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検索対象: 世界の歴史〈4〉 唐とインド
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1. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

事実そのとおりである。宋の諸帝はけっして幸福な人ではなかった。 やくしゃ 武帝のあとをついだ少帝は、親の喪中に楽人や優倡と歌舞音曲を楽しんだり、女色にふけって 子を産ませたり、贅沢三昧に溺れているというのを理由にして大臣たちから殺された。この日、 帝は華林園で模擬店をつらねて自ら売子となって遊んでいた。夕方には船遊びにくたびれて船の 中で寝てしまった。そして翌朝、まだ目がさめぬ間に、一一人の侍者は殺され、自分は帝位を奪わ れて幽閉された。そこを刺客がおそった。若くて勇力もあった帝は、敵をおし倒して走り逃げた ・、、門のしきいにつまずいて倒れたところを殺された。 こうして迎えられたのが弟の文帝である。しかし少帝を殺し文帝を迎え、惨劇を計画し進めた 大臣の徐羨之や傅亮も文帝に誅せられてしまった。 建国早々に宋朝廷 宋朝系図 元嘉の治世 は血なまぐさい混 ②少帝義符 ④孝武帝陵ー⑤廃帝子業乱をつづけたが、文帝の治世三〇 明 の 年は「元嘉の治」と称せられて、 ③文帝義隆 ( 三 0 年 ) ⑥明帝或⑦後廃帝昱国力も充実し南朝文運の花が咲い南 ( 四年 ) た時であった。 0 2 ⑧順帝準 ( ニ年 ) 宋の創業主はさすがに東晋の政 ①武帝劉裕 ( 在位三年 ) じよせんし ふりよう がく

2. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

恵太子は、帝にさきだってなくなっていたので、武帝は嫡孫である鬱林王に即位させて崩じた。 文恵太子の奢侈三昧のなかで育った新皇帝は、一一一歳、なによりも自由気儘を欲する遊蕩児で あ 0 た。「天子なんて窮屈なものになるよりは、市井の金持になる方が百倍もよい」といってい 娶にゆみす た彼は、即位すると銭を湯水のように散じてよろこんだ。その皇后も帝におとらず遊蕩女性、そ の室を夜どおしあけはなって男女混雑すといわれている。遊蕩青年皇帝は、一年たらずで自殺さ せられ、その弟が擁立された。これもほんのわずかで廃されて、明帝が即位した。 一年の間に武帝の嫡孫二人を、帝号もおくられないあわれな天子の位につけたり廃したりした のは、傍系出身の明帝のしわざであったが、即位すると自分の一門の安全のために、高帝、武帝 斉朝系図 の子孫の多くて勢力のあるのを 除いておこうと、おそるべき同 ⑥廃帝東昏侯寶巻 道生 族の大量殺戮をやった。高帝と ⑦和帝 武帝との子、孫、曽孫まで殺さ 暗 ( 一年 ) れたもの一一九人、その他王室で 6 ③廃帝鬱林王昭業 ( 一年 ) 殺害されたものも非常な数にの南 ④廃帝海陵恭王昭文・ほった。乳母にいだかれて刑場 に入った幼児もあった。宮廷医 蕭何・・・ ①高帝道成ー②武帝ー長懋 ( 在位四年 ) ⑤明帝 ( 四年 ) ( ニ年 )

3. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

なんく丗 帝は、ある日、「臣下でありながら、帝の宴席を好まぬものだ」と難癖をつけ彼を殺してしまっ たといわれる。 また、孝武帝はたいへんはでなことがすきで、奢侈をつくし、豪遊にふけったので、武帝と文 帝が二代がかりで節倹につとめて蓄積した中央の財を、一代ですっかり使いつくしてしまった。 孝武帝の末年には、建康方面一帯に一一年にわたる凶作があり、米価が暴騰して餓死者一〇のう ち六、七におよんだとあるが、中央にはこんな多数の住民の餓死を救う方法もなくなっていたの である。帝が死んだときに、大臣たちはほっとして、「今日はしめて横死をまぬがれた」と酒宴 をもよおしたという。 孝武帝崩じて一六歳の太子子業が即位したが、まもなく殺された。前廃帝である。つぎの明帝 ( 孝武帝の弟 ) は即位した翌日に、廃帝の同母の王と公主とを殺している。その殺された公主楚王 は、かって廃帝に、 「わたしとあなたとは男女の別こそあれ、同じ先帝の子であるのに、あなたは後宮に数万の女を もち、わたしは夫一人しかない。 こんな不平等はない」 ちょえん とねじこんで、三〇人の美男の侍従をおいた。また赭淵の美貌に目をつけ、帝に懇望して侍従と したが、わずか一日で赭淵に逃げられたという話まである多情の公主である。宋王室における道 義の頽廃察すべきであろう。 2 ~ 4

4. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

らぬ誓約をとりかわしていた。帝は後宮に寵愛し こ、美人がいても、皇后の監視がきびしくて手が 恭帝オし ( 一ニ年 ) ③恭帝恫出せなかった。後宮のある美女を帝が見そめて寵 ( 一年 ) 愛したことが皇后に知れた。皇后は帝が政治をみ しゆっぎよ に出御したあとで、ひそかにその女を殺してしまった。 これを知った帝は大いに逆上し、単騎で苑中から出て、山谷の間に二〇里も入っていってしま った。侍臣が後を追い、馬のくつわをとって諫言したが、帝は天子であっても自由をえられぬの かと嘆息した。侍臣は「一婦人のために天下をかろんぜられてはなりません」となぐさめて、や っと夜半に宮廷に帰った。独孤皇后も待っていて泣いてわびたので、帝も心を和らげて酒宴を開 き歓をつくした。皇后は帝ばかりでなく、自分の王子でも臣僚でも、妾に子をつくらせたものを にくみいやしんだ。 ところで、陳討伐の総帥晋王広は二男であった。幼いころから気どりやの美男で賢かったので、 父母からいちばん可愛がられていた。成人した彼は何よりも皇帝になりたくて、そのため兄の皇 太子勇を廃除する陰謀をめぐらし、とくに宮中における発言権の強かった母独孤皇后の気に入る ようにつとめた。なによりも蓄妾をにくむ母の前では、後宮の女に子ができてもすべて育てず、 王妃以外に女なしとよそおっていた。ところが皇太子勇が、母がもらってやった妃元氏をうとん 膚朝系図 ①文帝楊堅ーー②煬帝。ー昭 , ・・・・・・「 ( 在位ニ四年 ) 376

5. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

全国の俊才を集めて勃興した。 さて宣武帝治世に急速に興隆した洛陽仏教は、つぎの粛宗孝明帝の朝廷にひきつがれ、この一 代の実権をにぎった帝母霊太后胡氏とその一族の熱心な崇仏によって拍車をかけられ、洛陽仏教 の、ひいては北魏全域の仏教の全盛期を招致するのである。 霊太后の叔母に、宣武帝の宮廷に出入りして仏教を講じていたえらい尼僧 洛陽の象徴永寧大寺 があった。彼女は仏教の講説に宮廷に出入りする機会をとらえて、若く美 しかった霊太后を宣武帝の側近に入侍させることに成功した。北魏では、従来太子の母を殺す風 習があったので、後宮の女たちは誰も太子をうむことをいやがっていたが、ひとり霊太后は「太 子の母になれたら死んでもよい」と決心していた。そして運よく太子、すなわち孝明帝の母にな ったのである。 五一五年、宣武帝が急死し、六歳 を時年陽立 。魏元洛林の孝明帝が即位した。霊太后をにく 亡 安。が . ツをる天る塔んでいた宣武帝の皇后高氏は尼となの ・せ。あ仏 朝 ) 第、さ塔がな って内城にある瑤光尼寺に入った。 【】髴石銘う 霊太后は帝母としてみずから政務を 8 ~ ~ 物← , を層 , のた 2 タ工 - 一寧のはみ、父の胡国珍は国務に参与し、そ ド、【ソ永代 ' にし

6. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

第一回を行なった。おそらくこのころに同泰寺が落成したものであろうが、これからのちの武帝 きしゃ こそ、仏教信仰一辺倒の皇帝となる。捨身というのは、自身を同泰寺教団に喜捨すること、自身 を仏、法、僧の三宝に寄付し、教団の労役に服する奴となることである。奴はすでに寺の所有物 である。天子を失った王室や臣僚は、寺から天子を買いもどさねばならぬ。天子を買いもどすた めに醵出せられた莫大な財物が同泰寺に運ばれる。このとき、武帝は三日ののちに宮廷に帰り、 年号を大通と改元した。寺の奴隷からふたたび世俗の天子に復帰したのであるから、改元も当然 しよう・こん であろう。新建の同泰寺は莫大な喜捨財宝によって、いちだんと荘厳をととのえたことであろう。 五二九年、六月には都に悪疫が流行したので、帝は市民のために宮廷で大法要をつとめ、九月 にはふたたび同泰寺に捨身した。群臣は一万銭を醵出して皇帝を買いもどし、そして十月には中 みゆき 寳一、たを大通と改元した。 、 LJ びあ 五四六年、四月にまた帝は同泰寺に幸して捨身し が身 こ。皇太子以下が帝を買いもどして中大同と改元し 帝後オ 武の の寺た。翌五四七年三月にも帝はまたまた同泰寺で大供 6 梁泰 。同養の法要をつとめて捨身した。四月、群臣は一億万南 寺た を銭を出して帝を買いもどすことを願った。帝は臣僚 の身 京捨が三たびも願ってから帝冠をつけて宮廷にかえり、 南び 、にや幾

7. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

リシア、ローマ 、ベルシア、インド、西域諸国のさまざまな文明が顔を出している。もちろん、 シナ本来の意匠もまじり表わされている。ヒンズー教のヴィシュヌ神やシヴァ神の異様な姿も彫 刻されている。大小無数の仏像、菩薩像は、・ カンダーラ様式をとるものもあれば、グプタ様式の ものもあり、シナ様式の加わったものもある。わが法隆寺にみる推古仏そっくりの仏の姿も見い うんこう だされる。雲崗石窟群、そこは一五〇〇年前の世界文化をあつめ保存する大霊宝館である。 雲崗の大石窟に鎚の音が盛んにひびぎ、都に地方に仏教復興の諸事業がどん 文明太后の政治 どんすすんでいるとき、北魏の天子は、文成帝・ ! 献文帝ー孝文帝と代わって っこ 0 ふうき 馮太后は、秦、雍二州の刺史 ( 知事 ) であった馮熈の女で、漢人である。夫の文成帝が崩じて三 日後に、故帝使用の衣服器物などをすべて焼却する儀式が行なわれた。百官も女官も声をあげて 泣きながらこの式に参列するのである。このとき、馮太后は悲しみ叫び、火の中に身を投じ、左 そせい 右に救い出されて蘇生したという履歴の持主である。 献文帝が即位したのは一一歳、馮太后が摂政した。帝が一三歳のとぎ孝文帝が生まれた。はた して献文帝が実父だろうかという疑惑も生ずる。献文帝はなぜか皇太子が五歳になると位をゆず って隠居し、五年後には馮太后に殺された。孝文帝は生まれると太后によって育てられ、太后が 死ぬまで政務はすべて彼女にまかせて孝養につとめていた。そしてその生母が誰であるかも知ら 272

8. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

こんな非シナ的な政治方針は、すぐに煬帝によって改変された。煬帝はふたた 煬帝の仏教政策 び儒教治国のシナ式政治の正道にもどったのである。しかし、盛んになった仏 教は圧迫せずに、洛陽に外国僧を迎えて盛んな官設翻訳事業をおこしたり、また朝鮮、日本、西 域などから留学にくる外国僧のためには、これを指導教育する僧を任命して、隋仏教の優秀をほ 煬帝にあっては、仏教も道教も皇帝の偉大をかざる装飾であった。僧も尼も道士も、それそれ の舟に分乗して江都豪遊のおともをさせられた。わが正倉院に 聖武天皇が書写された雑集があり、そのなかに隋大業主浄土詩 げんそう がある。この美しい浄土詩は煬帝の側近につかえた文学僧彦淙 土の作であるが、詩文の好きな煬帝がつくらせたものであるため - 第、ま色を夐・オ物浄 に、煬帝作として日本に伝わってきていたのであろう。 れ蔵 一編衣へ誕既心冢をまい ら院 ( ミを第 ( 一第味礎え倉文帝の考えでは、首都長安を天下の仏教の中心にするために開 伝正 と。は最高の仏教指導者をむかえねばならぬ。文帝は全国から最も一 作翰 を、 ~ 。ト ~ 考ま 9 をの宸学徳のすぐれた高僧をえらんで六人を得た。彼らはそれそれの大 しひょう , ~ を巻賀下 2 い屯从罅を煬天 0 の武地方で数百の門下から師表とあおがれて一学派をなし、一教団 3 3 を、を食靆物澱盟第彝 ~ 隋聖 を組織しているものである。文帝はその師表が門下をひきいて

9. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

ところで内地に反乱がおこり、洛陽危急の報に、帝は急遽引きあげてしまった。 翌大業一〇年、第三次討伐をくわだてたが、今度は軍に飢餓と悪疫がおこって混乱におちいり、 加うるに内地各地にも反乱がおこり、煬帝は民軍蜂起のなかに衰亡の急坂をくだりはじめたので あった。 隋の文帝が臣事していた北周の武帝は、戦争 文帝の仏教復興 の非常時にいっさいの宗教、とくに未曾有の て 盛大をきわめていた仏教を一挙に全廃する英断をくだしたが、 招 を この非常時の帝王権がたたきこわした宗教の廃墟の底には、無 偂旧 一 3 9 数の人民の不満が欝積して復興の機をもとめていた。その北シ ンナ人民の前に新しい革命皇帝となった隋の文帝が、宗教復興の , 「、宣言を《やげ = 0 0 も当然あ 0 。文帝一代 = 四年、仏教 = 一の対しては驚くべき熱意をもち、みずから王家をひきいて復興のの 。先頭に立ち、帝都長安を中心に北魏末にもまさる新鮮な仏教の→ 盛期を再現させた。 ( のを文帝一代に「寺三七九一「僧尼一一三万、写経四六蔵一三万一一 「な ' 安経 長訳〇八六巻、古経の修理三八五三部、新仏像一〇万六五八〇体、

10. 世界の歴史〈4〉 唐とインド

じて、ほかの女に熱中するようになり、妃元氏が急死する事件がおこった。母は太子が豚大にも ひとしい女を可愛がって妃元氏を毒殺したのだとおもって悲嘆した。皇太子への憎しみは晋王広 への愛を深める。皇太子はこんなことで廃されて庶人の身分におとされ、広が皇太子になった。 六〇一一年、厳格な独孤皇后が五〇歳でなくなると、広は帝や宮人の前ではいかにも悲しみにた えぬように慟哭していたが、私室にかえると飲食談笑、平生の通りであった。精進粗食で喪に服 している風をしているが、竹筒に肉や魚をいれて蝋でロをとじてふところにしのばせているとい うしまつであった。もっとも皇帝も長い間窮屈な思いをして皇后に頭が上がらなかったのが、い まこそ解放されたと思ったのか、若い江南の二美人 ( その一人は陳の宣帝の女、宣華夫人である ) を寵 愛しだした。しかし帝はすでに六〇歳をこえていた。二年して病気にかかり危篤になったときに、 老皇帝は侍者にそっと「皇后が生きていたらこんなことにならなかったのに」と嘆いたという。 帝が病気になると皇太子と宣華夫人が夜を徹して寝室に侍していたが、朝になって衣替えに出 た宣華夫人は、とっぜん皇太子広からせまられた。夫人は拒否して帝の病室にかけこんだ。青ざ開 めてふるえている夫人を見て帝がわけを問うと、夫人は泣きながら太子の無礼をう 0 たえた。老→ 帝は激怒して「畜生」とののしり、太子を廃しようと侍臣に「児をよべ」といった。「太子です大 か」というと「勇 ( 前皇太子 ) だ」と帝は答えた。これを聞いた太子は腹心のものを病室にいれ、 夫人をはじめ看病している後宮のものをみな別室にさがらせた。そのあとで、にわかに帝は崩じ どうこく