王安石 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈6〉 宋と元
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1. 世界の歴史〈6〉 宋と元

ばとう 彼が政府に立って悪政を施したので天が天罰を下して人民に警告しているのだというものもあり、 一部始終の責任をす・ヘて王安石に負わせている。ことに小説の題材にまでとりあげられ、「すね けんでん もの宰相ーとして喧伝され、ここに至って王安石に対する世間一般の悪評は固定してしまった。 このような評判はそのまま後世までながくうけつがれ、明代に至るや、王安石は悪い政治をし たから悪人であるのではなく、・、 カんらい悪人であるから悪い政治をしたのであると、士大夫から かんしんでん おお 罵倒され、奸臣伝のなかに入れられた。人の評判は棺を蓋いて事定まるといわれるが、王安石に 至っては、棺を蓋いて幾星霜をへた清代においてさえ、なお諸説紛々として定まらず、なかには 普通の人間の仲間にさえ歯させない者がある。 それは結局、世論をつくる士大夫階級の学派の関係もあるが、王安石の改革が越ゅべからざる 一線を越えて、士大夫階級の利益を侵害したところに最も大きな原因があったのである。 よわい 220

2. 世界の歴史〈6〉 宋と元

けいりん 王安石は一〇七四年 ( 熙七年 ) まで宰相としてその経綸を実施し、相当の成 旧法党の擡頭 績を上げたので、神宗の懇願をもふりすてて、いまの南京に隠退した。一つに は後進に道をゆずる意図もあったに相違ない。 王安石が在任中、最も苦しんだのは部下の操縦であった。新法党内でも時代の風潮の影響をう はばっ け、派閥内に派閥をつくって紛争がたえなかった。翌年、ふたたび王安石が宰相として呼びださ れたのも、この紛争をしずめるためと、もう一つは遼が山西の国境問題について強硬に出てきたの からである。しかし、まもなくこの問題のかたがついたので、党内の紛争をほぐすために、王安党 りよけいけい や げんばう 石は最も信任していた呂恵卿を中央からしりぞけ、自分もまた野に下った。熙につづく元豊時 2 2 代は神宗の親政時代で、ほとんど王安石の政策をそのままうけついでおこなった。 党派の争い 柳の樹蔭で読書する 女。三彩の宋代陶枕

3. 世界の歴史〈6〉 宋と元

もたらした。ここから政治の革新が、まず若手の政治家のあ おうあんせき いだで叫ばれ、ついに王安石 ( 一〇二一ー八六年 ) の政治改革 像となっていっそう大きく表面化したのである。 石王安石の政治改革を一口でいえば、復古の一語につぎるで 王 あろう。革新の意気にもえた青年天子、神宗は、ひと昔まえ の唐の太宗を目標に改革をおこなおうとしたが、王安石は、 、こしえの 「唐の太宗は模範とするにたりませぬ。どうか、し冫 ぎようしゅん 聖天子、堯、舜を手本にしてくださいませ」 とねがい出た。これでは、まったく雲をつかむようで、神宗はどうしてよいのかとまどった。そ たいこうう しゆらい こで王安石は、周の時代、太公望とならび称せられた周公がつくったといわれる『周礼』という 書物を、改革のよりどころとした。王安石がどこまで周礼を信用したかはわからぬが、中国で改 革をおこなうときにつねにひつばりだされる書物である。 いったい、中国では、政治改革をおこなおうとするときには、復古をとなえ、なにか古い権威 そはう のあるものをもちださぬと大義名分がたたぬのである。それも一方には祖法があって、子孫に対 して非常な拘束力をもっているから、祖法と同等あるいはそれ以上の権威のあるものが必要とさ れたのである。

4. 世界の歴史〈6〉 宋と元

がひっきりなしに中央にやってくるが、成案をもたぬ政府ではなんら指示を与えることができな 6 ルい、 - う . ふ かった。開卦府の知事、蔡京というのが、上にへつらうのが上手な男で、人民の迷惑などをよそ 一日のうちに差役法を復活して司馬光からほめられたりした。 王安石は、はるか南京で、この都のさわぎをききながら歿した ( 一〇八六年 ) 。司馬光も、募役 法を用いないで役法問題をなんとか解決しなければならぬ責任に追いつめられ、毎日苦しみなが ら、ついにならず、まもなく王安石を追うようにして歿した。 おんこう 司馬光というより司馬温公といった方が、多少漢文になじんだ人には親しみが そくすいきよう 司馬光の人物 わくであろう。彼は、山西省夏県の凍水郷の出身であったので沖水先生ともい われ、温国公に封ぜられたので温公とも称せられた。光という名がつけられたのは、父が河南省 光州光山県の知事であったときに生まれたからである。 かきょ 二〇歳のとき科挙に及第し、地方官を歴任したのち中央政府にかえり、世論を代表して政治の 得失を論じ、王安石の新法にまっこうから反対した。 司馬光は王安石より二歳年上であったが、かって二人ともいっしょに都のある役所につとめて ぼたん いたことがある。ちょうど役所の庭の牡丹が花盛りになったので、長官は花見の宴をひらき、部 下を招待した。宴たけなわとなり、長官は部下に杯をさしてまわった。司馬光は酒をあまり好ま ぬが、長官のすすめでもあり、やむをえず、ぐいと杯を飲みほした。一方、王安石は元来、下戸

5. 世界の歴史〈6〉 宋と元

あい争い、国政がみだれているのを見て、慨然としてその改革を決意した。 おうようしゅう しようちん 当時、政府では、濮王に関する論争があって以来、宰相の韓琦や欧陽脩はすっかり意気銷沈し てしまって、神宗をたすけてもう一度反対党の攻撃をのりきる元気もなさそうであるこ若手の政 治家では、司馬光は議論が好きだが実行力に欠けている。このとき、田舎まわりばかりして地位 はさほど高くないが、若手の政治家のうちで最も評判のよい王安石のあることを神宗は知うた。 神宗は侍講の韓絳を通じて王安石の文章を読み、その議論に感心し、一度あってみたいと思っ た。王安石はいわゆる唐宋八大家の一人で、その学間とともに、文章は当時すでにその名声が高 かった。仁宗の晩年、いまの江西省の官吏となり、任期がおわって都にかえったとき天子に復命 北宋系図 じこう ①太祖 ( 突 0 ー九七六 ) ②太宗 かんこう ③真宗ーー④仁宗 5 英宗ーーー⑥ ) 神宗 かんき ⑦哲宗 8 徽宗 ⑨欽宗 ( 一一三五 : 毛 ) 高宗 ( 南宋 ) ノ 93 王安石の登場

6. 世界の歴史〈6〉 宋と元

「天子は士大夫とともに天下を治めるものでありまして、百姓とともに天下を治めるものではご ざいませぬ」 とこたえたという。いかにも士大夫階級の心情を端的にいいあらわしているではないか。 このように士大夫階級の勢力は当時すでに決定的なものとなっていた。王安石はその矛城にま でせまり、一時は彼らの勢力をある程度、制限することに成功したが、まもなく士大夫階級の勢 力は挽回した。この士大夫階級の地盤ができあがる と、富民と貧民との相対立する近世的社会相があら われた。このような社会がながくつづくと、世人は 族それをあたりまえのことと考えるようになり、とき 警一のに不公平な政治を改革しようとする者があっても、 世論の反対にあ「て失敗したのである。 このように近世的社会組織が南宋時代に固定する登 せいこう 《〈を ~ 」楽と、王安石に対する悪評も決定的とな 0 た。靖康の石 かみ , の変によ 0 て北宋が減亡したのも、王安石が上、天子王 あざむ をないがしろにし、下、人民を欺いて施行した新法 の結果であるとし、北宋末期における天災地変も、 へん

7. 世界の歴史〈6〉 宋と元

新法中、青苗法に対する反対が最もはげしかったのは、ここに理由があった。政府の老臣たちも みな反対したので神宗も心を動かされ、一時は政変があるかとも思われた。しかし、王安石とし ては、青齒法は不当な地主の利益に制限を加えたのにすぎぬ、これに成功しなければ、つぎつぎ に計画しつつある新法は、とうてい実現されぬとし、まったく一身を賭して争った。 かって神宗は王安石にむかって、 「青苗法に対する反対がつよいのはなぜであるかー とたずねた。すると、王安石は、 「陛下が疑惑をもっておられるからであります。多数の反対は恐れるにたりませぬ。ただ道理が あるかどうかが問題であります。周公のとき、兄弟がそむきましたが、周公の方に道理があった おうもう ので人心を失いませんでした。これに反し、王莽のときには、数十万人がその徳をほめたたえて も、人心を得たとは申されませぬ。道理があるのに、多数のまえに屈服すれば、たちまち、彼ら に乗ぜられましよう」 の と答えている。 石 青苗法が主として農民を対象としたのに対し、市易法は商人のために立案され王 中小商人の保護 ている。当時、大きな都会には、商工業の組合が発達し、政府所要の物資を調 達するかわりに、営業の独占権をみとめられていた。組合は一一、三の豪商に牛耳られ、組合の小 しえきはう ぎゅうじ

8. 世界の歴史〈6〉 宋と元

けいげんとう 偽学の禁は、寧宗の慶元年間 ( 一一九五ー一二〇〇年 ) に起こったので、慶元の党 慶元の党禁きん 禁ともいわれる。この事件を理解するためには、さらに北宋時代の学派について引 述べることが必要である。北宋の半ばすぎ、王安石のときから新法党と旧法党の争いがあるが、 これは同時にまた学派の争いでもあった。 王安石は政治家であるとともに一方では学者であり、その学問は非常に実際的であった。これ ていこうてい に対して、旧法党に属する程顥、程頤の兄弟、ことに弟の程頤は哲学的色彩がつよく、その弟子 も少なくなかった。北宋末までは大体新法党の学者が勢力をしめていたが、靖康の変は新法党の ちょうてい 責任であるというので、南宋時代には、王安石の学問が排斥され、程頤の流れをくむ学者趙鼎な どが用いられた。 ところが、秦檜が宰相になると、程氏の学間をしりぞけ王安石の学問を奨励した。秦檜はもと 北宋の大学出身で、王安石の学を正統として学んだ人である。しかし、程氏の学問も依然として 民間には勢力をもっていて、朝廷でもその学派の学者がときどき用いられた。寧宗のときの宰相 であった趙汝愚がそれで、朱熹とは友人の間柄であったため、これを中央によびよせた。 やがて、外戚の韓侘胄が勢力を得ると、朱熹の徒を偽学と名づけ、その官途につくこと、およ び著書を流布することを禁じ、偽学の徒と目されるもの五九人を追放した ( 一一九七年 ) 。その筆 頭が趙汝愚、朱熹であった。その理由とするところは、この一派の学問は高尚な理論をもてあそ

9. 世界の歴史〈6〉 宋と元

『周礼』に書かれた制度は、周公がつくったものではなく、じつは戦国時代以後につくられたも のではないかといわれているが、天、地、春、夏、秋、冬の六官に分けられ、素朴ながら一貫し た原理によって組織されている。そもそも中国の官制の弊害は、古い官を廃せず、そのままにし ておいて、これと並んで同じことを管轄する新官をもうけるので、組織が複雑になるところから おこる。そこで周礼の組織的な官制は、この点を改革するにあたっても、実用的価値をもつもの であったのである。 王安石をはじめ宋代の学者は、いにしえの経典に没入して、その精神をつかもうとっとめた。 このころ、「理ーという言葉が流行したが、この言葉は堯舜などのような聖人の心を意味するも ので、この聖人の理をあらわすものが経典であるとされた。しかもこれまでの学問の仕方では理 ここから新しい儒学が生まれ、経典に新しい解釈があたえられた。 をつかむことができない 王安石はこのような新しい立場にたって『周礼』に新解釈をほどこし、その精神つまり理にあ うように、政治を改革しようとした。このように、王安石の改革は復古主義の形をとりながら、 じつは合理主義の改革であったのである。す・ヘてをいにしえの制度にもどそうとしたのではない。 いにしえの制度のなかで宋時代の社会の進運に適したものをとりあげつつ、さらにこれをこえる 進歩的政策をとったことはいうまでもない。彼のこういう科学的精神は、宋代の儒教の新しい傾 向だけでは実は説明しにくい。彼が青年時代に知事をしていた寧波の地は、アラビアをはじめ、 9 王安石の登場

10. 世界の歴史〈6〉 宋と元

かゆう げんゅう 元祐とあらためたが、これは、仁宗の年号、嘉祐の昔にかえすという意味で、新法を廃し、嘉祐 時代の法にしたがって政治を行なうことを宣言したものであろう。 いったい、新法党には、王安石という中心人物があって、その政策にはしつかりした指導原理 といったものがあった。しかし、旧法党にはまったくそれがない。ただ新法に反対するものが集 まって、旧法党というグループが自然にできたまでのことであって、一貫した主義主張をもつも つうちょう のではなかった。そこで新法を廃止し、嘉祐の旧法にしたがって政治を行なうよう地方に通牒を ろろの問いあわせがくる。中央では、それに 出しても、地方官庁では途方にくれてしまい、いい しつつい 十分な返答もできず、大いに旧法党の権威を失墜するようなありさまであった。 王安石は在任中も、政敵に対してはきわめて寛大であった。宋代では、功なり名をとげた大臣 は第一線をしりぞき、地方官となって晩年を悠々としておくるのがならわしである。王安石の先 おうようしゅうかんき 輩、欧陽脩や韓琦などの重臣が、地方官として歿した 太のは、左遷の意味ではなかった。王安石の政策に最も 争 宣強く反対した司馬光でさえ、洛陽で優遇をうけながら、の しちつがん 后有名な『資治通鑑』を編纂していた。もっとも、デマ党 の をとばして政府の命令にしたがわぬ官吏は免職するが、 3 のそれでもなにかと名義上の閑職につけ、恩給のような