こんな非シナ的な政治方針は、すぐに煬帝によって改変された。煬帝はふたた 煬帝の仏教政策 び儒教治国のシナ式政治の正道にもどったのである。しかし、盛んになった仏 教は圧迫せずに、洛陽に外国僧を迎えて盛んな官設翻訳事業をおこしたり、また朝鮮、日本、西 域などから留学にくる外国僧のためには、これを指導教育する僧を任命して、隋仏教の優秀をほ 煬帝にあっては、仏教も道教も皇帝の偉大をかざる装飾であった。僧も尼も道士も、それそれ の舟に分乗して江都豪遊のおともをさせられた。わが正倉院に 聖武天皇が書写された雑集があり、そのなかに隋大業主浄土詩 げんそう がある。この美しい浄土詩は煬帝の側近につかえた文学僧彦淙 土の作であるが、詩文の好きな煬帝がつくらせたものであるため - 第、ま色を夐・オ物浄 に、煬帝作として日本に伝わってきていたのであろう。 れ蔵 一編衣へ誕既心冢をまい ら院 ( ミを第 ( 一第味礎え倉文帝の考えでは、首都長安を天下の仏教の中心にするために開 伝正 と。は最高の仏教指導者をむかえねばならぬ。文帝は全国から最も一 作翰 を、 ~ 。ト ~ 考ま 9 をの宸学徳のすぐれた高僧をえらんで六人を得た。彼らはそれそれの大 しひょう , ~ を巻賀下 2 い屯从罅を煬天 0 の武地方で数百の門下から師表とあおがれて一学派をなし、一教団 3 3 を、を食靆物澱盟第彝 ~ 隋聖 を組織しているものである。文帝はその師表が門下をひきいて
をもって弟としている。天いまだ明けざるときに出でて政をきき跏趺して坐し、日出ずればわが 弟にゆだねるとて、政務をやめる」といった。隋の文帝は、「そんなことは道理にあわぬことた」 と訓令して改めさせた、と。 聖徳太子の対隋国交政策は、もちろん隋文化の導入、仏教の移植を重要な目的としたに相違な いが、また朝鮮経略に失敗した日本朝廷の微妙な外交政策の転換としても考えられてよかろう。 さていよいよ問題をおこした「日出ずるところの天子」の国書が、六〇七年、煬帝の大業三年、 くらっくりのふくり 国使小野妹子、通訳鞍作福利によってもたらされた 9 使者は「海西の菩薩天子は重ねて仏教を 興されているとうけたまわるゆえに、使者をつかわして朝拝せしめ、かねて僧数一〇人を仏法を 学びにこさせました」といった。ところが差し出した国書には「日出ずるところの天子、書を日 つつがな 没する処の天子に致す。恙無きや」とあった。 煬帝はおこった。「こんな無礼な手紙は、今後とりつぐことをゆるさぬ」と。無理もない。煬 帝は、「中華皇帝は天下に唯一の独尊である、というシナ伝統の皇帝観を堅持し誇りとしていた開 のであるから、東夷の倭王から、こんな対等の国書をもらおうとは、さらさら思わなか 0 たので→ ある。小野妹子がうけとった返書があったとすれば、処理に困る内容のものであったろう。帰朝大 した彼は、隋帝の国書は百済で掠奪されたと報告した。おそらく煬帝は返書を与えなかったか、 与えたとしてもそれは、日本皇帝を見くたし、かっその無礼をたしなめた、見せることのできぬ おののいもこ あぐら
はあるが、隋の減亡後シナの経済発展の上に貢献した功績もはかり知れないものがある。日本の 留学生も、この水路を洛陽へ長安へ開封へと、文化をもとめて旅したのであった。 修理を怠った大運河が各処でつまったとはいえ、なお平均幅三〇メートルから五〇メートルの 水路は、煬帝の搾取と無軌道とをあわれみながらも、いまも多大の恩恵を人民に与えつつあるの である。 さて国内に皇帝権を誇示して得意になった煬帝は、周辺諸国へは戦争にうったえ 高句麗征伐 ても帝威を誇示し、東西南北の諸国の使臣を朝貢せしめて得意がっていた。南方 の林邑 ( 占婆、チャンパ ) 征伐と流求 ( 台湾 ) 討伐、西方青海および新彊方面の攻略には、それそれ 相当の戦果をあげ、多くの掠奪物資とともに凱旋した。甘粛敦煌をこえて西域諸国へも隋の国威 は伸張し、洛陽における西域貿易も盛大となった。 大業六年の正月、群臣をはじめ、諸外国の使臣、諸蕃の酋長などをことごとく洛陽にあつめ、 宮城正門前の大路に百戯の舞台をつくり、やんやのかっさいを博する内外さまざまの奇伎異芸を つぎつぎに演出させた。楽器をとるもの一万八千人、その楽音は数十里にきこえ、夜通しの燈光 は天空にはえるという盛儀が一カ月にもわたってつづけられ、諸国の使臣、諸蕃の君長たちをア ッといわせた。このときまさに帝王煬帝は得意の絶頂であった。 ところで豪遊すきで独尊、天下皇帝をふりまわしたい煬帝は、また侵略戦もすきであった。し とんこう 326
世 五九三 隋の煬帝が父の文帝を殺して即位 六〇四 六〇五煬帝が大運河の工事を開始する 六〇七 煬帝の高句麗遠征 ( ~ 六一 0 隋が減び、唐がおこる 紀六一八 六二二 六二四唐の均田制実施 唐の李世民 ( 太宗、 ~ 六四凸即位 六二六 六四〇孔穎達らが『五経正義』をつくる 六四五 六五八安西都護府がおかれる 六九〇則天武后が帝位を奪う 大祚栄が震国 ( 後の渤海国 ) を建 六九八 てる ハルシャヴァルダーナ王 ( 戒 日王、 ~ 六岩 ) 玄奘がハルシャ王の宮廷を訪問 ハルシャ王の使節が唐の太宗の 宮廷に来る 太宗の使節、王玄策がハルシャ 王の宮廷を訪問 義浄が仏典を求めてインドに出 発する 聖徳太子の摂政はじまる 遣唐使のはじまり ササン朝。ヘルシア減亡 大化改新 へジラ 小野妹子が遣隋使となる 4 〃年表
のた五七年 ( 昭和三二年 ) 、ひさしぶりにこの池をたずねたときに こげ 。、 : ~ はあは、この地方は新中国の模範地区とな 0 て面目を一新してい 一のてたが、この歴史的記念の場所はよく保存され、かっ付近一帯 。願の歴史的遺物もここに集められていて、小歴史博物館もでき 泉祈 、清にていた。清泉はもちろん相変わらずわきながれていた。 せいみん 」祠の 晋源さて唐の高祖李淵はこの地の鎮将となってその子世民らと ともに住んでいた。人民軍いたるところに蜂起し、煬帝を怨 む声が渦巻き、隋の運命もはやきわまれりとみえた六一七年、李世民はひそかに、しかし熱心に 父に説いた。 「いまや主上は無道、百姓は困窮、晋陽城外はみな戦場となっている。民心にしたがって義兵を おこし、禍を転じて福となしましよう。まさにこれ天授の時です。」 けつき 李淵は驚いたが、ついに決心した。蹶起した彼らの軍は、虚をついて帝のいない都長安をおと ゆずり しいれ、煬帝の孫を位につけた。もちろんこれは臨時の措置で、まもなく禅譲をうけて唐の建国 となった ( 六一八年 ) 。だれかが歌い出した、 かわ ゃなぎ 江の南で楊 ( 楊氏、煬帝 ) が散れば すもも 河北じゃ李 ( 李氏、李淵 ) の花ざかり きた 348
張貴妃らの艶麗をたたえうたったものであった。帝は張貴妃を膝にのせながら、政務の処理を張 貴妃にやらせたりした。貴妃のご機嫌をとるのに懸命なとりまきの宦官、佞臣が多くなったのは いうまでもない。 隋の文帝即位第八年、開皇八年 ( 五八八年 ) 十月、五一万八千の討陳大軍は、皿日王広 ( のちの煬 帝 ) を総帥として、東は海辺から西は四川におよぶ全線の要路からいっせいに進軍を開始した。 後主は「天気ここにあり、斉軍三度きたり、周軍再度いたりしも敗退せざるなし、いま北虜きた るも必ず自ら退散せんのみ . といっていたが、翌年正月、はやくも隋軍は建康にせまった。後主 は建康に総動員令をくたして僧尼道士までもことごとく防禦の労役に服させたが、勝ちに乗じた 隋軍をささえる力はもはやなかった。 帝は船で逃げる仕度をしていたがそれもできず、隋兵入城に張貴妃と井戸のなかに入って身を かくしたが、夜になって隋軍に引きあげられて捕虜になった。都にいた宗室の王侯一〇〇人をは じめ文武百官も降伏したものが多か 0 た。三月、帝以下遠く長安〈護送された。隋の文帝はとく へ に敗残の南朝貴族のために慰問使を出したが、使者が帰ってきて「後主以下、五〇〇里にわたっ てつづいております」と報告したときには、さすがに勝利皇帝もふかい嘆声をもらした。 隋は陳の王室貴族の降人を寛大にゆるし、王公らは、陜西の西方部や甘粛地方にうっされて土 地を給与されたが、文帝をついだ煬帝が後主の第六女を後官に入れて可愛がったので、陳氏の一
、刀 、じっさい江南は水路が縦横に村落をつなぎ、都邑に通じていて、物も人も船で往来する。読 者はしばしば笠をかぶった農夫が、棹さしてクリークをしずかに進んでいく風景画を見られたこ とであろう。わたくしは江南の旅で、ひろびろとした水田のなかを、白帆だけがしずかに動いて いくのを不思議に思ったことがある。それが江南の路、クリークだと教えられて、その風景にこ のうえない株力を感じたものである。 北シナには洛陽王土の地をうるおして中華のシンポルともなってきた河神の流れ黄河がある。 ようだい 隋は黄河の北朝と揚子江の南朝とを一つにした。しかもその統一の大事業は、煬帝みずからが若 き日に総帥となってなしとげた、中華の歴史に最も誇りうる功業である。南北に大動脈を通じて、 南方の文化を、人や物を、都にまっすぐにみちびきいれる大手術の完成、大運河成就によって 「朕こそは真実の中華統一天子だ」と天下に誇称しうると煬帝は考えたであろう。 黄河流域の華北は畑作地帯で、水田米作が少ないが、江都対岸の水豊かな沃地一帯は、シナ第 えなんじ 一の米作豊庫である。蘇州常州実れば天下に饑えなしといわれるゆえんである。『淮南子』とい まめ う古書にも「汾水は麻によく、済水は麦によく、河水は菽によく、江水は稲によい」と書いてあ一 る。だから長安、洛陽の都の生活に江南の米こそ最大の魅力であった。そしてその米の運送には大 水連にこすものはない。いまや最も便利な江南の米の通路が洛陽に直結したのである。長安、洛 陽の都から天下に号令する皇帝の事業として、最も有効適切な大事業たと煬帝が考えたのも当然 みの
りゅうそう 唐の詩人劉滄は詠じた。 すいれん 此地かって経たり、翠輦 ( 翠玉でかざった車 ) の過ぐるを、 浮雲流水ついに如何。 香は南国に銷えて美人尽き 怨みは東風に入って芳草多し。 残柳、宮前に露葉空しく こう タ陽、江上に煙波浩 ( ひろびろ ) たり。 行人、遙かに起こす広陵の思い とうか 古渡、月明らかにして棹歌を聞く。 「怨みは東風に入って芳草多し」というのは、江都の離宮に集めた多くの美人のなかには、一度 の帝の寵愛もうけず、怨みを含んで自殺したものもあったことをいうのであろう。「棹歌」は、 煬帝が広陵で、月夜につくって歌わせた水調歌である。 の 煬帝の運河事業はさらに、大業四年 ( 六〇八年 ) には黄河と郡 ( 北京 ) とを結ぶ一 えいさいきょ 各地の運河工事 永済渠をひらいた。一〇〇万人の男子を徴発してなお足らず、女子も工事に動大 員された。その二年後には揚州 ( 江都 ) 対岸の鎮江から杭州に至る八〇〇里の江南河が開かれて揚 せんとう 3 子江と銭塘江とがつながった。はかり知れない人民の血と汗の上に完成した驚嘆すべき大運河で
第図たのであった。ときに六四歳。 ふたもの ~ 帝その日、太子広から夫人へ小さい金の蓋物に親 ちんどく 本封をした賜り物が届けられた。夫人は鴆毒たと思 閻ってあけないでいると、使者がはやくとうながし ちぎり 霪唐た。開いてみると「同心結」っまり夫婦の契をも 騎とめるものであった。夫人は、もちろんことわっ た。しかしその夜、太子は夫人に通じてしまった。 いちす 太子広は遺勅といつわって兄の勇を殺し、ただ一途に、皇帝になりたさにあらゆる不道義、陰 謀を尽くしてとうとう皇帝になった。皇帝病にとりつかれたこの晋王広は、いまでもシナ皇帝中 ようだい の豪遊驕奢の標本とされる煬帝である。 ただ一すじに皇帝をあこがれた新皇帝が何よりもやりたいことは、天下独 権力を誇示する煬帝 尊の皇帝の威光、権力を天下に誇示することであった。皇帝、皇后らしか らぬ父母の倹約生活で国庫の富は十分にみちていることを彼は知っていた。きびしい父母の監視 下で、孝順をかざり品行方正をよそおってきた窮屈さが一掃されたことの反動もあるであろう。 即位するとさっそく、天下の大隋帝国をかざり、天下の独尊皇帝の威をますに足るような大土木 工事を、つぎつぎとおどろくべき物カ、人力を投じて行なった。彼は父によってきずかれた国富 3 7 8
つぎとおこり、皇帝や王を称するものがそくぞくと現われた。それでもみずからの帝王権を過信 していた煬帝は、第三次高句麗征伐の軍をおこした。しかし、軍の逃亡者が続出して、もはやど うにもならなかった。『隋書』にはいう。 とよくこん 「天下の人は労役のために死に、家は破産した。天子の親征は一度は吐谷渾 ( 青海、甘粛地方 ) に りようまっ 向かい、三度は遼東にすすみ、糧秣を運んで水陸両道からたがいに戦場に集まったが、辺境に敗 れて労兵は死し、大半帰らなかった。しかも、人員物資の徴発は毎年つづき、家なみに辺境に徴 発されていく良家の子と別れる哭泣の声は、州県につらなりひびいた。老弱が耕しても飢餓をみ たしえず、婦女が紡績しても衣料は足らぬ。」 ことここまで圧迫されては、「強者は盗となり、弱者はみずから売って奴隷となる . よりほか に生きる途がなくなった。生きるためにみずからの死を賭して民衆は蜂起したのである。 このような隋の歴史の記載には、一三〇〇年後の海のかなたのわたくしどもでも、胸をえぐら れる思いがするのに、煬帝はただ「朕は天下の皇帝だ」とうそぶいていられたのだろうか。大運 河を豪遊する竜舟水殿は、楊玄感の乱に焼かれてしまっていたので、帝は江都に詔して数千隻を 新造、それも前よりも大きなものをつくらせた。では、彼は驚くべき神経の太い男なのだろうか。 そうでもない。大業一二年四月、宮殿の一部に火事があった。帝は「すわ賊おこる」と驚き逃げ て西苑の草のなかにかくれ、鎮火してからやっと宮殿にかえった。大業八年以来は、毎夜のよう 344