がひっきりなしに中央にやってくるが、成案をもたぬ政府ではなんら指示を与えることができな 6 ルい、 - う . ふ かった。開卦府の知事、蔡京というのが、上にへつらうのが上手な男で、人民の迷惑などをよそ 一日のうちに差役法を復活して司馬光からほめられたりした。 王安石は、はるか南京で、この都のさわぎをききながら歿した ( 一〇八六年 ) 。司馬光も、募役 法を用いないで役法問題をなんとか解決しなければならぬ責任に追いつめられ、毎日苦しみなが ら、ついにならず、まもなく王安石を追うようにして歿した。 おんこう 司馬光というより司馬温公といった方が、多少漢文になじんだ人には親しみが そくすいきよう 司馬光の人物 わくであろう。彼は、山西省夏県の凍水郷の出身であったので沖水先生ともい われ、温国公に封ぜられたので温公とも称せられた。光という名がつけられたのは、父が河南省 光州光山県の知事であったときに生まれたからである。 かきょ 二〇歳のとき科挙に及第し、地方官を歴任したのち中央政府にかえり、世論を代表して政治の 得失を論じ、王安石の新法にまっこうから反対した。 司馬光は王安石より二歳年上であったが、かって二人ともいっしょに都のある役所につとめて ぼたん いたことがある。ちょうど役所の庭の牡丹が花盛りになったので、長官は花見の宴をひらき、部 下を招待した。宴たけなわとなり、長官は部下に杯をさしてまわった。司馬光は酒をあまり好ま ぬが、長官のすすめでもあり、やむをえず、ぐいと杯を飲みほした。一方、王安石は元来、下戸
ものを与えて老後の生活を保証してやった。このように、王安石は政敵をむやみに窮地におとし いれるようなことをしなかった。 しかるに、宣仁太后が摂政をとるようになって、旧法党の官僚を政府によびもどすと、彼らは 新法党の官僚を目のかたきにして、みにくい党争をはじめるようになったのである。 司馬光が宰相になると、新法をつぎつぎと廃止し、いよいよ募役法をやめよ 役法をめぐる論争 うとして大論戦をひきおこした。他の新法はやめただけで代案を出さなくて えきはう 。いかない。司馬光は万事、神宗の改革以前 もなんとかやってゆけるが、役法の問題だけはそうよ の法にかえさなければならぬというので、役法も仁宗時代の差役法を復活しようとした。これま しようじゅん で、堪えがたきを堪えて、だまっていた章惇は、太后と司馬光の前で大反対をした。 王安石が募役法をはじめたときには、神宗と熟議をかさねた結果、これなら大丈夫という自信 を得て行なったもので、実施にあたっても大体計画的にくるいはなかった。当時、旧法党内部に も、募役法はそのままにしておいた方がよいという議論があったほどである。ところが、司馬光 は群集心理にかられて、かるはずみに、これを改めようとした。 司馬光は募役法をやめ、差役法を復活する理由につき二度上奏したが、はじめには募役法は金 持にも貧乏人にも不利益であるといっておきながら、それから十数日たった二度目には、金持に だけ利益があって貧乏人には不利益であるなどと前後矛盾したことをいっている。ここを章惇に 22 イ
であるから、いくら長官がすすめようとしても、宴をおわるまで一杯も飲まなかったという。こ れは一片のエ。ヒソードにすぎぬが、一一人の性質、さらに、その政策の相違をも端的にあらわして いるところに興味がある。 らくよう 司馬光は新法に反対して王安石とは意見が合わず、宋の副都洛陽で閑地につぎ、も・つばら歴史 の編纂に全力をそそいだ。戦国時代のはじめから五代の末まで一三六三年間の事実を年代順に記 しちつがん したもので、これが有名な『資治通鑑』であり、一九年の歳月を費してなった不朽の名著である。 つまり、神宗の在位中、司馬光は、この書物の編纂に心血をそそいでいたわけであった。 せんにん ところが、この書物の完成の翌年、神宗が歿して子の哲宗が幼少で即位し、宣仁太后が摂政と なると、司馬光は洛陽からよばれて宰相となっ 奩篭第六十八 た。彼の政治生活は、翌年病死するまで、わず 本か一年あまりにすぎなかったが、この間、新法 - 安一十 = 年酊春正月魏王・を廃し、仁宗時代 0 旧法を復活した 0 で、旧法 鑑党の中心人物とみとめられている。 △收屯吏斬 ~ 笈權な預欲與と豪通 ↓イ 4 ) ニ 0 、巻軍節度欽毎く問 ~ ~ 欽日臧寒司馬光をはじめ旧法党官僚の保守的精神は、 而勤彊有略器用好苗人督や ( 「大事 ~ 疋『彼らの郷里が宋朝の興起した北方にあることと 7 冨肋國求オ豈敢私根以蔽賛乎權谷之三月 関係があるようだ。そのころの北方人は、北方 弓重留伏波將軍夏虔惇ー日贈手 ニ十六寧亠 党派の争い
かゆう つつこまれた。また仁宗の嘉祐時代から現今までは二〇年もの歳月がたっているので、そのあい えき だに、人民の貧富の等級や、役に従事すべき人数にも大きな変化があるはずであるのに、それを 無視して嘉祐の法によって差役法を行なえば、人民はたちまち途方にくれるだろう。もし差役法 を行なおうというなら、十分に研究してからやるべきだ と、章惇は痛烈に司馬光を非難した。これには司馬光も まったく返答に窮して赤面した。 、ろ こ ところが旧法党の官僚は衆をたのんで、章惇が孤立し と ているのにつけこみ、彼が太后の前をもはばからず議論 し だんがい 、ツ、」居をするのは不敬だと詰問し、弾劾した。これまで弾劾さ 朝 ( ~ れたものは、辞職願いを出すのが先例であ 0 たが、この 王とき章惇は「自分の方が正しいのだから辞職願いは出さ 、一、ない。処罰をするならしてみろ」とい 0 てがんばりとお しゅうか した。しかし、衆寡敵せず、ついに太后の命令によっての 、 ~ 京地方官に左遷されてしまった。 いよいよ差役法の復活ということになったが、地方で はどうしてよいかわからぬ。質問やら指令をあおぐ通牒 つうちょう
作麗 0 : らしい。 また新法党の官僚のうちにも、徽宗に対してしぎりに先帝の志を受けつぐべぎであるとすすめ、 それがためには蔡京を用いなければならぬ、と進言するものがあった。これはおそらく蔡京のさ しがねだったのであろうが、黴宗はその熱弁にひかされ、ついに神宗の政治を復活することに決 すうねい 心し、年号を崇寧とあらためた。けだし、煕寧を尊崇する意味である。かくて韓忠彦、曽布らが 宰相をやめさせられ、蔡京がこれに代わって専権をふるうことになった。 徽宗の時代にめきめきと頭角をあらわし、その信任を得たのが蔡京である。 オポチュニスト蔡京 彼は目先のよく見える小ざかしい男で、哲宗の幼少時、旧法党の司馬光が 政権をにぎると、率先して旧法を行ない、哲宗が親政をやりだす と、新法党の章惇にすすめて新法を強行させるというふうに、ま ったく主義主張のないオポチュニストであったが、徽宗のような 気の弱い道楽天子には、もってこいの相棒であった。蔡京が徽宗 書 どう争 京の信任を得たのは、彼が官をやめさせられて杭州にいたとき、童の こっとう , 第一貫という黴宗のお気に入りの宦官が、天子の命令で書画骨董を集党 めるために杭州にやってきたとき、うまくこれにとりいったのが / 始まりだといわれている。 あいぼう
0 救済中小商人の保護地方財政の独立国民皆兵の制 中小地主の救済倉法新しい教育大学の創立官制の 復古士大夫と百姓 党派の争い 旧法党の擡頭役法をめぐる論争司馬光の人物新法派に 対する迫害哲宗の成長紹聖という年号歴史の書きかえ 建中靖国の政治新法時代の復活オポチュニスト蔡京旧 法党の・フラックリスト花石綱おしのびの皇帝都開封の 繁華 金国の侵入 砂金場の争い女真人の生活女真と契丹の決戦海上の密 約燕京の回復燕山府路遼の減亡童貫という人物 賊をもって賊を討っ宋の背約金軍南下主戦論と平和論 開封の陥落「宣和遺事』と『水滸伝」耶律大石の西走 宋の南渡 傀儡一月皇帝、張邦昌高宗と元祐皇后秦檜と岳飛宋金 講和の成立韋太后と女天一坊皇后呉氏太祖の子孫と太
あい争い、国政がみだれているのを見て、慨然としてその改革を決意した。 おうようしゅう しようちん 当時、政府では、濮王に関する論争があって以来、宰相の韓琦や欧陽脩はすっかり意気銷沈し てしまって、神宗をたすけてもう一度反対党の攻撃をのりきる元気もなさそうであるこ若手の政 治家では、司馬光は議論が好きだが実行力に欠けている。このとき、田舎まわりばかりして地位 はさほど高くないが、若手の政治家のうちで最も評判のよい王安石のあることを神宗は知うた。 神宗は侍講の韓絳を通じて王安石の文章を読み、その議論に感心し、一度あってみたいと思っ た。王安石はいわゆる唐宋八大家の一人で、その学間とともに、文章は当時すでにその名声が高 かった。仁宗の晩年、いまの江西省の官吏となり、任期がおわって都にかえったとき天子に復命 北宋系図 じこう ①太祖 ( 突 0 ー九七六 ) ②太宗 かんこう ③真宗ーー④仁宗 5 英宗ーーー⑥ ) 神宗 かんき ⑦哲宗 8 徽宗 ⑨欽宗 ( 一一三五 : 毛 ) 高宗 ( 南宋 ) ノ 93 王安石の登場
加んとう が彼を救世主のようにかつぎあげ、保守的な官僚群を姦党とそしったことが、はげしい党争をひ きおこし、彼は失脚して左遷されることになった。新旧両党の対立の形勢もここにはじまった。 ふひっ 范仲淹を指導者とし韓琦、富弼らが宰相として政治にあずかった時期は、世に「慶暦 ( 一〇四一 ー四八年 ) の治」と称してほめたたえられている。 唐代の宰相は貴族の家に生まれ、家柄によって政治家となったのであるが、范仲淹は個人が天 下全体を救う、という大きな理想をもって政治家となったので、その意気ごみはまったくちがっ おうようしゅうしばこう ていた。彼の人格と言説は欧陽脩、司馬光などの若手の学者、政治家に深い影響をあたえ、これ したいふ 以後の宋代の士大夫、政家の指導理念とな . ( - 鬢下れつこ。 ~ る風 宋代、いろいろの生産力 く送 : つで空前の生産力 がこれまでにない増大を をご 。鉄ふ示したことは、分業の発達と科学的技術の時 ~ のの 用個進歩に帰せられるであろう。いま、これをか 塩数 て具体的に、火力の革命と銅鉄の産出量との華 しあ 解が関係について考えてみよう。 6 をし ヨーロッパでは、一八世紀のなかごろか , 今 , 一画。、鉄出 古湯 をこ第を , 0 を :
欝噎祐も 一ま第え上 】ま不 3 、れこ ) 「・キ第 第盟下す物にこ + 当 気十 派の党人をえらびなおし、司馬光以下三〇九人の名を石に刻して、宮中の御殿の門においた。こ げんゅうとうせきひ れを蔡京がみずから書いて天下に頒布し、碑に刻して立てさせたのが現在「元祐党籍碑」といっ ているものである。 しかし、翌年には星変 ( 天文上の異変 ) があったので、党籍碑をとり除かせた。これは旧法党 をらまりきびしく弾劾することによって生ずる反動をおそれてのことであろう。現に元祐党籍碑 椴んこく は広西省に二つ残っているが、いずれも南宋人の翻刻したもの である。 徽宗の時代は、日本の徳川時代にくらべるならば、 花石綱 まさに文化文政といった時代にあたるであろう。 らんじゅく 爛熟した時代を通りすぎて、頽廃期に入っていた。王安石以後 党の新法のおかげで財政がゆたかであったので、徽宗は政治をほ 旧っておいて、もつばら遊楽にふけった。夜な夜な宮中をこっそ 碑りぬけ出して、花街に遊びつづけるなど、その脱線・ふりは数かの 党 党 祐ぎりない。 これを指導したのが宰相の蔡京である。彼は権勢をほしいま まにして奢侈をきわめ、みずから手本を示した。蔡京は学問も せいへん だんがい はんぶ
かゆう げんゅう 元祐とあらためたが、これは、仁宗の年号、嘉祐の昔にかえすという意味で、新法を廃し、嘉祐 時代の法にしたがって政治を行なうことを宣言したものであろう。 いったい、新法党には、王安石という中心人物があって、その政策にはしつかりした指導原理 といったものがあった。しかし、旧法党にはまったくそれがない。ただ新法に反対するものが集 まって、旧法党というグループが自然にできたまでのことであって、一貫した主義主張をもつも つうちょう のではなかった。そこで新法を廃止し、嘉祐の旧法にしたがって政治を行なうよう地方に通牒を ろろの問いあわせがくる。中央では、それに 出しても、地方官庁では途方にくれてしまい、いい しつつい 十分な返答もできず、大いに旧法党の権威を失墜するようなありさまであった。 王安石は在任中も、政敵に対してはきわめて寛大であった。宋代では、功なり名をとげた大臣 は第一線をしりぞき、地方官となって晩年を悠々としておくるのがならわしである。王安石の先 おうようしゅうかんき 輩、欧陽脩や韓琦などの重臣が、地方官として歿した 太のは、左遷の意味ではなかった。王安石の政策に最も 争 宣強く反対した司馬光でさえ、洛陽で優遇をうけながら、の しちつがん 后有名な『資治通鑑』を編纂していた。もっとも、デマ党 の をとばして政府の命令にしたがわぬ官吏は免職するが、 3 のそれでもなにかと名義上の閑職につけ、恩給のような