戦争 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ
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1. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

短剣がどういう意味をもっかというと、重装騎士が落馬したときとか、彼を背後から不意に襲 ったときに、板金のすきまから刺すのである。騎士はとっさには思うようにふりむけないからた。 また弓隊はいつも歩いているのではなく、移動には馬を使用し、大いに機動性を発揮した。 かしら 歩兵戦術にはフランスよりもイギリスが長じていたが、両軍とも重装騎士がやはり軍の頭であ った。おのおのの小隊は重装騎士一人を中心とする数人の兵士から成り立っており、さらに騎士 こしよう には馬を護衛したり武器を持ち運んだりする従卒や小姓がついていた。あまり役に立たなくなっ てきてもやはり騎士が頑張っているあたり、まった く中世の戦争とはのんびりしたものだ。 で 戦法は、かってのように隊伍堂々の戦列をととの えてから双方ぶつかり合い、おのおの一騎打ちで勝 戦敗を決するという正攻法よりも、小部隊での奇襲戦 の軍 シン法がしばしばとられるようになった。 代 レラ ところで、新兵器がいろいろ現われたにもかかわの 戦けらず、戦争それ自体は、高級貴族になればなるほど苦 交敗 3 危険なものではなか 0 た。戦争は貴族たちにと 0 て、 英左 むしろ反対に大きな金儲けの絶好のチャンスたった

2. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

百年戦争により、この情勢はいっそう促進される。貴族たちは 相戦っておたがいに力を弱め、逆に国王はますます力を強めた。 像 の一四世紀後半のシャルル五世のときには、のちの全国的な徴税組 七織の基本がつくられていたし、さらにシャルル七世は官僚制を整 ル備したり、財政上の改革をおこなったり、傭兵常備軍を設けたり シ した。また国内の教会はそれまでの法王の統一的な支配から離れ て国王の下に入るようになり、法王はこれに対してもう文句を言う力を失っていた。 フランスはこうして、百年戦争後の最初の国王ルイ十一世 ( 一四六一ー八三年 ) のときに、絶対 主義国家の第一段階に到達した。そののちさらに、一六世紀後半に展開された = グノー戦争を通 じ、国内貴族の力はいっそう決定的な打撃を受け、同世紀の末から絶対主義は本格的に成立する。 ・フルポン王朝がそれであった。 百年戦争により、フランスはフランスに、イギリスはイギリスにもどり、それぞ バラの戦い れ国内の統一化へとむかうことになるが、イギリスでは戦いに負けたことと、時 の国王ヘンリ ー六世 ( 一四一三ー六一年 ) が政治的に無能であり、また精神的にオカシかったこと などをきっかけとして、戦争直後に政治的な大混乱がまきおこった。 現在の王朝ランカスター家は正統ではないのではないか、と反対派のヨーク家の人々は考えた。 460

3. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

ランカスターもヨークも、ともに百年戦争をはじめたプランタジネット朝のエドワード三世から 分かれたものだが、ランカスター王朝初代の王ヘンリー四世は、エドワード三世の後継者でプラ ンタジネット朝最後の王リチャード二世から一三九九年に正当の権利なくして王位をうばったの アルマニャックと・フルゴ ーニュの抗争を生じたフランスの場合と不思議にも同様に、六世の、 しかも気ちがい国王の下で、こうしてランカスター家とヨーク家はフランス以上の血なまぐさい 内乱を展開する。百年戦争の一一年後の一四五五年から八五年まで戦われたパラ戦争がそれだ。 ふうが 実情にそぐわぬその風雅な名称の由来は、ランカスターが赤い・ハラ、ヨークが白い・ハラの黴章 をつけて戦ったからだとされている。一説では、・、 ノラをつけたのはランカスターだけだったとも ハラ戦争にはイギリスのすべての封建貴族がまきこまれ、肉親同士といえども敵味方に分かれ界 て殺し合い、血で血を洗うようなまことに凄絶な地獄絵図が各所で展開された。中世でこれ以上 残虐な戦いはなかったとさえいわれる。さきのヘンリー六世やヨークのエドワード五世といったゆ れ 崩 国王も、血の刃にかかってたおれた。 三〇年にわたるこの正視にたえぬほどの内乱は、最後にランカスターの流れをくむチューダー 家のヘンリーがヘンリー七世 ( 一四八五ー一五〇九年 ) として王位につき、ヨ 1 ク家から妃を迎え せいぜっ

4. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

フランス征服に際しての重要な拠点となるにちがいない。 英王がこんなことを考えているとき、仏王も同じ問題についてまったく逆のことを考えていた。 4 いまこそフランス内の英領を全部整理して、フランス王国の真の統一をはかるべきだし、そのた めにもギュイエンヌやフランドルは、何とかして自己の手中に入れてしまう必要がある。 両国王はけっして単なる夢想にふけっていたわけではない。かれらの考えの背後には、両国の 経済発展とそれによる王権の中央集権化の事実にもとづく、強い自信がみなぎっていた。 戦いはこうして始められる。フランスははじめのうちまったくの連戦連敗で、戦場の舞台であ った。ここで私たちはまず当時の軍隊組織について考えてみよう。 封建社会での軍隊、つまり封建軍隊というものはまったく非能率そのものであ 戦争屋の出現 った。主君の命令は封建的な臣下としての直臣にまでしか伝わらず、臣下の臣 下っまり陪臣の行動は、直臣の命令により左右される。このように命令系統は全然一貫しない。 しかも臣下の主君に対する従軍義務は、一年に一定の日数、たとえば四〇日だけときめられてい る場合が多く、四〇日を過ぎると、たとえ交戦中でも臣下はさっさと戦場を引き揚けてしまうこ とがあった。それに彼らは、だいたい気候のよい夏のあいだしか動かなかった。もっとも、これ は主君が他人の所領に戦いをしかけるときの話で、逆に主君が敵に攻め込まれた場合には、敵を 追いはらってしまうまで戦いを続けたもののようた。

5. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

の神聖な地位を利用することができた。彼はゲルマン時代以来、神々の後裔として神秘な呪術力 せいべっ ( たとえば病気の治癒 ) をもっと信・せられていたし、。ヒビンの例にみられるように教会が聖別した神 聖な人格だった。このような国王の地位は、彼に対する反抗を道徳的にむずかしくし、知行関係 を緊密にたもつ上に効果があった。しかしこれらの利点は、、・ しすれも法王権が皇帝あるいは国王 に、聖職者の任命権を認めているかぎりのことで、一度その保証がなくなると事情はいちじるし く変わってくるのである。 法と裁判ーーカは中世の記録には、しきりに「神の裁き」という文字がみえる。たとえばさき 正義であることにひいた「シ = トラス・フルクの誓い」をのせている = タルドという人の歴史 のなかで、著者はこの誓いをかわした東フランク王ルードヴィヒと西フランク王シャルルに、わ れわれは神の裁きによって勝利者になった、と語らせている。これはこの二人が兄のロタールと てんゅうしんじよ の戦いに勝ったということなのだが、天佑神助によりという太平洋戦争時代おなじみの言葉とは、環 だいぶ意味がちがう。ルードヴィヒやシャルルは戦争をほんとうに神の裁判と考えていたのだ。生 中世人にとっては戦争が裁判だったばかりでなく、裁判はまた戦いだった。正邪の判別はしば社 しば裁判官立会いのもとに決闘でつけられた。決闘でないときは、わが国の昔でいえば「くがた封 しんめいさいばん ち」にあたる神明裁判が行なわれた。その具体的なかたちはあとでのべるとして、どうして中世 人は戦争を裁判と考え、また裁判を決闘や神明裁判で行なったのだろう。これは中世人の生活を こうえい

6. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

このようにみてくれば、民族大移動期のローマ帝国なるものの実態も、おのずと想像できよう。 一言にしていえば、それはゲルマン人にまもられたローマ帝国なのであり、少なくとも西口ーマ は、民族大移動にさきんじて、内部からゲルマン化していたのである。この点からいえば、聖ヒ ェロニムスの嘆きにもかかわらず、民族大移動のもたらした有為転変はけっして大きいものでは よ、つこ 0 しかし、それにもかかわらず、民族大移動はそう名づけられるだけの理由があった。というの は、ゲルマン人が一つの部族集団のままでローマ領内に入ったのは未曾有のことだったし、三七 のんぎ 五年以来の移動は、それまでのような「多少の中休みをもった徐々たる移動」といった暢気なも のでもなく、また、従士の一隊を率いた首領たちの略奪遠征でもなかったからである。 ゲルマン人たちは家族と家財を牛のひく車にのせ、家畜の群れを従えてローマ領内に入ってき た。それはちょっと開拓時代のアメリカ西部に向かう移住者に似ている。危険な場所にとどまっ たり、戦争でもあれば、移動用の牛車はとたんに防塞に代わる。彼らは牛車で円陣をつくり、家 畜をそのなかに追いこみ、家族を牛車内にかくして戦った。 これもインディアンとの戦いに似ている。しかしアメリカ西部の開拓民とゲルマン移動部族の ちがう点は、ゲルマン人たちが自由な土地も豊かな食糧ももたなかったことだ。すべてはローマ 帝国政府当局の許可によらなくてはならない。それが適時に得られぬ場合、生きるためには戦い てんべん

7. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

たくわ よそ四年に一度ぐらいのわりで起こり、貯えの乏しい下層民は餓死をまぬかれず、富裕なものす らも時に辛うじて生命をつないだのであった。 このようなあらゆる災厄に加えて、中世社会は盗賊と略奪の世界だった。封建的秩序が確立せ ず、しかもイタリアへの往還にあたる南フランスは、特にその被害の多い地方たった。その主た る原囚は傭兵であった。一年に四〇日という勤務期間をもっ封建軍隊は、戦争が大規模になり長 期化する一一「三世紀には、そのままではもう役に立たなくなった。勤務の延長には別途の支払 いが必要だ。そこでどこの国王や諸侯も、戦争にさいしては傭兵にたよるようになり、他方では 彼らに軍隊を提供する職業的な傭兵隊長があらわれてくる。アラゴン人、ナヴァラ人、・ハスク人、 ・フラ・ハント人、ドイツ人、これが傭兵の主たる供給源である。戦時の傭兵はしかし平時の盗賊た。 彼らは戦争がおわっても隊を解かず、計画的な強盗と略奪に生きる。社会のあらゆる脱落者がこ じようしぐん れに加わり、尼僧院はまた大量の娘子軍の供給者だった。アルビジョアの十字軍は、十字軍側もラ ノ さんか 異端の側もともに傭兵を多数に使用したので、戦争の惨禍はいちだんとはなはだしかったといわ の 会 れている。 社 天災に対してはただひたすらに祈り奇蹟のみを待った人々も、人災に対して時に勇敢に立ち上中 がった。つぎの物語は、このような中世の自衛運動の性質と結果とを通し、中世社会の残酷な真 2 実をわれわれにったえるものである。

8. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

れたのであった。 死神が通り過ぎてしまったとわかったとき、人々はどんなに狂喜したことだろうか。当時の有 名なフランスの年代記作者ジャン“ド“ヴネットの語るところをきこう。 「人々はおたがいに祝福しあい、結婚式は急速に、いままで聞いたこともないおどろくべき数に 増加し、女はたてつづけに二、三人の子供を産んだ。ただし、産まれた子どもは、歯が一一〇本か 一一二本しか生えなかった。これは、ベストの摩訶不思議な魔力がもたらした最後の災害であっ こ 0 一三三七年、イギリスとフランスとの間には史上名高い百年戦争が勃発す 百年戦争のはじまり る。それは一四五三年まで続けられたから、ちょうど一〇〇年というわけ ではなく、また交戦状態が一〇〇年のあいだ続けられたわけでもない。途中に何回もの休戦があ り、戦いそれ自体は間歇的であった。 戦争のきっかけは、九八七年以来連綿と続いてきたフランスの力。ヘー王朝が一三二八年に断絶 し、男系の相続人がいなくなったために、イギリス国王エドワード三世が母方の親戚関係から王 位継承を主張したことにある。しかしこれはあくまでイギリス側の口実であった。王位は実際に はただちにカペー最後の国王の従弟フィリツ。フ ( 六世 ) に引き継がれ、ヴァロア朝が成立し、英国 王もいったんはこれを認めたからた。 43

9. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

フスが宗教改革をとなえる 一四〇三 一四一四コンスタンツ公会議 ( ~ 一四一 0 一四一五フスが火あぶりの刑に処せられる 一四二九ジャンヌいダルクがオルレアンの囲みを破る 紀一四三〇ジャンヌが火あぶりの刑に処せられる 一四五一一一百年戦争がおわる。東ローマ帝国減亡 一四五四 ハラ戦争 ( ~ 一哭五 ) がはじまる 世一四五五 ィリヤとアラゴンが合同して・スペインの 一四七九カステ 統一が成る 一四八五テューダー朝 ( ~ 一六 0 三 ) 創設 一四九一 コロン・フスのアメリカ発見 一四九二 一四九一一一皇帝マクシミリアン一世 ( ~ 一五一凸 スイスの独立がウエストファリア条約で正式に 一六四八 みとめられる 以 紀一八〇六神聖ロ 1 マ帝国の終焉 一九二〇ジャンヌⅱダルクが聖者に列せられる 最古の活字印刷『三十一 行贖宥状』 戦国時代はじまる 499 年表

10. 世界の歴史〈3〉 中世ヨーロッパ

たノルマン人が一一世紀におこした新しい動きは、「孤立した」ヨーロ ヨーロツ。ハを他の世界に結びつけたものとして大きい意味をもっている。 シャンソンードージスト 一二世紀フランスの叙事詩、武勲詩のなかに「ガラン = ドモングラ オートヴィルの兄弟 ヌ」という一連の歌物語がある。これはサラセン人の征服者ガランとその 子孫の物語だ。ガランは元来土地もない下級貴族たったが、サラセン人の城を奪って所領をきず き上げた。彼はその四人の子が成人すると、自分同様独力で財産をきずくよう城から追い出して しまった。同様に彼らの子供も遺産の相続を許されず、サラセン人との戦いで身を立てねばなら よ、つこ 0 ガランドモングラヌの一族は、ローランと同じく、サラセンを不倶戴天の敵とするキリス取 見 トの戦士だが、彼らのかもし出すその雰囲気ははるかに粗野で、それだけまたゲルマン的な荒々 ッ しさが感ぜられる。ところで、父の財産相続から閉め出され、異教徒とたたかって自分の所領を口 ョ 打ち立てるというモチーフは、不思議なほどノルマン武士の生活に似ている。彼らが十字軍に参 の 加してたてた功績は有名だが、それ以前にも、彼らはたえずスペイン、イタリア、ビザンツなど の遠い異国の戦争に参加し、勇名をとどろかしていたのである。 ノルマンディーの下級貴族にオートヴィルのタンクレッドと名のるものがあり、彼に計十二人 7 2 ごう の兄弟があった。彼らはみな武勇衆にすぐれた剛の者そろいだったが、冒険と幸運を求めて故国 ふぐたいてん ッパに新しい刺激を与え、