国に行なわれていたソグド語であって、その言語の性質はいずれもアーリア人 のインドーヨーロッパ語に属するものである。 人類学は遺体の調査から、彼らがアーリア系人種であることを裏書きしたし、 て をを絵画の研究からもそのことが傍証強化された。 でもちろん、この地方には彼らだけが住んでいたのではない。北からは匈奴系、 、、ヂ物。文南からはチベット族などの遊牧民族の侵寇や略奪もしばしば行なわれていた。 テまた東からはシナ朝廷の威力ものびて、その官吏や屯田の兵士や若干の一般人 ・明 - デ〉民も在住した。しかし、西域諸国 0 都市 0 住民として国を経営し、また絹 0 道 。の商業活動に主導権をにぎ 0 ていたものはイラン系のアーリア人であ 0 た。 洞絹の道の西方に三世紀半ば頃から七世紀半ば頃まで栄えたのは、ササン朝ペ ( 0 《、、・」一一である。そ 0 王朝 0 下で、ギリ〉一、。ーイ〉ド 0 要素をもとり入 れてみごとに花ひらいたイラン文化の芸術作品は、絹の道を通り東方シナにつ来 仏たわり、日本にも影響をあたえた。絹の道の貿易に主役を演じていたソグド人道 ア , つひを 00 ( 一の 語は、ササン王朝の国教ゾロアスター教徴教 ) や、その王朝の治下に行なわれて絹 いたマニ ( 摩尼 ) 教 ( ゾロアスター教にキリスト教、仏教、・ハビロン古代宗教等々の要 亠素を混融した宗教 ) やキリスト教の一派であるネストル教 ( 景教 ) をもシナにはこ
インド民族のインドへ ローマに通じたアンドラ王国中インドの諸王の大王フン族 侵入の嵐ハルシャ王を訪ねた玄奘三蔵ひろがる民族の歌声 ーラタ ラーマ 1 ャナ ヒンズー教の神 ュヌ神シヴァ神と愛欲、舞踏分裂する仏教教団大乗の 発展母国を出てゆく仏教 絹の道の往来 絹の道とは 砂漠にすむ人種絹の道からきた仏教西方趣 しく四月 味としての仏教阿育王の邪恋悲劇法顕南道を、 のだんじり祭ーー・行像商工業に栄える亀女犯の僧 南朝の明暗 血なまぐさい宋の初世元嘉の治世名門の文豪謝霊運血 で血をあらう宋の王室自山へのめざめ宋の自減雄略天 皇の国書斉の永明の治世陰惨な斉王朝の末路人望集め る梁の武帝鍾離の大勝首都建康の繁昌玄、儒、文、史 南朝文化の最盛期江南の仏教化江南仏教の隆盛皇帝捨 身ーー一一一宝の奴梁武の悲劇ーーー侯景の乱宮城の攻防戦 悲劇はつづく南朝の終末 一一 0 三 1<0
揚州の小家の女が江西の大商人の嫁となり、天下いたるところに家をもち、水上に船の邸もあり、 金のかんざし、銀の腕輪、奴婢をあごでつかって美食にあきる金持婦人になったことを歌ってい る。その嫁がいう「わたしの婿は塩商になって一五年、州県に属せず、天子に属す : : : 。」 玄宗前後のころには、塩、茶の取引きによる大資本の発達がいちじるしかった。玄宗以来これ に対して塩税、茶税の法をたてて、国庫収入の増大をはかったが、大商人の脱税、貴族や税務官 吏や地方軍政権の不正などがからみあって、かえって唐の国家の秩序をみだし、人民をくるしめ、 国の減亡をみちびく原因になった。 広州、揚州等々から天下の珍貨財宝をあつめる長安は、さらに西方絹の道 絹の道にむすぶ長安 に直結して繁栄し国際化していた。隋末唐初の絹の道は西突厥の勢力にお さえられていたが、唐は太宗、高宗の二代にわたって、伊吾 ( ハ ミ ) 、高昌 ( トウルファン ) 、 ( クチャ ) 、于闃 ( コータン ) 地方に領土を拡大し、西突厥を撃破し、に設置した安西都護府を 中心に行政官や軍隊を駐在させて、タクラマカン砂漠のオアシス諸国を支配するようになった。 北、中、南の三道を通る駱駝の隊商は、西方の物資をどんどん敦煌にはこび、さらに長安にみち びきいれた。もっとも西域の治安がいつも安静であったわけではなく、高宗の末年以後には、南 とばん からは吐蕃 ( チベット ) 族、北からはトルコ系部族、遠くパミー ル高原の西からはサラセン帝国を たてた大食、などの勢力がそれそれ唐の西域経営をおびやかしたが、玄宗の晩年までは大体にお 408
西方趣味がこんなに流行しているかげには、西方貿易の繁昌が考えられる。それは絹の道の往来 が頻繁であることによるのである。 後漢の国威が衰微して、その西域経営の政治力は後退しても、たくましい商魂は、東西貿易の 巨利のためにはタクラマカンの砂漠をものともせず、シナとローマ、ベルシアの間を往来して、 シルクーード 「絹の道沿道の都市国家を繁栄せしめ、漢族富裕階層に胡風胡俗による奢侈生活を流行させた。 遠い西方のカス。ヒ海東南に国をさだめた安息 ( パルティア ) 人のごときは、とくに商才にひいで、 この仲買貿易に活躍したものである。その東には、インドに進み「絹の道」の南道諸国まで勢力 をはったクシャン王朝 ( 大月氏 ) が興隆していた。そしてこれらの国はすでに仏教の流伝地になっ ていた。そのうえギリシア文明をうけいれて仏像製作の技術が発達し、いわゆるガンダーラ仏教 美術が仏教徒の礼拝対象として普及していた。安息や大月氏の商人とともに、仏像をもった剃髪 の修行者が東方宣教に出てくるのは必至であった。 西方外国趣味を楽しんだ後漢の霊帝の前の桓帝 ( 一四六ー一六七年 ) は、 西方趣味としての仏教 宮廷に黄帝、老子をまつるとともに、西方渡来のインドの神として金色 の仏像をまつっていた。この皇帝も音楽がすきで琴や笙が上手であったが、美しい皇后のほかに 後宮の美女は五、六千人もおり、それらの召使女はその倍にものぼった。こんな多数の美女にか しずかれ、女と酒の享楽生活に耽溺している皇帝に対して、山東からきた学者襄楷は一六六年諫
スタンをさす狭義の西域には、漢民族の勢力が時によって消 一・早・仏洞 長はあったが、すっとのびていった。絹の道は急速に東西物 資の貿易路として、またシナの役人や西域諸国のシナへの朝 ・プ 貢使節の往来路として、さらにまた東西文化の交流路として北 にぎわうようになった。 ト 地 . 洛陽、長安からの西への旅は、甘粛省のはて、敦煌から南天 ル 道と北道とにわかれる。西方からする旅はパ、 ールを東にこ カ 、蓄路 えて、カシ = ガール ( 疏勒 ) で南道と北道にわかれる。南道に 通 は西からャルカンド ( 莎車 ) 、コータン ( 于聞 ) 、楼蘭があり、 西 北道には同じく西からクチャ ( 亀 ) 、カラシャール ( 焉耆 ) 、 】・が車 . トウルファン ( 高昌 ) がある。いずれもタクラマカン砂漠が人 ・・ヤ 0 間の生活を許したオアシスの諸国であり、東西交通と貿易と によって栄えた町である。 ところで、これらの国々こま、、 冫。しったいど 砂漠にすむ人種 んな人種が住み、どんな文化を展開してい たのであろうか。西域諸国自体が書きのこした歴史書はな とんこう 新五門関安 鈔ュケント . 古玉門関 ル 豕ン . 0 パミ - ル高原 タシェクルガン ) ト三ャンカシュ、一 ペンヤワー ハつしスリナ月 3 EOkm 3 絹の道の往米
、語んだ。しかし何とい 0 ても、魏、晋、南北朝、 グ 隋、唐こそは全体を通じて、インドに生まれた 】ウ 仏教が伝来して、全盛をきわめ、古くして強い 一 ( 紙る 、表い伝統文化のシナを異文化の仏教色にぬりつぶし ( のて ~ ( 一典れていった時代である。そのインド仏教は、まず を経か 摩で西域諸国のアーリア人の社会を経過して、もし くはその中に受容されてその宗教となってから シナに訪れたものである。 「紀元前一一年、長安の前漢の朝廷へ大月氏王の使節がやってきた。彼は漢 絹の道からきた仏教 の朝廷でインドの仏陀の教えについて語った。彼がロ授した仏教は朝廷の 官吏によって筆録されたー と、信頼性のあるシナの歴史には書かれているが、この大月氏王の使いは仏教の宣教師ではなか ったし、シナの官吏が筆記したという仏教も、その後に流布した形跡はすこしも認められない。 おうもう しかも時は前漢の末期であり、まもなく王莽の革命があったり、またその転覆が続いて起こった りしていて、外来仏教の消息をたずねる資料も見つからない。 けれども再建の後漢が洛陽で安定すると、長安よりもずっと東にあたる洛陽までも、絹の道を 786
ちょうけん 中国人としてはじめて中央アジアを踏破した漢代の大探検家の張騫が、紀元前一 絹の道とは 一一一一年、現在のアフガニスタンの北部、当時の・ ( クトリア国、つまり大夏の市場 で、土布にまじってふしぎな布と竹杖とを見つけた。布は四川省の蜀で織られたものらしく、竹 杖は節が高く実がつまっていて、まごうかたなく蜀の功山の竹である。原産地を聞いてみると、 数千里 ( 中国の里にして ) も東南方の身毒国から来たものだ、そこには蜀の行商人の市場がある、 そこで買ったのだ、という話である。 漢は北方の強国匈奴の脅威に対して大夏国と攻守同盟を結・ほうと考え、匈奴の妨害をさけて、 四川省から身毒国をへて大夏との交通路をひらこうとして隊商を出してみたが、雲南の土人にさ またけられてついに到達できなかった。これがシナの歴史のなかにインドのことが載せられた最 シルクーード 絹の道の往来 シルクーロード とうは 楼蘭遺跡 ( 墓中 ) 発見の ササン朝の絨毯の破片 ノ 80
人ではちょっとできない長旅である。 敦煌を出た法顕は、一七日間、支那里で千五百里を恐怖の砂漠を歩きつづけて部善についた。 一日平均四〇キロメートル以上の強行軍である。部善はロブーノールの南方、むかしの楼闌、絹 の道の南道の東端にある国である。漢の歴史書『漢書』には「長安を去ること六一〇〇里、戸一 五七〇、口一万四一〇〇あり。 ・ : 地は沙鹵 ( 塩気の多い砂地 ) で、すこしく田があるのみで、穀 の供給を近傍の国々に仰いでいる。民は水草をおって遊牧し、驢馬もいるが、駱駝が多い」と記 している。いまはもうその廃墟を砂のなかに埋めてしまっているこの南の絹の街道の東端にある 貧乏国も、法顕が訪れた西暦四〇〇年のころには、すでに四千人も僧がいる仏教国になっていた。 それがみな小乗仏教の信奉者であった。つまりここは小乗仏教の宣教者によって開拓された仏教 国であったのである。 法顕はこの国に滞在一カ月にして道を西北にとり、また砂漠の旅をつづけること一五日にして 烏夷国 ( カラシャール、焉耆 ) についた。ここは北道の国、ここも僧が四千人もいる小乗仏教国であ った。だがこの国人はシナの僧に対して冷やかであった。智厳らは旅費をうるために高昌へ引き 返したが、法顕らは西南にまっすぐ于聞へと向かった。 「行路中に居民なし。行路はきわめて艱難で、経験した苦しみは人の世の言では表わせない。道 にあること一月と五日で于聞についた。その国豊楽、人民は殷盛、ことごとくみな仏法を奉じ、 んぜん 794
通って西方の珍貨とともに仏教信者の商人や、専門の僧侶もくるようになった。明帝に可愛がら う ! そく れた異母弟の楚王英は、洛陽よりさらに東の徐州の邸で仏をまつり、優塞 ( 在家の奉仏者男子 ) 、 桑門 ( 沙門、出家剃髪の僧 ) を供養していた。これらは外来の僧俗の奉仏者であろうが、彼らは海 からではなく、中央アジアの絹の道から、長安や洛陽をへてきたものと思われる。 後漢の文学者の張衡 ( 七八ー一三九年 ) に長安の都の繁昌ぶりをうたった『西京賦』がある。彼 はこのなかで宮廷貴族の美しい女たちの妖麗さを自らもうっとりするような気持でうたいつづけ る。そしてこの美女から流し目の一顧を与えられては、周の隠士の柳下恵でも、胡国の剃髪苦行 者の沙門でも、心まどわずにおれるものかといっている。敦煌をへてくる西方の商人とともにき しやくじよう たのであろう、長安の町には、鉄鉢をもち錫杖をついて乞食する異形の外国僧が目につくように なっていたのである。 後漢の洛陽宮廷や貴族社会では衣食住に、胡風つまり西方輸入のものを愛好した。たとえば霊 帝 ( 一六八ー一八九年 ) は、胡服、胡帳、胡 魏しよう 牀、胡坐、胡箜篌、胡笛、胡舞という徹道 、物底した西方異国趣味のなかに生活を楽し絹 7 む皇帝であった。京都 ( 洛陽 ) の貴族はみ 8 服なきそってこれにならったといわれるが、 てつばっ いぎよう
りゅうしゃ 西域を進むことである。しかし、それでも流沙といわれた荒涼たるタクラマカンの砂漠地帯が、 こんろん 1 ル高原にさえぎられて横たわってい 北に天山山脈、南に崑崙山脈、そして西に世界の屋根パ る。広漠たる砂漠の乾燥地帯は、動物や植物の生存をさえさまたげている。 インドとシナとは、世界の人が賞讃をおしまない美しいヴェーダの詩も、殷周の銅器も、たが いに知りあうことなしに背中あわせに存立した。 しかし、人間の欲望はあらゆる困難を克服してその目的を達しようとする。インドよりもはる かに西方のギリシア人やローマ人は、シナの絹の美しさを知ると、万難を排してこれをもとめた。 絹が同じ重さの黄金と交換されることさえあった。このシナ古代の絹をはこんで巨利を得ようと らくだ 欲するたくましい商魂が、駱駝をつらねてタクラマカンの砂漠横断にいどんだ。そして天山山脈 の南麓にそって進む北道と、崑崙山脈の北側にそって進む南道とを開拓した。命をかける長い遠 い旅程のあらゆる困難を克服して、駱駝の隊商はギリシアやローマの貴族たちのためにシナの絹 をはこぶようになった。この絹の道は、やがて絹ばかりではなく、東西のあらゆる文物を交流す る人類文化の発達に、忘れることのできぬ重要な路となったのである。 漢の武帝の命をうけて、匈奴のために甘粛省の故地からはるか西方に逐われていた大月氏との 同盟を結・ほうと冒険の旅にのぼった使者、張騫が帰国したのは紀元前一二 , ハ年である。それから 三年彼の西域旅行の報告は漢朝廷を積極的な西域経営にのり出させた。それからシナートルキ 782