察官は帰って玄宗に彼のことをほめて伝えるので、玄宗のお・ほえもめでたく、トントン拍子に出 世して、開元一一九年には平蘆軍司令官にの・ほり、天宝二年、はじめて長安にまねかれて玄宗に掲 見した。翌年には、平盧のほかに范陽の節度使を兼任し、あわせて十一一万にあまる大軍の総司令 官となった。同六年、御史大夫を兼任、これは時の宰相李林甫の差し添えによったものである。 玄宗はますます安禄山を優遇し、禄山もまた年老いた玄宗をよろこばす術を心得ていた。 こうしたとき、玄宗が彼に皇太子を紹介した。ところが彼は太子にあってもいっこうに拝礼し ない。そこでおっきの家来がいった、「どうしてお辞儀をなさらぬ」 禄山「私は蕃人で朝廷の儀礼を知りません。いったい太子とはどういう官なのですか」 玄宗が口をはさんだ、「世嗣の君のことだ、朕が死んだのちに位を伝えるものた」 禄山「私は愚かもので、これまで陛下だけを存じて、太子は存 れ じ上けませんでした。死罪の過、なにとそおゆるしを」 そ と、ようやく皇太子に拝礼した。玄宗は彼の純朴さをほめた。安 の 、。を彩禄山は楊貴妃の養子になりたいと申し出てゆるされた。実はかれ帝 唐は貴妃よりも一五歳も年長であった。この年長の養子は、入京参大 ・内するとまず楊貴妃に拝礼する。玄宗がいぶかしげにそのわけを 日うと、
鳳凰楼下、天仗 ( 矛や槍 ) を交え、 ほがらか うじゃく 烏鵲橋頭、御筵敞なり。 往々花間に、綵石 ( うつくしい石 ) に逢い 時々竹裏に、紅泉 ( きれいな泉 ) を見る。 今朝扈蹕 ( おともする ) す、平陽の館、 ほとり いかだ 羨まず、槎に雲漢 ( 天の川 ) の辺に乗ずるを。 いまやみずから権力をにぎり、第二の武后たらんとする彼女にとって、隆基は目の上の瘤、事 ごとに睿宗につげロして彼を皇太子の地位から引きずりおろそうとはかった。だがそれはかえっ て逆効果となり、隆基を信頼する睿宗は、事が紛糾しないうちにと、七一二年、在位一一年間でさ っさと隆基に位をゆずった。かくてわずか二八歳の青年皇帝、玄宗が誕生したのである。しかし、 いれちえ 太平公主の入知恵もあって、睿宗は太上皇として重要な政務をにぎり、依然として皇帝がっかう 「朕」をもって自称し、太極殿で執務することにした。だから、太平公主はますます専横にふる まうことができ、玄宗を助けてきた重臣たちはことごとく免職され、公主の推薦の宰相が七人中 五人をしめるという有様、玄宗の身辺すら危険を感ずることになった。ここにおいて玄宗は翌七 一三年ついに意を決して太平公主ら一党を逮捕して処刑し、上皇の政治への発言の道をとざした。 いよいよ開元の太平の治世がはじまるのである。 ときに玄宗は二九歳、年号も開元とあらたまり、 こひっ こふ 370
がって投獄され、流罪にあって死んだ法琳のような護法僧も出た。しかし、唐の祖先は老子なり と主張する唐朝の決定を、変えることはできなかった 9 高宗は老子に太上玄元皇帝の尊号をたてまつり、玄宗は五岳、両京、諸州に玄元廟をたてて国 家としての老子の祭祀を全国に普及し、みずから『老子道徳経』の註をあらわして、これを天下 の家ごとに所蔵せしめ、かっこれを文官資格試験の科目にくわえた。のちに武宗が道教狂信者と なり、徹底した仏教弾圧をくわえるにいたったのも偶然ではない。 唐朝の道教は老子の李姓によって特別有利な地位をえて隆盛になった。それにもかかわらず、 仏教の盛大にははるかにおよばなかった。仏教教団の数量も経済力も道教のそれを圧倒していた。 渤海、新羅、日本までをつらねて活躍 インド、西域諸国から、セイロン、南海諸国、チベット、 げんじようぎじよう する唐仏教界は、玄奘、義浄のような大旅行家や、各宗の祖師となっていまもその教旨を伝承さず れ敬慕されている人々を輩出した。 安 仏、道の優劣論争のまだおさまらぬときである。太宗がその西域経営の力をぐん おうげんさく 玄奘の帰朝 とのばして、いよいよ熱心に西方への国勢発展を意図して国使王玄策をインドへの 下 派遣していた貞観一八年 ( 六四四年 ) 、太宗のもとへ、帝の心をわきたたせるようなおもいがけな天 いしらせがとどいた。 「陛下の貞観元年、玄奘は国法の禁止をやぶって西域に出ていきましたが、つぶさにインド西域
宋璟 梁の武帝らはあれだけ仏教を信奉しても禍いをまぬがれえませんでした。むしろ人民を安らかに することこそ、仏の道ではありませんか。」 げんぞく 玄宗はこの意見にしたがって全国の税金のがれの僧侶を還俗させた。その数は一万二千人にの ・ほったという。また贅沢な服飾を禁止し、率先して天子の御 物をつぶして軍費にあて、高価な衣裳を宮殿の前で焼かせた りした。長安にある二つの高級織物工場も閉鎖を命ぜられた。 彼の政治をたすける宰相たちにも名臣が輩出 ようすうそうえい 姚崇と宋璟 した。その一人姚崇が玄宗に召されたのは即 位直後の先天二年 ( 十二月に開元元年と改められた。西暦七一三 年 ) 、潸水のほとりの狩猟の場であった。宰相就任の交渉をず うけた彼は玄宗にむかって、寛大な政治を行なうこと、宦官 安 どうかん や外戚を政治から遠ざけること、道観 ( 道教の寺 ) 、仏寺を建は 造せぬことなど一〇カ条の条件を出し、このうち一条でもゆ窈 るされないものがあれば、宰相にはなりませんといった。玄天 宗はその一条ごとに必ず実行することを約東し、姚崇ははじ めて宰相に就任することを受諾したのであった。のちに玄宗 〇 そっせん
は、自分の一族が外戚の地位をながく維持するためにも、妹に皇子がうまれることをねがい、ひ そかにまじないをしていたが無駄であった。玄宗の心は次第に彼女から武恵妃にうつっていった。 ついに王守一の祈疇の事実が露顕し、陰謀をくわだてるものとして死刑に処せられ、皇后は庶民 の地位におとされてしまい、不遇のうちにまもなく死んだ。 かわって第一一号夫人となった武恵妃は則天武后のいとこの子で、玄宗の即位以後に寵愛をうけ るようになった。彼女は寿王以下多くの皇子、皇女をうんたのに好事魔多し、開元二五年、四〇 歳あまりで世をさった。 唐の後宮ーー皇帝につかえる官女たちには、貴妃、徳妃、淑妃、 賢妃の四妃をはじめ九嬪、世婦、御妻らがおり、その数は白楽天 力。 宗る , 「玄物の「長恨歌」に後宮三千とあるが、三千人という数も必ずしも誇 れ 魏址張ではなかったようだ。武恵妃なきあと、その三千人の官女のうが あ宮 の だちに、玄宗のおめがねにかなったものは一人もいなかった。一方 国 東ん 帝 の遊毎年花鳥使を全国に派遣して美女さがしを行なった。 安に 長もそのころ恒例として十月に玄宗は長安の東三〇里の驪山の温泉大 ・温妃宮 ( 華清宮 ) に行幸して保養することにな 0 ていた。近年、蒋介石 山貴 驪楊が張学良に監禁されたところである。行幸にあたっては内外の官 ひん りざん
「私たち蕃人のしきたりでは、母を先にして父を後にするのでございます」 とこたえて玄宗を喜ばすのであった。 安禄山は晩年になるにしたがいますます肥満して、腹は膝のへんまでたれさがり、それを秤に かけてみると三五〇斤 ( 五十六貫 ) あったという。玄宗は彼にあうごとに「お前の腹は地にとどき そうだね」と冗談をいった。だから歩くときには両肩を侍者にささえてもらい、それによりかか って歩いたし、馬にのるときはまず馬に砂袋をのせて力をためし、鞍の前にもう一つの鞍をおい て、これに腹をのせるようにした。その腹をみて、あるとき玄宗がたずねた。 「お前の腹のなかには何が入っているのか」 禄山は、 まごころ 、つ。ま、つまっております」 「赤心がし。し とこたえた。こんな肥満した体でも、テンボの早い胡旋舞を舞うときは風のごとくはやかったと 玄宗はいよいよ安禄山が気にいった。長安にある彼の家がみす・ほらしいという 節度使の強大 ので大邸宅を新築してやり、宮中の者もおよばぬような立派な多くの調度品ま でそろえて下賜した。さらに勤政楼の玉座の側に彼の席をもうけてすわらせたが、皇帝が臨む正 殿に人臣をすわらせるということは古今を通じてかってなかった。 442
女たちがきらびやかに着かざってお供をする。開元一一八年の十月の遊幸のときのことである。玄 宗はついに多くの官女のなかに一人のすばらしい女性を見いだした。さっそく宦官の高力士に命 じて彼女をよびよせた。彼女こそ白楽天の長編ロマンス詩「長恨歌」をいろどる楊貴妃であった。 ぎよくかん 彼女の幼名は玉環、父が四川省の県役人 ( 司戸 ) をしていたときにうまれた。ョチ 楊貴妃登場 ョチ歩きのころ県庁の前にある池にあやまっておちたことから、この池を落妃池 と土地の人々はよんだという。父母に早く死にわかれて叔父の家でやしなわれ、もってうまれた 美貌が買われて開元一一三年、玄宗の息子寿王の妃となった。玄宗が温泉宮で見そめたとき、彼女 はすでに息子の嫁だったのである。いかに天下の皇帝といえども、息子の嫁をすぐさまとりあげ て妃にすることは気がひけた。それにもう六〇歳の老境に足をふみいれようとしていたのだから。 それでも何とかしたい。帝はひとまず彼女を道観に入れて道教の尼にし、太真という法号をあ たえ、太真宮にすまわせることにした。つまり、彼女の自由意志で夫の寿王と離婚したという形 式をとらせたのである。そして天宝四年七月、寿王にはかわりの嫁として武官韋昭訓のむすめを あてがって慰めるとともに、同じ月、鳳凰園において正式に彼女を貴妃 ( 後宮の最高地位 ) の位に つけた。玄宗六二歳、貴妃二七歳、この大きく年齢の開いた夫婦間の愛情の様態は誰にでも察せ られよう。老帝は夢中になって若がえった。 げいしようういきよく この日、玄宗作曲の「霓裳羽衣曲」が高らかにかなでられ、貴妃の入宮を迎えた。その夜、玄 たいしん 434
の諸国をめぐり、おびただしい書籍や珍宝をもって ただいま于聞まで帰りました。陛下にご報告申し上 ~ げたく帰心矢のごとくであります。」 これを聞いて太宗は、一八年にわたって現地に経坂 3 験した西域インドの知識を、親しく漢人からきく機 会にめぐまれたことを喜んだ。玄奘の帰朝に対し十叫関、 分の便宜をあたえる旨がったえられた。 貞観一九年正月、長安の西南三〇里の昆明池から 通ずる水路漕渠の早春の流れに、山のような荷物を一 R 、 竺た つんだ舟をすすめて異様な服装の玄奘がかえってき / 一、み天劬 マル 一〒 た。官人と市民が凱旋将軍のように彼をむかえた。 玄奘は弘福寺にすんで早速、梵典の翻訳を開始した。 タル「ノヤ 太宗やその臣僚が何よりも望んだ詳しい西域イン トの国情をのべた『大唐西域記』は、貞観一一〇年七月に本になった。ちょうど玄奘が帰る直前、 貞観一七年、太宗がインドに派遣していた国使王玄策の一行が、中部インド訪問の使命をはたし、 ぎしやくっせん 耆闍堀山 ( 霊鷲山 ) の仏陀説法の遺跡などを巡礼し多数の仏典をえて帰朝した。太宗朝廷にはイン ス 占 1000km 玄奘のインド旅行図 4 7 8
れられ、謡曲「楊貴妃ーでは、 ひょく 天にあらば、願わくは比翼の鳥とならん。地にあらば、願わくは連理の枝とならんと誓い ささめごと しことを密かにったえよや、私語なれども、いまもれそむる涙かな。 とうたわれた。 意気と情熱にもえて政治の革新にのりだした開元皇帝は「貞観 ( 太宗の治世 ) の風、一朝にして また振う、と称揚される実績をあげた。空前の繁栄がつづいた。玄宗の心にも政治に対する安易 感と実力に対する過大のうぬぼれがはいよってきた。実際、富と権力を自由に使える皇帝が二〇 年、三〇年と政治に心身をうちこみつづけるのは至難のことである。ようやく政治にうみだした 開元二五年 ( 七八五年 ) 、帝は寵愛する皇后武恵妃をうしなって欝々楽しまぬ日をおくるようにな そこに宮廷の女禍を一掃し、自粛自戒してきた英主にも、また女禍がしのびよるすきができた のであった。玄宗の第一夫人は、彼が不遇であった臨澑王時代に結婚した王氏である。経済的に もめぐまれなかった若い夫をなぐさめ、もりたて、宮廷粛正のクーデターに際しては、夫に全面 的に協力し、異身同体のよき伴侶となってきた。玄宗が即位して彼女も皇后の座にの・ほった。 玄宗にとって彼女こそ苦難の道をともにした感謝おくあたわざる尊い存在ではあったが、不幸 おうしゆいっ にして彼女には子供がうまれなかった。これは王氏にとって致命的な欠陥であった。兄の王守一 っこ 0 れんり 432
ド・フームがわき起こった。 太宗は玄奘の梵語仏典翻訳のために十分な援助をあたえた。正確な梵語の知識と深い仏教学の 知識とをかねそなえた中国人によって、さらに国費によって幾多の仏教界の俊秀を協力者に加え て行なわれたこの翻訳は、仏典翻訳史上、劃期的なものであった。帝は彼のために「大唐三蔵聖 教序ーを製してあたえた。 貞観一一一一年、皇太子 ( のちの高宗 ) は、なくなった慈母の報恩追善のために、長安城の東南部、 曲江池にちかい勝地進昌坊に大慈恩寺を建て、玄奘を上座としてむかえた。寺内には翻経院が建 てられて訳経道場としての十分の設備もできた。太宗が崩じて ( 六四九年 ) 即位した高宗は、いよ いよ玄奘への優遇を厚くした。 六五二年 ( 玄奘五一歳 ) 、大慈恩寺に高さ一八〇尺の甎塔がたてられた。インドからもちかえっす た経典、仏像を安置して火災から守るためである。これが進士に及第した人々が、希望と誇りに 安 胸ふくらませてみずから名を記すようにな 0 た大雁塔である。今日のこっている大雁塔は明の改 築をへているけれども、玄奘時代の美しい仏像彫刻などもよく保存され、マルキシズムを指導理の 念とする中華人民共和国でも、中国がうんだ世界的英雄として玄奘の業績を顕彰することにつと天 め、大雁塔を中心に大公園計画もすすめられている。わたくしも先年、いまは西安の南郊外にあ しゅうなんざん るこの大雁塔にの・ほって、北に新しい雄大な都市計画をすすめている西安、南に終南山連峰を望 せんとう