、この川の定期的氾濫がア ビシニア地方の季節的豪雨によって起こることをはじめて明らかにした。これにかぎらす、かれ っこ 0 ~ 58

8. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

に求めた学者すらあった。 ギリシア人の、またその文化の地理的な分布、かれらの間の貨幣経済の発展、商品流通の量、 個々のギリシア人がたくわえた富の大きさーーこのような観点からすれば明らかにヘレニズム時 代は前代にまさる盛時である。しかしギリシアの最盛期を世界史のうえからみてギリシア人がそ の固有の社会を形成し、最も独創的な文化を生んだ時代と解すれば、ヘレニズム時代は明らかに 下り坂の時代とせねばならぬであろうー・・ー・自然科学だけは前代に比して例外であるが。 ギリシア系文化の普及という問題についても考えねばならぬことがある。普通ヘレニズムとい う場合には、・ キリシア文化のエジプトやアジアの遠隔地までの普及を問題にする。中央アジアの 仏像にギリシアの立像とよく似た恰好のがあったり、はては法隆寺の中門にギリシアの神殿の柱 エンタンス れまルナ・ハ にみられる胴張りが発見されたり 。濡せヴ一 するのは、交通の困難だった時代、 ス真ルヴい 代 ナのをのて 時 一部刻ロしまた距離の遠さを想うとき、まこ ム 臀彫ミに ズ 、第ヴなの「作蔵とに珍重すべき事実にちがいない。 た満こな館 っ豊、名ぬ書しかしこのような遠隔地への余波へ 堋の劣立 らの表館に国は別として、イラン以西をとり上 0 か髪た術」の 2 海たっ美スリげてみた場合、・ キリシア都市の建

9. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

キモンは一〇年の追放から帰国すると、ふたたびベルシアとの戦いに出動した。かれはキ。フロ ス島を攻めているうちに病死したが、その海軍はベルシア海軍に対し前四四九年に大勝した。 「イオニアの反乱」以来まさに半世紀にわたったベルシアとの戦いはこの海戦をもって一応幕と なった。というのは、。 ヘリクレスが東方の大帝国ときりのない抗争を続けることを愚として和平 を決意し、ここに正式の和議が成立したからである。この条約で、ベルシアの陸軍がイオニアの 都市を占領したり、その海軍がエーゲ海に現われたりすることはしないと認められたから、デロ ス同盟の本来の成立理由は解消した。ことにアテネに向けて各市が毎年貢賦金を出さねばならぬ のは理屈に合わぬことだった。同盟市の不満はもちろん、アテネの保守派の間にもこれについて 激しい批判の声があがったが、。ヘリクレスは強引にそれを押し切り、同盟はいよいよアテネ帝国 に変化してゆく。 もちろんこの間にアテネに反抗した同盟市がなかったわけではない。しかしそれは散発的で、 そのつど武力により鎮圧された。一般の同盟市が艦隊のかわりに貨幣による代納の方法をとって治 政 主 武事を怠ったために、団結して反抗することも不可能だった。 民 ベルシアとの和議ののち三年して、アテネはスパルタとむこう三〇年間の和約を結んだ。これ古 で本当にひさしぶりにギリシアに平和の時代が来た。それは前四三一年スパルタと最後の決戦に なるまで、わずか一五年しか続かなかったが、世界文化史の上でこの一五年は特筆に値する時期

10. 世界の歴史〈2〉 ギリシアとローマ

地で伝道し、やがて首都ローマに学園を設けて弟子を育成したが、一」ハ五年にローマで同信者六 まった 名とともに斬首され、殉教の死をとげた。かれによると、キリストは「全きロゴス」が肉体の姿 じようしゅ をとったものであり、キリスト教はギリシア哲学と『旧約聖書』の成就であり、神的真理の完全 な認識としての真の哲学であるとともに、「種子としてのロゴス」は全人類に植えつけられてお り、これに従って生活したものは、キリスト以前のもの、たとえばヘラクレイトスやンクラテス をもキリスト信者であるとした。 異教文化の評価ュスティノスの見解は、キリスト教がギリシアーローマ文化をこれまでのよう をめぐって にいちがいにしりそけず、ある程度の評価を与えたことを示している。このよ うな態度は、とくにヘレニズム文化の伝統をもつアレクサンドリアでっちかわれ、クレメンスや オリゲネスのような神学者が出てギリシア哲学をとり入れ、その土台の上にキリスト教の神学を進 と 築きあげた。かれらによる展 リをのと、律法がヘ・フライ人を神教 キ , 紀 の章世にみちびく教師であったよス てⅡ 3 し第 、うに、哲学はギリシア人をキ と」で い伝の 飼ネも神にみちびく教師であ 0 た。 5 。 ' 。羊 ( た いョっそれゆえ真理の道は一つで