アジア各地の歴史に共通して顕著にあらわれる現象は、気候の温和な南方の沃 遊牧民族と中国 土に安住して耕作にいそしむ農業民族と、その北方に寒冷な気候に苦しみなが すいそう ら水草を追うて原野を移動する遊牧民族とのあいだの、宿命的とも見える不断の民族闘争である。 西アジアでは古くから、メソボタミアの平地と東北高原に住む民族とのあいだの対抗があり、の ちにはそれがイラン都市住民とチ = ラン遊牧民との抗争に変わってきた。それが東アジアでは黄 河流域に土着した漢民族と、万里の長城の 北、モンゴリア、満州に住むウラルーアルタイ系遊牧試 の 民とのあいだの闘争という形をとる。中国の歴史はむしろ、この民族闘争を軸として展開してき族 たと見ることもできる。 ところでこの重要な、歴史を動かす原動力ともなった民族的対立も、時代の推移とともにその 民族の試練 呉越王の八 万四千塔
たん廃止されたのであるが、廃止してみると弊害が多かったので、その後一部分を復活したとい う、旧法党にとっては不名誉な歴史のあるものであった。旧法党がこれを歴史から抹殺しようと したのも無理はない。もちろん、紹聖時代につくられた古い実録にはりつばに記されていたので ある。長いあいだ、倉法というものが王安石の新法のうちで人々の注意に上らなかったのは、紹 興の実録をもととしてつくられた『宋史』が中国の正史として、宋代史研究の根本となっていた からであった。 哲宗は生まれつき病弱で、在位一五年でなくなったが、子がなかったので、弟 きそう 建中靖国の政治 の黴宗が位をついだ。黴宗はみずから書画をもよくし、才人ではあったが、素 しようたいこう 行がかんばしくなく評判がわるかった。母の向太后のカで天子となり、太后が徽宗をたすけて政 治を行なうことになった。 太后は新旧両派のみにくい争いをこのままにし すておくことはでぎないとして、旧法党の官僚をも 朝廷に招きよせ、両派があい和し、あいたずさえの ちゅうよう 党 て国政を処理し、中庸の政治が行なわれるように の けんちゅうせいこく 宋しようとした。このため年号も建中靖国とあらた めた ( 一一〇一年 ) 。
置し、そのカで軍隊の跋扈を押え、特定の一、二の大臣の専横を防ぎ、後宮の勢力や、外戚、宦 けんせい 官の我儘をも牽制することができた。その官僚集団は科挙という高等文官試験制度によって生産 される。これははなはだ進んだ制度であり、進んだ制度は進んだ社会の産物であるから、これは モンゴル人のあいだにはすぐには適用しかねる。すでにモンゴル人のあいだに適用できぬとする と、中国人のあいだにだけ実施するのは気がひけるので、中国人の官僚も、世祖に対してすら、 科挙の復興を強く進言するのをはばかっていた。中国文化を高く買い、中国かぶれとさえ非難さ れた世祖も、ついに科挙の再開ということは真剣に考えなかったようである。 当時のモンゴル人の社会は、中国社会に接触して変質しかけたといっても、まだまだ、氏族制 度を脱却したばかりの、封建的もしくは貴族制の段階である。まず家柄がたいせつで、家柄のよ い系統のなかから才能ある者が現われて権勢を握る。その権勢の握り方は、まだルールが確立し ていないから、日本の民主主義と同様、強い者勝ちということになる。これに対しては天子も十 分に押えがきかない。そもそもこの天子の権限がまたどこまで認められるかさえも、実際はまだ 法則化されていないのだ。 成宗の在位一三年間は、それでもこのようなモンゴル的弱点が表面化せずにすんだが、彼が子 孫なくして歿すると ( 一三〇七年 ) 、たちまち相続問題が内乱にまで発展した。すなわち成宗の弟 のアナンダと、兄の子のハイシャンとのあいだの武力による対決が起こったのである。ハイシャ ばっこ こうきゅう 405
キスハーンがその同族に与えた最大の贈り物であったというべきである。 しかし、ここにもわれわれは、モンゴル社会の停滞の現象を見いださずにはおれない。チンギ 日ハーンの使命は従来の保守的な部族制度を超えて、同種族の大同団結、その再編成にあった のだが、チンギス′ 、ーンの事業が成功すると、こんどはチンギス = ′ 、ーンを偶像的祖先として、 新たな貴族制度が成立したのである。これは従来の部族制度の形を変えた再現にほかならない。 歴史的な伝統というものの根強さは、ここでもそれを証明する一実例を提供しているのである。 だがチンギス日 / 、ーンにも思いのままにならぬことが一つあった。それは相続制度の確立を見 なかったことである。チンギス日 / 、ーンの後継者はいったいどうしてきめるか。もちろんモンゴ ル族のあいだに、クリルタイという族長会議のようなものがあり、大事件はそこで決定するのだ ふんじよう が、そのさい候補者のあいだにあらかじめ権利の差等がついておれば、この会議はたいした紛擾現 の がなくてすむ。中国だと先代の天子が後継者を指名しておき、あるいは皇太子などに立てておい国 て、死後の無用な紛争が避けられるように仕組んである。ところがチンギスハ ーンの場合、そ大 こは自身が成上り者の悲しさといおうか、生前に後継者を決定することができなかった。以後もゴ 何代かの長いあいだ、主権者の後継者指名権が成立しなかったため、モンゴル族は本国のみならモ ず、封建諸侯のあいだでも君主の死んだあと紛擾が絶えず、チンギス = ハーンの子孫同士が、血 で血を洗う悲劇をくり返さねばならなかったのである。
00 00 おこなわれ、人民も不平をいわなくなった。 李継遷を苦しめる目的はこれで達せられたわけであるが、陜西の塩価があまり安価にすぎるの で、こんどは他の禁塩地へ横流しされる危険がある。そのうえ国庫の収入にあまり足しにならぬ ところから、陜西の塩価も次第に他の地方の塩価とおなじようにひきあげられた。 陜西や内地の塩の専売制度は、こののちいくたびも改革されたが、青白塩輸人の禁令は最後ま でかたくまもられた。これによって、宋の塩の専売制度は、いちおう確立されたとはいうものの、 その背後には、領土の放棄という高価な儀牲がはらわれていたのである。 宋代には、西方との交通は、海上交通がさかんになったため、陸上交通 敦煌回廊とウイグル人 の価値はいくぶんかるくなった。しかしそれでも、東アジアと西アジア てんざんなんろ との通商は、世界的交通路の幹線たる新彊の天山南路によっておこなわれ、その沿線にはたくさ る んの商業的城郭都市が繁栄していた。 を 実 て この交通路を支配するために、漢代には漢帝国と匈奴とのあいだに、 っ て 左もはげしい争奪戦がおこなわれ、唐代には唐帝国と突厥とが、その支配す 字権をめぐって、あいあらそった。万里の長城が、不必要とおもわれる名 銅文 の夏ほど西方にながくのびているのは、中国から西方へ通ずる交通の大幹 夏西 西は線を保護するためにほかならない。 とっくっ
な防備を怠っていたからである。その翌日には粘罕が使者をつかわして、宋の天子みずから金の 軍営に来るように要求してきた。 宋ではこの要求に応ずることができないで、ぐずぐずしているあいだに、金側の態度はますま す強硬となり、翌年一月の末にはついに最後通牒をつきつけてきた。二月二日、七〇〇人の部下 をひきいた金の使者は、天子に直接面会を申し込み、激しい口調でまくし立てた。 「先日来の北国皇帝の聖旨に対し、いまだに一言の御返答がないのは遺憾である。一両日のあい ・こにしかるべき御回答のない場合は、いかなる事態がおころうとも責任は負えませぬ」 欽宗は弱々しい口調で、 「すでに手はずをととのえてあるとおり、今月の十八日には元帥の軍前にお目にかかりにゆくこ とになっているから、なにとぞよろしくお伝えねがいたいー というが、金の使者は十一日を主張してゆずらない。 ついに十一日こ 冫いたり、欽宗は、天子の身の上を案じておしとどめる市民の声をあとに、金の 軍営に出かけていった。軍営に入ってからは、従うものはわずかに二人。粘罕の前で、 「臣にして姪なる南朝宋の国王趙なにがし、いま伯父である北国皇帝の聖旨をこうむり、父 ( 徽 宗 ) とともに位を退いて : : : 」 といった降伏文に署名したのち、寒気の身に迫るテントのなかに、五日間も一睡もできないでと ネメガ ネメガ 2 / 6
えっせいずいしよう 『悦生随抄』という随筆ものこしている。 4 朝廷の最高責任者がこのような遊び半分の仕事をして、はたしてそれでいいかと誰しも考える だろうが、じつは当時の南宋の首都、臨安府の市民の気風が大体このようなものであった。人生 は娯楽のためにこそある。気候の温和な、風光の明媚な、物資の豊かな杭州は、南宋の首都とし て全国の租税がここに集められて消費される。百年このかた、戦火はついに都の近くに及んだこ とはなかった。政府でも都下の治安や人民の生活にはとくに注意を払って、平時には生活手段を、 困れば賑恤を行なったから、都にさえいれば遊びながらでも生活できたのであった。すこし上流 になれば飲食衣服で奢侈の競争をし、さらに知識階級の上層になると、もっと高尚な趣味、文学 や美術に理解がなければ社交人として通用しなかった。もしもこのままいつまでも太平がつづけ ほうめい ば、それこそ南宋の天下万々歳だ。賈似道も空前の名宰相として歴史に芳名をのこしたことであ ろう。ところが世の中はそんなに甘くない。臨安の町にとじこもっていてはわからないが、一歩 外へ出た世界には、すさましい冷たい暴風が吹きまくっているのだ。 、ーンは、外モンゴリアのアリク・フハと事を構えているあい 元の世祖フビライⅱノ 襄陽包囲戦 だは、南宋と戦争をしたくなかった。また彼の幕僚には多くの中国人がいて、彼 、ーンは中国人幕僚 らの立場からモンゴルと南宋とのあいだの戦争を好まなかった。フビライ " ノ かくけい の一人、都経という者を南宋に使者として派遣し、有利な条件で和睦しようとはかった。 しんじゅっ
順帝の太子はポロ。チムールの反対派であり、都を脱出して、 = 0 。チムールとともに勢力挽 回をはかったが、そのあいだにポロチムールは都にあってその反対党におとしいれられて殺さ れたので、太子は兵を率いて都に入り、功のあったココ。チムールは河南王に任ぜられ、諸道の ふんじよう 兵を総督することを命ぜられた。というのは朝廷がこんな紛擾のなかにまきこまれているあいだ 気いをををを」ド 居庸関の雲台。雲台は過街塔基ともいい、大都 から上都に通ずる街道上にあった。元代の代表 的遺跡で、これに六体字の陀羅尼 ( だらに ) 経 とラマ教仏像を刻し、交通の安全をいのった。 れ 3 元王朝の興亡
をすべてモンゴルに包囲されたことになる。こうなってはせつかく北方に堅固な要塞線をきずい ハーンの着眼であって、このように ても側面がガラあきである。そこがまたモンゴルのメンゲ 南宋を包囲孤立させておいて最後の一撃を加えて息の根をとめようというのであった。 メンゲ ⅱハーン即位の九年、南宋では理宗の開慶元年 ( 一二五九年 ) という年に、メ 鄂州の役 ノケハーンは南宋に対して総攻撃を開始した。メンゲー ーハーン自身は四川へ侵入 して揚子江を下り、安南にあるウリャンハタイは広西、湖南を経て揚子江流域に出、フビライは こ出て、ここで三軍が合流し、大挙揚子江を下って 湖北の正面を突破して今の武昌にあたる鄂州冫 南宋の都へ進撃する手はずであった。 このモンゴル侵入軍の三路のうち、最も簡単に前線を突破して揚子江に臨み、中間目標の鄂州 城の前に現われて攻囲の陣をしいたのは、フビライの左翼軍である。つぎに安南から進撃したウ リャンハタイの右翼軍は、わけなく前線を突破して南宋領の胴腹をついたものの、その土地は意 外に広く、北方の原野とちがって水路の複雑な水田地帯なので、予想に反して進軍が困難であり、亡 日ハーンがみずから指揮する中央軍はの 容易に鄂州に到達することができなかった。最後にメンゲ あいろ 四川に侵入したが、南宋軍が合州城に立てこもって隘路を扼しているのを突破することができず、南 、ーンが重病にかかって、ついに前線 戦線が膠着状態におちいっているあいだに天子のメンゲ日 / で病死した。モンゴル軍にとってはこれは重大な局面が生したことになる。なぜかといえはモン
。范文 たまたま閏七月一日、台風突発し、戦船の多くは覆没し、溺死せるもの数を知らずという 虎、忻都、洪茶丘らは堅船をえらび、士卒を残したまま逃げ去った。鷹島に上陸した三万人の士 卒は、わが軍の襲撃をうけ、ほとんど皆殺しにされた。これが弘安の役である。 もっとも、この間、モンゴル軍とわが軍とのあいだにしばしば激戦がくりかえされた。モノゴ ル軍はいわゆる「てっぽう」を用いてわが軍をなやませたことは、『蒙古襲来絵詞』を見れば容 易にわかる。またモンゴル軍がどんな武装をしていたかも一目瞭然とするであろう。最近中国で 武装したモンゴル兵が発掘されたが、絵詞そのままだという。 これまで元冦の大勝は神風に帰せられた。もちろん、モンゴル軍の大敗には台風の突発もその 原因の一つである。それとともに、モンゴル軍が海に馴れていず、四、五〇日ものあいだ、九州 しようちん の近海でうろっき、水などの補給も意のままならず士気が銷沈していたことも事実であろう。こ へいたん れに反して、わが軍は地の利を得て兵站の補給もゆきとどいていたであろう。また未曽有の国難 に際会して、精神的にも挙国一致したことが、ますます将兵の士気を鼓舞したにちがいない。モ亡 ンゴル軍ののがれかえる者わずかに三人と『元史』には記されており、これは誇張の言であるこの 南 とはいうまでもないが、彼らに徹底的な打撃をあたえたことはたしかである。