の権利を握るようになっていた宦官の役目であった。 宦官は生殖器に手術をして、皇后や女官の御用をつとめても心配ないとされた人々 ( もっとも手 術が不完全で問題をおこした例も若干ある ) であるが、利権あさりにはとくに熱心で、唐は前の東漢、 後の明とともに、宦官が勢力をはり政治を左右した時代でもあった。元来、宦官は宮刑 ( 腐刑とも いう ) をうけた刑余者であるが、自宮とか自白 ( 自ら手術をして性欲を去った清浄なものの義 ) といわ れ、ここ広州は富貴を夢みる宦官志願者が多い地方でもあったのである。 さて宦官の宮市使が、宮廷用の買上げをおわったのちは、舶載品の自由売買が行なわれ、おか げで広州の官吏も商人もうんともうかったのである。それがどれくらいのものだったか、唐時代 なんが には長安の南衙、すなわち宮城の南にある普通の行政庁につめる官吏が、富を得るために北司、 すなわち宮城の北にある宦官の役所にたのみこんで、広州の役人に任命してもらうものすらあっ たくらいである。 玄宗の天宝元年 ( 七四二年 ) 、戒律の研究伝承のために長安へ留学していた日本の留 がんじんわじよう 鑑真和上 学僧の一行は、大運河をくたり揚州で鑑真大和上にあって、この人こそ日本の戒律 の師にむかえたい人だと熱心に渡日を懇請した。鑑真はその熱心さにうごかされて、みずから国 境、民族をこえて戒律宣布の使命をはたそうと、渡航の禁をくぐって日本へ出航をくわだてた。 何度か渡航に失敗したすえ、五度目の天宝七年 ( 七四八年 ) には、海南島に漂着、鑑真一行はこの 404
ぎんあん 銀鞍白馬春風を度る 落花踏み尽くして処にか遊ぶ よ 図 笑って入る胡姫の酒肆 ( 酒場 ) の中 変とあるが、これがその時代の若者たちの現実のあこがれであり、胡 \ ガ姫のいる酒場は彼らの若さの発散場であ 0 た。 の長安では胡姫だけが幅をきかしていたのではない。貴族たちにか 石しずく歌姫名妓もたくさんいた。 宮城の東、大明宮の南にあ 0 た右教坊と左教坊、宮城内の宜春院 楽や禁苑の一角にあった梨園には、宮廷の宴遊に侍する歌姫たちが養 代われていた。右教坊の美妓は歌にすぐれ、左教坊の美妓は舞がたく みであったという。新たに進士の試験に及第した喜びにあふれる秀 才たちが、曲江の池畔でもよおす祝いの宴に、この朝廷の歌姫たち が貸しさげられるのは、彼らの栄達を夢みる日の第一の光栄であった。 朝廷で官妓を養うのと同じく、王公将相や富豪たちも、自分の家や別荘に数人数十人の歌姫を 養 0 ていた。賓客招宴の接待をしたり、主人の音楽詩歌の女友達にもなり、もちろん寵愛をうけ ちんせき て枕席にはべるものもあった。 0 こき わた しゅし しんし ずこ 380
あんき かざかみ がえして安黴から建康に迫って包囲し、風上から焼打ちをかけて宮城をおとしいれ、掠奪をほし いままにした。宮廷の女官ははずかしめられ、百官は荷物運搬の労務にこきっかわれ男も女も裸 にされて破れむしろや草で身をかくし、草もないものは地にすわって土で身を覆って恥をしのん あいごう だ。百官士女の哀号の声は、内外をふるわした。金、銀、布、絹、銭、すべて掠奪されつくして、 王公大臣も焼残り米で飢えをしのいだのであった。しかし、各地からの義軍の到来で乱暴者の蘇 峻一味も平定された ( 三二八年 ) 。 焼亡した宮廷を前にして、豪族のあいだには会稽遷都を主張するものもあったが、王導は断乎 として遷都に反対し、宮殿などの再建の槌音はひびき、南朝の都は不動の礎をすえた。けれども つぎにはまたまた、もっと強大な豪族軍閥、桓温、桓玄が帝位を要求して迫ってきたし、またそ の間北方胡族軍の南もあり、ことに長安に拠って北シナを統一した前秦王苻堅の東晋併呑をめ ざす一〇〇万の大軍の侵寇にも恐怖せねばならなかった。 桓温 ( 三一三ー三七四年 ) は北地の名族出身の軍人で、晋の皇女を妻とし、蘇峻の政 桓温の北伐 ような成上り者ではなく、古典の教養も身につけていた。揚子江中流の荊州を中貴 南 心に建康より西一帯の広い地域の軍権と財政権をにぎり、しばしば北シナの回復を策して北伐し、 江 またひそかにみずから晋に代わって皇帝となる野望をいだいていた。三五五年には洛陽を奪回し、 洛陽遷都をとなえて建康の百官をおどろかした。しかし、もうこのころは、東晋の君臣は、江南 かんおんかんげん ふけん へいどん
大唐世界帝国三〇〇年の門をひらいたものは、治世三七年の隋である。隋の創業主 周、隋革命 楊堅 ( 隋文帝 ) の女は、北シナ統一の英主北周武帝をついた宣帝の皇后であった。楊 堅の父忠は北周創業の功臣である。父の功績をせおい皇帝の義父となった楊堅の権勢は次第に増 大した。宣帝はたった一年で位を幼少の太子 ( 静帝 ) にゆずって、みずから天元皇帝と称し無軌道 開 な遊楽にふけりだした。 の 街の美少年をあつめて女の服を着せ歌舞団を組織して宮廷に入れ、あるいはいろいろな芸人を一 まねいて宮人と楽しんだ。人民は皇帝の奢侈淫蕩のための土木工事に労役としてかりたてられた。大 まもなく無軌道な隠居皇帝が死ぬと、外戚楊堅に実権が帰したのみならず、国民の信望すら彼 0 にうつっていった。 大統一への開門 ーーー隋朝三七年 隋代の青磁壺
けれども武帝が八六歳の高齢にすすむまでに、年とともに仏教信仰への熱度を加えていったこ とはたしかである。五〇歳をすぎてからの帝は女色もたち、厳粛な菜食主義者となり、衣食住き わめて質素な生活に甘んじ、政務にも勤勉した。そして国王たるものは、仏典にあるように、釈 いしよく 迦仏から仏教を護持し興隆すべき遺嘱をうけているものであるとの信念にたち、梁の仏教界の粛 せっしようかい 正を期待して全僧侶に対して酒肉を断っことを要請し誓約させた。殺生戒を守るためにはシナ伝 むじんぞう 統の祭典に犠牲をそなえることをも廃止し、十無尽蔵を設置して、仁慈救済の事業のための財源 を強固にした。無尽蔵とはその収蔵している資金を融通して利殖をはかり、その利益金を社会救 済事業に使用する基金源である。 かんれき 武帝が還暦をこえてからのことである。彼は宮城の北、路をへだてて同泰寺を建立し、宮後に あらたに大通門を開き寺の南門と対せしめた。武帝はこの門によって宮廷と寺とを往来したもの である。ここは昔の呉の後苑の地、山を背にする最も景勝の地である。大殿六、小殿や堂が一〇、 はんにやだい せんきでん 山林のうちには東西の般若台がある。おのおの三層の建物で坐禅修道の道場である。嗾殿を中 心に水でまわす蓋天儀を設置し、天文観測の設備までがととのえられていた。九層の大塔はこの 広大な別荘的寺院の中心である。詩人は「盤は雲表の露をうけ、鈴は天上の風にゆらぐ」と詠じ しやしん 五二七年の春三月、六四歳の武帝は、宮城の大通門を開いて同泰寺に入り、有名な「捨身」の こ 0 2 イ 6
世 五九三 隋の煬帝が父の文帝を殺して即位 六〇四 六〇五煬帝が大運河の工事を開始する 六〇七 煬帝の高句麗遠征 ( ~ 六一 0 隋が減び、唐がおこる 紀六一八 六二二 六二四唐の均田制実施 唐の李世民 ( 太宗、 ~ 六四凸即位 六二六 六四〇孔穎達らが『五経正義』をつくる 六四五 六五八安西都護府がおかれる 六九〇則天武后が帝位を奪う 大祚栄が震国 ( 後の渤海国 ) を建 六九八 てる ハルシャヴァルダーナ王 ( 戒 日王、 ~ 六岩 ) 玄奘がハルシャ王の宮廷を訪問 ハルシャ王の使節が唐の太宗の 宮廷に来る 太宗の使節、王玄策がハルシャ 王の宮廷を訪問 義浄が仏典を求めてインドに出 発する 聖徳太子の摂政はじまる 遣唐使のはじまり ササン朝。ヘルシア減亡 大化改新 へジラ 小野妹子が遣隋使となる 4 〃年表
て新中国の首都北京へ直通急行列車がはしっているが、当時においてもやはり大唐長安はこの貿 易都市と緊密にむすびついていたのである。 五月、六月、南海を吹く西南の季節風にのって、遠く西のアラビア、ベルシアの商船が、。ヘル シア湾からインド洋をわたり、インドやセイロンやマライ諸国の商人をのせてこの港に入ってく る。十月、十一月、逆の東北風が吹きだすと、これらの商船は中国の商品をつんでかえっていく。 その間、五月から十月ごろまで、広州は外国貿易者との取引でにぎわうのである。貿易は広州を 富裕にする。この地方の長官になれば、たちまち巨富をつむことも可 能であった。そのような官吏の例は南朝にもあって、広州刺史は、 を「ただ城門一過すれば、すぐ三千万銭」といわれたものである。 で唐の玄宗時代には、とくに市舶司をおいて広州の外国貿易を管理しず のた。嵂坊という外人居留地ももうけられ、居留外人の数は一〇万をこに 長 まえていた。 広州の官僚や居留外国人は、五月になると南風にめぐみあれと祈願の 歳 江した。外国船が入港しだすと、まず宮廷御用品を買い上げるために宮天 の 東 市というものが開かれ、そのためにはるばる長安の宮廷から宮市使が 3 派遣されてくる。宮市使は、宮廷の奥向きの御用をつとめていて経済 引産 まんぼう しはくし
が、一般社会の名声と地位を得たことはいうまでもない。 こうして江南貴族時代の仏教界は、才能をいたいて埋もれようとする寒門の士に、特殊な登竜 門を開くことになったのであり、一方これによって社会の俊秀を仏教に引き入れ、仏教興隆にも 威力を加えることができたのである。 また女性の出家者も多くなり、宮廷の後宮には尼僧が入りこんで宮廷女性の信者を得るように なったが、またこれが宮廷や貴族家庭の腐敗堕落の原因となったことも否めない。しかし、『比 くに 丘尼伝』 ( 梁、釈宝唱撰 ) が編纂され、このなかに立伝されているような学徳すぐれた尼もけっし て少なくなかった。 梁の武帝は多くの仏教聖典について、またその教義について、即位以前 皇帝捨身ーーー三宝の奴 からかなり広く深い教養をもっていたことは疑いないが、それは道教に 対しても、儒教に対しても同様であって、即位当初の帝は、必ずしも仏教のみの宣布者でもなく、 後期に見るような熱心な奉仏行の実践者でもなく、い わんや狂熱的な信仰者でもなかった。武帝暗 が儒教の学にも熱心で、みずからその経の講義をし註釈を著わし、ことに国家統治の基本が儒教 6 にあることを天下につけて儒学を奨励したことは前にのべたが、また、老子荘子の学にも熱心で、南 その講義も書きのこしている。道士陶弘景を尊敬し信頼することは非常なもので、つねに国の大 事については彼の教えを受けることを忘れなかった。
「わが家の御殿で、お前のようなものがおれの家来を叱るとはなにごとだ」 といったという。当時、父睿宗も帝位を追われ、武后が天子になっていたのであるから、これは まったく勇敢な行為である。気丈夫なおばあさん ( 武后 ) はこれをきいてますます隆基を可愛がっ とう た。しかし、彼の少年時代は必ずしも恵まれてはいなかった。父は失意の境遇にあり、母竇氏も りんし おば 姑の武后とそりが合わす殺されてしまい、子供たちは親王から郡王に位をさげられた。彼も臨 郡王におとされ、一時は宮城内に幽閉されたのである。 けつき このたのもしい若者が蹶起して、みずからの手で宮廷に巣くう病根をたち切った。まだ溌刺た る青年皇帝玄宗は、若き意気にもえて政界の浄化と国力の回復、そしてゆるぎかけてきた貴族の 支配体制のたて直しに専念することになった。 開元二年 ( 七一四年 ) には官僚機構を整理し、武后時代の悪弊であった不要の官職をとりのそい た。武后をはじめ貴族たちは仏教にお・ほれて多くの寺をたてたため、僧侶の数も激増していた。 また僧侶には免税の特権があったので、国の負担をのがれるために、金持や、ならず者までがあ らそって形だけの僧侶となり、いたるところに名目的僧侶が充満していた。 僧侶が増すことはそれだけ農民の負担が多くなり、生活にあえぐ貧民をうみだすことになる。 ようすう そこで姚崇は玄宗に申し上げた。 「むかしの仏図澄も鳩摩羅什も高僧ではありましたが、その国を救うことはできませんでしたし、 ノ」てん 372
第一回を行なった。おそらくこのころに同泰寺が落成したものであろうが、これからのちの武帝 きしゃ こそ、仏教信仰一辺倒の皇帝となる。捨身というのは、自身を同泰寺教団に喜捨すること、自身 を仏、法、僧の三宝に寄付し、教団の労役に服する奴となることである。奴はすでに寺の所有物 である。天子を失った王室や臣僚は、寺から天子を買いもどさねばならぬ。天子を買いもどすた めに醵出せられた莫大な財物が同泰寺に運ばれる。このとき、武帝は三日ののちに宮廷に帰り、 年号を大通と改元した。寺の奴隷からふたたび世俗の天子に復帰したのであるから、改元も当然 しよう・こん であろう。新建の同泰寺は莫大な喜捨財宝によって、いちだんと荘厳をととのえたことであろう。 五二九年、六月には都に悪疫が流行したので、帝は市民のために宮廷で大法要をつとめ、九月 にはふたたび同泰寺に捨身した。群臣は一万銭を醵出して皇帝を買いもどし、そして十月には中 みゆき 寳一、たを大通と改元した。 、 LJ びあ 五四六年、四月にまた帝は同泰寺に幸して捨身し が身 こ。皇太子以下が帝を買いもどして中大同と改元し 帝後オ 武の の寺た。翌五四七年三月にも帝はまたまた同泰寺で大供 6 梁泰 。同養の法要をつとめて捨身した。四月、群臣は一億万南 寺た を銭を出して帝を買いもどすことを願った。帝は臣僚 の身 京捨が三たびも願ってから帝冠をつけて宮廷にかえり、 南び 、にや幾