孝文帝 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈4〉 唐とインド
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1. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

孝文帝の胡俗漢化への熱は十分に察知できる。若い皇太子は肥っていて人一あつがり屋であ った。洛陽の暑熱がたまらないので、ひそかに軽騎で平城に奔ろうとした。孝文帝は大いにおど ろきかっ怒り、群臣を召して、 めつ 「古人言あり、大義親を滅すと、今日減せざればすなわちこれ国家の大禍なり」 と告げて、皇太子を廃して庶民にくだし、ついでこれを毒殺してしまった。ここまでくると行き すぎで、漢化狂といわれてもしかたがない。 ともかくも北辺大同から中原の洛陽に遷都して以来の北魏は、胡人をあげて漢人化する方策が 強行された。孝文帝の理想のように漢文化一色に統一された文化国家への道は急速に進展してい った。洛陽は政治と経済と文化の中心となって繁栄した。そのなかで、素朴質実な胡人の生活は 奢侈浮華の生活へと進んだ。それはタク・ハッ部の国家の幸いであったろうか。やがて来る魏末の 乱丗一に、 「さきに平城にあっては武質にして治安かりしに、中原以来、文華にして政乱る」 と昔を想い今をいさめる上奏文をたてまつった臣があったが、これは否定できない事実であった。 中華の儒教主義学者が、胡俗をすてて華化に邁進しその実をあげた胡人孝文帝を「英主」だと称 讃するのは当然であろうが、北魏皇帝として、はたして英主と称讃されるべきかどうかは、一考 を要する問題であろう。 しつ やす みだ 278

2. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

リシア、ローマ 、ベルシア、インド、西域諸国のさまざまな文明が顔を出している。もちろん、 シナ本来の意匠もまじり表わされている。ヒンズー教のヴィシュヌ神やシヴァ神の異様な姿も彫 刻されている。大小無数の仏像、菩薩像は、・ カンダーラ様式をとるものもあれば、グプタ様式の ものもあり、シナ様式の加わったものもある。わが法隆寺にみる推古仏そっくりの仏の姿も見い うんこう だされる。雲崗石窟群、そこは一五〇〇年前の世界文化をあつめ保存する大霊宝館である。 雲崗の大石窟に鎚の音が盛んにひびぎ、都に地方に仏教復興の諸事業がどん 文明太后の政治 どんすすんでいるとき、北魏の天子は、文成帝・ ! 献文帝ー孝文帝と代わって っこ 0 ふうき 馮太后は、秦、雍二州の刺史 ( 知事 ) であった馮熈の女で、漢人である。夫の文成帝が崩じて三 日後に、故帝使用の衣服器物などをすべて焼却する儀式が行なわれた。百官も女官も声をあげて 泣きながらこの式に参列するのである。このとき、馮太后は悲しみ叫び、火の中に身を投じ、左 そせい 右に救い出されて蘇生したという履歴の持主である。 献文帝が即位したのは一一歳、馮太后が摂政した。帝が一三歳のとぎ孝文帝が生まれた。はた して献文帝が実父だろうかという疑惑も生ずる。献文帝はなぜか皇太子が五歳になると位をゆず って隠居し、五年後には馮太后に殺された。孝文帝は生まれると太后によって育てられ、太后が 死ぬまで政務はすべて彼女にまかせて孝養につとめていた。そしてその生母が誰であるかも知ら 272

3. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

それは洛陽城の南方、伊水が山峡をすぎて北流するところ、いわゆる けっ 「伊闕竜門」の山壁に開鑿されたものである。孝文帝は、雲崗の大石窟の 都主要窟がその華麗荘厳な姿をほぼ完全に浮きだし、平城の上下が歓喜と礼 一陽讃のどよめきをわき上がらせていたときに、平城のすべてをおきざりにし のて洛陽に遷都してしまった。北魏朝廷は新都洛陽に、平城にあったと同名 の大寺永寧寺を、それ以上に立派なものに企画し、実現し、同時にまた、 あ雲崗にあったような石窟寺院をも新都の近郊につくった。それらは、南遷 盟した北人の、平城を恋着する心をおさえて洛陽に落ちつかせる、遷都朝廷 の有効な措置でもあったであろう。 省 河竜門の最も古い石窟は古陽洞とよばれているもので、その壁面には、西 暦五〇〇年前後、すなわち遷都早々の太和末年から景明初年にかけて王室 窟諸王が出資してつくらせた仏像が多数に存するが、宣武帝即位の年、景明亡 元年 ( 五〇〇年 ) には、「旧都の霊巌寺 ( 雲崗石窟寺 ) に準じて、洛南伊闕山の において高祖 ( 父孝文帝 ) と文明皇太后 ( 母 ) とのために石窟一一所を営めよ」 という勅が出ている。この二窟は「窟頂地を去ること三百一十尺」という 大規模のものとして着工された。しかし竜門の岩質はきわめて堅く、工事

4. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

西晋の都であった洛陽は、たびかさなる戦乱で荒廃しては復興し、また荒廃を 洛陽栄華の夢 くりかえして、安定した繁栄を見ることがなかった。西晋が滅んでからは首都 の地位を失って、軍閥や胡軍の争奪をくりかえす軍事拠点となっていた。一時は江南の東晋や宋 の手に帰したこともあったが、四一一三年以来は北魏の占領地となっていた。四九三年孝文帝がこ こに遷都を決行して新しい都城を建設して以来わずかに四〇年間の都ではあったが、その間、洛 陽は世界の人と文物とが集まり繁昌する世界的都市とな 「ーー郭門 り、富み栄えた貴族商人の豪奢栄華の夢が結ばれるとこ ろとなった。孝文帝の新都造営にあたっては、 C 平城の悪い風習であ 0 た金持の豪奢な邸宅竸争を禁一内城 断して、王室も臣民も質素をむねとする清潔な都市とす。一広莫門 る一」と、とく = 臣下 0 身分を越えた奢侈生活」厳重 = 取一・ - に・ り締まるべきこと。 一口城西場門 一承明門間広門 Ü官民は住居を別にし、士農工商それそれべつべつに 圧まわせる。ことに歌舞音曲の芸人たちは士人の住宅区 明市 に住まわせてはならぬこと。 Ü平城では仏寺が月に年に多くなっていたのにかんが 建春門 門卍正始寺 永寧寺卍 卍景明寺 279 北朝の興亡

5. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

ねばならぬ。当時の豪族は蔭戸と称する課税や徴兵の対象とならない農奴化した使用人を多くも っていた。皇太后は、このような、戸籍からぬけている蔭戸をなくすために、三長制という隣組 制度を強化して、脱落の戸口のないように戸籍を整理した。 つまり五家を一組として「隣。と称し一隣長をおき、五隣を里として一里長をおぎ、五里を党 として一党長をおいて、それそれ隣、里、党の組の責任をもたせたのである。さらに、丁年の男 女から奴婢にまで一定の耕作地を授ける均田制を施行した。これによって北魏の農業生産も高ま り、中央の財源も豊かになるとともに、中央集権も強化されたのである。 三長制によるかくれた戸口の摘発はたしかに農業生産を増大し、農民も多少ゆたかになったで あろう。しかし、もっと大きく経済力を増大したものは朝廷と大土地所有の豪族であった。 さらに農業奨励によって、漢族農耕社会のあいだに雑居して農耕生活に進みつつあった遊牧胡 族を次第に土地に定着せしめ、漢胡の混融を促進するゆえんとなったことも注意しておくべきで ある。こうした変革を進めた北魏が、四九〇年、馮太后の死によって、すでに二四歳になってい た孝文帝の親政に引き渡されるのである。 馮太后に政治をゆだねて成人する間に、孝文帝はすっかり儒教主義帝王 洛陽にあこがれる英主 学を身につけて、漢族文化心酔の皇帝になっていた。若く、かっ初めて 親政をするようになった帝は、政治にきわめて熱心であった。そしてそれはもつばら儒教主義の 274

6. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

は、かっ 20 太后は寵臣を献文帝に殺されたので、帝に恨みを含んでいたとも記されているが、北魏宮廷内 の秘事は疑惑の雲につつまれていて真相はわからない。 しかし、馮皇太后はなかなかの女傑であったらしく、年少の孝文帝に代わって、北シナ統治の 上に重要な政治の改革をおこなって、遊牧民族の王室を漢族的中央集権の王室にもり育てていっ こ 0 北魏朝廷は官吏の任命権者でありながら、その官吏に俸禄をあたえていなかった。そのために こういん ある大臣が友人の高允のために文成帝に訴願した。 「高允は帝の寵遇を得て中書令 ( 中書省の長官 ) の高官についていますが、家が貧乏で妻子の生活 もできかねています。」 文成帝は驚いて高允の家に行幸してみる ネ 0 、こ俑と、家はあばら屋、台所には塩菜があるだ亡 、のけ、子供たちは柴かりをして家計を助けての 朝 っ そこで四八四年、皇太后は俸禄官給制を 3 箕定めた。そのためには朝廷に財源を確保せ

7. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

紀 世 鳩摩羅什が長安に来る 四 0 一 陶淵明の『帰去来辞」。この頃東 四〇五 晋の顧愷之 ( 三四四頃 ~ ) 死去 四一四 四二〇劉裕 ( 武帝 ) が東晋を減・ほし、宋 ( ~ 四芫 ) を建国 四二四 北魏の太武帝 ( ~ 四五一一 ) 四三九一北魏が北涼を滅・ほして華北を統一 する ( 華北北魏と、江南日宋にエ 朝が対立する ) 】南北朝時代 ( ~ 五兊 ) が始まる 四四六 一北魏の太武帝が仏教を弾圧する 四六〇 この頃雲崗の石窟寺院が開かれる ~ 四七一北魏の孝文帝 ( ~ 四究 ) 四七六一 四七九江南で宋が減び、斉が建国 四八〇 四八五一北魏が均田制を実施する 四九一二→北魏が洛陽に都を移す ( この頃か ら北魏が竜門で石窟寺院を開きはし める ) この頃からグ。フタ朝が衰え、 一インドに群雄が割拠する 倭王讃 ( 仁徳大皇 ) が宋 に修貢する 西口ーマ帝国の滅亡 倭王武 ( 雄略大皇 ) が宋 に使を送り、貢献する 高句麗の好太王の碑建設 469 年表

8. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

文化を身につけていない北方胡族にとっては、漢文銘記なそあっても読めない。目ざわりの銘記 などないのがむしろ当然であろう。 ところが、竜門石窟の造像には、北魏以来のおびただしい銘記がある。信者の心願をこめた銘 記によって、北魏前半の造像が釈迦仏を中心としていたものが、北魏後半から隋、唐にわたって、 無量寿仏や観世音菩薩が増加し、また隋を境として無量寿仏の漢訳名が逆に阿弥陀仏の原語名に 変わっていくことが知られる。阿弥陀仏の名をとなえる浄土教がさかんになってきたのである。 日本にもひろまって庶民信仰になっていく地蔵菩薩も出てくる。竜門の石窟は仏教美術の宝庫で あるばかりでなく、シナにおける仏教信仰の変化していく実態がうかがえる、興味深い重要資料 の保存庫である。 さて北斉をたてた文宣帝は、帝位をゆずった東魏帝を毒殺したのみならず、その王 乱行天子 室二五家三千人を一挙に殺して都に近い潼水になげこんでしまったし、孝文帝以来 漢姓を称するようになっていた胡人を、ことごとくもとの胡姓に復帰させてしまった。この暴を じゅうゼん あえてやった革命皇帝も、治世一〇年の前半までは、北方に勢いをもたけてきた突厥や柔然を討 伐して国威をかがやかしたが、六、七年目からは常軌を逸して、乱行目もあてられぬような暴君 になっていった。 数日にわたってひねもす夜もすがら、歌い、舞い、狂うて楽しむこともあった。裸になって、 296

9. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

庶民はややもすれば無視された。貴族士人の犯罪に対しては寛大な法律の運用が帝によって示唆 されたが、庶民は法律通りに容赦なく罰せられた。一人が課役を逃避すると、一家あげて連坐の 処罰をされた。武帝が南郊に行幸したとき、一人の老人が訴えた。 「陛下の法の運用は庶民に急で権貴には緩であります。これは国運長久の術ではありません。こ の反対におやりになってこそ、天下の幸となるでしよう。」 武帝もこの進言に動かされて、老人や幼少者を連坐の罪のなかに入れることを緩和したという。 王、侯、士、庶の別をするシナでは、いつも庶民大衆は不利の場におかれがちである。とくに 南朝貴族時代は庶民を下に見くだし、その人権は無視されがちであった。仏教の平等の慈悲の教 えを奉じた武帝も、貴族士人へは平等の慈悲を心にかけていても、庶民へのそれは忘れがちにな った。貴族時代に治者階層に共通して流れている意識であろう。 しようり ところが武帝の初期は、明るいことばかりではなかった。南朝の軍は北魏の侵入 鍾離の大勝 をくいとめるために必死の戦いをつづけねばならなかった。 そもそも北魏軍の南進は、斉の殺人皇帝明帝の代から次第に強化されてきていた。北魏は洛陽 に遷都した名君孝文帝の時代である。遠い北の大同に都していたときとちがって、新しい首都洛 陽は、梁との国境線へ一日で往来できるところである。北魏の梁土侵略の意欲はいっそうたかま ってきて、河南省南部を攻略し、安黴省北部も次第に手に入れていった。南斉の国力はこの北魏 れんざ 228

10. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

北魏孝文帝の南侵軍をよく防衛し引きあげさせた軍功によって、すでに動かすことのできない じようよう 軍権を握り襄陽に駐在していた蕭衍は、時こそいたれりと、腐敗の極に達している建康王朝の粛 清を名として、東昏王の弟を奉じ、万余の兵、千余の馬、三千の船をととのえて江をくだり、建 康城を囲んだ。宮殿に籠城した東昏王の兵は一一〇万以上もあったけれども、彼らの心はすでに帝 から離反しており、一九歳の淫蕩暴君は夜寝室に侵入した味方の兵によって殺された。東昏王の 弟を帝 ( 和帝 ) にたてていた蕭衍が、帝位をゆずられて自ら帝位につき、梁の国号を立てたのはそ の翌年 ( 五〇二年 ) 、三九歳のときであった。 梁朝四主五六年、そのうちの四八年が建国第一の武帝 ( 蕭衍 ) の治世である。 人望集める梁の武帝 三九歳の分別盛りから、八六歳の珍しい高齢にいたるまでの統治である。 こんな長い治世、こんな長寿の皇帝は南朝にいままでなかった。 梁の革命は、宋、斉の革命ほど陰惨な殺戮を随伴しなかった。斉の殺人皇帝明帝の五子は殺し たが、斉室皆殺しというようなことはしなかった。臣下のなかには前代の例にならって、革命な 明 のだから前朝王室は根だやしにせよと主張したものもあったが、武帝はこれを採用しなかった。 の 彼の慈悲深い本来の性格がこれを許さなかったのであろうが、また斉も蕭氏、梁も蕭氏、同族の南 血が流れているという同族親近感も、前朝遺族に対する寛大な処置となったのであろう。彼は逆 に、斉の宗室中の才能あるものは信頼して任用し、その才能を梁のためにのばさせた。