かも、一気に帝権国威を内外に誇示できるような大がかりな戦争がやりたかった。そしてついに 隋の命とりとなる大失敗戦争をやったのが、三回にわたる高句麗征伐である。 高句麗に対しては、隋の文帝が五九八年に陸海三〇万の大軍をすすめたが、陸軍は疫病と軍糧 にが 輸送難とで、海軍は大風にあって、それそれ軍の大半を失って引きあげた苦い経験をもっている。 文帝は以来高句麗領侵略の野心をおさえていたのであるが、煬帝はつぎつぎに成功する外征にお ごり、かつまた父帝失敗の見返しあるいは報復の意欲もくわわっていたであろう、六一一年 ( 大 業七年 ) あの朝貢の諸国使臣をまねいて正月の大饗宴をやっ 画たその翌年、大規模な第一回高句麗征伐を企画した。 進発基地には郡が指定され、全国から一一 = 一万八千の兵 古 のがあつめられた。山東半島では三〇〇隻の船を急造し、河南、 通淮南、江南は兵車五万台の供出の命をうけた。兵以外の軍役 の労務者の徴発は一一三〇万という数にのぼった。その大半は地開 」狩理上の関係から山東地区から徴発されたのだから、この多数一 や , 俗の労働力をとられた農地に明日の不作荒廃がくるのは必然で大 麗あった。 とうらい 高とくに山東東の海辺で行なわれた造船工人は悲惨のきわ
みであった。昼夜兼行の水中作業で腰から下が腐爛して蛆が生じ、一〇人に三、四人も死んでい った。陸上運輸労務者もこれにおとらず悲惨であった。旧暦五月六月の炎暑の輸送に休養も与え しゅうあい られず、人も牛馬もつぎつぎに路上にたおれた。「死者相枕し、臭穢路にみつ」と書かれている。 こんな残忍な人民酷使をあとにして、六一二年春、煬帝の高句麗親征軍は郡を出発した。一 しちょう 〇〇万の大軍の進行は倍以上の輜重部隊をともなって、長さ一千里にも達したという。煬帝は、 軍はすべて朕の命令下に行動せよと命したが、こんな大行軍に命令がそのつど徹底するものでは らくだ ない。一輸送官が、自分のいくところを忘れてしまって、駱駝につんだ水箱に魚を飼って自分の ご馳走にしたという笑い話もある。 海軍は勝手に平壌に進攻して伏兵にあい、四万の精鋭わずかに数千をのこすのみという惨敗を 喫してのがれさった。一方、陸軍は遼河の線で高句麗軍の頑強な抵抗をうけて六カ月も進みえな かった。やっと遼河をわたったが、行軍の困難にたえかねて携帯食糧はすてられ、食糧輸送はと だえた。疲労と食糧欠乏で戦意をうしなっている隋軍の弱点をみぬいた高句麗軍は、平壌近くま で誘導戦術をつづけたのち、一挙に隋軍の退路を絶って四方からおそいかかった。 隋軍はただ夢中になって逃げた。一昼夜に四五 0 里も逃けてやっと鴨緑江までたどりついた。 三〇万五千の軍隊は邃東まで引き上げたときは、わずか二千七〇〇人になっていたといわれる。 こんな大失敗にもこりず、六一三年 ( 大業九年 ) 第二次高句麗親征を行なったが、遼河を渡った きっ 328
日本はこのころ南朝鮮に勢力を伸展してさらに高句麗を征服しようとまで気おい立っていたが 実際はこの強敵には手を焼いていたようである。他方、宋は北の強大な北魏に対立し、その北魏 はまた高句麗と重要な関係にある。当時の極東の和平争乱は宋、北魏、高句麗、日本の相互緊張 関係をいかに維持するかにあったであろう。 以上のように日本の対外関係資料としても興味深いが、『宋書』はさらにさかの・ほって倭王の 讃 ( 仁徳天皇 ) 、珍 ( 反正天皇 ) 、済 ( 允恭天皇 ) 、興 ( 安康天皇 ) の使者がつぎつぎに貢献したことを のせている。だれでも知っている推古天皇の代の聖徳太子の遣隋使派遣よりも前から、ほ・ほ国内 の統一を成就し、国力の充実した大和朝廷は、すでに仁徳ー雄略の朝にわたってたえず江南の朝 廷と国交をつづけていた。もっとも、聖徳太子の遣隋使のように対等の立場にたつ国使の派遣で はなく、南朝に臣隷する態度であったことは異なっている。 いずれにしても、この時代の南朝との修好は、日本の文化の発達に貢献するところが少なくな かったであろう。雄略天皇が養蚕と絹織物の生産に努力し、使節を呉に派遣して織工女を求め、 暗 明 彼女たちを秦氏に管理させて養蚕織絹に従事させたことは、日本側が伝えているところである。 の やがて、秦氏から絹を貢進すること山のごとくであったところから「うずまさ」の号を賜わり、南 うずまさ 「太秦、と秦氏を書くようになったという話などと相対照してみると、日本の絹織物工業の発達 に果たした宋文化の役割と恩恵は、はなはた大きいといわねばならない。
武は自ら「使持節都督、倭、百済、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓七国諸軍事、安東大将軍、 倭国王」という、宋の天子から任命されたような肩書をつけた上表書を使者にも 0 てこさせた。 宋の最後の順帝の昇明一一年 ( 四七八年 ) のことである。上表文にはつぎのようなことが書いてあ 0 「中華の天子から倭王に封・せられていみわたくしの国は、僻遠の地でありますが、外にあ 0 て天 ばっしよう かっちゅう 子のまもりとなっています。むかしわたくしの祖宗以来、身に甲胄をつけて山川を跋渉し、やす むいとまもなく、東は毛人五五国を征し、西は衆夷六六国を服し、海北九五国を渡り平らげまし た。代々天子の御国に朝貢して欠かすことがありませんでした。臣も下愚ながら祖先のあとを継 承して朝貢するために、道を百済にとり、船を装治するのですが、高句麗が無道でわが入朝をさ またげますので、ある時は通じ、ある時は通じえませぬ。わが父 ( 允恭天皇 ) は忿怒して一〇〇万 の兵をも 0 て高句麗を征しようとせられましたけれども、父兄 ( 允恭天皇と安康天皇 ) がなくなら りようあん れて功を一簣に欠いてしまいました。諒闇中で兵を動かせませんでしたが、いまこそ、兵を訓練 して父兄の志をつぎ、かの強敵を討とうと存じます。・ : ・ : 」 これは高句麗征伐の承認とそれについての任官を求めたもので、宋朝廷は申し出のように武を 「使持節都督、倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」に叙任し こ 0 へきえん 2 ノ 8
した。これは親征中の帝にも大きな衝撃をあたえたが、それよりも各地の農民蜂起を誘引する原 因となった。たとえば江南第一の米産地帯三呉では、再度の高句麗征伐の徴発をうけた兵土は、 「先年われわれの父兄は高句麗にゆき、いまだに帰らざるもの大半。いまこの疲弊のなかでまた 出征すれば、わが一族は全滅してしまう」 といい、逃亡するものが続出した。ときに餘杭 ( 浙江省杭州 ) の民で、垂れると膝をこえる長い手 をもっていたという劉元進が、楊玄感の反乱に呼応した。それをきいた三呉の逃亡兵たちは、わ うんしゅう が主を得たりと雲集して、たちまち数万の人民反乱軍に生長した。 またもと還俗僧で崑山県博士になっていた風采あがらぬある小男が、数十人の学生とともに兵 を起こすと、労役に苦しんでいたものたちは、 筆 われらの王が出たとばかりに集まって一〇万の 3 第月 人民軍を結成した。 元楊玄感はとらえられて屍を洛陽にさらされ、の その一味とされた三万余は、一家みな殺しの極一 る 刑にあった。もちろん大半は無実の罪によって大 す 宀夜殺されたのである。楊玄感の反乱の残忍な処刑 3 苑にもかかわらず、各地に人民の倒隋反乱はつぎ
世 五九三 隋の煬帝が父の文帝を殺して即位 六〇四 六〇五煬帝が大運河の工事を開始する 六〇七 煬帝の高句麗遠征 ( ~ 六一 0 隋が減び、唐がおこる 紀六一八 六二二 六二四唐の均田制実施 唐の李世民 ( 太宗、 ~ 六四凸即位 六二六 六四〇孔穎達らが『五経正義』をつくる 六四五 六五八安西都護府がおかれる 六九〇則天武后が帝位を奪う 大祚栄が震国 ( 後の渤海国 ) を建 六九八 てる ハルシャヴァルダーナ王 ( 戒 日王、 ~ 六岩 ) 玄奘がハルシャ王の宮廷を訪問 ハルシャ王の使節が唐の太宗の 宮廷に来る 太宗の使節、王玄策がハルシャ 王の宮廷を訪問 義浄が仏典を求めてインドに出 発する 聖徳太子の摂政はじまる 遣唐使のはじまり ササン朝。ヘルシア減亡 大化改新 へジラ 小野妹子が遣隋使となる 4 〃年表
この頃チャンドラグプタ一世が グプタ朝 ( ~ 五一一 0 ) を創設、グプタ 苻堅が即位し、前秦 ( ~ 一一九四 ) を紀元 ( 三二〇年二月二六日を元年 建国 元日とする ) 創設 東晋が土断法を制定する 三七五 前秦が華北を統一する 世三七六 漉水の戦】東晋が前秦を破る。華 北の混乱のはじまり 鮮卑族の拓跋珪が前秦の瓦解に乗 じ自立、北魏 ( ~ 五一西 ) の建国 三九五 三九八 拓跋珪が平城 ( 今の大同 ) に拠 り、帝 ( 道武帝、 ~ 四 0 九 ) と称する 三九九 東晋の仏僧、法顕がインド旅行 ( ~ 四一四 ) に出発する 西晋の滅亡、五胡十六国時代 ( ~ 豊九 ) はじまる 東晋が建業を都として建国 チャンドラグプタ二世 ( 超日 王、 ~ 四一四頃 ) 即位 新羅 ( ~ 九三五 ) の建国 仏教が高句麗に伝わる パの民族大移動 の開始】西ゴート族のドナ ウ川南渡 仏教が百済に伝わる ロ 1 マ帝国が東西に分裂 46 ど
紀 世 鳩摩羅什が長安に来る 四 0 一 陶淵明の『帰去来辞」。この頃東 四〇五 晋の顧愷之 ( 三四四頃 ~ ) 死去 四一四 四二〇劉裕 ( 武帝 ) が東晋を減・ほし、宋 ( ~ 四芫 ) を建国 四二四 北魏の太武帝 ( ~ 四五一一 ) 四三九一北魏が北涼を滅・ほして華北を統一 する ( 華北北魏と、江南日宋にエ 朝が対立する ) 】南北朝時代 ( ~ 五兊 ) が始まる 四四六 一北魏の太武帝が仏教を弾圧する 四六〇 この頃雲崗の石窟寺院が開かれる ~ 四七一北魏の孝文帝 ( ~ 四究 ) 四七六一 四七九江南で宋が減び、斉が建国 四八〇 四八五一北魏が均田制を実施する 四九一二→北魏が洛陽に都を移す ( この頃か ら北魏が竜門で石窟寺院を開きはし める ) この頃からグ。フタ朝が衰え、 一インドに群雄が割拠する 倭王讃 ( 仁徳大皇 ) が宋 に修貢する 西口ーマ帝国の滅亡 倭王武 ( 雄略大皇 ) が宋 に使を送り、貢献する 高句麗の好太王の碑建設 469 年表
冖一公 がソンツェンのもとへ嫁入りして親和関係が成立 ~ 成 文像した。遠くチベット高原の異民族の国へ、祖国の た塑 しる りあ平和のためにと嫁いでいった公主の心境は察する 入に 嫁宮にあまりある。有名な人物画家閻立徳は、「文成 公主降蕃図」をえがいた。この画はもうあるまい ッポ そぞう チサが、ラサのボタラ宮殿には、公主の塑像が、夫君 らラ ール公主の ・・輌素カ 0 のソンツェンと彼のもう一人の妻ネ。ハ 塑像とともに安置されている。 それはともあれ、唐の公主の入蕃は、唐文化のチベット未開地域開発をみちびいたのみならず、 西域の絹の道はチベットの侵入の脅威をまぬがれるために、長安への西方珍貨と西方諸文化との 流入をいちじるしく促進した。こんなときに、ながいインド留学から帰ってきた ( 六四五年 ) 玄奘 三蔵の西方の知識が『西域記』として献上され、唐朝廷の西域経営に大きな指導をあたえたので あった。 さてこんどは東に目をむけよう。隋の煬帝が三度征伐をくわだてて、ことごとく失敗したあげ く国をほろ・ほす原因になった高句麗に対し、唐の太宗もまたまた手を出して失敗した。貞観一九 年 ( 六四五年 ) 、唐軍は遼東にすすんたが、九月に早くも寒さがおそい、草枯れ水凍り、食糧も少 358
文面のものであったのであろう。 隋は裴世清ら一三人を日本使節とともによこしたが、難波 ( いまの大阪 ) に五〇日もとどめられ ている。やっと入京して差し出した隋帝の手紙には「皇帝倭王に問う : : : 」とあり、聖徳太子は 不快に思ったという。しかし日本朝廷はその後も一一回、遣隋国使と僧俗の留学生をおくったこと を記録にのこしている。国使はさそかし、対等の国交態度をとる日本朝廷と、対等国交を無礼と して認めぬ隋帝との間にはさまって、国書の処理に苦労したことであろう。 それはともあれ、隋はまもなく混乱におちいって減んだが、日本留学生はひきつづいて唐の留 学生となり、一一〇年も三〇年も滞在して帰朝した。彼らが唐の制度によって日本の政治を改革し ( 大化改新 ) 、大いに仏教を伝来し興隆して、日本の文化水準を飛躍的に向上させたことについて は、読者の周知のことで、いまさらのべるまでもなかろう。大唐文化の日本移植も、隋によって 開門されたのであった。 大業九年 ( 六一三年 ) 煬帝が第一一次高句麗征伐をくわだてたときには、各地に農民 人民の怒り 暴動がつぎつぎにのろしをあげて急速に拡大していた。農民一揆軍はとくに、は げしい連年の人と物との徴発に苦しんできた山東地区に頻発した。その一揆軍も、多きは一〇万、 少なぎものも数万人に達していた。 四月、帝が遼河をわたったときには閣僚の一人、礼部尚書 ( 文部大臣 ) 楊玄感が反旗をひるがえ なにわ 342