勢力 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈4〉 唐とインド
107件見つかりました。

1. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

た。有名な「死せる孔明、生ける仲達 ( 司馬懿の字 ) を走らす」の諺は、ここから語りったえられ たものである。しかし、諸蔦孔明死後の蜀漢の国力は、次第に魏、呉の勢力の前にちちまってい って、二六三年には魏軍に減・ほされてしまった。 いったい曹操が、ロポットにもせよ後漢皇帝を奉戴して、河南省の中原の地に 呉、魏の争覇 都して漢民族の伝統の郷土に勢力をはったことは、蜀漢や呉よりも人心を得る 上にはるかに有利な条件をそなえたものであった。そのうえに、その広大な領域は、戦争で荒廃 していたとはいえ、何といっても久しく最もよく開発されていた生産と文化の中心地である。曹 たがや 操は、彼の智謀としてよく輔佐した司馬発の「かっ耕し、かっ守る」、すなわち「兵にして農」 ひょうろう とんでん たらしめる屯田制をしいて、兵力を減少せずに生産を増加し兵糧自給の法をたてるとともに、土 地と家をすてて流亡する戦災難民をまねいて、主人を失って荒れている土地を耕作させ、牛を貸 し税を低くして生産意欲を高めた。かくて中原地方の人口と耕作地は次第に回復し、遠く領域に おさめた甘粛地方の荒地や塩池の開発なども行なったので経済力も大いに充実した。 魏が蜀漢、呉を制覇することはもはや必至であった。しかし曹操をたすけた司馬懿の実力は曹 うなぎ 操の死後には鰻の・ほりに充実して、その子孫はつぎつぎに反対勢力を排除し、二六五年には孫の しん 司馬炎が魏帝を廃して自ら晋皇帝の位についた。一方、南の方、孫権の呉は、揚子江の防衛線を もち、水軍をも養成して、他の侵入をゆるさぬ態勢をととのえた。江南は土地広く人口は稀薄で

2. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

三国、両晋、南北朝、隋、唐時代に、中央アジアの乾燥地帯に点在するオアシス諸国を飛石づた いに、インドの使者と仏教がそくそくと訪れる出口となり基地となった。 中部インドの平野を中心にして全インドに威力をはっていたマウルャ王朝も、アショーカ大王 の死ぬころには、経済的にも軍事的にも国力をいちじるしく弱体にしていた。紀元前一八〇年頃、 将軍プシャミトラはそのつかえていたマウルャ王朝最後の王を殺して、同じくパ 1 タリプトラを 首府としてシ = ンガ王朝を立てた。しかしその勢力は、もはや西北インドには及ばなかった。の みならず、カリンガ王の侵入をうけて多くの財宝を奪われ、つづいてパンジャー・フ地方に君臨し ミリン / ていたギリシア人の王メナンドロス ( 仏典では弥蘭陀 ) の侵攻もうけた。さいわいにこれを撃退し えた王は、仏教を迫害し、血なまぐさい犠牲をそなえて祭る・ハラモンの馬祭りを復興した。ガン ジス川流域にはふたたび、パラモンによって指導され固められていく、インド伝統の・ハラモン主 義国家が興ってくる門が開かれたのであった。 ところで、西北インドでは、アレクサンダー大王以来、少なからず植民していたギリシア人に よって、さらにまた、たえずカー・フル渓谷を通路として出入するギリシア人とその文化によって、 インドの文化は刺激され、洗練されていった。アショーカ王の帰依と援護によって、ガンジス中 流の地方を中心としていた仏教は四方に拡大したが、とくに西北インドのギリシア的世界にひろ まり栄えた。 ~ 42

3. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

氏と羌とはチベット系で、四川から甘粛、および陜西の西南部に、後漢末か ら三国時代に入ってぎて漢人の郷村に雑居し、農業や牧畜に従事していたが、 ごち西晋時代にはまだ凶暴をはたらくほどの集団勢力とはならなかった。西晋時 者代にあばれだしたのは、河北、山西および陜西の北部などに入りこんできて たいた北方民族、ことに匈奴と羯とである。 、第れ 〉ら匈奴種族は、漢の国力が強かったあいだは、長城線外におし出されて遊牧 生活をやってしたが、 / 、 、 - 後漢末からその一部が長城内に移住して漢人の支配下 同 4 に労働したり、あるいは部落をなして農業民とな 0 て定着するものもあ 0 た。 石それらも戦乱と凶作に追われて、漢人の地方将軍に身をよせて兵となったり、 崗 雲豪族の農奴や奴隷になったりするものも少なくなかった。ことに晋の武帝の 治世になると、二六五年には二万あまり、二八四年には二万九千、二八七年 女 には一〇万あまりという大量集団が帰化してきたが、武帝はその山西、陜西 卑地方に居住することを許容しておいた。二八六年には一万人余が牛一一万二千 頭、羊一〇万五千頭をひきいて帰化移住してきた。ところで注意すべきは、 二八〇年に呉を平定した武帝は、地方の武備を縮小してしまったので大量南 下の勢いをなした匈奴族をおさえきることもできなかったのである。

4. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

日本はこのころ南朝鮮に勢力を伸展してさらに高句麗を征服しようとまで気おい立っていたが 実際はこの強敵には手を焼いていたようである。他方、宋は北の強大な北魏に対立し、その北魏 はまた高句麗と重要な関係にある。当時の極東の和平争乱は宋、北魏、高句麗、日本の相互緊張 関係をいかに維持するかにあったであろう。 以上のように日本の対外関係資料としても興味深いが、『宋書』はさらにさかの・ほって倭王の 讃 ( 仁徳天皇 ) 、珍 ( 反正天皇 ) 、済 ( 允恭天皇 ) 、興 ( 安康天皇 ) の使者がつぎつぎに貢献したことを のせている。だれでも知っている推古天皇の代の聖徳太子の遣隋使派遣よりも前から、ほ・ほ国内 の統一を成就し、国力の充実した大和朝廷は、すでに仁徳ー雄略の朝にわたってたえず江南の朝 廷と国交をつづけていた。もっとも、聖徳太子の遣隋使のように対等の立場にたつ国使の派遣で はなく、南朝に臣隷する態度であったことは異なっている。 いずれにしても、この時代の南朝との修好は、日本の文化の発達に貢献するところが少なくな かったであろう。雄略天皇が養蚕と絹織物の生産に努力し、使節を呉に派遣して織工女を求め、 暗 明 彼女たちを秦氏に管理させて養蚕織絹に従事させたことは、日本側が伝えているところである。 の やがて、秦氏から絹を貢進すること山のごとくであったところから「うずまさ」の号を賜わり、南 うずまさ 「太秦、と秦氏を書くようになったという話などと相対照してみると、日本の絹織物工業の発達 に果たした宋文化の役割と恩恵は、はなはた大きいといわねばならない。

5. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

固まった物部氏との二大勢力の軋轢が、海をわたってぎたインドの仏陀を祭るかいなかの問題を めぐって激しく対立していた。また外には祖宗が朝鮮半島に武力をもって開拓してきた勢力が、 みまな 新羅勢力に次第に圧迫されて後退し、五六二年には、日本の拠点任那の日本府が減・ほされ、五七 一年、欽明天皇は悲憤して、日本府復興を遺詔してなくなられた。 国内における保守、進歩両派の激突は進歩派崇仏派の蘇我氏の勝利にかたづき、その政治担当 によって、大陸文物ならびに仏教の導入とその興隆は急速に積極化してきていた。推古女帝の即 位は五九一一年末で、蘇我氏と手を組んだ奉仏の聖徳太子が摂政となった。隋は開皇一二年で、す でに南朝を滅・ほし、南北統一の大帝国になっていた。日本の宿敵新羅は、い ち早く隋に朝貢して 五九八年 ( 推古六年 ) 隋は高句麗征伐の軍を起こし、日本と親しい百済は隋への協力を申し出て いた。日本は六〇〇年 ( 推古八年 ) 新羅討伐の軍を出して一度は成功したが、日本軍が凱旋すると すぐに新羅は叛旗をひるがえし、その後の討伐は挫折して成功をみなかった。このような情勢下 における極東諸国間の外交政策の微妙なかけ引きは、必ずしも明らかではないが、日隋国交の問 題は、このような国際関係とともに考察さるべきであろう。 さて隋の歴史『隋書』には、六〇〇年、日本使節が隋の朝廷に至ったことをのせている。 たりしひこ あめきみ 倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩鶏弥と号す。使者が、「わが王は天をもって兄とし日 あつれき 3 イ 0

6. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

そこで謙譲の美徳のなかで平和のうちに王朝を交代せしめる形式をとった「禅譲」という革命 方式がしきりにとりあげられた。魏晋南北朝という多数王朝の頻繁な交代は、ほとんどこの方式 によって行なわれたものである。 漢を禅譲方式でうばった魏は、また同じ禅譲方式で臣下の司馬炎にうばわれた 司馬氏の革命劇 が、司馬炎が晋皇帝になるまでには、祖父の司馬懿から父の昭にわたる準備工 作があった。司馬懿は、河南の温県地方の豪族で、魏の建国時代の政治、軍事にわたる功はまさ に第一級にあり、したがって朝廷における実権は圧倒的であったけれども、魏の宗室や官僚のあ いだには反司馬派の勢力も少なくなかった。 そうそう はこの反対勢力の排除に苦慮していたが、二四九年、最大の反対勢力であった曹爽一派を誅 して、いよいよ朝権を独占する地位をしめた。老荘的新儒学を創唱し六朝の「玄学」の祖となっ た何晏も、このとき殺された反司馬派官僚であった。天子が懿を宰相に任じようとしても、最高 の栄誉である「九錫の礼ーを加えようとしても、彼はこれを固辞する低姿勢をつづけた。 翌年天子が司馬氏の廟を洛陽に立て、さながら天子に準するような栄誉を加えると、また反司 馬勢力が兵をあげたが、それはたちまち平定されて魏の宗室の勢力もいよいよ衰退し、反司馬派 の官僚もほとんど影をひそめた。これだけの準備をして死んだあとを子の師がつぐと、また反司 馬勢力の蠢動があったが、これも司馬氏勢力独走の道を大きくするたけで、天子のいれかえも行 しゅんどう しやく

7. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

しゅうちょう 陜西、甘粛、四川地方に住んでいた遊牧部族の一酋長から次第に軍事力を増 漢化した胡族 してきた苻氏は、石虎の部下となっていたが、石虎の死後、苻健が陜西長安に 出て前秦皇帝の位についた ( 三五二年 ) 。このころはまだ東晋の勢力が陜西地方にまで及んでいて、 前秦皇帝苻健は、ただ長安周辺の小地域を支配したのみであった。しかし、たまたま北伐してき た東晋の桓温の大軍をしりそけて、前秦国の基礎を固めた。 三五五年、苻健の死後、その後をついだ暗愚な苻生を殺し苻堅が即位すると、彼は漢人王猛を 任用し、漢族胡族に対する施政よろしきをえて国力を充実した。やがて郊を都として北シナ東半 に雄飛していた郊の前燕を滅・ほし、また西は甘粛の前涼をくだし、南は東晋勢力を圧して北シナ 一帯に君臨する大王となった。西域諸国の朝貢使や隊商が、その文物を伴ってそくそくと長安に きたため、その文化は向上し、経済力は増加した。また、彼は長安周辺の関中盆地に水利事業を 行ない、各地から漢胡の人々を招致し、田租を免じて農業生産を奨励し、すでに数十万の人口を もつにいたった長安の、食糧供給を保全した。 苻堅 ( 三三八ー三八五年 ) は胡族であるが、漢族伝統文化の教養を身につけて、儒教主義政治を 行ない、儒学の興隆にも力をつくした。儒教による農本主義、抑商政策をとってはいたが、平和 のうちに、四方との交通は発達し、商業が繁栄し、千万長者もうまれ、彼らの生活の豪奢なこと は王侯とちがわぬようになった。 かんおん ふけん ノ 06

8. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

ローマに通じた中インドに根拠をおいて全インドを統一したウルャ王朝が、アシ = ーカ王の アンドラ王国死後にまもなく崩壊してからは、中インドには小国が分立して、しばらく強大 な統一国家を見なかった。西北インドにはギリシア人やサカ人やクシャン族がつぎつぎに侵入し〈 て、ときには中インドまで圧力を加えた。これに対し、珍しくデッカン高原地方にアンドラ王朝ン の 族 が起こって、サカ族の南下勢力と攻防しつつ強大となり、紀元前一世紀から第一一世紀にわたって 民 盛期をむかえた。東と西との海岸をつらぬいて南インドの強国になったこの国は、西岸では、ネ ロ皇帝前後の帝政ローマとさかんに海路貿易を行なった。インドからは宝石、織物、香料が西にイ 運ばれ、ローマからはブドウ酒やガラスや、ことに多量の貨幣が輸入されてこの国の通貨に用い られた。 インド民族のインドへ シヴァ神の踊り。 14 ~ 15 世紀につくられた青鋼像 ノ 57

9. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

あったが、水豊かなよき耕地がひろがっている。孫権は北シナから流入する流亡農民をうけいれ、 江南の幼稚な耕作方法を改良して生産の増強につとめたので、江南の開発の進展にともなって呉 の国力も充実していった。しかし、二五二年、孫権の死後には、後継者やその一門の失政で次第 に人民のうらみを深くしていった。その間に魏は蜀を滅・ほして、その威圧を南にくわえてきた。 恐れた呉は、大げさな防禦工事に国費をついやしたり、つまらぬ出兵で兵力を消耗したりして、 落日の勢いをとどめえず、ついに二八〇年、これより前から魏をうばって皇帝になっていた司馬 しん 炎 ( 武帝 ) に滅ぼされて、晋の天下一統が成立し、三国争覇はここに終結をつげたのである。 この三国争覇をめぐる策士勇将の活躍は、中国人民の最も興味をひくところで 『三国志演義』 あり、小説『三国志演義』の成立となった。 『三国志演義』は、もとより忠実な史実ではないが、大体において史実をおいながらあやをつけ ている。そして芝居となり、語り物となって、中国人民の視覚聴覚を通してよく普及し、彼らを むしように興奮させたり、泣かせたり、笑わせたりするあいだに、三国志物語の人物がそのまま 史実となって中国人民の心のなかにうえつけられていった。あたかも忠臣蔵の芝居や講談を楽し争 国 んできた日本民衆が、その大石一党、吉良一党をそのまま史実の人として共感したりにくんたり するようになったのと同じである。 漢室の一門だという劉備の漢は、その弱小なため、漢室に対する敬慕や愛情のために、そして

10. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

な勢力をもち、たえず漢族と衝突して事件をおこし、殺伐な空気がながれていた。 この地方に在住する将軍は、この兵乱にきたえられ、武勇にすぐれたものが多かった。涼州系 あば の軍人は、かってのわが関東軍のように好戦的気分にみちた暴れ者そろいであった。しかも董卓 はこの一軍をひきいる涼州閥軍人の典型で、残忍非道、ちょっとした恨みも必ず報復せねばすま ぬという人物である。これを中原の帝都に招致したのであるから、たたごとではすむはずがなか っこ 0 らくちゅう 彼は犯罪人を捜索すると名づけ、兵士をはなって洛中にたちならんだ貴族富豪の家に侵入し、 ねこそぎ金品、婦女を掠奪した。市中にとるものがなくなると、葬ったばかりの先帝、霊帝の陵 墓をあばいて、そのなかの宝物をかすめとった。こうして洛陽の市民はたちまち恐怖政治の下に おののくことになった。 この暴虐には中原の諸将たちも坐視することができなかった。東方の諸軍閥は連合軍を組織し て、洛陽めがけて進軍を開始した。さすがの董卓もこの勢いにたまりかねて西方に撤退するのや むなきにいたった。董卓は洛陽とその周辺一「三百里の間を焼きはらい、帝と数百万の住民を強覇 制的にひきいて長安にうつった。老少男女市民はこの強行軍にたえかね、落伍し絶命するものが国 しかばね あいつぎ、史書は「屍は積んで路上にみちる」と書き、「洛陽の都は鶏大の鳴き声もきかれぬ荒 涼たる野となった」と記している。 しようち ほうむ 5