軍隊 - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈6〉 宋と元
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1. 世界の歴史〈6〉 宋と元

げんぼう り、二割の利息をとるようになった。元豊年間には貸出しの額がたてられ、三〇〇万貫にものぼ る利自 5 があった。 このように、常平倉が活滾に運営され、収支の額が大きくなると、常平倉の書吏が悪いことを しないよう手当をあたえ、もし賄賂をとれば、重い刑罰を科するという、 いわゆる倉法を、常平 倉の書吏にも適用した。この常平倉も、地方財政の収入源の一例であるが、王安石はその他、新 経済政策の実施によって得た収入を地方にとどめ、それらを財源にして地方財政の独立をはかっ たのである。新法がある程度、成功をおさめた背景には、このような地方財政の独立があったこ とは、注目すべきことである。 唐のなかごろ、国民皆兵の制度を廃して、傭兵制を採用した。この制度は、そ 国民皆兵の制 のはじめにおいては訓練もゆきとどき、精鋭であっても、老兵の淘汰がむずか しく、弱体化する傾向がつよい。しかも軍紀もみだれやすく、その素質が低下し、軍隊はあたか も無頼漢の集団のような観を呈する。宋代の軍隊がまさにこれである。そこで「良鉄は釘につく登 ことわざ の 石 らず、良民は兵隊にならない」という諺が流行した。 安 王 このとき西夏や遼が勃興したので、宋の軍隊は一〇〇万を突破し、前に述べたように、これが びんらん 宋の財政に圧迫を加え、北宋の中期以後は、軍費が財政の八割に達した。紊乱した財政のたて直 しを断行しようとすれば、まず軍事費の整理からはじめなければならぬ。

2. 世界の歴史〈6〉 宋と元

交代させて、部下とのあいだに親分子分の親しい関係をつくらせないように気をくばった。しか しその結果は、軍隊の訓練もゆきとどかなくなり、軍隊は次第に弱くなって外民族との戦いにも 敗れてばかりいた。四代目の天子、仁宗のときに、陜西など中国の西北方で、西夏と七カ年にわ はんちゅうえんかんき たって大戦争を展開したが、このときの総司令官は文官の范仲淹、韓琦であって、これらは当時 の有名な政治家でもあった。 カんらい文官武官の区別がなかったが、のちに また参謀本部にあたる枢密院の長官や副官は、・、 はもつばら文官になってしまった。もし武官を用いることにでもなると、文官は一致してこれを 排斥した。かって王徳用という武官が、枢密院の長官に任ぜられたことがあった。すると文官連 中は、王徳用は顔が太祖に似ているから警戒しなければならないなどと、でまかせの口実をつく って、これを排斥しようとしたほどであった。 このように、軍人が冷遇されながら、五代のように革命をおこさなかったのは、その生活が保 証されていたからである。宋代では兵権と財政権とがはっきりと分けられていた。軍人には財政 にロばしを入れさせないかわりに、天子が軍人の俸給に対して全責任をおわなければならなくな った。こうして財政が、これまでにもまして重要な問題となった。また、文官の地位がますます 高くなり、文官優位の制が確立したが、一方、天子も軍人皇帝の性質がうすれ、文官の首領とか 貴族天子とかいったものに性質が変わってきた。 せんせい せいか

3. 世界の歴史〈6〉 宋と元

この平和政策によって軍事は軽視され、当然の結果として軍隊が弱化した。 これに反して、華北の中原では、五十余年間たえず大小の戦争がつづいたため、軍隊が素朴性 をうしなわず、依然として強い勢力をもっていた。このようにして南北の軍隊のあいだには、武 力においてすでに大きな差違ができていたのである。後周の世宗が南唐を征して揚子江以北の領 土をうばったのは、この強い軍隊の力によるものであった。 中原を統一した太祖は、この強力な軍隊をもって四川や南方の小独立国を圧迫しはじめた。ま ず湖南国の内乱に乗じてこれを平定し、そのついでに、江陵府に拠った荊南国を攻めほろぼした ( 九六三年 ) 。最初に湖南と荊南とを平定したのは、後蜀と南唐との連絡をたちきるためであった。 後蜀と南唐とはおそれをなし、北方、契丹に使いをつかわし、同盟を結ほうとさえしたほどであ る。つぎに太祖は後蜀を攻めてこれをほろぼし、さらに広東に兵をすすめて南漢を平定した ( 九 七一年 ) 。こうなると、残る大国は南唐である。南唐は南方第一の大国で、最も地の利をしめ、産 そうひん 業は発達し、貿易による収益も多く、とくに文化が栄えていた。その討伐に向かった大将が曹彬 であった。 がったえられている。南唐の都、金陵 ( 南 このときの曹彬については、いろいろのエ。ヒソード 京 ) の陥落が目のまえにせまったとき、彼はにわかに病気にかかった。諸将が見舞いにきて病状 をたずねると、曹彬は、 6

4. 世界の歴史〈6〉 宋と元

たく こうへい 両軍は山西沢州の高平で会戦した。戦争が始まるとまもなく世宗の右翼が潰散し、なかには甲 をすてて敵に降る者もあった。世宗はそんなことには見むきもせずに主力を率いてもつばら敵の ちょうきよういん 中央に突撃した。将軍の趙匡胤は新たに右翼にむかって敗勢をもりかえした。この鋭い攻勢にあ たす って、北漢軍は足なみを乱して敗走した。戦場には契丹の騎兵も北漢を援けにやってきていたが、 この形勢を見て気を奪われ、いっしょに逃げだしてしまった。後周の軍隊はさらに追い討ちをか けたので、北漢主の劉崇は、命からがらやっと根拠地の晋陽に落ちのびた。 勝った世宗は敗走した右翼の将校七十余人を整列させて厳命した。 統一の曙光 こんたん 「お前たちは戦争に負けたのではない。おれを売って敵に与えようとした魂胆は はじめから見えすいていたぞ。天子の命令をきかぬような軍隊が何の役にたつものか」 そういって一人残らずその場で首をはねてしまった。そして趙匡胤以下勲功のあった者には厚 く賞賜をあたえた。これから軍隊の気風が改まり、将校たちも本気で軍隊の訓練に精出すように なった。天子はまたいった。 「軍隊は精兵第一主義でゆくべきだ。農夫が百人働いてやっと職業軍人一人を養えるかどうかだ。 こうけっ 軍隊が無用の長物なら、なんでそんなものを養って人民の膏血をしゃぶらす必要があろうか」 馮道はこの事件ですっかり面目を失墜してしまった。五代五十余年のあいだに、天下の大勢は 動かないように見えていて、じつはすこしずつ動いていたのだ。天下の分裂も行くところまで行 しつつい かいさん 57 冬きたりなば

5. 世界の歴史〈6〉 宋と元

うちょうてん 室がすぐ有頂天になってよろこぶのははやすぎる。黄巣は死んでもその下の軍団は、かわりに秦 宗権をおし立てて勢力挽回をはかろうとしているからだ。 しんざん しかし秦宗権はなんといっても新参の大将だ。黄巣の旧部下とはなじみが浅い。かえっていち はやく唐に降参した汁州の節度使朱全忠の方が黄巣の部下に顔が売れている。その朱全忠が兵を 率いて討伐にくると、秦宗権の集団はガタガタになり、たちまち秦宗権自身が捕虜にされてしま った。ここで朱全忠に降参する者も多く出たが、あくまでも唐室に帰服するのをいさぎよしとし そんじゅ ない集団は、こんどは孫儒という者をおし立てて指揮者と仰ぎ、最後の抵抗をこころみようとし た。こうして大将が代わるごとに、その統制力がゆるみ、小さな部隊に分かれては思い思いの行 動をするようになるのは避けがたい。ここにいたって黄巣軍団はいっそう流賊化し、諸方に分散 していったが、幸いにこのころになると、地方の軍閥の野心家も唐王朝を見かぎってひそかに自 立をはかるようになっており、有力な戦闘部隊が売物に出ると、争ってそれを高給で召しかかえ る風が起こっていた。 淮南の揚州は塩の産地として有名であり、運河の沿線にあたるので商業も栄え、唐の半ば以後 は生産都市としても消費都市としても全国で一、二を争うまでになっていた。群雄割拠の形勢に なってくると、軍閥として自立するには、なによりも強い軍隊をもっことが第一だが、この軍隊 を維持するには金がいる。実際に先だつものは金なので、金さえあれば軍隊の方は自然に集まっ わいなん ばんかい

6. 世界の歴史〈6〉 宋と元

実行していたことはまことに驚くべぎことといわねばならない。中国人はべつに、いまの人のよ うに分子式をつかって研究したわけではないが、経験の上で硫黄のない石炭を用いて、鉄鉱から 銑鉄を得られることをちゃんと知っていたのである。 ところで現今の世界では、鉄の生産量がその国の経済力を、その消費量がその国の文化程度を 示すように考えられているが、これはなにも近ごろはじまったことではなく、大昔からそうであ ったにちがいない。宋代の鉄の生産消費量ははっきりした数字がっかめないが、無限に近い石炭 と鉄鉱とを利用することができたとすると、その生産がいとも雑作なく行なわれ、すでに鉄が豊 富に安価に供給することができるようになると、これが他の産業に好影響を与えないはずはない。 くさぎ たとえば農業にしても、鉄器にたよる部分がはなはだ多い。もしも耕すにも耘るにも、赤土の 畠にも黒土の田にも、いつも同じ器具を用いていては能率があがらない。それぞれの用途に適しス サ た形の器具を幾通りもそろえておけば、ぐっと仕事がはかどるはずだが、それは鉄が安価にして ネ はじめてできることである。単に農業ばかりとはかぎらない。あらゆる産業の面で同じことがいの ア ジ えるであろう。 ア ぶけいそうよう 軍事についても同様である。宋代にできた『武経総要』という挿絵のついた本を見ると、じっ東 にいろいろの種類の武器があったものだと感心させられるほど多様であるが、これが宋の軍隊を 強化するに役立ったことは疑いない。宋の軍隊は北方の遊牧的国家の軍隊にくらべると、あまり

7. 世界の歴史〈6〉 宋と元

陜西地方におくりこんだ。このころ、宋の軍隊は全部で一〇〇万にも近かったが、紀律のみだれ た宋の軍隊は、とうてい西夏騎兵の敵ではなく、いたるところで敗北をくりかえした。 ばってき よんちゅうえん かんき そのうちに宋の方でも、韓琦、仲淹という若手の文官を抜擢して、司令官に任命し、防禦に あたらせた。宋の軍隊は歩兵が主であ 0 たから、野戦では西夏の騎兵にはさんざんなやまされた が、要塞にたてこもって防禦するとなると相当な威力を発揮する。こうして両軍がにらみあいの まま持久戦に入ると、さすがの西夏軍も思うままに活躍することができなくなった。 そのうえ戦争が七年間もつづくと、宋の経済封鎖をうけて物資が欠乏し、西夏の国力の疲弊は 目に見えてきた。宋の方でも、莫大な軍事費のために国家の財政ははやくから赤字となり、財政 的に危局に直面していた。また人民はいよいよ重くなる税金や労力の負担で疲弊の極に達し、こ れがため、宋の経済の心臓部といわれる揚子江下流のデルタ地帯では反乱が起こり、政府はその 討伐に苦心するありさまであった。 このような事情から、両国のあいだに和議がもちあがり、一〇四四年にはついに講和条約がむ すばれた。 一、西夏は宋に対して臣下の礼をとる。 一一、宋は西夏に幣として、毎年、銀五万両、絹一三万匹、茶一一万斤をあたえる。 三、両国の国境に貿易場をもうけ、貿易をおこなう。 742

8. 世界の歴史〈6〉 宋と元

荘宗は後梁をたおして天下をとると急に気がゆるみ、部下の軍隊に対する給与も遅配がちであ った。後梁をほろほしたときに働いて恩賞も十分に貰えなかった軍隊は、次第に不平がつのって きて反乱をおこした。この反乱軍の大将にかつぎ出されたのが李克用の義児の一人、荘宗には義 りしげん 兄弟にあたる李嗣源である。李嗣源の軍がいちはやく開封を占領してしまうと、都洛陽の軍隊は 糧道をたたれて戦意がなくなり、天子荘宗を殺して李嗣源に降参した。李嗣源が代わって帝位に めいそう つくが ( 九一一六年 ) 、これが明宗であり、五代諸君主のなかでは名君と称せられる。 明宗は民政に意を用い、農業を奨励した。当時は軍閥割拠の世の中で、武将がいばって幅をき ふうどう かせたから、文人官僚は片隅に小さくなっていた。明宗はそのなかから馮道という人物を見つけ だして宰相に取り立てた。馮道はよく人民の困苦を察し、天子を諫めて人民のためになる政治を 行なわせた。しかしこの時代の文官は、宰相といっても結局は天子の書記官にすぎず、重大な政 治軍事の問題には参与させられなかった。したがって彼らは国家の運命に対して責任をとらされ ることもなく、またみずからすすんで責任をとろうともしなかった。当時の人民は戦火にさらさ さくしゅ れながら軍閥から搾取されつづけ、生きた心地もないその日暮らしの生活を送っていた。 馮道を首班とする文官たちは、この最悪の事態のなかで、すこしでも人民の苦痛を軽減してや ることを、せいいつばいの仕事とするよりほかなかった。馮道はそれまでにすでに何人かの軍閥 につかえ、彼らの減亡を第三者のような立場で見送ってきた。ほろびた者は、武将でありながら

9. 世界の歴史〈6〉 宋と元

くと、こんどはふたたび統一の方へむかって動きだす。馮道にはそれが見抜けないで、彼自身が かえってとり残された旧人物であることを暴露してしまったのだ。このあと馮道は隠居して、ま もなく死んだが、年七三歳であった。しかし彼は後唐以来歴代に仕えて宰相となり、相位にある りようしゅう こ・と二十余年、文官官際の領袖として重ぎをなしていた。無節と、うド まし夛難はあったが、乱世の なかではできるだけ人民のためには尽くしたつもりであった。彼こそは良い意味でも悪い意味で も、五代の乱世を端的に表徴した人物であった。 五代の分裂がおさまって再統一実現に向かうためには、天子の近衛兵たる禁軍の強化が必要で あった。中央政府では革命の起こるたびごとに、従来の天子の禁軍の上に新天子の近衛軍が増強 されて新しい禁軍を組織し、そのたびに改編が行なわれて精強な軍隊だけが天子の手もとに残っ た。これに反し、地方の軍閥はその支配地がますます細分化される傾向にあり、細分化されてし ぎわ まうと中央に対して反抗することができなくなった。天下の形勢は窮まれば必ず通ずる。冬きた しょこう りなば春遠からじ。五代の混乱も、こここ 冫いたってようやく前途に再統一の曙光が見えはじめた のである。 後周の世宗は軍備を強化するために、待遇をよくして地方から強な兵士を招 仏像をつぶせ いて禁軍に編入した。ところで軍隊の増強にも、装備の改善にも、先だつもの かね は何よりも金である。

10. 世界の歴史〈6〉 宋と元

来のように臣という字を使わない。契丹の方からそれを咎められると、不遜な言葉で応対した。 「先帝はなるほど契丹から立てられた君主だから、契丹に対して臣下の礼をとった。しかし、こ んどの新帝は中国人が立てた中国の天子だ。隣国に対して臣と称する理由はない」 といったものだから、いよいよ契丹を怒らせてしまった。 さきに後晋と契丹との条約では、領土の割譲のほかに毎年歳幣と称して絹三〇万匹を贈る約束 であったが、時期がきてもそれを送らない。契丹の太宗はいよいよ決心して後晋にむかって軍隊 を繰り出して南下した。ところがこの侵入が前後二回とも挫折してしまった。第一回は契丹軍が 黄河の近くの漉州まで迫ったが、晋軍の軍備が意外に強固なのを見て、それ以上に深入りするこ とを避けてひきあげた。第二回は契丹軍が相州まで侵入したので、出帝がみずからこれを迎え撃 って勝利を得た。二回の成功によって後晋方は意気大いにあがった。ことに景延広の鼻息はいっ ものとおり荒かった。 ふりと 「われに一〇万ロの磨ぎすました刀剣があるぞ、契丹ごときをなんで恐れる必要があろうか」 といつも口ぐせのようにいっていた。この中国人の自信には若干の理由があった。それは前にの べたような鉄の生産地の中心である晋陽と、経済の中心である開封とが後唐の時代から結合され て、中国における武器の生産がいちじるしく向上していたらしいのである。中国の軍隊は物量に たよって、北方遊牧民族の騎兵部隊と戦っても、相当な抵抗をあらわしうるまでに強くなってい せん がた とが ざせつ さいへい ふそん