日本は中国と土地が近い関係上、あらゆる方面から中国の影響を受けてその社 宋文化と日本 会文化を発達させてきた。ところで日本が中国文化を受容した歴史の上でも、 唐以前と宋以後とでは、そのあいだに深い断層をはさんで大きな差違が認められる。 日本は唐代の文化をほとんどくまなく摂取したようにいわれる。なるほど奈良や京都の古寺を おとすれると、唐代文化は中国でほろびて日本にったわったかのような錯覚さえおこす。事実、 日本人はじつによく唐代の古文化を保存したものだ。法隆寺や薬師寺のような古建築、そこの仏 像、さては天台宗、真言宗のような教義から、仏教を離れていえば儒教の経典の読み方の古伝、 正倉院に蔵せられる日常器具、さては宮中の舞楽などにいたるまで、なんとよく保存のゆきとど いたものた。日本人は保存の天才だ。 しかしここで考えねばならぬことは、それら唐代の文化が、はたして現在われわれのなかで生ス 命を保っているかどうかということだ。もちろん、われわれの祖先が崇拝し、模倣につとめた古サ ふくざい 文化だから、たとえそのままの形でなくても、われわれの文化のなかに遺伝的にそれが伏在して ア いることはいうまでもない。 ところがその分量、その程度を考えてみると、どうもそれはあまりジ 大きな比重ではなさそうにみえる。というのは、その後で中国から流れこんだ宋文化の比重の方東 が、目に見えてはっきりと大きいからである。 仏教の上で、唐代に日本に伝わった天台、真一一气律、三論というような教義は、それがどんな せっしゅ
士大夫の文化と中国の歴史で、唐代から宋代への移りかわりは、社会と文化との大きな変革を 庶民の文化 意味した。唐代までの中国の社会は、少数の貴族が特権階級となり、経済も文 化も彼らの手に独占されていた。それが宋代になると中国は新しい時代に入り、従来の世襲的な 貴族が没落したばかりでなく、貴族制度そのものが消減してしまった。 そこで宋代以後、従来の貴族文化に代わって庶民文化が起こってきたというふうに説明されるの 代 ことがある。それ自体はけっしてまちがっていないが、われわれはもうすこし正確な表現を用い時 たい。すなわち唐代までの貴族社会が没落しても、中国の社会はけっして階層のない庶民の天国宋 が出現したわけではない。社会の上層には、従来の貴族に代わって、一代貴族ともいえるような 2 4 士大夫階級が成立し、そこに独特な士大夫文化が繁栄した。これに対し下層にはいつの世にもあ したいふ 宋元時代の文化 元の張成のつくった堆 朱盆。滋賀県来迎寺蔵
五代は兵農が分離するとともに、官吏の方でも文官と武官とがはっきり二つにわかれたときで ある。そして政権は武官によってあらそわれ、文官は傍観の態度をとった。ところが、宋代に財 政が政治の重要問題となると、五代とは逆に、政権の争奪が文官のあいだでおこなわれることに なった。これがはなはだしくなると党争に発展する。のちに述べる神宗時代の新旧両党の争いは まさにこれであった。 せんみん 唐代までは、貴族が広大な荘園をもち、主として農奴などの賤民をつかって耕作さ 農村問題 せ、日常の必需品もほとんどみな自給自足していたので、ほかから買うものといえ ば塩くらいのものであった。これらの賤民たちも、みな地主によっていちおう生活が保証されて いたので、商業というものの発達をみなかった。 ところが、唐末から、荘園の封鎖経済がすたれ、商業が次第に発達してきた。これは、唐末五 代の騒乱によって、奴隷や農奴が社会的に解放され、多数の小作人が生じたことが大ぎな原因で あろう。小作人の発生は、地主の土地経営法の変化にもとづいている。それはまた、塩の専売制設 の 度とも深い関係があった。 唐の社会をゆりうごかした、かの安史 ( 安禄山、史思明 ) の大乱 ( 七五五ー七六三年 ) ののち、政新 府は財政の窮乏から、ついに人民の不便を無視して塩の専売を施行した。このため、一斤二銭く らいであった塩価がにわかに七四銭にも暴騰した。地主が農奴の生計を保証してやるためには、 あんし
げんゅう この制度は、元祐中、旧法党が政権をとったとき一時廃止されたが、新法党がかえり咲くと、 復活され、南宋時代もずっと行なわれた。それは知識階級の確立とふかい関係があったからのよ うである。大学に多数の学生が収容ざれると、学生運動がさかんになり、こののち次第に北方民 族との和戦の国策などが問題になってくると、ことごとに学生が政治活動にのりだし、坐りこみ や、ストライキをやるようになった。 さんしようりくふ 宋初には唐の三省六部の官制がそのままに存在していたけれども、独裁政治の発 官制の復古 達から、その要求をみたすべき臨時の官がつぎつぎとっくられ、実権はみなその 方にうつっていた。たとえば三司の制度が唐末から発達し、六部のうちの戸部にかわって財務の 実権をにぎり、その長官の三司使は、宰相と肩をならべるほどの権力をもっていたことはさきに もふれた。 かんしよう ここから旧官は管掌すべき職を失い、ついには官吏の階級をしめす階官 ( 階級を示す名目だけの ろくちつじよい 官である ) となり、禄秩や叙位をあらわすにすぎず、官と職とがほとんど分離してしまった。た登 りぶしようしょ 石 とえば吏部尚書といえば、唐代では官吏の人事をつかさどる権勢のある吏部の長官であったが、 安 王 宋代にはまったく官吏の階官にすぎなくなっている。 もっとも宋代にも唐制の官のなかで若干の職務を有するものはあるが、多くは儀礼や、さほど 重要でないもので、主要な職務はほとんどみな新しくできた官が占めていた。その結果無用の官
な発展をとげ、この情勢はそのまま宋代にひきつがれた。宋の統一によって諸国の国境がとり除 かれて、商業が一躍活況を呈するようになると、茶の販路もいちじるしく拡大した。宋代にいた って茶の専売制度が確立した原困も販路の拡大にほかならない。それは茶の需要が中国内地にお いて増大しただけでなく、周辺の外民族においてもその需要が急に増大したからである。 飲茶の風習はすでに唐代からウイグル、吐蕃などの外民族のあいだに波及し、茶と馬の交換貿 易がおこなわれた。宋代には契丹、西夏、女真、西蕃などもその風習になれて、もはや一日も茶 がなくては過ごせぬほどに彼らの必需品となっ ていた。というのは、北方や西方の外民族は遊 牧生活がその生業の主体をなし、肉や乳酪がそ 筆の主食である関係上、ビタミン o の補給がとく 【等に必要であったからである。 ちなみに、茶がわが国に伝えられたのは、す時 茶でに奈良朝のことで、中国では唐代にあたるが、か でんば 茶が日本でもっくられ飲茶の風習がひろく伝播華 したのは鎌倉の初期からである。すなわち日本 りんざいしゅう における茶樹栽培は、臨済宗の祖 . である栄西 チベプト
このような事実から考えると、羅針盤が発明されたのはあるいは中国かもしれないが、いまの ところ断定することはさしひかえておいた方がよい ともかく、羅針盤が航海に利用されるようになると、海上の交通は安全となり、その劃期的な 発展をもたらした。中国と南洋からインド、アラビアにわたる地域との貿易がますますさかんに なり、物資の交易が活撥になったばかりでなく、それに伴って文化の相互影響も大きくなった。 羅針盤は、アラビア商船に用いられ、さらにアラビアからヨーロッパにったえられた。これが コロンプスのアメリカ発見や、ポルトガル人の東洋来航をうながす大きな動因となったことはい うまでもなかろう。 宋代になって興った新しい文化は、下層社会にまでひろくゆきわたることによっ 印刷と書物 て、いちだんと近世的文化というにふさわしいものとなった。この文化の一般化 にあずかってカのあったのは、都市の発達、交通の整備などのような社会的条件のほかに、印刷 代 術の発達による書籍の普及が考えられよう。 唐代のなかばごろまでの書籍はみな巻き物に手写したものであったが、唐代から印刷術が起こか り、はじめは主として仏書、それから辞書、暦などに利用されるにすぎなかったが、一〇世紀っ華 まり五代、宋初になってから、儒教の経典や一般の書物もようやく印刷されるようになった。 こくしかん 最初は天子の命令によって国立の大学 ( 国子監 ) などで出版されたのでテキストも精選されて
それに礼記の一部は論として取り扱えぬこともないが、いずれも思想的体系をなしておらず、広 教に対してはくらべものにもならぬ。ところで中国でも、唐代までは仏教がさかんに行なわれ、 中国人の仏教僧侶は仏教を学んでその論部をも大いに研究したものである。中国人はけっして思 考力において劣った国民ではない。そこで彼らは宋代に入って、儒教の経典に当然あるべくして なかった論部の補強を思い立ったのである。そしてその思考の形式は、仏教のそれから借用した ところがすこぶる大きいのも当然の帰結である。宋学とはいわば仏教の論部を改造して儒教にあ てはめ、儒教のために論部をつくり上げた仕事といえるのである。 そこで後世からふりかえってみると、宋学はいったい儒教だろうか仏教だろうかという非難も 生じる。たしかに宋学は、在来の儒教で言わなかったことを言 い、なかったものをつけ加えた。 そして従来の思想を曲解した点も少なくない。だから後世、たとえば清代の考証学者たちが最新 式の科学的な方法で、言語学的に古典の研究をはじめ、漢唐の文献を理解しなおし、それを宋代 学者の解釈とくらべてみると、宋代の学者はその点ではずいぶん誤りをおかしていたことがはつの 代 きりしてきた。いい よよ宋学は中国思想でないということになって、一時は学界から宋学を除け時 ものにして相手にしない風さえ起こった。 しかし、公平に観察すると、宋学はけっして仏教ではない。儒教の儒教たる根本の点はちゃん とっかんではずさないのである。仏教の思考の形式は借りたが、その内容はどこまでも儒教的で
をみま もやはり、異民族の弱点を見抜ぎ、それは経済的に微力であるこ とだと結論したのである。そこで以後の中国の対異民族政策には、 多かれ少なかれ経済が武器として用いられてくる。ときにはそれ らんよう が濫用されて、かえってみずから不利をまねいたこともあるが、 全体的にみて政策の進歩である点はまちがいないであろう。しか かれつ し、いずれにしても、民族闘争の苛烈な点には変わりがない。地 ( よ 球上のあらゆる民族は、この試練にたえてゆかねばならぬのであ 図 しかしわれわれはそういう新しい時代に入る前に、古い時代と 新しい時代との中間をなしている唐末から五代の過渡期の歴史か 生ら見ていかなければならない。そしてここに現われるのも、やは 草り深刻な民族闘争の場面にほかならぬのである。 あんろくざん 唐代の中期に起こった安禄山の乱 ( 七五五ー七試 の 内乱の落し子 六三年 ) は、もと唐の軍隊のなかの異民族分子族 ほうき の蜂起であり、一時唐王朝の生命を脅かすかに見えた。それは最 後に鎮定されたとはいえ、これだけの内乱であっただけ、あとに
りとする場合には依然として行なわれていた。だから中国の文化人となるには、あらゆる物事に 達者でなければならぬわけで、古いものが廃れて新しいものが代わるのでなく、古いものは依然 として存在した上に、さらに新しいものが要求されるのである。これは韻文の場合にも同じこと がいえる。 韻文の上では唐から宋への変化を、唐詩、宋詞という言葉で言い表わす。唐代には五言七言の っく 律詩、絶句が流行し、詩の黄金時代といわれる。ところが宋代になると、別に長短句といわれる、 五言七言にこだわらぬ長短の句をつないでそれがおのずからリズムをなし、音曲に合わせて歌う ことのできる「詞」という形の韻文がさかんになった。そこで唐詩、宋詞といわれるのであるが、 この場合も、宋代の詩人がけっして唐詩の形式の詩をつくらな 表 一依然として韻文の王座を保ってお / / 代くなったわけではない。詩は 文 り、いやしくも文人である以上はぜひ作らねばならぬ必修課目化 の 北になっていたのである。だから科挙の試験を受けるときも、作の 詩が必ず要求される。有名人の文集に詩の欠けた文集などはな よ、。そして当時の文人は、詩をよくしたうえでさらに詞をもっ宋 、 \ 、、くって見せねばならぬのである。 りつし
の結果、宮中と内閣とを連絡する機関がただ一つにかぎられ、宮中のことは内閣にはほとんどわ からず、おなじように、内閣のことは宮中には判明しがたい状態にあった。そこで、宰相もしく は宮中の宦官などで政治的野心をもつものが、権力をほしいままにしようとすれば、その陰謀も 容易に達成することができた。 また、天子自身も、宰相だけから政治上の問題をきくだけで、百官を召して議論をきくなどと いうことはほとんどなく、したがって天子はひまが多く、いきおい日常生活は遊惰におちいりや ようぎひ げんそう すかった。かの玄宗皇帝が楊貴妃の愛におぼれたのは、その適例であろう。 ところが宋代になると、政治組織はまったく変わってきた。政治上の問題は、宰相だけでなく、 りくぶ 唐代の六部、すなわち、文部省にあたる礼部、大蔵省の戸部、司法省の刑部など、六つの官庁の 上には、それぞれ礼院、三司、審刑院などという六つの監督機関ができ、天子に直属して政情を 奏上した。宮中と内閣とを連絡する線が太くなり、またその機会も多くなったので、唐代のよう に宰相や宦官がひとり横暴をきわめることができなくなった。 それとともに、天子自身、多くの官吏から政情の報告を受け、いちいちそれに裁可を与えなけこ ればならなくなり、日常の生活が非常にせわしくなった。こういう制度だから、近世の天子には あまりおろかな天子が出なくなり、したがって天子の独裁権も名実ともに進展した。 唐の末ごろから三省 ( 中書省、尚書省、門下省 ) のうちでも、天子の命令をうけとる中書省の権 9 重圧 ~ 耐える中国