やがて東西フランクの間にはさまれたルイ敬虔 王の長子「ロタールの国」にカロリンガーの系 統が絶えると、その分割がはじまり、一部分ご 、ロ とにドイツに加えられていった。 一、、な東 ガ・比 すなわちイタリアは、アル。フスの山麓に位置 や′テグア をしめた諸侯の争奪の的となり、そのなかには ガ一国、 ア " ワ 工王 : 、 帝国の分裂にさいして、イタリア王位が自然そウ、、 の王国内にあるローマ法王権の保護者になりや マ】神ローマ帝国ヴ。法 ッ 08 コ 力ア い 6 つ。ぼ すいという事情から、イタリアの王位ばかりか 国マ就刀 . 男島 ・、、こ 0 しかしドイツ王も王 帝位までも獲得したもの力しナ ローし 0 パリ イ / - ト 0 を統一したオットー 一世は、二度の遠征によっ ガラランス王国「 てイタリア王位と帝位の両方をともにドイツの 王位に結びつけてしまった。以後イタリアは一 九世紀にいたるまで、ドイツ皇帝以外の正統の ン、、コ 0 支配者をもたないのである。これがいわゆる神 聖ローマ帝国のおこりだが、この名称がほんと アつランド 大西澣 ロンア キエフ ンエ / ア 11 世紀のヨーロッパ
王妃の復讐にたおれたあと、その後継者たちは、彼の征服をさらにすすめた。一八年間に及んだ ュスティニアヌスの東ゴート征服戦 ( ゴ , ート戦役 ) とその苛政にあえいでいたイタリアには、もう 抵抗の余力もなかった。こうして東ローマの支配は、ローマ、ナポリ、南イタリアの先端および 東ローマ総督の所在地ラヴェンナ地区におしつめられ てしまった。ヴェネッィアがラグーンの島上に市をき ずいたのは、この間のできごとだったらしい。 ランゴ・ハルドの南下で、東ローマの復古の夢はおお かた消えさった。しかし、地中海を支配しているかぎ ス り東ローマは容易にイタリアに干渉できた。ここから してイタリアの新しい分裂と混乱の歴史がはじまる。 べンワ このような事情でいちばん当惑したのはローマ教会 人尢ル ~ クン彡 であった。それをわれわれはもうローマ法王権とよんト / 、 でよいだろう。ランゴ・ハルド族は、またしてもアリウ、プリトて ン ス派であった。さらに悪いことには、彼らは東ゴート とちがい、古来の慣習も制度も、ましてローマ法王権 などは、まったく尊重する気もない野蛮人だった。も 西ゴート王 ハヴア 勝ゴ ランゴパルド帝国 孤立する西方世界
これはまさに決定的な打撃であった。これからのち、ここはもはや単なる地方的な市でしかなか 代わって国際市場の中心となったのは・フリュージュである。ここはイタリア商人とハンザ商人 の独壇場であった。しかし一四世紀半ば以降、イギリスでも毛織物生産が始められ、イギリスか らフランドルへの原毛の輸入がとだえるようになると、毛織物の都市・フリュージュもまた衰退せ ざるをえなかった。三転して一五世紀に登場したのはアントワープであり、イタリアはここと定 ンザに代わってイタリア商人と結び繁栄したのは南ドイツの商人 期航路をひらくようになる。ハ たちであった。ここにかの有名なアウグス・フルクのフッガー家が、その富と勢力を一五、六世紀 に誇示しうるようになったそもそもの発端がある。 ーサーの友達でジョン“ガウアーという一人 一四世紀に、イギリスの詩人チョ 商売のからくり のロンドン商人がいた。ここでしばらく彼のひとりごとに耳を傾けることにし ら カ 「じつをいえば、商人のなかにもずるい考えをもった者と、正直に仕事をして毎日を暮らしていら る者との二通りがある。両方とも儲けのためにはたらいている点は変わりはないのだが、前者は北 やから よくない輩だといえる。今日、ヨーロッパの東から西のはてまで、どこにもかしこにもいる商人、 ト噌・グク 彼の名前は、ほとんどの人々によく知られている『ごまかし』である。悪知恵が彼の本性だ。 っこ 0 399
なった。ことに一三世紀以前の封建社会では、それはまったく金銀宝石と同様に国王や大貴族だ けが手にしうるものであり、貴重品の扱いを受けていた。 ちなみに、一般に利用される調味料としては塩、ブドウ酒、蜂蜜があるくらいのもので、砂糖 は香辛料と同じく輸入品だった。嗜好品である茶、コーヒー、チョコレートなどは、中世を通じ てまだ知られていない。またジャガイモ、カボチャ、トウモロコシ、トマトなどの食料も、近世 に入ってはじめてアメリカからもたらされたものだ。 イタリア諸都市の経済的な繁栄と独立的な性格は、しかしドイツ諸都市と同じような意味合い を含んでいた。神聖ローマ皇帝の支配は一一一、三世紀以降、次第にあってなきがごとくになり、 ローマ法王庁も権威はあっても実力をもたず、イタリア人自身の国王は存在しなかった。だから 当然都市は自衛しなければならない。 一二世紀に北イタリア諸都市を中心として、ロン・ハルディ ア都市同盟がつくられ皇帝に対抗したのも、ドイツと相通ずる政治情勢からだった。そして結局 のところ諸都市は、ヴ = ネッィア共和国、ナポリ王国その他の都市国家に分裂し、たがいに対立 抗争するにいたる。 ドイツの都市もイタリアの都市も、中世でこそ強勢を誇りえても、ともにヨーロツ。 ( 近世をひ らく資格はない。やがてそれらは一五、六世紀以降、イギリス、フランス、スペイン、ポルトガ ルなど、国王の強大な権力を背景とする都市と商人の出現を前にして、国際商業戦に敗退しなけ 388
ったく学生の授業料で生活していたので、講義を計画的にポイコットされては飯の食い上げだっ たのである。ところが教師に対する学生の要求は、今日とは少しちがっていた。「教師は学生の 許可なくしてみだりに講義を休むべからず。もし市外におもむく必要あるときは、学生に担保を 提供すべし。」「教師は始鈴とともに講義をはじめ、終鈴とともに退出すべし。」「教師は講義をと ばすべからず。」「難問題を説明不能のまま退出すべからず。」「講義は全体をカヴァーすべし。」 等々、これは今日の学生にも教授にも、ともに耳痛い要求ではある。 しかしこんな要求をつきつけることのできる学生は、よほど組織がしつかりしていたにちがい ない。ポローニヤ「大学」は、はじめイタリアとアル。フス以北のヨーロッパの一一つの「民族」に レクトル わかれ、それそれ「大学長 , をもっていた。この「民族」のなかでは、昔も今と変わらぬおしゃ べりのイタリア「民族。が音頭をとっていた。これがイタリア最古のポロ ーニヤ「大学」の構成 マ だが、それはまったく学生だけの「大学」なのである。 「大学」からしめ出しをくった教授諸先生もしかし考えるところがあった。彼らも非常に早い時 期からカレジという組合をつくり、同業者の質をおとさぬよう、新入者には厳重な資格審査をや社 世 っていた。学生のなかにもやがて自ら教師になろうというもの、あるいは就職の条件として教師中 の資格をとろうというものがあらわれてくる。この教授資格がつまり学位なのだが、この認定がノ ポローニヤの教授に残された唯一の学生「大学」への対抗手段となった。しかし中世のポロー おんど
の歴史的使命を自覚させ、さらにはフランク部族を舞台の正面にひき出すという、かけがえのな い狂言まわしの役割をも演ずるのである。 歴史におけるランゴ・ハルド族は、地中海の太陽と富に魅せられてこの世界にやってきた最後 ロサムンテ序曲 のゲルマン部族だった。彼らははじめ北方から、東ゴート の去ったあとのハン ガリー平原にうつってきた。ュスティニアヌスの東ゴート征服のさいには、東ローマの将軍ナル セスに招かれてイタリアに戦い、この国の魅力を知った。彼らの南下をはばむものにゴート系の ゲ。ヒード族があった。ランゴ・ハルドは、フン族と同じアジアの遊牧民アヴァール族と結んで、こ れをたおした。ときのランゴ・ハルド王はアルポインといったが、彼はうちたおしたゲビードの王 クーニムントの女ロザムンデを王妃としていた。 しゅうと アルポインは、王妃ロザムンデの父、彼には舅父にあたるクーニムントの頭蓋骨で酒盃をつく り、イタリア征服がなかば以上もすすんだあるとき、王妃に無理にその父親の頭蓋で酒をのませ た。王妃は深く夫王アルポインをうらみ、やがてかれは、その復讐の刃にたおれた。これが悲劇 ロザムンデの歴史的序曲である。 アルポインはユスティニアヌスの死後三年ののち ( 五六八年 ) 、五万の族民を従えてイタリアに 南下、三年の攻囲戦ののちに北イタリアの中心。 ( ヴィアを陥れ、ここを首都として国をたてた。 北イタリアをロン・ハルディアとよぶのはランゴパルド族にちなんでのことである。アルまインが
たのである。東西口ーマは、彼に同盟者とか将軍の称号をおくったが、アッテイラはローマをま ったくの服属国としてあっかい、貢物につぐ貢物を要求した。テオドシウス二世下の東ローマは、 そのためほとんど破産に瀕したほどであった。テオドシウスをついだマルキアヌスにいたって、 東西口ーマはようやく強硬な態度をとるようになったが、これがアッテイラにガリアやイタリア への侵入を起こさせるそもそもの理由になった。 しかしアッテイラのガリア侵入の直接の口実となったのは、廷臣と不義をはたらいたかどで拘 禁をうけた西口ーマ皇帝ヴァレンティニアヌス三世の女ホノリアが、ひそかにアッテイラに指輪 をおくって婚約したことだった。アッテイラは、婚資として、西口ーマの半分を要求し、それが 拒絶されると、ガリアに侵入したのである。この侵入 ( 四五一年 ) は結局アッテイラの失敗に終わ ったが、その直後かれは大挙してイタリアにはいり、アドリア海奥のアキレイアをはじめ多数の ! ちまち 市々をおとした。このとき避難民が海岸の潟地に移住したのがヴェネッィアの起こりだともいわ れているが、ほんとうはその後のランゴ・ハルドのイタリア侵入のときのことだったらしい。 しかし何ごともアッテイラに結びつけて説明されたのは、彼がどんなにおそれられていたかと いう証拠で、ローマ法王レオ一世がアッテイラを説いてローマ進撃を思いとどまらせたというの もその一つである。レオ一世はたしかにアッテイラと会見したが、アッテイラが軍を返したのは、 食糧の欠乏、軍隊内の疫病の発生、それに東ローマ軍の救援によるものだった。
をあとにしたのち、結局また南イタリアでいっしょに 国頁 なった。最初のうち彼らは、東ローマやランゴ。ハルド尸法 やと チマ 族などに、だ、れかれの区別なしに傭われて戦ったが、 両ロ とく ア やがて他人のためより自分自身のために働く方が得だロロ タ とさとるようになった。こうして彼らは、計画的な略冫 ) 、行ナ イ の 奪と征服に従事し、南イタリアに確固とした地盤をつロ . ・を、王 4 上 世 くった。この略奪騎士たちは何度も法王の破門を受け ア . イ たりしたが、法王、皇帝の対立が幸運のきっかけにな ノ 09 、 ート " ギスカ った。一〇五九年、時の一門の代表ロく ルドが、法王から正式に南イタリア ( ア。フリア、カラ・フ " : 、 ( 、 リア ) を授封され、侯を称することになった。ギスカルドの兄弟ロージャーは、法王からサラセ ン人の支配するシチリア討伐を命ぜられ、一一世紀の後半それを果たした。こうして地中海世界 の真珠、ノルマン人のシチリア王国が誕生し、サラセン、ビザンツ、フランクの三要素をミック スした独特なノルマン文化をうみだすことになった。 シチリア王国はやがて一二世紀の末、婚姻の関係からドイツ王権と結ばれることになり、さら に多彩な歴史を中世後期にくりひろげてゆく。このノルマン人版ガラン”ド”モングラヌの物語 両」、丿チリアメ . 国 ~ ・ ル . 石ルプイ一ア サレルノ ; ・ ンサ ~ 28
グラティアヌスの軍と合流するまえに、西ゴート軍 ( 一万八千 ) に戦いをいどんだ。しかし機動性 にとんだ西ゴート騎兵隊はかえってローマの騎兵隊をけちらして主力の歩兵部隊を包囲し、これ せんめつ を殲減した。皇帝ヴァレンスも乱軍の中にたおれた。これが民族大移動の最初をかざるアドリア ノープルの戦い ( 三七八年 ) である。 いまやドナウは、とざされた国境ではなく、ゲルマン人の越境はあいつぎ、西ゴート の部隊は 日に日にふくれあがった。彼らは増強された勢力でトラキア各地をあらしまわり、コンスタンテ イノープルをさえおびやかした。敗死したヴァレンスにかわったテオドシウス帝が、ようやく西 ゴート族をおさえて、ドナウ川そいに彼らを定着させたが、やがて彼らは、後年ヨーロッパの恐 怖の的となったアラーリックを王にえらび、イタリア侵入への態勢をととのえるにいたった 東、西ゴート族の移動とローマの敗北は、ゲルマン、ローマ両民族のあいだに迅速にったえら れていった。すでに東、西ゴートをたおしたフン族は、ドナウの北岸を制圧していた。四〇〇年 頃、黒海からプリタニア ( 英国 ) に及ぶローマの長大な防禦線はいたるところで放棄された。西ゴ ート王アラーリックは第一回のイタリア侵入をはかり ( 四〇一年 ) 、フンに追われたヴァンダル族 とスエビ族はアラン族をも加えてライン川をわたり、一気にガリア 9 ランス ) を突破してスペ インにはいった ( 四〇九年 ) 。フランク族はライン左岸に進出し、プルグンド族は、ライン中流の ウォルムスを中心に国をたてた。四〇七年頃までにプリタニアの守備兵はすべてイタリアの防衛 まと
第震をッいン・物′ - 、燾らト 箋ミ第ま アとヴェネッィアとの敵対意識は次第につのっていき、やがて両都市間の貿易はいっさい禁・せら れ、たがいに商品を持ち運びする者がないよう両都市の境界線には見張りがおかれた。そして盗 みとか乱暴とかが起こるたびに、両者の不和や戦争、敵対関係はあらたにされた。」 ーノが書いた年代記の一節である。「愛の城ー これは一三世紀のパドウア市の書記ロランディ というような遊びは、このパドウアだけでなく、あちこちで貴族間のたのしみとしてなされたも ののようだ。その光景を表わす絵が今日でもいくつか残っている。ただイタリア諸都市の場合、 貴族といえば封建貴族と上層の大商人とが合流した ものであり、この点がまた南欧中世都市一般の特徴 となっている。 彫匍以上の一節から、私たちは、地中海貿易圏に活躍 紀するイタリア諸都市の経済的繁栄と独立性、そのゆ えにおこる都市間の対立と抗争、そして、商品とし 象の て扱われた香辛料とか宝石とか、またはその他の贅ら 城た のれ沢品の多様さなどを、実際によくうかがい知ること北 愛さ ができる。 397