マリア - みる会図書館


検索対象: 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民
24件見つかりました。

1. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

った。彼は、オーストリアの勝利は必ず一度手に入れたシレジアの領有を危うくすると考え、一一 度とも休戦条約を破ってポヘミアに侵入し、オーストリア軍に有効な打撃を与えた。 プロシアは複雑な利害がからまる国際戦争のなかで、ただ自国の利益だけを考えて行動した。 プロシアの目的は、シレジアをとりもどされないようにすることだけであった。だから、この方 面でオーストリア軍を破れば、これに勢いを得て同盟国フランスが他の戦線で攻撃に出ようと一 切かまわず単独でさっさと休戦した。たび重なるフリードリヒ二世のこのような行動には、彼の 機を見るに敏な進退の妙がいかんなく示されているが、それは敵にも味方にもコ一重の背信」と 映り、彼に対するぬきがたい不信の念をうえつけた。 マリア“テレジアはよくがんばった。政治、軍事の最高統率者であるとともに、彼女は妻であ り母親であった。ほとんど毎年妊娠していたことも大きな ( ンディキャップになったであろう。 だが、オーストリアの戦線は遠くにちらばり、すきだらけだったから、戦争の主導権は敵にとら勃 れ、それにいつも決定的なところでプロシアの軍事力に遅れをとった。一七四五年、すでにパヴァ アリアとサクソ = アを屈服させ、夫のフランツをドイツ皇帝の位につけて、ほとんどプロシアをプ 孤立させながらも、この軍事的敗北のためドレスデン条約を結んで、結局シレジアを敵に渡さね軍 ばならなかった。その後、ロシアがオーストリア側について介入したことも、この戦争を長引かノ せただけで既成事実を変えることはできず、一七四八年アーヘンの和議でオース トリア継承戦争

2. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

の奨励にほかならぬという一徹な考えにとりつかれて たポ しで いた。一七七三年、ヨゼフ二世は、長いあいだオース 手 , 境 にな 入年国 トリアの反宗教的改革の担い手だったイエズス会教団 が国 を追放し、所有地を奪って、教育や政治における教団 で割き へ刀と の勢力を打ち破った。マリアテレジアは、その影響。 0 分次た を憂えて反対した。また七七年に、モラヴィアで住民 ン第減 ア ラは消 一線が が新教に改宗したとき、女帝はこれを弾圧したが、息 ポ点ド ス 0 ホ 0 プ 子の強い反対にあってついに撤回しなくてはならなか オ 一域ラ 第領一 プロンア った。同様に、農民を保護し、彼らから税収入を確保 するため、地主貴族の搾取に制限を加えようとするヨゼフ二世の改革案も、彼女の反対にあって、 ふえき 土地台帳の整理、賦役の種類と量の制限ぐらいにとどまった。 母親と息子の衝突は外交政策にもみられた。ョゼフ二世はフリードリヒ大王を じゃが芋戦争 啓蒙君主のお手本として尊敬し、彼をあい変わらず「悪者」とよぶ母の憎悪に くみ 組しなかった。またマリア“テレジアは二度の戦争の失敗から、ひたすら平和と現状維持を願う ようになっていたが、ヨゼフ二世は、改革に伴って生まれる国内の緊張と矛盾を外にそらすため、 しきりに領土の膨脹を夢みていた。 うれ 〔コオーストリア ロロンアー こコプロンア ロ - : びしワ リナア 白ロンア エフ ウフライ ラわっ 368

3. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

きには、喜んで悪漢になろう」 かしやく 小柄で、一見繊細なこの青年王は、明敏な打算と、良心の呵責などてんとして受けつけぬタフ な神経と意志力の持主であった。 一方、マリア“テレジアはフリードリヒの通告を受け取ったとき、激怒した。 男まさりの女帝 「断じて、断じて寸土の領地も譲りませぬ。シレジアをあきらめるくらいなら、 フランスにネーデルラントを与え、・ハヴァリアとサクソニアの要求をみな認めてやります。」 しかし、シレジアは簡単に占領されてしまい、これを奪回しようとオーストリア軍は、翌四一 年四月、モルヴィッツの会戦でプロシア軍に敗れた。これはオーストリア騎兵がプロシアの歩兵 と砲兵に負けた戦だった。フリードリヒウイルヘルム一世が鍛えた軍隊は、はじめてその実力 を世界に示した。 フランスのルイ十五世は、フリードリヒのシレジア侵入を聞いたとき、 「これは愚行だ。やつは気ちがいだ」 と叫んだ。しかし、モルヴィッツの戦いは彼の考えを変えさせ、フランスはプロシアと手を結ん だ。これにスペイン、サルディニア、・ハヴァリア、サクソニアが加わり、それぞれオーストリア の領土に野心をいだきながら、マリア日テレジアの相続に反対し、また一致して・ハヴァリアの選 帝侯を皇帝の位に推した。」 ダ強のなかでオーストリアに味方したのは、当時つねにフランスの敵 くさ すんど かたき

4. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

卑賤の出で客をとることまでしたらしいこの女性は、デュ ハリー伯に見いだされ、ポンパド ゥール夫人なきあと、一七六九年、宮中に入って一挙に王の側室となった。陽気で快活、開放的 な性格は、陰謀の巣窟たる宮廷でも敵をつくらなかったが、その無教養、粗野は、ハプス・フルク 家出の王太子妃マリー“アントアネット ( 一七五五ー九三年 ) などには耐えがたかったとみえる。 「王様はたいへん親切で、私も大好きですーと、マリーは母であるオーストリア女帝マリアテ レジアに書いている、「しかしデュ " 丿ー夫人、このまったく愚かで無礼な人に対する王様の 御執心は嘆かわしいことです。」 一七七四年、ルイ十五世は天然痘で世を去った。二〇歳で即位することとなった王太子ルイは、 マリー“アントアネットを胸にかきいだいて言った。 「なんという重荷だ、この年で ! しかも私は何一つ教わっていないのだ。」 マリーはまた母マリア“テレジアに書き送った。 「王太子と私はこんなに若くて即位することを恐れています。お母さま、どうか不幸な子供たち をおみちびきくださいませ。」 そして王者たるものの重責と苦悩とを知り、またこの新しい王妃の性格を最もよく知っている マリア“テレジアは、溜息とともに記したという。 「娘の最も幸福な時代はすぎ去ったものと思います。」 ひせ 432

5. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

さて、戦争はヨーロッパ的規模のものになった。マリア“テレジアは、散在する ニ重の背信 領土のいたるところでつねに複数の敵と戦わねばならなかった。ドイツではプロ シア、・ハヴァリア、フランスを相手に、ネーデルラントではフランスと、イタリアではおもにス べインと、といったエ合にである。 イギリスは一七四三年からフランスと、北アメリカやインドで大規模な植民地争奪戦をはじめ た。ヨーロッパでもドイツで、ジョージ二世がその年七月、イギリスⅱオーストリア連合軍を率 いてフランス軍を破る一幕もあった。しかし、イギリスはマリアテレジアにたえずフリードリ ヒ二世との和解をすすめた。彼女の方も戦線を整理する必要から、これに応じ、涙をのんでシレ ジアをプロシアに与えた。こうして成立したのが、一七四一年十月と四二年六月の二度の休戦条 約である。もちろん、マリアれテレジアはこれを最終的な決定とみなさなかった。またフリード リヒ二世の方も同様である。 オストリアは、プロシアとの休戦で自由になった兵力をもって一七四二年、ポヘミアに長入 したフランス、・ハヴァリア軍を追い、逆に・ハヴァリアを占領し、あるいは四四年のように、フラ ンス軍をラインのかなたまでおし返し、アルザスーロレーヌを奪回しようとする勢いを示した。 こうして、形勢はまったく逆転するかに見えた。 げんこ しかし、いつもマリアテレジアの希望を打ち砕いたのは、憎いフリードリヒ二世の拳固であ

6. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

プラグマティシーザンクチ十ン を許すことを宣言する「国事詔書」が発表された。 ジ画カールはこれを領内各地の貴族会議に承認させたばかり テテか、イギリス、フランス、スペインなどの列強や、ドイ 、ア「ツの諸侯たちにも確認を求めた。というのは、先代のヨ マンゼフ一世 ( カールの兄 ) の娘をそれぞれ妻にしている・ハ 、 ( 若フ ヴァリアとサクソニアの君主が、マリアテレジアの相 続に異議をとなえていたからである。カール六世は幾多 の貴重な儀牲を払って列国の承認をとりつけ、横槍をおさえるのに成功した。 事実、彼が死んでマリア日テレジアの即位が現実の問題となったとき、約東に反し彼女の相続 に公然と異議をとなえたのは・ハヴァリア選帝侯ただ一人であった。だが、彼は自分の主張をつら たんたん ぬく力をもたない。マリアテレジアが玉座にのぼる道は坦々として、あと何の障害も横たわっ ていないはずであった。 ところが、この年十二月、まったく突然、プロシア軍がオーストリア領シレジアへ 奇襲戦法 侵入をはじめた。それと同時に、フリードリヒ二世はマリア“テレジアに通告を送 った。それによれば、プロシアは彼女の王位継承を認め、さらに彼女の夫トスカナ大公フランツ のドイツ皇帝 ( 神聖ローマ皇帝 ) 就任を助け、二〇〇万ターラーを供与しよう。そのかわり、シレ 336

7. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

フリードリヒがプロシアの王冠をかぶってからまだ半年とたたない一七四〇年 女子の相続権 十月、彼はオーストリアのカール六世死去のしらせを受け取った。まもなく、 彼はヴォルテールに手紙でこう告げた。 「皇帝が死にました。これはわたしの平和の構想をくつがえします。 ( 来年 ) 六月には、女優や ざんごう ( レエや芝居のかわりに鉄砲、兵隊、塹壕があるでしよう。それゆえ ( 劇団を招く ) 契約を破棄 せねばなりません。」 したがいったい、それはなぜ起こらねばならないのか。 見通しは確実に戦争らし、 ハ。フス・フルク家の跡継ぎは二三歳の美しいマリア日テレジア ( テレサ、在位一七四〇ー八〇年 ) だ った。カール六世は、自分にもう男の世継ぎが望めぬと知ってから、この長女に中部ヨーロッパ ハプスプルク家の系図 に散在する広大な領土 を相続させるため、じ勃 ア つに涙ぐましい努力を シ 払った。このため、一。フ 国 七二四年、領土の永久軍 -0 不分割と男子相続者の 00 0 ない場合女子にも相続 レオポルト一世 ( 一六セー一 4 う五 ) カール六世 ( 一セ一一ー一七四 0 ) ョゼフ一世 ( 一セ 0 五ー一セ一一 ) ( 一四 0 ー一セ八 0 ) マ丿アⅡテレジア フラ、ノッ一世 ( 一セ四五ー一セ六五 ) マリアアマリラ ( ・ハ円ラソア選帝侯 ) マリア“ョゼファ ( サフソニア選帝侯 ) レオポルトニ世ーー ( 一 v 九 0 ー一セな l) ョゼフニ世 ( 一セ六五ー一セれ 0 )

8. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

は終わった。 戦争が終わったとき、フリードリヒ二 失地回復の悲願 世はこう告白した。 「これから余は、みずから守る以外に猫一匹も攻撃すま われわれはシレジアを得たことによってヨーロッパ せんぼう じゅうの羨望を招きよせた。これはわが国の隣国をすべ て警戒させた。われわれに不信をいだいてない国は一つ もない。」 この心配はあたっていた。事実、一七四九年初め、オ ストリアの枢密会議で、のちの宰相カウニツツ伯はっ ぎのように主張した。 ス 、ノ 「シレジアの損失は忘れられるべきでない。プロシア王 ロル フ ネ は最大の、最も危険な、和解しがたい敵とみなさねばな らぬ。それゆえ、当方でも、王の敵意ある企てに対し安全を守るだけでなく、、、 し力にして彼を弱 め、優勢をくじき、奪われたものを取り返すかに、何にもまして最大の考慮を払わねばならぬ。」 マリア。テレジアはこの「悪者」 ( 彼女はプロシア王をいつもこうよんでいた ) を不倶戴天の ルべ イ・、 ンしン 、 \ フ - ンフルト , ープラハ ースド ガリチア Ⅲモラを フみベスト 0 スイス丁〒ロル ト 7JJ ふぐたいてん ーマン 1740 年代のハプスプルク家の領土 342

9. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

役にまわ 0 たイギリスだけ。イギリスはなるほど二〇〇万ターラーの援助金を与えたが、リ アテレジアの切望した軍隊は送らなかった。 事態はまったく絶望的だった。年老いた大臣たちは意気沮喪し、彼女の愛する夫は気が弱くて もっと頼りにならなかった。だが、年若いマリア“テレジアの生来の勇気は、王家の誇りと、シ 恭わ レジア問題で正義は自分の側にあるという確信によっていっそう強められた。彼女はあらゆる妥 協のすすめを決然と軽蔑をもってしりぞけた。 九月になって、フランス軍とバヴァリア軍がオー ストリアに侵入しはじめた。もう首都ウィーンもあ 一務。ぶなかった。彼女は、まだ生まれて半年ばかりの乳 国た - まつのみご あ呑子 ( のちのヨゼフ二世 ) を連れて ( ンガリーにのが 興 のぞ 彼も 。とれ、貴族会議に臨んで ( ンガリー貴族の忠誠心に訴勃 もふく ジむえた。黒い喪服に身を包んだ若い女王が涙とともにア = 熱弁をふるい、不法な侵略者に対し立ち上がるようプ ア楽 リ音呼びかけたとき、貴族代表たちの感激はクライマツ軍 の孀クスに達した。彼らはまるで一人のように声をあわ 廷合 宮のせ、「蛩命と血をかけて」とこたえた。 そそう

10. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

この美しい外国からの王妃に対して、宮廷内部にはルイ十六世の四人の伯母たちーーっまりル イ十五世の老王女たちー・ーーをはじめとして、多くの敵があった。そして王妃は、姦婦とか、同性 愛にふけっているとか、あることないことをいいたてられ、非難された。一般の国民のあいだで も、彼女は「オーストリア女」「赤字夫人」などとよばれて不人気であった。 しかも王妃はこれらをまったく無視し、少数のお気に入りにとりまかれて自由奔放に振舞って いたのである。弱い性格のルイ十六世はとてもこれを制御できなかったし、母帝マリア日テレジ アがたえず書き送った訓戒の手紙も、兄ョゼフ二世皇帝の勧告も、駐仏オーストリア大使の進言 も、大して効果がなかったようである。そして王妃の名を最も傷つけたのは、あの首飾り事件で あった。 ここにルイ日ド " ロアンという枢機卯がしナ 首飾り事件 が、このロアン家は「王にはなれぬ、公爵じ や御免だ、われロアン」という尊大な家伝の言葉をもって聞 ネ トこえた権門であった。そしてこのルイは軽佻浮薄な男のよう ン アであるが、才子でもあり、政治上の野心に燃えていた。とこ こころよ ろカマリーいアントアネットはかねてよりこの人物を央く思 マ っておらず、したがって出世のために彼はまず王妃の心を解 435 ロココの人々