の遺骸は漆でかためられ、霊験あらたかな聖体として唐末、五代、北宋にわたって信仰をあつめ こんごうち ふくう 開元八年には海路から弟子不空をつれて金剛智が広州をへて洛陽に到着し、玄宗に謁した。そ して帝の侍僧となって洛陽、長安を往来したが、寺々で、厳粛荘厳なマンダラ道場をもうけて密 教伝授の儀式を行ない密教をひろめた。 金剛智は開元一一九年 ( 七四一年 ) 七一歳で死んだが、インドからともなわれてきた弟子不空こそ は、玄宗から粛宗、代宗の三代にわたって、朝廷と密接な関係をたもちつつ、貴族や宦官、軍閥 など時代をうごかす上層社会の信仰の中心となった。 彼は南インド、あるいはセイロンの人といわれ、金剛智にし 部たがって長安へきたときはまだ十代の少年であったから、やがず のて十分に中国語にも熟達し、中国事情にも通じて、宣教の最大に 諏の適格者となった。開元一一九年、師の死をおくったのち、その 、冫いたり、重の 一一 = 遺旨を奉じ中国人 0 弟子を 0 れて海路 ~ イ。 , = 要な密教聖典をつたえて天宝五年 ( 七四六年 ) ふたたび長安に帰天 畏中ってきた。長安の士庶で彼について密教伝授の儀式をうけるも ( 無観 、《善真のが急増したのみならず、甘粛などの節度使からもまねかれて こ 0
みずからがこの一〇条のことごとくをやぶって、悲劇的な晩年をおくらなければならなかったの は皮肉であるが、それたけにこれは警告した姚崇の聡明さを示すものであろう。 彼は非常に頭の回転のはやい男で、政務は万事たちどころに裁決し、同僚はただその処理にう なずくのみであった。 そうえい 開元四年、彼は腹心の部下の汚職事件で失脚し、代わって宋璟が政局を担当した。璟はまじめ で重厚な政治家で、則天武后のとき宰相となったが、生来の正直をもって無軌道にはしりがちな 政治の抑制につとめ、権勢者にはけむたい存在であった。 武后の信任を得てならぶもののない権勢をほこっている張易之兄弟におもねる官僚たちは、彼 らを官名でよばず、召使いが主人をよぶときに用いる五郎、六郎でよんだが、彼たけはそれにし たがわなかった。そこであるものが「おぬしはどうして五郎さまを卿とよばれるーとたずねた。 彼は「官吏に対して卿というのは当然だよ。おれは彼の召使いじゃない、五郎などとよべるか」 と一蹴した。中宗の世にも重んぜられたが、太平公主にきらわれて左遷され、各地の知事を転任 したのち、玄宗の親政の世になって、ふたたび中央によびもどされた。ことに人事および財政の エキスパートとして活躍し、宰相をやめた開元八年まで、世の中はじつによくおさまった。さき とじよかい ぼうげんれい の貞観の治をきずいた房玄齢、杜如晦とならび、この二人が姚、宋とよばれて後代まで唐代の賢 臣として称讃されるのも当然であった。 けい 374
れられ、謡曲「楊貴妃ーでは、 ひょく 天にあらば、願わくは比翼の鳥とならん。地にあらば、願わくは連理の枝とならんと誓い ささめごと しことを密かにったえよや、私語なれども、いまもれそむる涙かな。 とうたわれた。 意気と情熱にもえて政治の革新にのりだした開元皇帝は「貞観 ( 太宗の治世 ) の風、一朝にして また振う、と称揚される実績をあげた。空前の繁栄がつづいた。玄宗の心にも政治に対する安易 感と実力に対する過大のうぬぼれがはいよってきた。実際、富と権力を自由に使える皇帝が二〇 年、三〇年と政治に心身をうちこみつづけるのは至難のことである。ようやく政治にうみだした 開元二五年 ( 七八五年 ) 、帝は寵愛する皇后武恵妃をうしなって欝々楽しまぬ日をおくるようにな そこに宮廷の女禍を一掃し、自粛自戒してきた英主にも、また女禍がしのびよるすきができた のであった。玄宗の第一夫人は、彼が不遇であった臨澑王時代に結婚した王氏である。経済的に もめぐまれなかった若い夫をなぐさめ、もりたて、宮廷粛正のクーデターに際しては、夫に全面 的に協力し、異身同体のよき伴侶となってきた。玄宗が即位して彼女も皇后の座にの・ほった。 玄宗にとって彼女こそ苦難の道をともにした感謝おくあたわざる尊い存在ではあったが、不幸 おうしゆいっ にして彼女には子供がうまれなかった。これは王氏にとって致命的な欠陥であった。兄の王守一 っこ 0 れんり 432
このうらやましい解放された子女歓楽の元宵祭は、残念ながら日本の 年中行事となってくれなかった。道教の祭りだったからであろうか。 二月仲春、三月季春、春たけなわともなれば、名所 の春を謳歌する市民 は行楽の市民の群であふれ、「園林樹木あるところ、 戯人おらぬところなし」となる。闘鶏が盛んに行なわれる。玄宗も闘鶏が の好きで、無学の闘鶏の名人を召しかかえて、「子を生んだら読書よりも 馬闘鶏を教えることだ」と市民からうらやましがられた話を書いた唐の小 しゅうせん だきゅう 説もある。鞦韆 ( ぶらんこ ) や打毬の戸外遊戯に青年子女が春をたのしむ。 ぶらんこは北方胡族から起こった遊戯、打毬は馬にのって毬をうちあっ てゴールにいれあう集団競技、ベルシアのポロの伝来したものである。 遊び事にも大唐長安の世界性がよくあらわれている。 げんじようさんぞう だいがんとう 城内では東南隅、大雁塔、のそびえる玄奘三蔵のいた大慈恩寺に近い曲江池は、開元時代の第一 の春の遊園地である。詩人の杜甫が「三月三日天気新たなり、長安の水辺麗人多し」と詠んだの じようし もここである。三月三日といえば、春の節句上巳節である。この日六朝江南の人士は、清流のほ りゅうしようきよくすい とりでみそぎの祭りをして、流觴曲水の宴をひらいて詩歌を楽しんだことはすでにのべておい たが、唐時代にもこの日は行楽の最高潮であった。唐人は開元皇帝主催の宮廷百官の綵舟パレー とほ まり さいしゅう 384
鳳凰楼下、天仗 ( 矛や槍 ) を交え、 ほがらか うじゃく 烏鵲橋頭、御筵敞なり。 往々花間に、綵石 ( うつくしい石 ) に逢い 時々竹裏に、紅泉 ( きれいな泉 ) を見る。 今朝扈蹕 ( おともする ) す、平陽の館、 ほとり いかだ 羨まず、槎に雲漢 ( 天の川 ) の辺に乗ずるを。 いまやみずから権力をにぎり、第二の武后たらんとする彼女にとって、隆基は目の上の瘤、事 ごとに睿宗につげロして彼を皇太子の地位から引きずりおろそうとはかった。だがそれはかえっ て逆効果となり、隆基を信頼する睿宗は、事が紛糾しないうちにと、七一二年、在位一一年間でさ っさと隆基に位をゆずった。かくてわずか二八歳の青年皇帝、玄宗が誕生したのである。しかし、 いれちえ 太平公主の入知恵もあって、睿宗は太上皇として重要な政務をにぎり、依然として皇帝がっかう 「朕」をもって自称し、太極殿で執務することにした。だから、太平公主はますます専横にふる まうことができ、玄宗を助けてきた重臣たちはことごとく免職され、公主の推薦の宰相が七人中 五人をしめるという有様、玄宗の身辺すら危険を感ずることになった。ここにおいて玄宗は翌七 一三年ついに意を決して太平公主ら一党を逮捕して処刑し、上皇の政治への発言の道をとざした。 いよいよ開元の太平の治世がはじまるのである。 ときに玄宗は二九歳、年号も開元とあらたまり、 こひっ こふ 370
に獅子の相はない。獅子には生減があるが、金の体にはもとより増減はない。陛下よ、この一金 獅子をみられるとき、同時にすべてのものーー縁にしたがって生起しているものーーが刻々に変 化していること、すべてがはなれていること ( 無常 ) にめざめよ。しかも変化する相、金獅子の体 である黄金は無相にして寂然とし常住である。一切の変化する現実の相をこわすのをまたすして、 その体の無相寂然たるを徹見しうるにいたれば、すべての執着苦悩は霧散して、現実のなかに新 しい歓喜精進の生活をえられましよう。」 女帝も華厳経の教旨がお・ほろげながらもわかったような気がして法蔵に深く帰依した。彼の教 えは海をわたってわが東大寺の宗旨となった。 長安貴族の豪華な文化がくりひろげられているときに、最もこれにふさわしい新イ 密教興隆 ンド仏教が伝来した。マンダラ ( 曼陀羅 ) といわれる絵画をはじめ、仏、菩薩、諸神、 あらゆる聖なる形像とその厳粛な儀式と融けあって、攘災招福の祈願の法を修する密教の伝来で ある。 んむ 開元四年 ( 七一六年 ) 、密教の根本聖典『大日経』をひろめていた善無が、陸路長安に到着し た。すでに八〇歳になっていたこのインド僧は、玄宗の信任をうけて『大衍暦』をつくった数学、 いちぎよう 天文、暦法の達人一行を弟子とし、協力者として『大日経』などを訳出した。 開元一一三年、九九歳で死んだ善無畏は、洛陽の南、竜門石窟にある伊闕にほうむられたが、彼 けっ イ 22
女たちがきらびやかに着かざってお供をする。開元一一八年の十月の遊幸のときのことである。玄 宗はついに多くの官女のなかに一人のすばらしい女性を見いだした。さっそく宦官の高力士に命 じて彼女をよびよせた。彼女こそ白楽天の長編ロマンス詩「長恨歌」をいろどる楊貴妃であった。 ぎよくかん 彼女の幼名は玉環、父が四川省の県役人 ( 司戸 ) をしていたときにうまれた。ョチ 楊貴妃登場 ョチ歩きのころ県庁の前にある池にあやまっておちたことから、この池を落妃池 と土地の人々はよんだという。父母に早く死にわかれて叔父の家でやしなわれ、もってうまれた 美貌が買われて開元一一三年、玄宗の息子寿王の妃となった。玄宗が温泉宮で見そめたとき、彼女 はすでに息子の嫁だったのである。いかに天下の皇帝といえども、息子の嫁をすぐさまとりあげ て妃にすることは気がひけた。それにもう六〇歳の老境に足をふみいれようとしていたのだから。 それでも何とかしたい。帝はひとまず彼女を道観に入れて道教の尼にし、太真という法号をあ たえ、太真宮にすまわせることにした。つまり、彼女の自由意志で夫の寿王と離婚したという形 式をとらせたのである。そして天宝四年七月、寿王にはかわりの嫁として武官韋昭訓のむすめを あてがって慰めるとともに、同じ月、鳳凰園において正式に彼女を貴妃 ( 後宮の最高地位 ) の位に つけた。玄宗六二歳、貴妃二七歳、この大きく年齢の開いた夫婦間の愛情の様態は誰にでも察せ られよう。老帝は夢中になって若がえった。 げいしようういきよく この日、玄宗作曲の「霓裳羽衣曲」が高らかにかなでられ、貴妃の入宮を迎えた。その夜、玄 たいしん 434
じて、ほかの女に熱中するようになり、妃元氏が急死する事件がおこった。母は太子が豚大にも ひとしい女を可愛がって妃元氏を毒殺したのだとおもって悲嘆した。皇太子への憎しみは晋王広 への愛を深める。皇太子はこんなことで廃されて庶人の身分におとされ、広が皇太子になった。 六〇一一年、厳格な独孤皇后が五〇歳でなくなると、広は帝や宮人の前ではいかにも悲しみにた えぬように慟哭していたが、私室にかえると飲食談笑、平生の通りであった。精進粗食で喪に服 している風をしているが、竹筒に肉や魚をいれて蝋でロをとじてふところにしのばせているとい うしまつであった。もっとも皇帝も長い間窮屈な思いをして皇后に頭が上がらなかったのが、い まこそ解放されたと思ったのか、若い江南の二美人 ( その一人は陳の宣帝の女、宣華夫人である ) を寵 愛しだした。しかし帝はすでに六〇歳をこえていた。二年して病気にかかり危篤になったときに、 老皇帝は侍者にそっと「皇后が生きていたらこんなことにならなかったのに」と嘆いたという。 帝が病気になると皇太子と宣華夫人が夜を徹して寝室に侍していたが、朝になって衣替えに出 た宣華夫人は、とっぜん皇太子広からせまられた。夫人は拒否して帝の病室にかけこんだ。青ざ開 めてふるえている夫人を見て帝がわけを問うと、夫人は泣きながら太子の無礼をう 0 たえた。老→ 帝は激怒して「畜生」とののしり、太子を廃しようと侍臣に「児をよべ」といった。「太子です大 か」というと「勇 ( 前皇太子 ) だ」と帝は答えた。これを聞いた太子は腹心のものを病室にいれ、 夫人をはじめ看病している後宮のものをみな別室にさがらせた。そのあとで、にわかに帝は崩じ どうこく
使蔵 真神 道師 現も 陶た 代て 当時日本人で長安の土をふんだものは、主として遣唐使と僧俗の留学生らで 長安にきた日本人 あった。遣唐使は六三〇年から八九四年まで一八回の派遣が計画されたが、 そのうち三回中止したから実際に入唐したのは唐代を通じて一五回である。最初は人数も船も少 なかった。しかし年々使節団の構成がふくらみ、開元一一一年第九次使節は四隻の船に総員五九四 人、第一七次は同じく四隻で六〇〇人あまりをかそえた。その大半は船員、技術者、楽団などで あって、彼らは着岸地にとどまって長安まではいかなかった。中国沿岸に到達すると、その地の 役所から中央政府に使節到来の由が通報され、中央からの指令をまって、指定された一「三十人 だけが長安にむかうのであるから、実際に都の土をふむものは全体の一割内外にすぎない。 一行は長安に滞在中、迎賓館である四方館に宿をとり、皇帝との謁見、歓迎の宴会、市内観光 大唐帝国のたそがれ イ 20
姚、宋失脚後の宰相は凡庸なものばかりだった。ただ韓休だけはしばしば皇帝をいましめた。 宴会などですこし度をすごすと、玄宗は、おっきのものに「韓休が知っているたろうか」とおそ るおそるきく。そういったころにはもう彼の意見書がたてまつられているという有様であった。 近臣の一人が「韓休が宰相になってからというもの、陛下はめつきりお痩せになりました」と案 じると、「わしは 痩せたが、天下は 肥えたよ」とこた えるのであった。 長安ーーー世界一の 都市づくり 玄宗の治世は七 一三年にはじま り、開元の二九年院 と天宝の一四年、 秋現 あわせて実に四三 年間にわたってお 大明宮 禁苑 玄弐門 ロロロ当日日日 間退門 安門 城 ロロ平康坊 卍東巾匚コ ロロロロ ロロロ ロ住毯甌コロ ロロロロロ ロロ巨“寺卍ロ ロロロ ロロロロ 明僊門 宮城 宮城 西市 東市 東市 西市 上は長安城。下右は平城京。下左は平安京 375 天下の道は長安に通ず