に受けいれられたが、かれの天下も数カ月にすぎなかった。前に記したユダヤ反乱鎖定軍の総司 令官ヴェス。ハシアヌスもまた東方諸州の軍隊から皇帝に推されたからである。かれはエジ。フトを 占領してローマ市の穀物供給をおさえ、ドナウ川流域の軍団をローマに進軍させた。ヴィテリウ スは敗れ、ドナウ軍はローマを占領して荒らしまわり、ヴィテリウスを殺した。ヴェスパシアヌ スは、元老院と西方諸州の軍隊からも皇帝として承認され、翌七〇年初めにローマに入城した。 まことに目まぐるしい一年であった。 このように四人の皇帝が入り乱れた内乱についてタキッスは「皇帝がローマ市以外のところで 指名されうるという支配の秘密」と書いている。つまり政治の重心としての首都の位置がゆらぐ 一方、軍隊の動向が注目を浴びるようになってきたのである。 この内乱の間には、かずかずの痛ましいことが起こった。イスパニア出身のある男が故郷に年 若い息子を残して一軍団に加わったが、息子は成人して他の軍団に入隊した。内乱によってこの 一一つの軍団は会戦し、息子はひとりの年配の敵兵を傷つけ、地に押し倒し、瀕死の相手から強奪 しようとしてはじめて、一一人が親子であることにたがいに気がついた。息子は、もはや血の気を 失った父の体を抱きかかえ、まもなく息たえた父の屍にむかって「お父さん、どうかふつうの親 殺しと怨まないでください。国へのご奉公のためにこのような大それたことをしでかしたのです。 内乱の大くずれのひとかけらが一兵卒の私にもおそいかかってきたのです」と叫ぶと、屍をだき 388
一三人めの使徒としての自覚をあらわした。このような帝をカイザリアの司教エウセビオスは、 帝の三〇年治世記念のほめ言葉や帝の伝記などでたたえ、帝の帝国を天における神の支配の地上 における似姿と考えた。皇帝は神によって選ばれた神の代官であり、神の意志を反映するのが帝 の義務であるとし、ひとりの神とひとりの皇帝の支配するキリスト教的な世界帝国の理念をうち たてた。三三七年、帝は臨終の床で洗礼をうけた。 土地にしはられキリスト教をとりいれたコンスタンテイヌスも、政治経済体制ではディオクレ はじめた農民ティアヌスのやり方をいっそう発展させ、専制君主体制を確立した。軍制にお いては屯田辺境軍を減員して機動野戦軍を補強し、正規軍団にまで蛮人を採用して高級将校に昇 進させ、また蛮人を同盟部族として集団的に辺境地方に移住させ、帝国防衛を受け持たせた。こ のような方針はかれ以後の皇帝によってうけつがれて効果を発揮した反面、蛮族の侵入に備える 帝国防衛の任務の比重がこれまた蛮族にかけられるようになり、その勢力が次第に加わってきた。 行政面では軍政と民政がいっそうはっきり分けられ、近衛長官は武官でなくて文官となり、また 宮廷に各部門の長官と多くの官僚がおかれ、軍の最高指揮権は軍務長官が握り、その下に騎兵長 官と歩兵長官がいた。このほか高官や法律家から帝室顧問会議がつくられて政策決定に大きな影 響を与えた。このようにして帝国はますますオリエント風の国家に近づいた。 厖大な軍隊、官僚の給養や華美な宮廷儀礼、壮大な建築事業のため税のとりたてはいっそうひ 460
年になって、三〇三年突然全帝国にわたってこれまでにもなかった激しい迫害がはじめられた。 その原因について同時代の歴史家たちは、副帝ガレリウスの強要によるもので、ディオクレテ ィアヌスは長い間しりごみしたが、宮廷内でもキリスト信者がいるため異教の祭りがおろそかに される有様になったので、まず宮廷、官庁、軍隊内から信者の追放を決心した、と記している。 しかしガレリウスが焚きつけ、異教の祭司や哲学者の進言があったとしても、結局は帝国全体の 政治や宗教のあり方をきめるディオクレティアヌス自身の決断によったものであろう。 すでに地方属州においては、二九五年頃からキリスト信者の軍人が軍務と結びついた皇帝礼拝 を拒否して処刑された事件などが起こっていたが、三〇三年には正式な迫害令がニコメディアで 発布され、これまでの迫害にもみられないような、徹底的なキリスト教根絶の方針が下された。 すなわちキリスト教集会の禁止、教会堂、集会所の破壊、聖書、祭器の引渡しと焼却が命・せら れ、宮廷、官庁、軍隊内のキリス . ト信者はすべてその職務を失い、自由民は身体、財産の法律的 保護が停止された。勅令発布の前日に早くもニコメディアの壮麗な教会堂は破壊された。その後 まもなく帝宮に火災が起こると、キリスト信者の放火に帰せられ、宮廷勤務の多くの男女が犯人 として拷問、処刑された。その後つぎつぎとさらにきびしい勅令が出され、すべての信者に対し 異教の神像に犠牲を捧げることが強要されて、拒否した者はおおむね処刑された。 44 ど
帝位を継いだのは近衛軍の推挙によるものだが、軍紀をきびしくしようとしたことからベルティ ナクスはわずか三カ月で近衛軍に殺された。 そのあと、ディデイウス”ュリアヌスという大金持の元老院議員が、近衛軍兵士一人あたりに 二万五千セステルテイウス ( 約五〇万円 ) という多額の賞与を出す約束で皇帝になったが、かれは 他にとりえのない男だったので属州の軍隊は承知せず、・フリタニア知事アルビヌス、上パンノニ ア ( 現在のユーゴスラヴィアあたり ) 知事セプテイミウス”セヴェルスおよびシリア知事ニゲルをそ れそれ皇帝に推し、ネロ死後の四皇帝時代を再現した。このうちセヴ = ルスはローマに最も近い うえに、いちばん精強な軍隊をもっていたのでまっさきにローマに攻め上り、首都に無血入城し た。ュリアヌスは孤立して元老院から死刑の宣告をうけ、かれの親衛隊がこの刑を執行した。一 九三年七月のことであった。 セヴェルスは帝位につくと腐敗した近衛軍を解体し、新しい近衛軍はこれまでのようにイタリ ア出身者でなく地方軍団の兵から選ぶことによって、軍制上の大きな改革を押し進めた。かれは さらに二人の競争相手ニゲルとアルビヌスをつぎつぎに減ぼし、その一党の財産を没収して皇帝 の私財庫を設けた。元老院の権威は低下し、ほとんど皇帝の翼賛機関となった。しかも議員の三 分の二以上をイタリア以外の出身者が占め、新議員には東方およびアフリカの属州出が多かった。 セヴェルス自身もアフリカ出身でカルタゴ人の血をうけ、妃ュリア“ドムナはシリアのエメサの イ 14
太陽神の神官の娘であった。元老院議員に代わって騎士身分が軍事、行政に重用され近衛長官の 地位が高まった。またこのころパビニアヌス、ウル。ヒアヌス、パウルスなどのローマ法学の大家 も皇帝の諮問会のメン・ハーとなって活躍し、法学の発展は頂点に達した。 この間に政府の統制力は次第に強化された。都市の役職が収税の責任を負わされただけでなく、 ローマ市に穀物を輸送する船主の組合をはじめ、パン屋、ブドウ酒商、油商、豚肉商などの組合 プも政府の監督下におかれた。 レ作 のの セヴェルスはまた帝国の防衛 、パルティアとの戦 刀紀体制を整え る 3 いに際して三軍団を新設し、補 ′での助軍にはゲルマン人などの異民 郷も のレ族を採用し、他に外人部隊を動 気一 ~ 出員して辺境各地に防壁を築いた。紀 ヴか軍隊の優遇には特に心をくばり、の 。グ兵士の給与を引き上げ、結婚を混 ~ 許した。かれは一一人の息子をと 5 勝テもなってカレドニア ( スコット 、、ゞを
カラカラはラインやドナウの守りを固めることには成功したが、東方に軍を進めてパルティア と戦い、第二のアレクサンダー大王たらんと野心をもったが、近衛長官マクリヌスの指図に従 0 た士官たちによって暗殺された。 母と子の悲劇のマクリヌスはマウレタ = ア ( 現在のモロッコあたり ) の出身で、騎士身分で皇帝 ダブルプレイになった最初の人であった。かれはその子と共同で統治したが、パルティアに 敗れて屈辱的な講和を結んだため軍隊の信望を失った。この機に乗じてシリアのセヴェルス家が おんど 帝位の奪回をはかった。その音頭とりはセヴェルス帝の妃の妹ュリア“マエサで、彼女はその娘 の子のパシアヌスを位につけようとした。・ハシアヌスはまだ一四歳の少年であったが、美貌に恵 まれ、シリアのエメサでエラガ・ハルという太陽神に仕える神官の家柄であった。かれ自身もエラ ガ・ハルと呼びならわされていた。 シリアの軍隊の大部分はかれを皇帝に推し、マクリヌスとその子は敗れて捕えられ殺された。 エラガ・ハルはオリエント諸州の軍隊の支持を得、エメサ太陽神の神像である円錐形の黒石をたず さえてローマにはいった。その神殿はパラティンの丘に建てられ、熱狂的な讃歌や舞踊をともな う盛大な祭典が行なわれた。ここにローマはあのポエニ戦役以来敵対したセム系の神とその神官 とそれをあやつる婦人たちの支配をうけることとなったわけである。エラガバルはローマ皇帝の 正式の称号に「常勝太陽神エラ在ハルの大神官」を加えた。しかし実権は「皇帝、軍営、元老院、 カッスルム
ほとんど姿を消してしまったわけである。宮廷のしきたりでは、臣民は皇帝の前に出たとき、。〈 ルシアの例にならいひざまずいて拝礼しなければならなかった。勅令などもやたらにむずかしい ラテン語をならべて威厳をつけることになった。 ディオクレティアヌスは軍制改革を進めて軍団の兵員を増加し、属州には屯田辺境軍を配置し た。また、べつに騎兵を主力とした機動力に富む野戦軍を編成、皇帝に直属させて防衛力を増強 し、兵士の素質の向上につとめた。行政組織では全国を一二管区にわけ、それそれに近衛長官に 属する代官をおき、属州は細分されて総数一〇〇をかそえた。イタリアもそのなかに含まれたが、 ただローマ市は依然特別な地位が与えられ、パンの無償分配と「竸技観覧」が授けられた。属州 には総督と軍司令官が駐在し、ローマ古来の伝統に反して文武の官職が分離された。 このような多くの軍隊や官吏を養ってゆくために、税制も根本的に改められた。 最高公定価格令 新しい税制は、一人の男子とかれの耕しうる土地をそれそれ単位としこれに現 物税を課するもので、このために定期的に土地測量が行なわれた。毎年予算総額がきまると近衛 長官はこれを各属州に割り当て、総督はこれをさらに各都市に割り当てる。徴税は都市参事会員 の強制的な奉仕義務となり、未収税額は参事会が尻ぬぐいをしなければならなかった。このため 参事会員を免除されようとする人が続出したので、皇帝は参事会員の身分を世襲とした。 すべての土地は皇帝領をも含めて現物税を免れず、放棄された荒蕪地とその租税額は近くの肥 こうふち クリア 446
ヌス、アントニヌス“ビウスをへて、マルクス“アウレリウスに至る五人の君主は、それぞれ立 派な業績をのこし、「五賢帝」とよびならわされている。かれらが治めた一世紀たらずの期間を、 『ローマ帝国衰亡史』の著者ギポンが「人類史上の最も幸福な時代」とべタ・ほめしたのはかなり 割引して考えねばならず、またある意味ではこの時期にその後の帝国衰亡の要素がすでに芽ばえ ているのではあるが、しかし全体としてみると、平和と繁栄の時代といってよいであろう。別の 歴史家の表現をかりてローマ帝国の「小春日和の時代」というのも適当と思われる。 トラヤヌスはイスパニア生まれの純軍人であり軍隊の信望は絶大であったが、軍隊を甘やかさ ずよく統御するとともに、ローマの伝統を重んして専制的傾向に陥らず、元老院ともよく協調し て政治を行なった。元老院はかれに「最善の元首」という称号を贈って感謝と敬意を表した。 このころイタリアは経済的に衰え、人口も減る傾向があったので、トラヤヌスは貧しい子弟の 帝養護のために都市に金を貸しつけたり、都市が財政困難に陥 ヌった場合に監査役を派遣して経理を調整させたり、都市にも時 個人の場合のように金持の遣産を受けとることができるよう帝 にし、また地主に低利資金を貸し付けてイタリアでの投資を五 元 の奨励した。 最 対外政策ではこれまでのやり方とはちがって積極的進出を
ノを リアに向かって進軍中、部下の反乱によって殺された。 それから後は帝国各地に駐留する軍隊が、その軍司令官を勝手に皇帝にしたので約五〇年間に 二六人の皇帝が立ったが、たった一人の例外を除くと残りの二五人は治世の半ばで殺されたり戦 死したりした。これらの皇帝のなかには先の皇帝の指名や元老院の推挙によって即位したものも あるが、大多数は軍隊がかつぎあげた皇帝なので、軍人皇帝または兵営皇帝と呼ばれている。こ のほかに帝位を狙って失敗した者も多数にの・ほり、ガリエヌス帝のときに続出した野心家たちは、 あの前五世紀末のアテネの場合になそらえて「三十僣 いヴり主」と言われている。 て帝彫 っ皇浮このように内乱が続いたため辺境の防備は手薄にな 乗マの に一アり、これに乗じて外敵が国境線を突破して押し寄せて 馬ロシ 世す ~ きた。・ ( ルカン半島を南下したゴート人はギリシアや ル降紀小アジアを荒らしまわり、ライン川方面ではアレマン紀 プて世 ャい 3 族、フランク族などのゲルマン人が帝国内に侵入しての シず 帝まスぎた。東方ではアルメニアに進出してきたベルシアの混 皇ざヌ アひア シャプル一世と戦ったが、一一六〇年、時の皇帝ヴァレ シにリ ルレ ペアリアヌスは和議を申し出た敵の奸計に陥って捕虜とな 2
ト出ス比はウルビアヌスを保護することも、また下手 = 民クと ス農ルど 人たちを処罰することもでぎなかった。 ヌアマな シラ代スしかも時勢は柔弱な皇帝にはますます荷が クト前ウき マ。をリだかちすぎるようになった。東方世界では二二 の帝貌レた 漢ス風ウい六年にパルティアに代わってササン朝ベルシ 食クのアて 大ラ身ニべ アが興っていた。この新帝国はゾロアスター 教を国教とし、民族的復古主義の高まりのなかに、かってのアケメネス朝ベルシア帝国の再現を もくろんで東方世界からローマの勢力を一掃しようとした。セヴ = ルス。アレクサンダーは東方 におもむき、。〈ルシアの攻勢を辛うじて食いとめたが、その間に北方の辺境も騒がしくなったの で、とって返してマインツにおもむいた。しかし同行した母の意見に従って、来襲したアレマン 人に償金を与えて和を結・ほうとした軟弱政策は、戦闘の準備をしていた味方軍隊の憤りを招いて 暴動が起こり、帝は母とともに殺された。このように母と子の悲劇のダ・フルプレイとともにセヴ = ルス朝は断絶し、帝国の混迷はますます深くなっていった。 一人たけ助か 0 たセヴ = ルス。アレクサンダーに代わ 0 て皇帝にな 0 たのはトラキアの農民出 軍人皇帝 のマクシミヌスで、一兵卒より身をおこし、巨体と怪力、そしてとほうもな い大食で軍隊の人気を集めた男であ 0 た。しかしかれは元老院の承認を得ることができず、イ もい イ 20