言の書をたてまつった。 「あなたのような方が、とくに欲望を去り酒色をしりそけ、きわめて簡素な修道生活をみずから 行ない人に勧めた老子や仏陀を祭るのは、はなはだしい矛盾じゃありませんか。その仏というの は、老子が夷狄に入って仏となったのだともいう人がありますが、美しい女が誘惑にきても、革 ぶくろ じようどう 糞に血をもった魔女と思って一顧もせずに成道したといわれています。陛下が黄帝、老子、仏陀 の道を尊び慕われるならば、酒と女の奢侈生活をやめねばなんにもなりますまい。」 意志力の強健さをうしなった宮廷貴族が、女にとりまかれた奢侈生活の中で行なう神の祭祠は、 日本の平安貴族の場合と同様に、なかば遊楽的なものであったであろう。しかし一方、真剣な沙 門の伝道者がこの皇帝の都の洛陽にきて、仏典の翻訳と宣教を開始している。 安息の安世高は帝の初年に、大月氏の支婁迦讖は帝の末年にそれぞれ洛陽に来て、前者は小乗 しン伝仏教、後者は大乗仏教の経典を訳し、それらの仏 イを る よの教典は魏、晋の漢人仏教徒の指導聖典となり、現に来 の 説一、虱ら『一切経』のなかに残 0 ている。 道 伝き中て 。 A 」てた 後漢の明帝が夢に空を飛んできた後光をもっ金絹 寺のめが 馬帝じ寺 白明よの人を見た。帝はこれこそインドの仏陀だとして、 9 8 のの・寸こ 陽漢剏、仏教を迎える使いをおくった。やがて白馬に経を 洛後日え しるかせん
西方趣味がこんなに流行しているかげには、西方貿易の繁昌が考えられる。それは絹の道の往来 が頻繁であることによるのである。 後漢の国威が衰微して、その西域経営の政治力は後退しても、たくましい商魂は、東西貿易の 巨利のためにはタクラマカンの砂漠をものともせず、シナとローマ、ベルシアの間を往来して、 シルクーード 「絹の道沿道の都市国家を繁栄せしめ、漢族富裕階層に胡風胡俗による奢侈生活を流行させた。 遠い西方のカス。ヒ海東南に国をさだめた安息 ( パルティア ) 人のごときは、とくに商才にひいで、 この仲買貿易に活躍したものである。その東には、インドに進み「絹の道」の南道諸国まで勢力 をはったクシャン王朝 ( 大月氏 ) が興隆していた。そしてこれらの国はすでに仏教の流伝地になっ ていた。そのうえギリシア文明をうけいれて仏像製作の技術が発達し、いわゆるガンダーラ仏教 美術が仏教徒の礼拝対象として普及していた。安息や大月氏の商人とともに、仏像をもった剃髪 の修行者が東方宣教に出てくるのは必至であった。 西方外国趣味を楽しんだ後漢の霊帝の前の桓帝 ( 一四六ー一六七年 ) は、 西方趣味としての仏教 宮廷に黄帝、老子をまつるとともに、西方渡来のインドの神として金色 の仏像をまつっていた。この皇帝も音楽がすきで琴や笙が上手であったが、美しい皇后のほかに 後宮の美女は五、六千人もおり、それらの召使女はその倍にものぼった。こんな多数の美女にか しずかれ、女と酒の享楽生活に耽溺している皇帝に対して、山東からきた学者襄楷は一六六年諫
下にあった西インドの土地も回復された。征服戦を積みかさねて、とくにインドにおけるすべて の外国人支配を駆逐する一聖戦」を戦いつづけたのちに大統一をなしとげたグ。フタ帝国に、必然 的にもり上がってきているものは民族意識であった。インドはインド人のインドにかえろう、聖 なるヴェーダの神々に仕えるインド人にかえれという動きである。そしてヴェーダ↓ゥパニシャ ッドに基礎をおいた第一階級・ハラモンの文化が主体性をとりもどしてインド人のインドを指導す る中枢となり、公用語としてサンスクリットによる学術が興隆した。 ン神 チャンドラグ。フタ二世の宮廷の九宝の一にかそえられる文豪カーリダ オ女 ーサーは、インドのシェークスビアに擬せられる。彼の著に帰せられて 一フっ いるサンスクリットの叙事詩、抒情詩、戯曲はかずかずあるが、『記念 、左獅の指輪によってめぐりあったシャクンタラー』の戯曲は、一七八九年ウへ 1 貨も ィリアム“ジョーンズによって英訳されて以来、各国語に翻訳されて有ン な金を イ いの華る 、。世蓮え名となり、ことにゲーテが『ファウスト』の序曲の構想をこの劇の序幕の ・一タ裏がから得たことによっていよいよヨーロッパ諸国に知られるようになった。ド 。フは字 ン グ右文インド空前の天文学者といわれるヴァラー ハミヒラも、この王朝にそイ ラ。タ ド王。フ ンるグたてられ、古代の天文学に関する書の知識を綜合し保存してくれている。 ャ射 チをチャンドラグプタ二世の時代の繁栄の有様を、ちょうどシナか。 (
というよりは、彼らのアクセサリーとして、また社交生活の高雅な用具として楽しまれていくよ うになった。 ここに生まれてきたものが、都の建康の宮廷や貴族の邸宅、ことに都の東南方にある山水の美 かいけ、 ゆたかな会稽地方にいとなまれた貴族たちの別荘で玄学、玄論の達人をまねいて行なう講述の会 や、古典の知識ゆたかにして詩文音楽をよくする名士たちが山水の美のなかに優遊し、別荘のサ ロンに談論時をうっす、いわゆる「清談」である。 清談の源流は、後漢末、外戚や宦官が専横をきわめて政治がみだれ、儒教主義の 隠逸の敬慕 礼教にもとづく社会秩序がこわれてきたのに対して、学者がこれを批判し非難し て政界道義の粛正を要請する清議清論を活に行なったのに出ずるといわれる。しかし魏、晋の 清談は、儒教主義よりも老荘の学に立ち、政治や儒教主義道徳の拘束の外に出て自由放談し、飲 酒や音楽に陶酔し、あるいは山水の自然美に優遊して我を忘れ、さらにまた個々の人間性の自由 を思うままに享楽していく竹林の七賢ばりの方向へもすすんだ。現実世界の政治や経済や道徳の 問題などは世俗のこととされ、そのような次元の低い俗談からぬけ出て、無為自然の境地で山水 や詩歌や高踏的な談笑をたのしむ生活が、高次元の貴族らしい風流生活と考えられたのである。 このように、政治が軽視され、また社会が不安定で、政界の人々に生命の危険がしばしば迫る おういっ 時代に、老子、荘子の「無為自然」とか「無」の境地がもとめられる思潮が横溢すれば、知識人
にむかい遼東に出るもの、⑤東は洛陽から山東半島の海辺の登州にいたるもの、⑥南は襄州から ベルシア、アラビアにつらな 江陵に出て揚子江をわたり遠く広州 ( 広東 ) にすすみ、海路インド、 ペん るもの、および、⑦洛陽、汁州 ( 開封 ) から大運河を揚州に出て揚子江によって東は海へ出、南し ては江南の豊かな水路につながって蘇州、杭州、明州、福州など各地方へ出、また広州にも通ず るものなど一〇もかそえられる。 「天下の道は長安に通ず」の語は事実であったのである。新羅やわが日本への出入港は、北から 登州、淮河下流の楚州、揚州、明州などであった。これらの洛陽、長安への交通路線上には、商 業都市が発達し繁昌したことはいうまでもないが、ここでは南海をへて遠くインド、アラビア、 ベルシアからきた貿易品を長安にまでおくった広州と、大運河によって江南諸地方、東方日本な どを長安に結びつけた揚州の繁昌を代表としてあげておこう。 広州は広東省の首府、華南最大の商業都市、シナ三大河の一つである珠江 広州の蕃船ーーー・ 宮廷買上使の宦官 ( 西江 ) が南海にそそぐ手前、北江、東江を合流して大きな三角州をつくるそ たんみん の北端、珠江の北岸を中心にして発達している。珠江上には蛋民という水上生活者が、動く舟の 町をつくっている。東南アジアに商業資本を深く広くおろしている華僑も、多くは郷土をこの地 方にもっているし、近くは孫文を中心とした革命運動の根源地にもなった。 古くから海外の物資と思想を陸揚げしつづけてきたこの地から、いまでは黄河の新鉄橋をこえ
風のなかで数百にひきちぎれ、非難の声がわきおこった。皇帝の武太后もさすがに恥したが、そ しゅゅ しようどう れでも「弥勒成道のとき、天魔が宮を焼き、七宝台が須臾に散壊すと経に説かれています , など ねいしん となぐさめる佞臣もあった 9 ようやく懐義をにくむようになった女帝は、ひそかにこれを殺させ た ( 六九五年 ) 。 こんなばかげた怪僧を寵愛した武太后は、慈氏 ( 弥勒仏のこと ) 越古金輪聖神皇帝などと号した が、けっして単なる馬鹿ではなかった。太宗、高宗以来の国威を失墜することなく、文運は興隆 びんらん をつづけていた。しかし、宮廷内部や官僚社会の紊乱は淫蕩と享楽を追ってその極に達していた。 七〇五年、八三歳になった女帝が病床についた。不遇に泣きかつおびえて暮らしていた中宗が、 時いたれりと武氏一門を殺し、病床の女帝に譲位をせまり、唐の国号を回復して帝位についた。 日本の奈良平城京を創建した元明天皇は、この中宗の唐復興第四年に即位した。 全国の大雲経寺は名を大唐中興寺と改められ、ついでまた竜興寺とあらためられた。日本でや がて計画される国分寺の制度を論ずるものは、この大雲経寺や竜興寺をわすれていてはならない。 おくりな 武太后は、中宗から「則天大聖皇后」と諡された。そもそも彼女は、個人の自由をあくまで通 力いらし した女傑だったのか、それとも傀儡にされていたのか、はたまた異常性格者か。それは精神分析 ようきひ 学者の協力研究にゆだねて、女禍つづく唐朝から開元、天宝の治世、楊貴妃の登場する大唐最高 の歓楽社会へと急ぎ訪ねていこう。 366
古像の修理一五〇万八九四〇体」という復興ぶりであった。 ならえん 文帝の幼名は那羅延 ( 仏教の守護神 ) といい、生まれたときに山西から一人の尼がきて、この子 は俗間で育ててはならぬ、自分が育ててあげるといって、生まれた場所を般若寺として帝を養育 した。帝母があるとき帝を抱いたら竜のように頭から角が出て、体中に鱗が生じたので、びつく りして地におとした。尼がそれを見て、「天下を得るのがおくれた」とたしなめた。 こんな誕生説話は、隋の宮廷史官によって記録され宣伝されたものであるが、文帝自身の詔勅 のなかにも、しばしば自分を養育した「神尼」のことに言及しており、その像を祭ったり寺や塔 をたてたりしている。 新都長安の建設に際して国立寺院として城内に大興善寺が建てられたが、この寺は隋、唐にわ めいさっ たって内外の名僧が住して翻訳、講説などを行ない、中央仏教随一の名刹となった。また、全国 の州県にも州立、県立の僧寺、尼寺各一をたてるようにすすめ、新長安城にも二県寺が開皇三年 にたてられた。長安は中央の朱雀大路で大興、長安の二県の行政区に分かれていたが、朱雀大路 東の大興県は禅林寺を、西の長安県は宝国寺を、それそれ県寺として設置した。州県に官立の僧 寺、尼寺を建設する制は、日本の国分寺制の源流を考えるばあいに注意せねばならぬものである。 同じく開皇一一一年、新都にうつった文帝は、一二〇枚の寺名額を朝堂の下において、「もし寺を たてるものは随意にこれをとれ」といって、ひろく官民に建寺を奨励したのであった。文帝が死 330
よ仏教化は急。ヒッチとなった。 東晋の王室も豪族も、宋、斉のそれらも、つぎからつぎへ建康周辺に寺をき こんじぎ 江南仏教の隆盛 そい建てた。塔という珍しい高層建築、壁画で飾られた仏殿、金色まばゆい 仏像の前で異香をたき音楽をかなでて行なわれる法要、仏教とともにくる異国の珍しい工芸美術、 それらはすべて貴族たちの心をひきつけ楽しませるのに十分であった。 寺院と僧尼が激増してとどまるところを知らぬ勢いは、また多くの弊害をうんだ。政治家のな かからは、寺も僧尼も国力の大消耗であり、中華の風教を破壊するものである、仏教教団を整理 し抑制せよという献策もしばしば提案された。それほどに仏教教団の急速な膨脹は、莫大な消費 をともなってつづいたのである。 もちろん他面には、名僧智識もそくそくと出、彼らの伝記を編集した『高逸沙門伝』 ( 晋、竺法 きやくちょう 済撰 ) 、『遊方沙門伝』 ( 晋、釈僧宝撰 ) 、『東山僧伝』 ( 晋、瑯超撰 ) 、『廬山僧伝』 ( 梁、張孝秀撰 ) 、『沙 せんじゅっ しやくえきよう 門伝』 ( 梁、陸杲撰 ) 、『名僧伝』 ( 梁、釈宝唱撰 ) 、『高僧伝』 ( 梁、釈慧皎撰 ) などが数多く撰述されて いる。これらの伝記におさめられた人々は、魏、晋、南北朝に仏教弘宣のために活動し、その時 代の精神界に少なからぬ影響を与えた人々であった。貴族たちはきそって学徳すぐれた僧を「家 僧」としてまねき、一門のために仏教の講義をしてもらい、仏教の教養をひろめ信仰を増進する 指導者として尊敬するようになった。宮廷や名門豪族の邸にむかえられ優遇と尊敬をうける家僧 244
文帝にも、皇后のほかに多くの宮女がかしずいて寵愛をうける機を待っていた。皇后袁氏は一 しよう 女一男をうみ、その男子劭は太子となり、帝の寵遇は袁氏に集中していたのたが、そのうちに潘 しゆくひ しゅん 淑妃が可愛がられて男子の濬をうんだ。嫉妬にもえた皇后は病をえて死んだ。母を失った劭が潘 淑妃と濬とを深くうらんだのは当然である。濬は危険を感じて進んで劭に接近しその意を迎える ことにつとめ、すっかり悪友仲間になった。二人は自分たちの悪事が父皇帝の耳に入るのをおそ れ、帝の人形を宮廷の土中に埋めて、信仰する女巫に呪詛せしめるうちに、事がばれて、劭も濬 も危地に追い込まれた。劭は兵士をして父皇帝と帝の信任する臣僚たちを殺させた。元嘉の治世 の君主までが、その子にかかって殺されるにいたって、宋朝廷はいよいよ血なまぐさい地獄の様 相を呈してきた。 しゅん 父帝からいちばん寵愛されなかった武陵王駿が、劭と濬を殺して即位した。これが孝武帝であ る。劭とその四子、濬とその三子を、みな首と胴体とを別々にして獄門にさらしたうえで、揚子 江へ投げこむというような、残酷をきわめた処刑が劭らの一味に加えられた。 だがそれはほんの序のロであった。孝武帝はこれ以外の兄弟や親類を、口実をもうけてつぎかの らつぎへ殺していった。帝がどんなに酷薄きわまる性格の持主であったかは、つぎの挿話によく南 あらわれている。帝は寵愛する一人の崑崙奴を左右にはべらしておいて、気にくわぬ臣僚を杖で なぐらせた。侍中の一人に、酒が飲めず芸事もきらいな謹厳な君子があった。これを気にくわぬ くろん えん はん
や王弼である。彼らは『易』や『老子』『荘子』を好んで研究した。その知識ー こ立って加えられ る儒教古典の学は、漢代の儒学とは異色のある方向へすすんた。 彼らは老子の「無」の探究体得を聖人の学とした。王弼 ( 一三六ー二四九年 ) はある友人が「聖 人孔子はいっこうに無について説いていないではないか」と反問したのにこたえて、「聖人 ( 孔子 ) ことばおし は無を体得した人であり、しかも無は言で訓えるべきものではないから、無に言及していないの だ。老子はまだ無の体得にまで達していなかったから、しきりに無を説いたのだ」といった。 何晏 ( 二四九年誅殺 ) はその母が曹操の妾となり、白面の美男子を見込まれて曹操の女を妻とし た。魏の宮廷に育った貴公子で、相当放縦な生活もしたようである。彼は孔子と老子は同じよう に聖であり、聖人は「無」の体得者であるとした。王弼も何晏も正始末年にあいついで死んだ。 しかしその伝統学風をやぶった老、荘ばりの言論は、「正始の声」として西晋にひろまり、東晋 にいよいよ追慕されて貴族社会によろこばれた。そして「玄学」といわれ「玄論」とよばれる万 物の根元としての道を「無」としてとらえ論ずる形而上学的思惟や議論が盛んとなり、それがま た清談とむすびついて南朝貴族の社交生活の中心となっていった。 儒教主義政治道徳 ( 礼教 ) の拘束に反抗し、その外に出て自然のままの、また自由三 竹林の七賢 気儘の生活を楽しもうと実行にうっした知識人の一団が魏の洛陽地区に生まれた。 ちくりんしちけん 「竹林の七賢ーと称せられる人々である。時世のすね者でもあり、一種の人間解放につつばしつ おうびつ 国争覇