じて、ほかの女に熱中するようになり、妃元氏が急死する事件がおこった。母は太子が豚大にも ひとしい女を可愛がって妃元氏を毒殺したのだとおもって悲嘆した。皇太子への憎しみは晋王広 への愛を深める。皇太子はこんなことで廃されて庶人の身分におとされ、広が皇太子になった。 六〇一一年、厳格な独孤皇后が五〇歳でなくなると、広は帝や宮人の前ではいかにも悲しみにた えぬように慟哭していたが、私室にかえると飲食談笑、平生の通りであった。精進粗食で喪に服 している風をしているが、竹筒に肉や魚をいれて蝋でロをとじてふところにしのばせているとい うしまつであった。もっとも皇帝も長い間窮屈な思いをして皇后に頭が上がらなかったのが、い まこそ解放されたと思ったのか、若い江南の二美人 ( その一人は陳の宣帝の女、宣華夫人である ) を寵 愛しだした。しかし帝はすでに六〇歳をこえていた。二年して病気にかかり危篤になったときに、 老皇帝は侍者にそっと「皇后が生きていたらこんなことにならなかったのに」と嘆いたという。 帝が病気になると皇太子と宣華夫人が夜を徹して寝室に侍していたが、朝になって衣替えに出 た宣華夫人は、とっぜん皇太子広からせまられた。夫人は拒否して帝の病室にかけこんだ。青ざ開 めてふるえている夫人を見て帝がわけを問うと、夫人は泣きながら太子の無礼をう 0 たえた。老→ 帝は激怒して「畜生」とののしり、太子を廃しようと侍臣に「児をよべ」といった。「太子です大 か」というと「勇 ( 前皇太子 ) だ」と帝は答えた。これを聞いた太子は腹心のものを病室にいれ、 夫人をはじめ看病している後宮のものをみな別室にさがらせた。そのあとで、にわかに帝は崩じ どうこく
修道団体が成立した。 彼は・ハラモンによって固められた四姓の階級差別を否定し、さとりの道がすべての人に平等に 開かれていることを強調して、あらゆる階層の信者を得ていった。マガダの王ビンビサーラ ( 阿 闍世の父 ) はその都のラージャグリハ ( 王舎城 ) の郊外にある竹林園を寄付して熱心な信者となり、 その子の阿闍世王もまた信者となった。コーサラ国の都のシュラ・ハスティ ( 舎衛城 ) の富豪のスダ ぎおんしようじゃ ッタ ( 須達 ) 長者がシェータ林を寄進し、ここに祗園精舎が建てられた話は有名で、極東の仏教諸 国にも語りったえられたものである。 ル積 ' 。疆を須達長者は孤独の人々の救済につとめて給孤独 者牛い 長でて長者と称せられ、仏陀に帰依してそのよき住所を発 の タ者め ッ長っささげようと土地を物色していたが、太子祗陀の明 ダがき ア の前に所有するこの園こそ適当であると譲渡を求めた。 ア 衛太子はおしんでなかなか応じない。あまりに熱心 舎石っ るのいな長者のもとめに、太子はこの地一面に黄金を敷 す垣庭 付玉をきつめるならばといった。まさかと思っていたのイ 寄の貨 を塔金 舎大ただが、長者は車に黄金をつんで運ばせて地面にど 精トき 園一でんどんしきつめていった。太子も感激した。そし 祗フん 才 37
廃して武氏を皇后にしてしまった。ときに永徽六年 ( 六五五年 ) 帝は二八歳、武皇后は年上の三三 歳であった。 年下の夫をもった女の嫉妬心はおそろしい。武后に反対した大臣も元老も宮廷を追われたし、 前皇后は庶人の身分におとされて幽閉された。高宗がその幽閉の室を見舞ったことが知れると、 むち 武后は怒って、前皇后を杖打ち、手足を切って酒槽にほうりこませ、「骨まで酔わせてあげよう」 といった。前皇后とともに、 かっては高宗の寵愛を一身にあつめたことのある蕭妃も同様の憂目 にあった。蕭妃は、 ろうそ 「願わくば阿武 ( 武后 ) 老鼠となれ。われ猫となってその喉を食わん」 とののしった。武后はその後、宮中で猫を飼うことを禁じた。 顕慶元年 ( 六五六年 ) 、武后は皇太子忠を廃して自分のうんだ弘を太子とした。まもなく高宗は ふうげん 風眩 ( てんかん ) を病んだので、武后が代わって政務をみるようになった。六七四年、高宗を天皇、 武后を天后と、 しい、二聖と並称することにした。翌年太子は蕭妃の二女の幽閉を解くように天后 けん にたのんで殺された。天后はしばしば太子をかえたが、六八三年、高宗が崩じて太子顕 ( 武后の子、 のちの中宗 ) が即位したが、まもなく廃されて弟の旦 ( のちの睿宗 ) が即位した。武后は皇太后とし りせき らくひんのう て政務をとり、やがて武氏一族で朝廷の要職をおさえてしまった。李敬業 ( 李勣の孫 ) 、駱賓王ら は兵をあげて武氏をうとうとしたが、かえって敗れ、敬業は斬られ、駱賓王は行方不明となった。 くら うきめ 362
第図たのであった。ときに六四歳。 ふたもの ~ 帝その日、太子広から夫人へ小さい金の蓋物に親 ちんどく 本封をした賜り物が届けられた。夫人は鴆毒たと思 閻ってあけないでいると、使者がはやくとうながし ちぎり 霪唐た。開いてみると「同心結」っまり夫婦の契をも 騎とめるものであった。夫人は、もちろんことわっ た。しかしその夜、太子は夫人に通じてしまった。 いちす 太子広は遺勅といつわって兄の勇を殺し、ただ一途に、皇帝になりたさにあらゆる不道義、陰 謀を尽くしてとうとう皇帝になった。皇帝病にとりつかれたこの晋王広は、いまでもシナ皇帝中 ようだい の豪遊驕奢の標本とされる煬帝である。 ただ一すじに皇帝をあこがれた新皇帝が何よりもやりたいことは、天下独 権力を誇示する煬帝 尊の皇帝の威光、権力を天下に誇示することであった。皇帝、皇后らしか らぬ父母の倹約生活で国庫の富は十分にみちていることを彼は知っていた。きびしい父母の監視 下で、孝順をかざり品行方正をよそおってきた窮屈さが一掃されたことの反動もあるであろう。 即位するとさっそく、天下の大隋帝国をかざり、天下の独尊皇帝の威をますに足るような大土木 工事を、つぎつぎとおどろくべき物カ、人力を投じて行なった。彼は父によってきずかれた国富 3 7 8
察官は帰って玄宗に彼のことをほめて伝えるので、玄宗のお・ほえもめでたく、トントン拍子に出 世して、開元一一九年には平蘆軍司令官にの・ほり、天宝二年、はじめて長安にまねかれて玄宗に掲 見した。翌年には、平盧のほかに范陽の節度使を兼任し、あわせて十一一万にあまる大軍の総司令 官となった。同六年、御史大夫を兼任、これは時の宰相李林甫の差し添えによったものである。 玄宗はますます安禄山を優遇し、禄山もまた年老いた玄宗をよろこばす術を心得ていた。 こうしたとき、玄宗が彼に皇太子を紹介した。ところが彼は太子にあってもいっこうに拝礼し ない。そこでおっきの家来がいった、「どうしてお辞儀をなさらぬ」 禄山「私は蕃人で朝廷の儀礼を知りません。いったい太子とはどういう官なのですか」 玄宗が口をはさんだ、「世嗣の君のことだ、朕が死んだのちに位を伝えるものた」 禄山「私は愚かもので、これまで陛下だけを存じて、太子は存 れ じ上けませんでした。死罪の過、なにとそおゆるしを」 そ と、ようやく皇太子に拝礼した。玄宗は彼の純朴さをほめた。安 の 、。を彩禄山は楊貴妃の養子になりたいと申し出てゆるされた。実はかれ帝 唐は貴妃よりも一五歳も年長であった。この年長の養子は、入京参大 ・内するとまず楊貴妃に拝礼する。玄宗がいぶかしげにそのわけを 日うと、
全国の俊才を集めて勃興した。 さて宣武帝治世に急速に興隆した洛陽仏教は、つぎの粛宗孝明帝の朝廷にひきつがれ、この一 代の実権をにぎった帝母霊太后胡氏とその一族の熱心な崇仏によって拍車をかけられ、洛陽仏教 の、ひいては北魏全域の仏教の全盛期を招致するのである。 霊太后の叔母に、宣武帝の宮廷に出入りして仏教を講じていたえらい尼僧 洛陽の象徴永寧大寺 があった。彼女は仏教の講説に宮廷に出入りする機会をとらえて、若く美 しかった霊太后を宣武帝の側近に入侍させることに成功した。北魏では、従来太子の母を殺す風 習があったので、後宮の女たちは誰も太子をうむことをいやがっていたが、ひとり霊太后は「太 子の母になれたら死んでもよい」と決心していた。そして運よく太子、すなわち孝明帝の母にな ったのである。 五一五年、宣武帝が急死し、六歳 を時年陽立 。魏元洛林の孝明帝が即位した。霊太后をにく 亡 安。が . ツをる天る塔んでいた宣武帝の皇后高氏は尼となの ・せ。あ仏 朝 ) 第、さ塔がな って内城にある瑤光尼寺に入った。 【】髴石銘う 霊太后は帝母としてみずから政務を 8 ~ ~ 物← , を層 , のた 2 タ工 - 一寧のはみ、父の胡国珍は国務に参与し、そ ド、【ソ永代 ' にし
こう 三一一一三年、石勒が死んでその太子弘が即位したが、実権は猛将石虎の手に握られた。石虎はや いんぎやく がて弘を廃して郊に都をうっし、みずから大趙天王と称して豪奢と淫虐の限りをつくして趙の減 亡をまねいた。 石虎はつぎつぎに宮殿の大造営をやった。士民の女一万人をえらんで美しい服を着せ、金銀で 飾り、宴会や出猟の儀仗に参加させた。彼は太子の邃を可愛がったが、邃も驚くべき残忍な男で、 美姫の首を切り、盤上にのせた生首を見ながら賓客とともにその肉を煮て食ったという。この可 愛がった太子とも、ひとたび不和となるや、怒った石虎はこれを殺し、その妃も、その臣三〇〇 人も一挙に殺してしまった。 馬が足りなくなると、民間の馬四万頭を徴発した。郊に四〇カ所の宮殿をつくり、長安、洛陽 に宮殿をいとなむときには四〇万の人民を徴発して労役に服させた。その他、つぎつぎに大事業 を起こして大量徴発をやるので、人民の七割までが破産してしまうという始末であった。また大 勢の女官をおくことにし、人民のあいだから二〇歳以下一三歳以上の美女三万人を徴発して、宮 廷や東宮や王侯のところに配給した。そのため九千人の人妻がうばわれ、自殺したものも少なく ごしん なカった 0 ことに僧の呉進というものが、 「胡運がおとろえ、晋運が復興しようとしている。皿日人 ( 漢人 ) を苦役せしめて、その復興の気を おさえよ」 ぎよう すい せきこ
けいめいけんばい 「永明の世、一〇年ばかりのあいだは、百姓に鶏鳴犬吠の警なく、都邑の盛んなることは、士女 富逸し、歌声舞節、核服 ( 盛装の服 ) 華粧するものが、桃花緑水の間、秋月春風の下、百をもって かそえるほどであった。」 きようりようおうしりよう その中心となったものは、武帝の子、文恵太子とその同腹の弟、竟陵王子良である。斉の創業 主は武将であったが、これを宋の創業主が兵士から成り上がって文章の教養ももたなかったのに くらべると、家柄もよく、とくに帝位についてからは、その一門から教養の高い学者を輩出して ぶんじん いる。文恵太子は奢侈生活を好み、とくにその邸宅を豪華にすることがすきであった。彼が文人 げんぼえん っかく 墨客や僧侶と風流や談論を楽しんだ玄圃園は、山水の妙を極め多数の奇石を集め、楼観塔宇をか まえて、宮城以上の豪華ぶりであった。さすがに宮城から見られるのをおそれ、長い竹垣をつく って見えぬようにしたという。 太子は弟の竟陵王と仲よしであるとともに熱心な仏教信者であった。二人は施薬養老、孤児養 育の慈善公共施設をつくって、このためには資財を惜しみなく投じた。これらの社会事業は、仏 明 の 教の教旨と信仰とにもとづいて行なわれたものであった。王家の最有力知識人であった彼らには、 朝 理想化されて伝えられていたインドのアショーカ ( 阿育 ) 大王の事蹟や、東晋末に建康で活動した南 ほっけん 新帰朝の法顕が伝えた中部インドのマガタ国首都バータリ。フトラにおける貴族富商たちの施設し 2 2 ている老人、病人、貧窮者、孤独者に対する福利慰安の事業の立派であったことなどが、刺激と げんぶく
文帝にも、皇后のほかに多くの宮女がかしずいて寵愛をうける機を待っていた。皇后袁氏は一 しよう 女一男をうみ、その男子劭は太子となり、帝の寵遇は袁氏に集中していたのたが、そのうちに潘 しゆくひ しゅん 淑妃が可愛がられて男子の濬をうんだ。嫉妬にもえた皇后は病をえて死んだ。母を失った劭が潘 淑妃と濬とを深くうらんだのは当然である。濬は危険を感じて進んで劭に接近しその意を迎える ことにつとめ、すっかり悪友仲間になった。二人は自分たちの悪事が父皇帝の耳に入るのをおそ れ、帝の人形を宮廷の土中に埋めて、信仰する女巫に呪詛せしめるうちに、事がばれて、劭も濬 も危地に追い込まれた。劭は兵士をして父皇帝と帝の信任する臣僚たちを殺させた。元嘉の治世 の君主までが、その子にかかって殺されるにいたって、宋朝廷はいよいよ血なまぐさい地獄の様 相を呈してきた。 しゅん 父帝からいちばん寵愛されなかった武陵王駿が、劭と濬を殺して即位した。これが孝武帝であ る。劭とその四子、濬とその三子を、みな首と胴体とを別々にして獄門にさらしたうえで、揚子 江へ投げこむというような、残酷をきわめた処刑が劭らの一味に加えられた。 だがそれはほんの序のロであった。孝武帝はこれ以外の兄弟や親類を、口実をもうけてつぎかの らつぎへ殺していった。帝がどんなに酷薄きわまる性格の持主であったかは、つぎの挿話によく南 あらわれている。帝は寵愛する一人の崑崙奴を左右にはべらしておいて、気にくわぬ臣僚を杖で なぐらせた。侍中の一人に、酒が飲めず芸事もきらいな謹厳な君子があった。これを気にくわぬ くろん えん はん
なわれた。司馬師が病死三五五年 ) して弟の昭がつぐと、あらゆる最高の栄典が彼一身に集中し てきたが、なおも彼は固辞する低姿勢をわすれず、残余の反司馬勢力を除き去った。 天子は、昭を大臣とし、山西省地方の八郡の地、方七〇〇里をもって晋公に封じ、晋国の官庁 をおき、さまざまの栄典をうけるように詔を下したが、昭はこれらを辞退しながら実力の充実に っとめた。 二六三年、天子は司馬氏累代の比類なき功績をかそえあげ、かさねて昭を大臣に任じ、戦国時 代の晋の故国である一〇郡をもって晋公に封じ、さらに天子に準ずるほどの諸栄典を加えたいと 長々と詔をくだした。昭はまた礼をもって辞退した。大臣以下群臣がこそって、こんどはどうし ても受けていただきたいと懇請した。そしてやっと彼はこれをうけて宰相、晋公となった。 十一月に蜀漢討伐が成功すると、昭は宰相として百政をすべ、ここに文武の権はすべて司馬昭 の一手に帰した。翌二六四年三月には司馬昭は晋王にすすみ、その封地も一一〇郡に増加された。 五月には父や兄に王の位がおくられた。七月には昭は上奏して新たに礼儀と法律を制定させた。 動 あん れいき すいちょう 翌二六五年一一月には、ある県から霊亀を晋王昭に献した。暗に天帝が革命の瑞兆をしめされたの ふくしよくぎじよう と宣伝するわけである。五月、昭には服飾儀仗など天子と同等の礼遇があたえられ、位は天子の五 父である燕王の上にあることになった。その妃は王后、その世子は太子と称することになった。 晋王の奏請でもろもろの法律の苛酷や煩雑なもの、時世に不便なものが除かれて、人民に仁政を