ギリシア - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ
31件見つかりました。

1. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

しうまでもなく商工業の復興という裏づけがあっ 以上のような国家機構の大改革の背後には、、 た。シリア、エジプトを失ったにしても、東ローマはなお人口一〇〇万をかそえる巨大な首都コ ンスタンティノー。フルのほかに人口五〇万のマケドニアのテッサロニカのような大都市をもって いた。そのうえなお東ローマはアジアや北欧の物貨の集まるところで、制海権を失わないかぎり が開けていた。手工 イタリアのヴェネッィア、ナポリ、アマルフィなどの商港と交易するルート 業は国家の手で同業組合に編成され、技術の進歩こそ少なかったが、堅固な中産市民層をつくる に役立ち、武器、武具の製造から、絹織物 ( 養蚕はユスティニアヌス時代に中国から輸入 ) 、毛織物、 じゅうたん 絨毯、宝石、エナメルと象矛細工、聖器具、聖遺物の製造にまで及んだ。これらの手工業製品を よくさし イタリアその他に艚載し、また東洋や北欧の物貨と交易する商業が、手工業同様、国家の監督の もとにギルドに組織された。 商工業が立派に復興したことは、中世を通じて東ローマの貨幣が標準金貨としていたるところ に通用したところからもおしはかられる。 この時代の東ローマについてぜひのべておかなくてはならないのは、ギリシア正教の成立とそ のスラヴ人への伝道だ。ギリシア正教といっても教義の上ではほとんどローマーカトリック教と ちがいはない。しいていえば、九世紀の後半、ギリシア教会が「精霊は神より出ず」としたのに、 プイリオク 4 ローマ教会が「子からも」とつけ加えたのが、両教会の唯一のちがいたった。しかし教会の制度、

2. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

こでも用いたが、ほんとうは聖像崇敬というのが正しい ) がふさわしく、礼拝はただ神にだけ帰すべき だとして、ヘブライ精神とギリシアーローマ的精神の調和をはかったのである。聖像に対する攻 撃は、オリエント神秘主義がギリシアーローマ的精神に対して行なった攻撃なので、これに対す る弁明も、ヘブライ精神とギリシアーローマ的精神の妥協にもとづく教義の弁明であって、ゲル マン人教化のためのものではなかった。そのうえ、当時のイタリア教会には、前記のように、東 方出身者が少なくなく、法王自身そのなかの一人だった。だから、聖像礼拝間題にあらわれたロ ーマ教会の立場は、もともとこれら東方出身の聖職者をふくめてのイタリア聖職者の立場を反映 するもので、ゲルマン人の教化という理由はまったく表面にはあらわれていないのである。 ところで、ローマ教会の反抗に対する東ローマ皇帝の態度も強硬だった。皇帝はこれまでのラ ンゴ・ハルド政策を一転し、かえってその王リ、ートプランドにローマ教会を圧迫させた。こうす るうちに、グレゴリ ー二世はなくなり、グレゴリ ー三世が位をついだ。彼はシリア出身の僧侶で、 同時にその就任の認可を皇帝に願い出た最後の法王でもあった。彼は皇帝の承認を得ると、さっ そく公会議を開いて、聖像破壊者を破門に処してしまった。この態度に憤激した皇帝は、東ロー マ領内にあるローマ法王管轄下の教会をとりあけ、これをコンスタンティノー。フル司教の管轄下 に移した。このためローマ法王庁は、金三五〇ポンドの収入減をこうむったという。それに加え て、皇帝と手をくんだランゴ・ハルド 王リュート。フランドの圧迫ま、 ーいよいよ急を加えた。

3. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

けんらん しっそう絢爛とした一三世 ばらしい文化的自負の表現だ。その純粋さの点で一二世紀の文化は、、 紀よりも中世的だといえる。 のジョ 一二世紀の文化は、建築ではロマネスク式寺院、学問ではアベラール、ソールズ・ヘリー ン、シャルトルのイヴォ、ベトルス“ロン・ハルズス、イルネリウス、グラティアンなどによって 代表されているが、このめざましい文化の興隆は、イタリアやシチリア、ことに回教のスペイン を通してヨーロッパにもちこまれたギリシアやアラビアの学問に負うものであった。これによっ てヨーロッパ人は古代末、中世初期のキリスト教会教父たちを通してわずかにうかがい知ってい た古代の学芸を、より直接的に知ることができるようになった。 このように量質ともに飛躍的に豊富になった知識は、それまでの修道院や司教教会付属の学校 で教えられていた教科の枠をこえるものであった。他方ではまた学問に新しい独立の職業分野 ( 法律家、書記、教師 ) が開かれ始めていたので、これら二重の条件が大学という専門教育の場を生 みだすことになったのである。 中世で専門知識をさずけた最古の学校は、おそらくナポリに近いサレル 学生の大学ポローニヤ ノであろう。ここでは一一世紀の半ばに、ギリシアの医学者ヒボクラテ スの研究にもとづく講義が行なわれていた。しかしサレルノは一三世紀半ばまで大学の制度をも たなかったし、また中世大学の特徴である綜合的な性質を欠いていた。この点にイタリアではポ 288

4. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

分裂事件が起こっている。これはマケドニア朝の東ロー 教教教次山 フ年本 マ皇帝が弱体に陥 0 たとき、 0 ンスタンティ / ープルの , 正ムに 大司教が独断でや 0 たことで、当時の人々は誰もこれが外一ラ齔軸腫 マ丿ス仆トの教 永続する東西教会分離のはじめだとは考えなかった。し一ー ロギイ判ス 子キキイ かしそれは歴史的にみれば長い発展の結果だ 0 たのだ。ロ 2 ロ b. 。の 降フ、、、 こうして二つに分裂した世界は、いまとなっては、ふ たたび一つにまとめ上げるチャンスはなかなか見あたら なくなってしまった。リュート。フランド以後には、彼に 匹敵丁るギリシア通の使節はもはやあらわれず、かえっ 世ース て彼のビザンツに対する偏見があとあとまで影響した。 十字軍士にとってギリシア人は、追従、詐欺、不信、漬 ア . 神、異端、尊大等々あらゆる背徳のかたまりとしか映じ ヴ】 なかったのも道理である。 ュトプランドは、四年後再度の交渉によってそ しかし、東西の交渉はまだ絶えなかった。リー ー二世に嫁し、 の使命を達し、皇女 ( 一説では皇族だが素姓は明らかでないという ) テオフアヌはオット 古ローマの心酔者オットー三世を生んだ。しかし外的な接触はともかく、内的な相互理解は、リ ンティオキア : ・ しサレム : ・ ・・アしワサン 東西教会の分裂 722

5. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

儀式、典礼になると、東ローマ風あるいはビザンツ風の荘重と煩雑とが加わる。 ギリシア正教がスラヴ人のあいたに入ったのは、この教義上の分裂がおこるすこしまえだった。 : 、はじめモラヴィア 九世紀の半ばすぎ、キリルとメトデイウスというスラヴ族出身の兄弟僧カ ( 今日のチェコスロヴァキア ) のスラヴ人に伝道しようとして失敗し、その活動をバルカン半島にき りかえた。そのさい、この兄弟は、布教の便宜のため、聖書や祈書を母国語の南スラヴの国語 に翻訳したが、翻訳にあたってはギリシアのアルファベットを改造して、スラヴ音の表記にあて た。これがキリル式といい、今日のスラヴ語アルファベットのもとになったものだ。 南スラヴすなわちセルビア人の改宗ののち、キリル兄弟はさらに、九世紀末、ブルガリア人の 改宗にも成功した。プルガリアは元来アジア系の人種だが、スラヴと混血し、その言語に同化し ていたので、キリル式アルファベットは、ここでも通用したわけである。 セルビア、プルガリアはともにコンスタンティノー。フルの総主教の管轄に入ったが、スラヴ人 のあいだでは、教会でも俗界でも同じキリル式アルファベットによるスラヴ語が使用された。こ独 界 れは、教会ではラテン語だけが用いられた西方とは大いにちがう点である。 世 プルガリア王は一〇世紀に皇帝の称号をとり、一時大いにふるったが、一一世紀のはじめ、東西 ローマにたおされた。その結果、東ローマは、・フルガリアのかなたにあるロシアと直接境を接触 するようになった。九世紀の半ば、ノルマン人のたてたキエフーロシアは、・フルガリア帝国滅亡

6. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

業生産と徴募兵員を確保することが必要で、兵士への土地給与、スラヴ人を用いての開墾と植民 とが大々的に併用された。 このような大改革が成功した理由の一つは、皮肉にも、帝国の重要経済地帯でありながら政治 的には分離主義に傾きがちだったシリア、エジプトを失ったことにあった。ともかくも、帝国は こうして広い自作農民層を育成したほか、訓練をつみ、すぐれた装備をもち、老練な職業軍人に 指揮される強力な軍隊をも再建したのである。 皇帝のなかには有名な戦術書を書いた人もいるが、それをみれば、東ローマでは、重装騎兵、 重装歩兵、歩兵の三つからなる軍隊があり、それらが最小の犠牲で最大の戦果をあげるためどの ように協動したかがよくわかる。東ローマの軍隊が戦争をビジネスと心得る職業軍隊だとすれば、 中世ヨーロッパの騎士軍は、個人の武勇にたより戦争をゲームと考える素人の軍隊だといっても よい。要するに東ローマ軍は集団行動のタクティクを知っていた中世唯一の軍隊たった。これが 回教軍を打ち破ったのだ。 の グリークーファイア 界 東ローマ海軍がギリシア火を用いて、回教勢から東地中海の制海権を奪回したことはまえにも 世 のべたが、このギリシア火の成分や製法は明らかでない。それは液状の火ともよばれ、硫黄を主西 にした発火性物質を配合し、生石天を水に作用させて予熱し、点火したところを、相手の船に投 けこんだり、注ぎこんだりしたものらしい。 一せつ力、

7. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

さらにつづけて、「ジュビターといえどもこ てこの道の勇者はなかった」とラン・ヘールは、、、 こぶくしゃ の点で彼に匹敵することはできなかった」という。彼はあまりにも子福者たったので、その子の 名はとてもお・ほえきれるものではなかった。ランペールは、その名をあげつらねても読者を退屈 させるだけだといっているが、近隣のアルドル修道院の年代記はランべールに代わっていう。ギ ちゃくしょ ーヌ伯の葬列に連なった彼の子女は、嫡、庶あわせて三三人だったと。これではギーヌ伯ならず つりん ともおぼえきれるものではない。ギーヌ伯がジュ。ヒターにもまして精力絶倫であったかどうかは べっとして、彼のような例は必ずしも珍しいものではなかった。 「婦人の地位は文明の尺度」という言葉がある。婦人の地位の向上は、人権拡張 婦人の地位 史の一部だから、そのかぎりでは、この言葉はたしかに正しい。しかし格言とか ことわざ 諺とかは、それが一面的であればあるほど、訴える力はつよ い。だから、その訴える力がつよ マ ラ ければつよいだけ、全面的に肯定するのは用心しなければならない。はやい話が、古代ギリシア ノ では婦人の地位はいかにも低かった。ギリシアの女性で後世にまで名をとどめているのは、抒情 詩人のサッフォ 1 ぐらいのものだろう。これにひきかえ中世では、ごく有名な名前をあげるだけ社 でも、文学者では、フランス宮廷騎士文学の創始者の一人であるマリー “ド“フランス、一四世中 -0 紀のクリスティ ーヌ“ド“ビザン、哲学者では一二世紀のビンゲンのヒルデガルト、有名なエロ 0 ィーズ、政治家ではフランクの・フルンヒルデのような大人物を除いても、聖ルイの母プランシュ、

8. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

ール大公は、一〇世紀末、東ロー のまえから東ローマの文化的影響をうけており、そのウラジミ マ皇帝・ハジレウス二世の妹をめとり、同時にギリシア正教を採用した。こうしてギリシア正教は 東欧のスラヴ人のあいだに根をおろし、ローマーカトリック教のラテン的西欧に対し、ビザンツ 風スラヴ風の文化圏ができることになるのである。 さて、再建時代の東ローマにも、いろいろな暗黒面がある。西方との接触がうすれていけば、 それだけ東ローマは専制的な東洋風、ビザンツ風になっていく。 皇帝は聖俗両界に君臨する専制 君主で、西方の封建君主とは類を異にした絶対の支配者だ。皇帝の教会支配は一一世紀半ばの東 西両教会の分離以後、さらに強化される。この世界ではギリシアーローマの文化は保存されても、 もうそれが新たに芽をふくということはない。 その宮廷は、信じられないくらい豪奢で複雑きわまる儀式であけくれていたが、それも君主の 尊厳を維持する手段の一つだった。しかしこの絶対君主権も、王位継承の制度が確立していなか ったので、たえず陰謀、簒奪、暗殺のたねとなった。有名な聖像礼拝再興者の女帝イレーネは、 ていねん 摂政したその子が丁年に達し、政権から遠ざけられたのを不満とし、その子の目をえぐって、帝 位を奪った。マケドニア王朝の創始者・ハジル一世は、もともと馬の調教師だったが、皇帝に溺愛 され、やがてこの皇帝を暗殺して、新王朝を開いたものである。このような例は少なくない。 皇帝が政教両面の支配者だったことは、このような宮廷の陰謀とむすびついて、信仰の統一を

9. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

ーニュ伯領を女手一つでまもり、文字どおり軍隊の先頭に立って攻 同じころ一五年間もシャンパ ニュのプランシュがいる。聖者ならばいっ 3 城野戦、行くとして可ならざるはなかったシャンパ あが そう豊富で、パリをフン族の侵入からまもってパリ市の守護聖徒と崇められた聖ジュヌヴィエー ヴやチューリンゲン方伯妃のエリザベートあるいはシエナのカタリナがおり、女子修道院長とし て社会につくした人々の数となっては無数である。こういった点だけをとれば、中世文明は古代 ギリシア文明より上だったことになるが、はたしてそう言いきってよいものだろうか。 たしかに中世では、女性の法的地位は古代ギリシアより高かった。ゲルマン人のあいだに、あ 。フ』の結婚観にもあ る種の男女平等観があったことは、一一世紀の南ドイツの叙事詩『ルドリー らわれている。新郎が新婦に指輪をあたえて、この指輪があなたの指をしばるように、今後は自 分があなたを拘束するというと、新婦は新婦で、いや、それは不公平だ、自分のあげる指輪はあ なたの指輪が私を拘束すると同程度にあなたを拘束する、といっている。このゲルマン的平等観 にキリスト教思想が加わると、立派に男子に伍して社会的地位を占める尼僧院長も出てくるし、 何よりも、一二世紀末には女子の封建知行相続権が一般にみとめられるようになる。都市では独 立の商人として活動する権利が、都市法のなかで、女子にあたえられる。これは疑いもなく中世 婦人の地位を古代婦人一般の上におくものだ。だがそもそも法的な地位は、実生活においてもそ のまま認められたものだろうか。婦権はなくともクサンティッペは大哲人ソクラテスを完全に尻

10. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

紀 世 世 六四五 六七一一一回教軍が水陸からコンスタンティノープルを攻 める 七一〇 タリクのひきいる回教軍が、アフリカの北端か らジプラルタル ( タリクの岩 ) にわたる 七一三回教軍が西ゴート王国をたおす 七一八東ローマ皇帝レオ三世が「ギリシア」で回教軍 を撃退する レオ三世が聖像破壊令を ボアティエ間での戦で、フランク軍が出す 回教軍に勝っ 七五一 ピビンがフランク王に推される ( カロリング王 朝成立 ) 七五六 ビビンがランゴ・ハルド王国に侵入、征服した 中・北部イタリアを教皇領として寄進する ( ビ。ヒ ンの寄進 ) 七九四 八〇〇フランク王カールが、サン・ビニトロ寺院で礼 拝中、教皇レオ三世により口ーマ皇帝に戴冠され る 一平城京に遷都 滅びる 大化改新 平安京に遷都 493 年表