ジアをよこせ、というのである。 彼が主張したプロシアのシレジアに対する歴史的権利なるものは、まったくとるに足らぬもの 彼ことってたいせつなのは、人口二五〇万の貧しい国に人口一 だった。口実は何でもよかった。 / 冫 〇〇万の豊かな新領土 ( 当時、シレジアは東ドイツで工業のかなり発展した唯一の地方だった ) を加え ることであった。マリアテレジアの相続問題は、ただそのためのチャンスにすぎない。 だが、父親のフリードリヒ日ウイルヘルム一世なら、いかに野心 が大きくともこういうチャンスをけっしてつかめなかったであろう。 父親の手をしびれさせたあの皇帝に対する根深い畏敬と劣等感から、 二八歳の息子はまったく自由だった。そして、みずから強力な軍隊 ア しゅせんど を鍛えあげながら、ちょうど守銭奴が貯めた金をつかい惜しむよう 興 ドリ勃 に戦争を極力避けた「兵隊王ーにかわり、「哲人王ーのフリー の ア 入ヒ二世は、この軍隊をさっそく冒険的な侵略戦争に投入したのであ シ 一侵 っこ 0 国 いプロシアは、さきにマリアテレジアの相続を認めておきながら、軍 いま何の理由もなしに攻めこんだ。 とく 「正直で何か得をするなら、正直でいよう。だますことが必要なと
だが戦闘らしい戦闘はほとんどなかった。ョゼフ二世は、自軍の劣勢を知っていたから迂闊に戦 って負け、自分の名に泥をぬることを恐れた。 一方、老いたフリードリヒも、すでに昔のダイナミックな動きを失っていた。両軍とも病気に 苦しみ、脱走兵の多いのに悩んだ。兵隊は戦闘よりも食糧徴発や盗みに忙しかったから、当時、 この戦争は「じゃが芋戦争」といわれた。 老いて気弱になっているマリアテレジアは、心配のあまりわが子に無断で、かっての仇敵フ リードリヒにひそかに交渉の手をさしのべた。ョゼフ二世はこれを知ると、怒りと恥で真っ赤に なった。たが、ウィーンからフリードリヒの得た情報は、「ヨゼフ二世は毎日酔っぱらっている。 かわ 金がない。だれもが平和を願ってため息をついている」と報じていた。 オーストリアは、結局スヴァリアをあきらめなくてはならなかった。七九年五月、テッシェン の和平によってこの無益の戦争は終わった。 一七八〇年十一月、マリアテレジアは六三歳で死んだ。心臓を病み、息苦し よせぎざいく 急ぎすぎた改革 くて眠られぬ最後の幾夜にも、彼女の心を乱したのは、この寄木細工のような 帝国が、性急な跡継ぎの手で崩れさるのではないかという心配であった。 この心配どおり、ヨゼフ二世はただ一人の君主になると、おさえ手のないまま、理想に向かっ いちろまいしん て一路邁進しはじめた。早くも八一年秋には寛容令が出されて、あらゆる宗教の自由が公認され、 うかっ きゅうてき 370
かけ・こと た政務と心労にもかかわらず、舞踏会、芝居、オペラを愛し、賭事まで好きだった彼女は、この ときから髪をぶつつり切り、宝石とルージュを断ち、いつも黒いやもめの帽子をかぶり、居間の 調度も天と褐色の二色に変えてしまった。 もちろん、シェーンプルン宮殿には、うちしずんだ彼女は別として、すぐに明るい春がよみが えった。というのは、ロココ趣味の華麗な離宮の居間や庭園には、マリア = テレジアの一六人の 息子や娘たち、すなわち二四歳の長男ョゼフを筆頭に、多くはまだ小さい、命にあふれた子供 たち ( そのなかには一〇歳のプロンドのお転婆娘マリーアントアネットもいる ) がはしゃぎま わり、遊びまわっていたからである。 まもなくョゼフはドイツ皇帝の位につき、マリアテレジアの共同統治者となった。血気には わかごま やる若駒のようなこの青年皇帝は、国を守る二〇万の軍 隊の手綱を握り、老練、熟達の政治家である母親は複雑 争 テ画 の ←な ( プスプルク王国の内政を統べ、もう一つ、外交は、 リグ 一 = 依然女帝の信頼厚い老宰相カウニツツに任された。こうと デして、オーストリアの政治は、老年、中年、青年の三世理 ア代のチームワークによって進められることになった。 喪レ マリアテレジアとヨゼフ二世は、王侯の家族ではま てんば
さて、戦争はヨーロッパ的規模のものになった。マリア“テレジアは、散在する ニ重の背信 領土のいたるところでつねに複数の敵と戦わねばならなかった。ドイツではプロ シア、・ハヴァリア、フランスを相手に、ネーデルラントではフランスと、イタリアではおもにス べインと、といったエ合にである。 イギリスは一七四三年からフランスと、北アメリカやインドで大規模な植民地争奪戦をはじめ た。ヨーロッパでもドイツで、ジョージ二世がその年七月、イギリスⅱオーストリア連合軍を率 いてフランス軍を破る一幕もあった。しかし、イギリスはマリアテレジアにたえずフリードリ ヒ二世との和解をすすめた。彼女の方も戦線を整理する必要から、これに応じ、涙をのんでシレ ジアをプロシアに与えた。こうして成立したのが、一七四一年十月と四二年六月の二度の休戦条 約である。もちろん、マリアれテレジアはこれを最終的な決定とみなさなかった。またフリード リヒ二世の方も同様である。 オストリアは、プロシアとの休戦で自由になった兵力をもって一七四二年、ポヘミアに長入 したフランス、・ハヴァリア軍を追い、逆に・ハヴァリアを占領し、あるいは四四年のように、フラ ンス軍をラインのかなたまでおし返し、アルザスーロレーヌを奪回しようとする勢いを示した。 こうして、形勢はまったく逆転するかに見えた。 げんこ しかし、いつもマリアテレジアの希望を打ち砕いたのは、憎いフリードリヒ二世の拳固であ
プラグマティシーザンクチ十ン を許すことを宣言する「国事詔書」が発表された。 ジ画カールはこれを領内各地の貴族会議に承認させたばかり テテか、イギリス、フランス、スペインなどの列強や、ドイ 、ア「ツの諸侯たちにも確認を求めた。というのは、先代のヨ マンゼフ一世 ( カールの兄 ) の娘をそれぞれ妻にしている・ハ 、 ( 若フ ヴァリアとサクソニアの君主が、マリアテレジアの相 続に異議をとなえていたからである。カール六世は幾多 の貴重な儀牲を払って列国の承認をとりつけ、横槍をおさえるのに成功した。 事実、彼が死んでマリア日テレジアの即位が現実の問題となったとき、約東に反し彼女の相続 に公然と異議をとなえたのは・ハヴァリア選帝侯ただ一人であった。だが、彼は自分の主張をつら たんたん ぬく力をもたない。マリアテレジアが玉座にのぼる道は坦々として、あと何の障害も横たわっ ていないはずであった。 ところが、この年十二月、まったく突然、プロシア軍がオーストリア領シレジアへ 奇襲戦法 侵入をはじめた。それと同時に、フリードリヒ二世はマリア“テレジアに通告を送 った。それによれば、プロシアは彼女の王位継承を認め、さらに彼女の夫トスカナ大公フランツ のドイツ皇帝 ( 神聖ローマ皇帝 ) 就任を助け、二〇〇万ターラーを供与しよう。そのかわり、シレ 336
敵とみなし、シレジアを奪回するばかりか、プロシアを解体させるところまでゆかなくては ( プ ス・フルク家に平和はけっしておとずれぬと信じていた。しかし、敵の手ごわいことは彼女自身骨 身にしみて知っていた。目的を達するには、内治外交両面で周到な準備が必要である。 マリアⅱテレジアは戦争のときの苦い経験から、オーストリアの行政組織が旧式で役に立たぬ ことをよく知っていた。国がばらばらの領土からなっていたように、役所も領土ごとに独立し、 けんせい たがいに牽制しあっていた。役人は皇帝の官僚というよりも、地元貴族の代表であって、その非 能率なことおびただしかった。租税はしばしば何年も先取りされて、国の負債になっていたし、 またいちばん大切な財源である農民からの地租は、自分では税を納めぬ貴族の承認を得てはじめ て徴収された。だから、安定した財政計画など立てようもない。軍隊の維持に必要な兵員、馬、 りようまっ 糧秣の補給も同じ障害にぶつかった。オーストリアが領土や富の大きさではプロシアの何倍もあ るのに、おくれをとった最大の理由は、国力を集中的に利用できない国家機構の弱点にあった。勃 マリアテレジアは改革にとりかかった。中央集権化のため、役所の統合、新設がおこなわれ、ア 貴族の租税承認権や免税の特権もいくらか制限をうけ、国庫の収入は増えた。軍隊、教会、大学プ も中央の国家統制のなかに繰り入れられた。こうして、オーストリアの国家体制は、彼女のもと軍 ではじめて近代化の道を歩みはじめたといえよう。 よせぎざいく しかし、民族の寄木細工のようなオーストリア国制の近代化は、しなやかなマリアテレジア にが
ドイツには、 = トラソド半島の左肩からはじまって、この国のほぼ真中を東南にさ 西と東 かのぼる = ルべという川がある。結氷期や渇水のとき以外は、数百トンの船がポ〈 ミア盆地まで約七〇〇キロメートルを悠々さかのぼれる大きな川で、昔から交通の大動脈であ 0 た。また、第一一次世界大戦の末期、一九四五年四月には、ドイツに東西から怒濤のように攻め込 んだソヴィ = ト軍と米英軍とが、この川の中ほど、トルガウという町で最初に接触し、川にまた がる橋の上で両軍の兵士たちが抱きあ 0 て、ファシズムを倒したことを喜びあ 0 たのだ 0 た。現 在の東西ドイツの境界線はもうすこし西にある。 だがじつは、ドイツはすでに数百年の昔から、ほぼこの川を境に東西に分かれていたのである。 これを分けたのは、自然条件の違いもあるが、何とい 0 ても、それぞれの地域での社会の発展 0 軍国プロシアの勃興 どとう マリアテレジアの鏡 3 / 2
世 一七二五ロシアの。ヒョ 一七二六 一七二七英がスペインと開戦 ( ~ 元 ) 。ジョージ二世 ( ~ 一七六 0 ) 一七二九 一七三一一一英で糖蜜法発布。北米十三州植民地が成立する 一七三五 一七三九 一七四〇プロイセンにフリードリヒ二世即位。オースト リアにマリアテレジア即位。オーストリア継承 戦争 ( ~ 哭 ) 始まる。第一次シュレジェン戦争開 始 一七四四ジョージ王戦争開始。第二次シュレジェン戦争 開始 一七四八アーヘンの和約 一七五〇 一七五一 一七五三 ートル一世死去 スウイフトの『ガリヴァー旅 行記』 モンテスキューの『法の精 神』 フランクリンが避雷針を発明 仏で百科全書の刊行始まる 大英博物館の設立 清の高宗乾隆帝 フリードリヒ二世「反マキア ( ~ 一七九五 ) 即位 ヴェリ』 メソディスト派が創始される キャフタ条約が 結ばれる 安藤昌益の「自 然真営道』 クライヴがイン ドに来る 509 年表
も何で成功しないことがあろう。王はなおも反対する大臣を叱りとばした。「去れ ! 臆病者」 フリードリヒは軍隊を四つに分け、スウェーデン、ロシア、オーストリアに備えさせ、自分は 六万七千の主力を率いてサクソニア国境に集結した。八月末、彼はマリアテレジアに手紙で平 和の意図を表明するよう求め、返事を待たずにサクソニア侵入を開始した。ふたたび奇襲戦法だ った。こうして七年戦争は始まった。 フリードリヒの作戦は図に当たり、十月には全サクソニアを占領し、ついでポヘミ 孤立無援 アに侵入した。しかし、冬の宿営が終わり戦闘が再開されると、翌年六月、プロシ かいそう ア軍はコリンでオーストリア軍に大敗を喫し、大損害を受けて潰走した。フリードリヒは身をも ってのがれて、。フラ ( を包囲している味方に合流するため、一一、三の護衛・と少数の軽騎兵をつれ ただけで、六〇キロの夜道を駆けとおした。プ ルロシア軍はただちに。フラ ( の囲みを解き、全勃 ア面的にポ〈ミアから撤退しなければならなかつア ・フ を時「一昨日の大災厄にもかかわらず、今日余はプ軍 争ラ ( を笛と太鼓を打ち鳴らしながら堂々と引き : 年揚げた。」 てったい
のである。後継者のビヨートル三世は、ドイツ育ちでフリードリヒ二世の大の崇拝者だった。彼 は、ただちにドイツからロシア軍を引き揚げさせた。 こうして奇蹟の逆転劇がはじまった。プロシアを囲む鉄の環の一部はこわれた。そればかりか、 ロシアは六月にプロシアと軍事同盟を結び、オーストリアを攻めた。これに勢いを得たプロシア 軍はシレジアをとりもどした。 マリアテレジアは涙をのんで、戦争が引分けに終わったことを認めざるをえなかった。一七 六三年の平和条約 ( フベルトウスプルクの和約 ) で、プロシアのシレジア領有があらためて確認さ れた。しかしこの戦争の重要な結果は、七年間ヨーロッパの列強を一手に引き受けて戦い抜いた プロシアが、長年望んだ大国への仲間入りの希望をついに果たしたことであった。 年画 ここで思い出すのは、第二次世界大戦の終幕に、国土を 意 ほとんど占領されながら、砲撃下のベルリンでヒトラーが の 稠を最後までフリードリヒ大王のあの奇蹟の逆転を夢みていた ク秕という話である。総統官邸の殺風景な地下室を飾るたったプ ・フ結一枚の絵は、フリードリヒ大王の大きな肖像画であった。 ス終 ウ争だが奇蹟は起こらず、一九四五年四月末、ヒトラーはその ・ ~ 爪地下室で自殺した。 フ 7 4 ーし