中世は封建制度の世の中といわれるが、ほんとうにそういえるのは大体 動力と機械のない社会 一一世紀ごろからのことである。それまでも主人と従者が、「誠実」と ちぎよう なうど いう約束で保護と奉仕を誓いあい、知行 ( 封土 ) を授受するということはあった。しかしこのよ うな人と人との関係が、国家の組織のすみずみまで入っていくのは、外民族の侵入によってカー環 ル大帝の統一があとかたもなくやぶれ、分散した権力のもとに無数の孤立した小社会が発生した生 あとのことである。この孤立分散した小社会が大小の領主間の封建関係をなかだちにして、ふた社 たび全体としての大社会 ( 国家 ) にまで組織されると、そこにほんとうの封建国家、封建社会が封 できあがる。それが大体一一世紀の半ばである。それで封建社会をこの時点を境に前後の二期に 3 3 分けることも可能である。いまこのやり方にしたがって前、後封建社会の生活環境をしらべてみ 封建社会の生活環境 サン一ジャック - ド - コンポ ステラにおもむく巡礼
ちぎよう いえのころうどう 同じ家に養われている家子郎党のそれよりも血の通わないものだ。しかしそれは知行の授受で結 ばれた封建領主相互の間接給養の関係よりは、血はかよわないにしても、いつも接触しているた 7 けに、人間関係の緊密度は高い。そこで封建社会では、極度に緊密な、時には血縁以上の強い人 間関係 ( 家子郎党の類 ) が一方にあるとともに、他方ではほんとうの血縁関係をさえ他人関係以上 に冷たくする人間関係 ( 遺産相続をめぐる封建領主の争い、親子の仲たがい ) が生まれることになる。 この点から、封建社会における人間感情が、極端から極端に激しく移りかわるのがわかってくる。 むろん封建領主は、彼自身が知行 ( 封土 ) とりである以上、間接給養Ⅱ知行方式のもっ危険を 知りぬいていた。知行の世襲を最初できるだけ制限したり、世襲となった後では、世襲の手続き げんぶく を厳重にし騎士叙任式 ( わが国の元服 ) や臣従礼に宗教的な儀式をとりいれたり、知行保持の条件 を細かく規定したり、つとめて主君の宮廷に出仕させたりしたのは、徳川幕府の諸侯対策をみて もわかるように、みな間接給養方式から生ずる危険を少なくするためだった。ことに臣下の子供 を幼少時に侍童として主君の家庭に生活させ、騎士の勤務を教え、騎士叙任をおわるまでその家 にとどめたのは、直接給養方式の長所を生かすとともに、侍童を体のよい人質として臣下の自由 行動をおさえる効果をねらったものである。 さて、封建主君は、彼が大領主である場合には、一人では治めきれない領地をもっており、こ れを知行のかたちで臣下に与えることは、自分の兵力を確保しまた権威を高める上にも必要であ
済権を行使することになる。託身者は主人のために労働し、主人は彼に保護を与える。こうして いわゆる中世の農奴が発生するのである。 ところが完全な自由と独立は、武士のあいだでも、社会の全般的混乱のなかではむずかしい。 そこで彼らは自分より有力なものの保護にたよるために託身を行なう。しかし武士は軍役奉仕と いう名誉ある仕事をつとめるので、託身によって自力救済能力を放棄する必要はなかった。ただ その権限の行使を封建法で制限されただけである。こうして中世社会は二種類の人々、すなわち 自力救済権をもつものと、もたない人々に区分されるようになる。それをもつものは支配階級で あり、もたないものは隷属階級つまり農奴となるわけである。しかしこれらすべての人々を通じ て、ともかくも人間相互の保護と従属の関係がつらぬいているのが中世社会の特徴で、このよう な社会をわれわれはまた封建社会とよぶのである。 封建社会における自力救済権が一般に認められている封建社会には、今日の意味での国家は存 国家の発生 これをよく示すのは、この社会には最初多数決制がまったくなか 在しな、。 ったということだ。会議の決定はいつも全員一致によった。一人でも反対があれば、多数はその 意志を彼に強制できない。それは神の正義としての中世法の精神に反するからである。これでは 国家は自分で自分の意志を合法的にきめうるという保証をもっていないことになり、こういう国 家を今日の意味では国家とよべないわけである。それでは多数決が認められ、今日の国家にすす 152
市民革命または立憲的改革といわれるものは、絶対君主に集中されたこの暴力の独占を国民のも のにする革命であり改革である。ここに私どもの住む現代の国家が生まれるのだが、この近代国 家が並立している広い国際社会は、主権的個人が対立していた中世社会と法理的には同一の状態 を呈している。戦争が大規模となり、その災害が大きくなると、人々は「神の平和、休戦」の現 代版を求めるようになる。国際連盟や国際連合はそうした性質のものである。この国際社会の平 和または治安立法こそ、歴史が現代人に課した課題にほかならない。 さて中世君侯の治安立法と中央集権には役人と軍隊の役割が大きい。これはさきにみた前期封 建社会にはありえないことだった。役人と軍隊が登場してくるには、そもそも彼らのかわりに封 建諸侯を登場させた前期封建社会の経済が変わってこなくてはならない。そこでつぎにこの経済 的変化をみて、封建社会の生活環境の説明を終わろう。 一一世紀における外民族の侵入がやみ、ヨーロッパの各地に封建制度にもとづく新しい国家が 経済の復興 成立した一一世紀から、ヨーロッパの様相は急速に変わってくる。社会の安 定は人口を増加させ、人口増加は耕地の拡大をひきおこした。大体一一世紀の半ばから、一三世 しようたくち 紀半ばまでは、大開墾の時代といわれ、森林や荒地が開かれ、沼沢地が干拓されて、前期封建社 会の特徴だった人間集団の孤立状態は終わった。耕地の拡大はヨーロツ。ハの内部だけではなく、 ドイツの東方では、人口稀薄なスラヴ人地帯に向かうドイツ人の大規模な東方植民事業がおこっ 756
( 都市民 ) が加えられ、彼らのゆたかな経済力とともに社会の大きな勢力となっていく。 都市の商人たちは商業の自由と平和をのそんだ。地方に割拠、独立し、城に拠って戦いをつづ け、社会を無秩序におとしいれ、そしてまた大ていのばあい都市を支配している封建領主たちを、 彼らは嫌った。一一、二世紀のフランスに代表されるように、封建領主たちに圧倒されてロクに 国内を治めることができなかった国王も、封建領主を嫌った。国王と商人たちとの利害は一致し、 国王は都市に特許状を与えて領主による支配から解放し、直接みずからの保護と支配の下におい た。都市も喜んでこれを受け、かわりに国王に租税その他の金銭的な援助をおこない、時には軍 事上の手助けをもした。国王はここではじめて多くの貨幣を手にすることができ、それによって、 国内に官僚を置いたり傭兵軍隊を使用したりするようになる。 これはもちろん、まだ質的にも量的にも貧弱なものにすぎなかった。しかしこのために封建領 主たちは、それそれの地方の領民 ( 農民 ) に対してもっていた権力を次第に、そしてすこしずつ国 カ 王にうばわれ、弱体化していく。そして他方、農民たちはこのような変化に対応して自分らの団原 結力をかため、領主と闘争し、彼らの上に重くのしかかっていたいろいろなかたちでの領主の租 ら あ 税をすこしずっとり除き、解放され、自由を獲得する動きを開始することとなる。 こうして封建社会が、またそれを象徴する法王権や皇帝権などの中世的権威が音たかく崩れゆ くとき、それはまた中世世界にすでに内蔵されていた近代世界への無限の可能性が、現実のもの
自由と保護ーーー隷属関係の発 法と裁判ーーーカは正義であること 生封建社会における国家の発生一一世紀における経済の復 興 天上の国と地上の国 カノッサの屈辱カノッサへの道俗世的教会の占きよき時代 カノ クリュニー、グレゴリー改革の出発教会改革とドイツ ッサ以後神のものとシーザーのも ? ー・ウォルムスの協約 十字軍 第一回十字軍以前の東と西「神はそれを欲す」第一回十字 軍とエルサレムの奪回篤信の殺戮者たち回教徒の反撃と第 一「第三回十字軍脱線した十字軍ビザンツと回教側のみた 十字軍十字軍夜話十字軍とヨーロッパ社会 中世法王権の光とかけ 「信仰は一、教会は一、救いは一」法王権の隆盛と異端異端 トミニカンとフランシスカン 審問と法王権托鉢僧団、・ 支配者の群像 ス 0
ては、この城塞の周辺に集住するようになった。これが従来の田園の光景を一変した。そこには 城塞を中心にした地方小権力が乱立し、その保護の下に中世の村落もまた生まれたのだ。 城塞建造が中央権力の主導で行なわれたイギリスでは、これは統一イギリスの基礎となったが、 大陸では、封建的な権力分裂の条件、いや本来の封建制度の出発点となったのである。封建制度 はフランク時代にすでにはじまっており、カール大帝のローマ帝国すら、封建関係で維持された 面が少なくない。しかし中央権力の徹底的分散、そして分散してできた地方小権力への、身分の 相違をとわない人々の隷属という、社会の本格的な封建化は、外民族の侵入によってひきおこさ れたものだった。この独立した地方権力の統合の上にきすかれる国家 ( 封建国家 ) は、もうカー ル大帝時代のような広大なものであることはできなかった。そこにはもう役人組織がはいりこむ 余地がなくなり、したがって国王が監督できる範囲も小さくなってくるからた。しかしそれはカ ール大帝の国家以上に時代の要求に合い、また安定性と永続性をもつものだった。ここにカール 大帝のローマ帝国がそのままのかたちで中世社会に生きつづけることのできなかった理由があり、 またヨーロッパが新しい出発点につかねばならぬ理由があった。しかし、カール大帝に始まった ローマーカトリック的ヨーロッパという理念は、内部の分裂と外部からの攪乱をこえて、生きの びることができた。 706
た資本主義への道をたどることになるのだけれども、そこにはさきに議会について考えてみたの と同様に、イギリスに比べてかなりの後進性が認められる。フランスでは、それだけ封建社会が のちのちまで強く根を張っていたのである。 さて、イギリス、フランスがそれぞれの差異を示しながらも近代社会の形 ドイツの分裂と混乱 成に向かってすこしずつ歩みはじめた中世後末期に、ドイツはいったい何 をしていたのだろうか。ここでは、英仏国王の権力集中とはまったく逆に、王権は衰退の一途を たどり、国内は分裂と混乱を重ねていた。王朝は英仏のように長続きせず、つぎつぎと異なった 家柄のものが王位についた。ことに大空位時代 ( 一二五四ー七三年 ) があけたあと、国王は国内の 七人の有力諸侯 ( 選定侯 ) によって選ばれることとなり、この原則は一三五六年に国王カール四世 ( 一三四七ー七八年 ) が発布した金印勅書において、はっきりとあきらかにされている。 なぜ国王は他の大諸侯に屈服しなければならなかったのか。・ トイツの封建貴族は、一一一、三世 紀を通じてはじめて本格的に出現したのだ。それはフランスでは一一世紀のことであったから、 ドイツの社会はフランスよりもさらにおくれていることになる。封建貴族が国内でそれそれ自分 の居城をよりどころに独立割拠すれば、国王の力はとうてい国内の全体におよびえない。皇帝が ロ , ーマ法王と聖職叙任権をめぐって激しく争った一一世紀の後半から一二世紀の初めにかけての 時代は、このような事態のはしりであり、国王の力が弱まりかけた最初の徴候であった。 470
審問官を任命し、司教がこれに協力することとなった。審問官には司教の裁判権に属さない、の ちにのべるドミニカンの修道士が任命された。さらに一二五六年になると、異端審問官は司教か ら完全に独立し、法王に直属することとなり、純然たる法王の異端審問制がしかれることになる。 イノセント三世以来の新しい異端審問では、裁判は非公開、密告制を大幅に許し、被告は身に お・ほえのない場合でも、だれが原告であるかを知らず、弁護人は許されず、拷問によって自白を 強要された。拷問は教会法では一回限りとされたが、この制限は拷問の長時間継続で意味がなか った。自白も教会法は自由意志性を強調しているが、これも、拷問による自白をあとで確認させ るというやり方でごまかされた。そのため一度異端の疑いをかけられたら、それを晴らすことは ほとんど不可能だった。ただ教会は、刑罰については、形式上はどこまでも教育刑の見地でのそ み、死刑は重罪や重犯以外には適用しない定めだった。一般には断食、ミサ、巡礼、笞刑、公職 ていはっ 剥奪、重いときは公開の笞刑、異端の十字マークを胸と背につけること、剃髪などである。しか し公開刑はその人の社会的死刑にも異ならなかったので、それをいさぎよしとしない人は、これ をこばんで火刑に処せられることも少なくなかった。 異端審間には死刑を伴うので、世俗権力の協力が必要だった。そして異端は既存の社会制度に 対する挑戦であることが多く、かつまた没収財産は教会と折半する例が多かったので、世俗権力 は一般に異端裁判に非常に熱心であった。しかし異端裁判が過激になり、封建諸侯をさえ弾劾す ~ ・んがし 222
育てた社会環境の方である。 両異端はともに、十字軍以来急速に発達した都市を地盤にしている。ここは伝統的な教会の組 ュニケーションに便で、群集心理の恰 織では手のとどきにくい社会環境である。密集生活はコミ 好の場所である。それは異端の流布にも恰好な条件である。 都市はまたクリュニーの改革や、その後におこったシトー派 ( 一二世紀半ば ) やその他の新しい 。ところが都市は一二世紀の学問や教育の復活 修道生活の影響も、農村とちがっておよびにくい の影響が最初にあらわれたところで、教会の世俗的権力や富、僧侶の俗生活に対する批判の空気 も他のどこよりも早く起こっている。これが東方の異端思想の影響をまっさきに都市に定着させ たそもそもの理由だった。 カタリ派もワルド派も、使徒的清貧の理想を説き、教会の尊重する伝承に代えて聖書を重んじ吁 れん・こく ( ワルド派は聖書のロ語訳の先駆 ) 、聖書に典拠のない地獄や煉獄の教えを否定する。この一種の聖と ふくいん 書主義から、両派は福音宣布の自由を主張し、既存の階層的な教会や僧侶の組織を否定する。彼 2 らは信仰の指導者である達識者と平信徒の区別をもつだけである。こういった点は、カトリック 世 教会の封建領主としての現実、伝統主義、権威主義に正面から反対するもので、中世末期の異端中 として有名なイギリスのウイクリフやポヘミアのフスの教義をおもわせるものがある。 こうみてくれば、異端は、教会の制度や組織がすすむにつれて信仰そのものが形骸化したとこ ーフェクト