原の西晋を滅亡においつめた。 永嘉四年 ( 三一〇年 ) 、北 シナ一帯に、日本人ではちょっと想像もっかぬ、おそ 西晋中原に滅ぶ っ らく現実に見なければ信用もできない蝗の大群が発生した。村から村へ、 さいの草木を食いつくし、牛馬の毛までなくなった。悪疫もっきものである。襄陽では悪疫で三 千余人が命をうしなった。 りゅうえん ところでこの数年前から、あばれまわる部将を部下にもった匈奴の将軍に劉淵 ( 元海 ) がある。 彼は山西地方に根拠をもった匈奴諸部族を統一して強大となり、自立して漢王と称し ( 三〇四年 ) 、 ついで皇帝と自称して ( 三〇八年 ) 平陽 ( 山西省臨汾県 ) に都した。 りゅうそう 劉淵が死ぬと、その四男の劉聡が兄を殺して漢皇帝になった。劉淵の下の猛将であった彼は次 第に淫虐がつのり、殺戮をほしいままにする恐ろしい皇帝となって、部下の諸将を派遣して各地 に晋軍をうち、洛陽を攻撃させた。 武洛陽でも、この外患以前に、内 動 : 族部の抗争で帝も大臣もくるしんでの いた。八王の乱の最後をなす東海五 ~ ・を王越は、懐帝の側近たちを殺して " 甲実権をにぎったが、帝との間には
たとえば蕭子格兄弟一六人のごときはいずれも梁朝に任 2 用され、なかには文学の才をもって南朝文化の花をさかせ 、亠信た著名人もある。『南斉書』を著わした蕭子顕もその一人 のである。もともと蕭子格ら兄弟一族は、明帝の宗室殺戮の 対象になった人々である。蕭子格が呉郡の太守になって赴 之武任していたとき、部下が子格の名を奉じて反乱を起こした。 、梁待っていたとばかりに、殺戮皇帝は子格の兄弟一族七〇人 を呼び出して夜中に殺してしまった。子格は郡をすてての 彎 0 一ー」 , がれ帰ってきたので、反乱者でないことも明らかになり、 やっと殺害をまぬがれた。斉の王室でありながら斉皇帝に殺されようとして、からくもその毒牙 からのがれて生きのこっていた人々が、斉を減・ほした梁主に任用せられ信頼されたのである。 蕭子顕はその著『南斉書』に、この斉梁革命における梁の武帝の態度をたたえて、「学識ある 人々は、梁武帝の量度のひろさが前代に越ゆることを知った」と書いている。 武帝は前朝の諸帝が、とかく名門の士を疎外し ( もっとも、名門の士は文芸を楽しむが行政手腕は なく、また政治に熱意もなく努力もしなかったからでもあるが ) 、立身出世にがつがっして帝意を迎え るに熱心であった寒門の士を側近に寵遇して、政事の要職に当たらせ、そのためにいろいろの弊 しようしけん 226
すごした。翌日、落ちゅく皇帝、貴妃の一行が、空腹をかかえて馬嵬駅まできた。ここでも戦争 の危険をおそれて人民は逃けかくれてしまっていて、食糧の調達もできない。疲れきって飢に迫 られた将兵たちは憤怒した。憤怒は楊国忠に集中した。この禍はやつがまねいたのだ。「楊国忠 を誅せよ ! 」の怒号がわきあがった。 楊国忠は、気おいたった兵士におそわれて殺された。兵は槍の先に楊国忠の首をさし、駅門の 冫いよいよいきり立った兵は、国忠の長子を殺し、貴妃の姉た 外に万歳を叫んだ。そしてさらこ、 ちを殺した。楊国忠以下の楊氏一門が誅されて、帝側にあるのは楊貴妃のみとなった。兵士の怒 ぞくほん 号が帝の耳にも入った。そこで帝は高力士に何をさわいでいるのかと聞くと、高力士は「賊本な おあり」とさけんでおります、と答えた。帝はすぐその意味をさとり、胸をしめつけられた。高 力士は帝の苦悩を祭しながらも、「貴妃はまことに罪がないと思いますが、兵士がすでに楊氏一 れ 。陛下よ、ご賢察ください。 門を殺しておりますのに、貴妃だけが陛下のおそばにおられては そ 安危は一刻を争います。陛下よ、ご速決を」と迫った。 の 唐室存続のためには貴妃も殺さねばならぬのか。玄宗は高力士に貴妃に死をたまう旨をつたえ帝 大 させた。兵士が万歳をさけぶなかで、皇帝は貴妃と最後の別れをした。 ぎぬ 貴妃は高力士にともなわれて仏堂のなかに入り、仏前で帛でくくりころされた。享年三八歳、 しとね 紫の褥につつまれて馬嵬駅西の道ばたにうずめられた。 そっけっ ばかい
事実そのとおりである。宋の諸帝はけっして幸福な人ではなかった。 やくしゃ 武帝のあとをついだ少帝は、親の喪中に楽人や優倡と歌舞音曲を楽しんだり、女色にふけって 子を産ませたり、贅沢三昧に溺れているというのを理由にして大臣たちから殺された。この日、 帝は華林園で模擬店をつらねて自ら売子となって遊んでいた。夕方には船遊びにくたびれて船の 中で寝てしまった。そして翌朝、まだ目がさめぬ間に、一一人の侍者は殺され、自分は帝位を奪わ れて幽閉された。そこを刺客がおそった。若くて勇力もあった帝は、敵をおし倒して走り逃げた ・、、門のしきいにつまずいて倒れたところを殺された。 こうして迎えられたのが弟の文帝である。しかし少帝を殺し文帝を迎え、惨劇を計画し進めた 大臣の徐羨之や傅亮も文帝に誅せられてしまった。 建国早々に宋朝廷 宋朝系図 元嘉の治世 は血なまぐさい混 ②少帝義符 ④孝武帝陵ー⑤廃帝子業乱をつづけたが、文帝の治世三〇 明 の 年は「元嘉の治」と称せられて、 ③文帝義隆 ( 三 0 年 ) ⑥明帝或⑦後廃帝昱国力も充実し南朝文運の花が咲い南 ( 四年 ) た時であった。 0 2 ⑧順帝準 ( ニ年 ) 宋の創業主はさすがに東晋の政 ①武帝劉裕 ( 在位三年 ) じよせんし ふりよう がく
文帝にも、皇后のほかに多くの宮女がかしずいて寵愛をうける機を待っていた。皇后袁氏は一 しよう 女一男をうみ、その男子劭は太子となり、帝の寵遇は袁氏に集中していたのたが、そのうちに潘 しゆくひ しゅん 淑妃が可愛がられて男子の濬をうんだ。嫉妬にもえた皇后は病をえて死んだ。母を失った劭が潘 淑妃と濬とを深くうらんだのは当然である。濬は危険を感じて進んで劭に接近しその意を迎える ことにつとめ、すっかり悪友仲間になった。二人は自分たちの悪事が父皇帝の耳に入るのをおそ れ、帝の人形を宮廷の土中に埋めて、信仰する女巫に呪詛せしめるうちに、事がばれて、劭も濬 も危地に追い込まれた。劭は兵士をして父皇帝と帝の信任する臣僚たちを殺させた。元嘉の治世 の君主までが、その子にかかって殺されるにいたって、宋朝廷はいよいよ血なまぐさい地獄の様 相を呈してきた。 しゅん 父帝からいちばん寵愛されなかった武陵王駿が、劭と濬を殺して即位した。これが孝武帝であ る。劭とその四子、濬とその三子を、みな首と胴体とを別々にして獄門にさらしたうえで、揚子 江へ投げこむというような、残酷をきわめた処刑が劭らの一味に加えられた。 だがそれはほんの序のロであった。孝武帝はこれ以外の兄弟や親類を、口実をもうけてつぎかの らつぎへ殺していった。帝がどんなに酷薄きわまる性格の持主であったかは、つぎの挿話によく南 あらわれている。帝は寵愛する一人の崑崙奴を左右にはべらしておいて、気にくわぬ臣僚を杖で なぐらせた。侍中の一人に、酒が飲めず芸事もきらいな謹厳な君子があった。これを気にくわぬ くろん えん はん
長である節度使の数は次第に増加し、徳宗 ( 七七九ー八〇五年 ) の代には四〇あまりにもなった。 彼らはその地方の軍事権のみならず、政治、財政の権をもにぎり、封建諸侯のようになり、さら に中央から独立の勢力になっていた。 ③中央では宦官が朝廷の財政を支配したのみならず、禁衛部隊の長となり長安の軍権をもにぎ った。憲宗 ( 八〇五ー八二〇年 ) の時代は節度使の勢力をおさえたので、唐朝復興の日ざしもわず かに見え、白居易、柳宗元、韓愈などの文壇巨人も政界に活動したが、宦官は帝を殺して穆宗を たて、以後は宦官が君を殺して君をたて、太子を廃しては、別の後継者をえらぶようになった。 穆宗を殺して敬宗 ( 八二四ー八二五年 ) を立てたのも宦官であるが、敬宗を殺して文宗 ( 八二六ー 八四〇年 ) を立てたのもまた別の宦官であった。文宗は宦官を誅殺しようとはかったが失敗して、 、よ、よ宦官の勢力はつよまった。つぎの武 かえって長安に流血の惨 ( 甘露の変 ) をみたうえに、しし れ 宗 ( 八四〇ー八四六年 ) も、そのつぎも、またそのつぎも宦官が立てた天子であった。このように、が 宦官は天子をきめる「定策の国老」であり、天子は宦官を試験官とする科挙の受験者のようであ の 国 帝 ったので、「門生天子」といわれた。 ぎゅうそう ④宦官の専横たけではない。文宗の代からは、官僚貴族出身の李徳裕対科挙出身の実力派牛僧大 孺の党派がはげしく対立して、国家人民のことよりも、反対派排斥に夢中になった。そのために は宦官とも手をむすんだ。大臣の浮沈ははげしく、政界は護身のために右顧左眄し、一貫した国 じゅ うこさペん
げきぶん このときの挙兵の檄文は駱賓王の作、武后を徹底的にこきおろしたものであるが、武后はこれを らくじようしゅう 読んでその文才に感じ、その遺文をあつめて『駱丞集』を編纂させた。 女色を最もいましめた英主太宗の側近に女禍の種は下され、高宗一家は混乱をはじめたが、や がて唐朝を中断する女禍にまで発展した。 政権をにぎって、すでに反する者をつぎつぎに殺していった皇太后武氏の周 唐を中絶する女帝 囲には、寵愛をうけた張易之、張昌宗兄弟のような美少年もいたが、また薛 かいぎ 懐義のような奇怪な男もあった。武太后は洛陽に移り住んたが、洛陽の市に薬売りをしていた微 せっしようおじ むすめ 賤のものが気にいり、彼をわが女太平公主の婿である薛紹の季父として、薛氏を名のらせて僧と なし、白馬寺寺主として宮廷に出入りさせた。これが 式則人 薛懐義という無頼の怪僧である。いつも宦者一〇人あ 現 まりをしたがえて馬にのって宮中にくるが、途で近づ出 人く士民があると鞭でなぐって流血生死をかえりみず、家 代道士をみるとその髪を剃りおとしていった。多くの無世 唐 大 / 頼少年が彼の弟子僧とな 0 て縦横に法をおかしたが、 厂だれもとりしまるものがなかった。武太后の一族の武 承嗣や武三思も、懐義の馬のくつわをとって僕の礼を しもペ せつ
し、かっての世界文化のセンターは、まったくの廃墟と化した。東に進む皇帝の車を沿道の民衆 は万歳を叫んで迎えるのだが、それをみた昭宗は、「万歳はよしてくれ、わしはもうお前たちの 主人じゃないんだよ」と泣きながらこたえるのであった。 洛陽新宮殿における昭宗の、囚人同様の幽閉生活も長くはつづかなかった。わずか数カ月後の ある夜、選りすぐった兵士一〇〇人が宮門を叩いた。「急ぎ奏上あり、帝に面会を乞う」。彼らは、 門を開いていぶかる官女に一太刀あびせて押し入り、おりしもほろ酔い機嫌で寝まきのまま柱を 伝って逃けまわる昭宗に、史太という一介の兵士が追いついて彼を殺した。時に天祐元年 ( 九 0 四年 ) 八月、昭宗三八歳の悲惨な最期であった。 ついで即位した哀帝は年わずかに一三歳、文字通り朱全忠のロポットにすぎない。やがて朱全 忠は、皇族たちをみな殺しにし、哀帝の譲りを受けるという定石どおりの禅譲革命を行なった。 れ 九〇七年ついに皇帝の位にのぼった彼は、国号を梁と称し、都を開封に置いた。かくして唐は二が 〇代一一九〇年で、「全忠」の名をあたえた臣下によって減・ほされたのである。 の 安史の乱以来、唐文化の中心、洛陽、長安も破壊蹂躙され、その美しい文物も壊減した。しか帝 し、その文物が奇しくも、東はわが奈良の正倉院に、西は敦煌の石窟寺院千仏洞に保存された。大 前者はわが朝廷派遣の国使や留学生が運んだ唐貴族文化の精華の保管庫となり、後者はより庶民 的なもの、さらにチベットや西域諸国の文物と混在し交流している唐文化の保存庫である。あり じようせき
と晋軍側に告げて帰った。一方、晋将謝玄は使いを出して、 「秦軍はあまりに汜水岸に迫りすぎている。すこし後退して戦場をつくってくれれば、わが軍は 渡河して勝敗を一挙に決しましよう」 と申し入れた。苻堅は、 「よかろう。敵の渡河をただちにわが鉄騎部隊が襲撃すれば、勝利はわがものだ」 と、軍に後退を命じた。後退がはじまると、後部にあった朱序と漢人兵士はいっせいに、 「わが軍敗る、わが軍敗る」 とわめきたてた。後退しつつあった秦の大軍は、驚いてうしおの退くように北へ狂奔しだしてと めることができなくなった。渡河した晋軍は勇気百倍、一挙に突撃追撃戦にうつって大勝を博し ふゅう た。苻堅も流れ矢にあたって単騎で逃げだした。秦軍の大将苻融は馬がたおれて陣中で斬り殺さ れた。逃げる秦兵はたがいにふみ殺されたり、水にはまったり、死者無数、「水これがために 治 政 流れず」という惨敗である。 族 ふうせいかくれい 逃げまどう秦兵は風声鶴唳にも晋軍到ると恐怖して走りつづけた。水鳥の音に逃げだした富士貴 川の平家の大軍と同様である。時は陰暦十月、草にかくれ露にぬれ、恐怖におののく敗兵には飢江 えと凍えとがかさなり迫った。死者は一〇のうち七、八。長安に帰った苻堅は、もはや北シナの 6 統一さえも保ちえず、崩壊減亡へと急速におちていった。
一六〇年のころに洛陽で大月氏の僧が翻訳したものに、阿育王の家庭におこった邪恋悲劇をう たった物語がある。 阿育王の王子法盍は身も心も美しい青年であるが、とくに蓮華のような目の美しさは無比であ った。だれでもその目を見ると喜悦がわいた。宮廷の女たちは恋慕の情に身をこがし、なかでも 王の第一夫人であり王子の義母である洋容が恋情をもやした。ある朝、王子が甘い果物を捧げて 義母をたずねると、夫人はそのせつない恋情をうちあけて抱擁をもとめた。王子はあまりのこと はずか に耳をおおって拒んだ。憤りに縛られた夫人の心は鬼となり、自分を辱しめた王子の両眼をえぐ り出してやろうと決心した。たまたま西北インドに反乱がおこったので、王子を遠く討伐にやっ た。彼が敗北して殺されることを期待していたのに、王子は乱を平らげたうえに、 この地方の治 うてん 績をあげ、いよいよ名声がたかまった。王は喜んでインダスのほか、安息、康居から亀、于聞 など、東方秦地にいたるまでのトルキスタンの地を彼に賜わった。い よいよいらだった夫人は、 かねて王子に恨みをいだいている大臣耶舎と共謀して王印を盗みだし、王子の両眼をえぐりとる来 の べしという王の命令書を偽作した。 道 王子は無実の罪名で両眼をえぐりとられて盲目になったが、好きな琴を弾きながら乞食放浪の絹 旅にの・ほった。一夜、阿育王は高楼で聞きなれた琴の音を耳にしてわが愛子であることを知った。 7 怒った王は第一夫人と大臣耶舎を焼き殺した。 こば アショーカ