モンゴル軍 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈6〉 宋と元
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1. 世界の歴史〈6〉 宋と元

。范文 たまたま閏七月一日、台風突発し、戦船の多くは覆没し、溺死せるもの数を知らずという 虎、忻都、洪茶丘らは堅船をえらび、士卒を残したまま逃げ去った。鷹島に上陸した三万人の士 卒は、わが軍の襲撃をうけ、ほとんど皆殺しにされた。これが弘安の役である。 もっとも、この間、モンゴル軍とわが軍とのあいだにしばしば激戦がくりかえされた。モノゴ ル軍はいわゆる「てっぽう」を用いてわが軍をなやませたことは、『蒙古襲来絵詞』を見れば容 易にわかる。またモンゴル軍がどんな武装をしていたかも一目瞭然とするであろう。最近中国で 武装したモンゴル兵が発掘されたが、絵詞そのままだという。 これまで元冦の大勝は神風に帰せられた。もちろん、モンゴル軍の大敗には台風の突発もその 原因の一つである。それとともに、モンゴル軍が海に馴れていず、四、五〇日ものあいだ、九州 しようちん の近海でうろっき、水などの補給も意のままならず士気が銷沈していたことも事実であろう。こ へいたん れに反して、わが軍は地の利を得て兵站の補給もゆきとどいていたであろう。また未曽有の国難 に際会して、精神的にも挙国一致したことが、ますます将兵の士気を鼓舞したにちがいない。モ亡 ンゴル軍ののがれかえる者わずかに三人と『元史』には記されており、これは誇張の言であるこの 南 とはいうまでもないが、彼らに徹底的な打撃をあたえたことはたしかである。

2. 世界の歴史〈6〉 宋と元

ら現われてくる。歴代の政府はこれを危険思想と認めて、法律で禁止しているわけだが、こうし て政府から禁止されると、それがこんどは闇屋の社会に利用価値が生じてきて、彼らのあいだに 信者を多く獲得することになるから、世の中はまことに面白くできている。 ところで今、河南地方の治水工事のあとで大量の失業者が出たとき、これを収容して大きく膨 かんざんどう 急に多くの入信者ができた れ上がったのが、この地の白蓮教であり、その教祖を韓山童という。 ので、自然にその秘密が外部へ漏れやすくなったと見え、官憲の手が及んできたので、ついにそ の徒党を率いて反乱をおこし、紅い布を頭にまいて仲間の記号としたから紅巾の賊と称せられた。 するとたまたま政治が乱れ、経済界が不景気に見舞われていたときなので、あたかも枯葉に火が ついたように世にひろがり、火の手が意外に早くまわって中国の中部地方が大混乱におちいった。 時世のちがいというものは妙なものである。宋の時代にモンゴル軍が侵入してきたときは、モ ンゴル側は攻める方で、中国側は守る方であった。ところがこんどは、中国人民が蜂起して中国 側が攻める方にまわり、モンゴル側が守る方に立たされた。攻守の逆転である = そしてモンゴル 側は、ながいあいだ支配階級として中国人を圧迫しながら安楽に暮らしているうちに次第に弱く なり、中国人はモンゴル人に圧迫されて苦しんでいるうちに次第に強くなっていたのである。す でに中国人がモンゴル人と互角に戦うことができるようになれば、あとは数の問題であり、数の 上では中国側が勝つにきまっている。 こうきん 4 7 6

3. 世界の歴史〈6〉 宋と元

いないのであるが、モンゴルでは人民をすべて奴隷の状態におとしいれても戦争を継続できるよ うな組織になっている。そして一時的にはモンゴルのような国が勝利を占めることが多いのであ る。とまれ、最も堅固な国防の一角が破れると、南宋領内には、もはやモンゴル軍の鋭攻をささ えうるような陣地はない。内地はいわばガラあきの状態にあったのである。 、ーンは、襄陽攻略の報を聞くとあらためて南宋討伐の軍を 元の世祖フビライ“ノ ぜんぼう 臨安の降伏 おこし、総指揮官には外モンゴリア鎮定に功のあった名宰相の・ハヤンを、前鋒の 大将にはウリャンハタイの子アジュを任命した。モンゴル軍は襄陽から漢水に沿って南下し、揚 子江を渡って鄂州を攻めたが、このときは簡単にこの城を占領することができた。鄂州はいまの ようしよう 武漢の地で、揚子江の中流を押える要衝であり、ここを取られると、南宋は東西の連絡をたたれ て半身不随の状態におちいってしまう。陸上を占領された南宋の軍艦は根拠地を失って、みなモ ろかく ンゴル軍に鹵獲されてしまった。モンゴル軍は水上にはこれらの艦船を浮かべ、両岸を騎兵が並 行して護衛しつつ、大挙して東進してきた。 たくそう ときに南宋では、理宗の長い在位のあとを受けて立った度宗が若くして世を去り、幼児の少帝 が徳祐元年 ( 一二七五年 ) 即位した。老宰相賈似道の専権はいよいよはなはだしく、彼の私宅が政 ~ リ線の敗報が伝わると都下の人心は大 府となり、朝廷はあれどもなきがごとくであったという。目 いに動揺し、上下あい争って賈似道に、みずから出陣してこの頽勢を挽回することを求めた。賈 たいせい 36 ど

4. 世界の歴史〈6〉 宋と元

一二五四年、こんどはフランス王ルイ九世の派遣 した使者、フランシスコ派の僧ルプルックがモンゴお レ、址ルの都カラコラムに到着した。ルイ九世はイスラム 〔城 教国に対して十字軍をおこしたほどの熱心なキリス の 耋一ト教信者で、聖ルイとよばれた国王であるが、この 》一使者の使命もやはり前と同様、モンゴル大 ( ーンに 都対して、その罪を悔い改めてキリスト教に改宗する 元ことをすすめるためのものであった。これに対する メンゲ 日ハーンの返書もまた、前のグュク日 のそれと大体似たりよったりの内容であった。 「天には天帝のほかに神なく、地には大ハーンのほ かに君主はない。 フランス国王も早く天命に従ってモンゴルに帰順し、みずから来たって朝貢の 誠を尽くすがよい」 という意味のものであった。 、ーン国、キプチャックー ハーン国、オ ルプルックはその往復に際し、すでに成立していた三ノ ゴタイーハーン国、チャガタイーハーン国内を自由に遍歴することができ、当時どこにも露骨な

5. 世界の歴史〈6〉 宋と元

げんちょうひし 元代史の研究をはじめた。そして目をつけたのが『元朝秘史』という本で、これはオゴタイはハ 、ーン、オゴタ / ・ " ノ 、ーン二代の歴 ーンの時代に、モンゴル人がモンゴル語で書いたチンギスい / 史である。この本の原文は惜しくも失われ、明代にできた漢文ロ語訳と、漢字でモンゴル文をそ のまま音訳したものを二行にならべて書いた本がのこっている。これを入手した博士は新たにモ ンゴル語の勉強にとりかかり、『元朝秘史』の漢訳と音訳とを読みくらべながら、これを日本語 きたい に訳した。これが稀代の名著と称せられる『成吉思汗実録』であり、出た当時はその名声の高か ったに似ず、この本はなかなか売れないで、返本らしいゾッキ本が古本屋の店頭にゴロゴロして いたものである。ところがこういう本は売り切れてしまうと急に値が出るもので、だんだん珍本 の部にかぞえられて学者の手にも容易に入らなくなった。ただし前の大戦中に原本のままのかた ちで複刻されたから、いまはだれにでも見られる本になっている。 しらとりくらきちゃないわたり 那珂博士によって口火をきられたモンゴル史研究は続々と同好者が現われ、白鳥庫吉、箭内亙、 はねだとおる 羽田亨などのすぐれた研究者が輩出した。とくに箭内亙博士は元代史だけを専攻することを自任興 の するくらいの熱心さであった。これと同時に遼史、金史の研究もさかんになり、とくに日本が政朝 治的に満州、モンゴリアに特殊な権益をもった関係から研究の使が得やすかった理由もあり、日元 本の東洋史学は一時、中国内部のことをほうりつばなしで、ひたすら万里長城外の異民族の研究 2 ばかりしていると悪口をいわれるほど満蒙史の研究がさかんになった。日本は戦争に負けて、現 まんもう

6. 世界の歴史〈6〉 宋と元

たならず中国人民のために尽くしたが、それはみずから中国人意識をもってしたことでなく、最 そうけい たんねんこじ も広い意味での人道的な立場からであった。彼は仏教、とくに禅学に造詣が深く、湛然居士と号 して、詩文をよくし、その文集たる『湛然居士集』は後世の中国人からも愛読された。強力な異 民族支配下にある知識階級の生き方に、一種の型を提供したものとして興味深い 砂漠の北から起こった成上りもののモンゴル帝国の中国支配には、こういう 国籍不明の中間層 が必要であった。彼らは支配者がだれであろうとかまわず強い方につき従う。しかしそれでいて、 人民大衆のためにはできるだけのことは尽くしている人が多いのである。この点で彼らは五代の ふうどう 文人政治家、馮道一派の立場と共通な点がある。もしもこういう 種類の人間がいなくて、モンゴ ルの騎馬武士が直接武断的方法で中国人民を支配したなら、その結果は恐るべきものがあったで あろう。幸いにして、遼の支配、金の支配と、異民族の中国支配が重なるあいだに、 こ、 ) い ) っ , 甲 間的な、通訳ともっかず、政治請負人とでもいうべき人間が自然に発生したのである。耶律楚材 は遼という亡国の遺民であるが、中国人のなかからも、これに類した多数の人物が輩出していた のである。 この事情は中央アジア、西アジアにおいても同様であった。とくに中央アジアのウイグル人は モンゴル帝国の成立を利用して、このような中間層となって世界的に進出する機会を得た。彼ら はまず個人的にモンゴルの有力な王公に取り入って、その御用商人となり、単に商品を納入する

7. 世界の歴史〈6〉 宋と元

ミ当 から姿を消して会子が氾濫し、悪性のインフレーションがおこって経済界は大混乱におちいった。 政府はいろいら対策の手をうったが、いずれも一時的な便法で、根本的な改革をおこなうことが できず、数百貫の会子でも、わずかに一酔をも買うことができなかったといわれる。 金では章宗が世宗のあとをついだが、このころか 金の末世 ら漠北におこったモンゴル民族の侵入がようやく はげしくなり、その防禦のために金の財政は圧迫をこうむった。 さらに世宗のころから氾濫をつづけていた黄河は、ますます猛 2 威をたくましくし、田土が荒らされ、水災後は土地の境界をめ ・ a ぐって漢人と女真人との対立が激化して、これがまた金の財政 ン設 " 。を籌モにを窮乏におとしいれた。韓侘胄が金に攻撃を加えたのは、この / / 町「、一金ような金の内情が宋の方に知られたからであ 0 た。 」くほ ~ 、 ~ 壕防 ちょうどこのころ、一三世紀のはじめ、漠北においては、モ渡 南 よの入 の 第 3 一ッ金侵ンゴル諸部の平定をおえた鉄木真が諸部の推戴をうけて、渺位 ( 帝位 ) にのぼり、チンギスⅱノ 、ーンと称した。モンゴル軍は宋 じゅうりん 次第に南侵して燕京をおとしいれ、河北、山東までも蹂躙した。 5 金はおそれをなし、金帛を献じ、帝女をチンギス = ハー

8. 世界の歴史〈6〉 宋と元

キスハーンがその同族に与えた最大の贈り物であったというべきである。 しかし、ここにもわれわれは、モンゴル社会の停滞の現象を見いださずにはおれない。チンギ 日ハーンの使命は従来の保守的な部族制度を超えて、同種族の大同団結、その再編成にあった のだが、チンギス′ 、ーンの事業が成功すると、こんどはチンギス = ′ 、ーンを偶像的祖先として、 新たな貴族制度が成立したのである。これは従来の部族制度の形を変えた再現にほかならない。 歴史的な伝統というものの根強さは、ここでもそれを証明する一実例を提供しているのである。 だがチンギス日 / 、ーンにも思いのままにならぬことが一つあった。それは相続制度の確立を見 なかったことである。チンギス日 / 、ーンの後継者はいったいどうしてきめるか。もちろんモンゴ ル族のあいだに、クリルタイという族長会議のようなものがあり、大事件はそこで決定するのだ ふんじよう が、そのさい候補者のあいだにあらかじめ権利の差等がついておれば、この会議はたいした紛擾現 の がなくてすむ。中国だと先代の天子が後継者を指名しておき、あるいは皇太子などに立てておい国 て、死後の無用な紛争が避けられるように仕組んである。ところがチンギスハ ーンの場合、そ大 こは自身が成上り者の悲しさといおうか、生前に後継者を決定することができなかった。以後もゴ 何代かの長いあいだ、主権者の後継者指名権が成立しなかったため、モンゴル族は本国のみならモ ず、封建諸侯のあいだでも君主の死んだあと紛擾が絶えず、チンギス = ハーンの子孫同士が、血 で血を洗う悲劇をくり返さねばならなかったのである。

9. 世界の歴史〈6〉 宋と元

一一一〇三 一二〇四ナイマン部の主力がテムチンと戦って敗戦 一二〇六テムチンがモンゴルを統一、チンギス汗と称する モンゴル軍が華北に侵入しはじめる。チンギス汗に追われて西走した ナイマン部のクチュルクが西遼を溿ほす 一二一九チンギス汗が西アジアに遠征する ( ~ 一西 ) 一一三〇モンゴル軍が東西交通で栄えるホラズムを減・ほす 一一三四オゴタイ汗国成立 ( ~ 一三一 0 ) 一一三五安南で李朝が減び、陳朝が成立 ( ~ 一四 00 ) 一一三七モンゴルが西夏を溿ほす。チンギス汗が死ぬ 紀一二三四モンゴル軍が汁京を陥し、金をほす 一二三五モンゴルがオルコン河畔に首都カラコルムを建設 ・ハトウの西征 (~ 四 (I)O モンゴルがはじめて交鈔 ( 紙幣 ) を発行する 一二四六教皇の使節カルビーニがモンゴルに来る フビライが東南アジアを攻略する。メンゲ ーン即位 フビライが吐蕃を破る 一二五四フランス王ルイ九世の使者、フランチェスコ修道会のルプルックが中 央アジアをへてカラコルムに着く 一二五七フラグがイラン征服 世一二五八フラグのモンゴル軍が・ハグダードに入城、アツ・ハース朝を減ぼし、イ ル“ハン国を建てる 源実朝が征夷大将軍になる 大憲章成立 496

10. 世界の歴史〈6〉 宋と元

一二五九モンゴルが高麗を征服する 一二六〇フビライがモンゴルの大汗に即位 ( ~ 一元四 ) ハイドウの反乱 ( ~ 一三 01) モンゴルが国号を元とし、都を大都 ( 北京 ) に移す マルコボーロが東方旅行に出発する ( ~ 九五 ) 一二七四モンゴル軍が高麗軍を率いて日本に遠征し、失敗する ( 文永の役 ) 一二七七モンゴル軍がビルマに遠征 一二七九南宋の滅亡 一二八〇 元軍が日本に再遠征し、失敗する ( 弘安の役 ) 一二八一一文天祥が獄中で殺される 一二八四元将トガンが安南の占城を討っ 一二八九ハイドウがカラコルムを攻め、フビライが対戦 一二九一一フビライがジャヴァ遠征に失敗する 一二九四教皇の使節モンテⅱコルヴィノが大都に来る フビライ死亡。丞相・ハヤン死亡 一二九九 日本が筑前海岸に石塁を築 ビルマにタウングー朝興る イル " ハン国でタクーダル が即位し、イスラム教徒とな る ジャヴァにマジャパヒト王 朝が成立する オスマン・トルコ ( ~ 一 <llll) が建国 日蓮『立正安国論』 497 年表