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検索対象: 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民
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1. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

はなく、完全に世俗的な論理で展開したのである。 「われわれ自身の判断によって決定せられていることは、何らの自由の拘束ではない」 というのが彼の根本的立場であり、したがって、 「社会における人間の自由は、国家における同意によって確立された立法府の権力以外のいかな る権力にも服せず、この立法府がみずからに託された信託に従って制定する法以外には、い、 る意思の支配も、いかなる法の拘束も受けないということのうちに存する のである。ところで、ロックによれば、人間が国家をつくるより前の自然状態において、他人の 生命、自由、財産をおかしてはならないという自然法が支配しているが、人間はその生命、自由、 財産をさらにいっそう確実に保全するため、各自が自然状態においてもっていた権力を「社会の 手に、したがってまた社会がみずからの上にたてた統治者に譲渡」して、自然状態から国家状態 へと移行する。そして「この権力は社会を構成する人々の契約と協定および相互の同意にのみ由 来」し、しかも自由は上に述・ヘたようなものであったから、国家状態への移行は自由の制限とか 侵害を意味するものではなかった。そしてロックはこの自由を保障するため三権分立を唱えた。 立法権、行政権、連合権 ( 外交権 ) が三種の内容であるが、のちにモンテスキ、ーによって連 合権のかわりに司法権がおかれることにより、三権分立が近代憲法の基本原則となった。ロック はとくに立法権の行政権に対する優越を説き、立法権を国家の「最高権力」としながらも、他方 2 ~ 0

2. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

三十年戦争は表面、宗教戦争でありながら、その実、最も露骨な現世的利益の 国際法の必要性 いいながら、じつはだれもが領土、金、 戦いであった。だれもが信仰のためと 権勢を求めていることは、もうどんなぼんやり者の目にもかくせなかった。中世以来、君主の行 動をいつも正当化してきた宗教や道徳の鍍金は、君主自身の行動によって完全に剥がれ、物質的 あら 利益という地金が赤裸々に露われ出たわけである。 その生まれからしてキ この戦争中にはっきりしたもう一つの変化は、神聖ローマ帝国という、 リスト教的な普遍的、超国家的国家が有名無実になり、国際関係がそれぞれ独立の主権国家同士 の関係に単純化されたことである。これはまたローマ法王が政治的な力をまったく失ったことを も意味している。 こうして一七世紀にヨーロッパの国際政治は、信仰の違いや善悪ではなく、もつばら現実的利 益によって行動する国家群によって動かされるようになった。だが、こういう国家同士の関係を 疑問をたいへん切実にし 支配する新しい規則がなくてよいものだろうか。じつは当時、こういう さんか た別の事情があった。それは目をおおわせるばかりの戦争の惨禍であった。 戦争とは暴力だから、どんな戦争でも残酷なものにはちがいない。しかし中世までの戦争は、 たてやくしゃ 同じ支配階級である貴族たちが立役者だったため、彼らのあいだに騎士道とよばれる戦争のルー ルができていた。それに戦争の規模が小さかったし、したがって被害もわりと少なかった。 じがね かね

3. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

まくあい 革命」と評し、「一六四九年は幕間狂言にすぎない」と述べてい る。 家 さて、今日のイギリスは、デモクラシーが高度に発達した国家 女であるが、同時にそれは、上に女王をいただく君主制の国家であ ) べる。デモクラシーと君主制とは元来あいいれない性質のもので、 デモクラシーは共和制と結びつくのが普通である。ところがイギ ~ リスの場合はデモクラシーが君主制と結びついている。なぜか。 をデ、クラシーとい 0 ても、現在のイギリスは、根本的にいえば 巡資本家階級と労働者階級とが対立している・フルジョア国家であり、 イギリス連邦という多民族国家である。したがってそこには深刻 な社会間題と民族問題が存在した。歴史的伝統をもつイギリス王 室は、このような社会の対立を緩和して民族の結合を固め、イギ リス連邦の統一を維持する上に大きな役割を果たしている。 いまからおよそ一〇〇年くらい前に・ハジョット・、 カ『イギリス憲法論』のなかで、 「尊厳的部分としての資格において、女王の有する効果は、はかりしれないものがある。この女 王がイギリスにおられなかったならば、現在のイギリス政府はたちまち失脚して、消滅しさるで 272

4. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

作家」として大活動をはじめた。信仰の自由のため、イギリス国教会の主教制度の廃止を主張し、 主教たちと国家権力との結合を責めて、 「高位聖職者の威信、財カおよび高位は、福音に基礎をおくものではなく、ただ君主の恵みに基 礎をおいているにすぎない」 と論じた。またミルトンは愛なき結婚生活の不幸から人々を救うべく、一六四三年『離婚論』を ふんしょ あらわして離婚の自由を主張したが、同書は長老派が実権をにぎっている議会において「焚書に 値する徳の書であり、無検閲で流布している」とみなされ、復活された出版物検閲令に違反し ているかどで、告発された。そこでミルトンは一六四四年『アレオパジティカーー・無検閲出版の 自由のためイギリス議会に訴える演説』を著わして、 「他のす・ヘての自由以上に、良心にしたがって自由に知り、 発言し、論議する自由をわれに与えよ」「真理は全能の神に命 ン ついで強いのだから、真理を勝たすためには政略も戦略も検 タ 閲も必要ではない。真理のためにただ場所を与えよ」と叫ん 1 こうして信仰、家庭、言論の自由のためたたかったミルト 5 ンは、チャールズ一世の処刑後一一週間目に『国王および行政 ミ / レトン

5. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

を咲かせたり、あるいはそれを食べた 神ル聖ロ り ( 食べようと思えば食べられる ) す名 ~ 一ン ~ ン - ー ~ ~ / ク彡 - 7 オ第 ? フリース一 2 ノト , ることによって、はたしてどれだけ慰 第ヒ められたであろうか。 一丁ニノ・しト \ 「丿エージュ司 さて、このよう 中心のない国家組織 な繁栄を示した国ト オランダの国家組織をみてみよう。一 般にオランダ共和国という名でよばれン飛 る「ネーデルラント連邦共和国」は、 ロ 2 ホラント羽 ゼーラント州などのネー デルラント北部七州の連合であるが、その組織は一つの国家ということが困難なほど「世界史上 もっとも奇妙で、もっとも複雑なもの」である。 形式的、法的には、各州の代表者によって構成されている連邦議会 ( 全国会議 ) がオランダ全 体の行政、外交、軍事をコントロールする最高機関である。しかし、この議会には七州を統轄す る権能はない。連邦議会に出席する各州の代表者はそれぞれ自分の州の決定に従って行動し議決 するのであるから、この議会はいわばオランダという小 世界の国際連合のようなものである。し マ帝国 いイト ノエーン つルっ .. プしフ フランス王国 オランダ共和国

6. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

ある。 またたとい、法の前で万人が平等になることが王の願いであるとしても、それはけっして彼が ちつじよ や逆こ、フリード 当時のプロシアの伝統的な身分秩序を打ち破ろうとしたことを意味しない。い、冫 わく リヒは、国民の各階層が与えられた身分の枠のなかで、それぞれの分を果たすことを何よりも大 切と考えた。実際、王はユンカー貴族を維持するのに最大の努力を払った。市民や農民に対する 貴族の特権ーーー、彼らだけが将校や高級官吏になれること、税金、兵役からの免除、領民に対する は、王によってまったく手をつけられなかった。 裁判権、など 王がみずからいうように、貴族は「王冠の最も美しい飾り、また軍隊の光彩」であり、王と貴 族階級とのもちつもたれつの関係こそはプロシア国家の背骨であった。このような国家は、その 本質において封建的であるといわねばならない。 もう一つの有名な逸話を紹介しよう。 漫画ポスター 一七七〇年代、フリードリヒはコーヒーを国家の専売にし、高い税金をかけて その消費と輸入をおさえようとした ( 彼自身はたいへんコーヒー好きで、朝、茶碗に七、八杯、 昼には「壺一杯ーも飲むほどであったのに ) 。これは国民のあいだに大きな不満をひきおこした。 ある日、王が馬に乗って街をゆくと、壁にはられた一枚のポスターの前にたくさん人だかりが していた。見れば、王自身がコーヒーの豆をひいている漫画であり、こぼれた豆を惜しそうにひ 360

7. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

ところが、近代に入って軍隊の主体が歩兵に移り、また国家と国家の戦争となるにつれ、いよ いよそれは大規模となり、損害もまた飛躍的に大きくなった。それとともに高まる怒りと憎しみ は、騎士道の伝統をも見失わせた。降伏した敵の皆殺しゃ何万もの非戦闘員の虐殺がしばしばお こなわれ、掠奪暴行は日常茶飯事と化した。こうして戦争についてのロマンチックな幻想はすっ かり吹き飛んでしまい、支配階級さえもこれにはショックを受けた。 オランダ独立戦争や三十年戦争の経験は、すでに戦争中から、非戦闘員や傷病兵の扱い、掠奪 暴行の禁止などを立法化して戦争の惨禍を多少でも少なくする必要を人々に痛感させていた。こ れは個人ではなしに、国家が守ることをたがいに約東しあう法律であり、国際法とよばれる。三 十年戦争が教えたものは一つにこの国際法の必要性であった。 一五九〇年代といえば、オランダにと争 神童のレコードー ホルダー って独立戦争もようやく勝利の見通し鐓 ス 14 イがあかるくなったころであるが、商都デルフトの名門グロい しんどう テ ・ロート家の長男フーゴーは、たいへんな神童たという評判だま = った。彼は八歳のとき、弟ャンの死を嘆く父親を慰めるラ血 ゴ テン語の詩を作り、一一歳でライデン大学に入学した。さ フ らに、翌年早くもギリシア語の立派な抒情詩をつくって人

8. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

敵とみなし、シレジアを奪回するばかりか、プロシアを解体させるところまでゆかなくては ( プ ス・フルク家に平和はけっしておとずれぬと信じていた。しかし、敵の手ごわいことは彼女自身骨 身にしみて知っていた。目的を達するには、内治外交両面で周到な準備が必要である。 マリアⅱテレジアは戦争のときの苦い経験から、オーストリアの行政組織が旧式で役に立たぬ ことをよく知っていた。国がばらばらの領土からなっていたように、役所も領土ごとに独立し、 けんせい たがいに牽制しあっていた。役人は皇帝の官僚というよりも、地元貴族の代表であって、その非 能率なことおびただしかった。租税はしばしば何年も先取りされて、国の負債になっていたし、 またいちばん大切な財源である農民からの地租は、自分では税を納めぬ貴族の承認を得てはじめ て徴収された。だから、安定した財政計画など立てようもない。軍隊の維持に必要な兵員、馬、 りようまっ 糧秣の補給も同じ障害にぶつかった。オーストリアが領土や富の大きさではプロシアの何倍もあ るのに、おくれをとった最大の理由は、国力を集中的に利用できない国家機構の弱点にあった。勃 マリアテレジアは改革にとりかかった。中央集権化のため、役所の統合、新設がおこなわれ、ア 貴族の租税承認権や免税の特権もいくらか制限をうけ、国庫の収入は増えた。軍隊、教会、大学プ も中央の国家統制のなかに繰り入れられた。こうして、オーストリアの国家体制は、彼女のもと軍 ではじめて近代化の道を歩みはじめたといえよう。 よせぎざいく しかし、民族の寄木細工のようなオーストリア国制の近代化は、しなやかなマリアテレジア にが

9. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

あろう」 と述べているが、ヴィクトリア女王に関するこの叙述は、そっくりそのまま現在にもあてはまる。 権利章典によってイギリス王は、議会の同意にもとづいてのみ統治することになったが、現在で も国王大権として知られる権限をもっている。 たとえば首相の指名権であるが、一九三一年ジョージ五世はマクドナルドを首班とする挙国内 閣の成立に大きい役割を果たした。またイギリスの王室がイギリス連邦の諸地域をひろく旅行し、 各地で歓迎をうけているありさまは、新聞、ラジオ、テレビ、ニュース映画などで始終見るとこ ろだ。イギリスはデモクラシーの国家ではあるが、このように王室の存在をぬきにしては考えら れない君主制の国家であるところに特色がある。 ところでこの立憲君主政がいつできたかとさかのぼってみると、いまお話ししている名誉革命 に達する。現在の政治体制の根本は二百八十年まえのこのときにできたといえるのである。イギく リス人の「常識」はこれであり、ビューリタン革命を革命と見ない点、フランス人がだれでもフ 9 ランス革命を現代フランスの出発点とし、・ハスティーユ陥落の七月十四日を国民的祭典の日とし、に 政 マルセイエーズを声高らかに斉唱するのとはたいへんちがう。

10. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

トに、かっ能率的にしようとしたことがわかる。こうして、フランスー・フルジョアジーが絶対 王権とたたかうために鍛えた思想の剣を、プロシア専制支配の道具に使うという手品ができたの である。 つぎに、フリ ードリヒにおける理想と現実、思想と行動の関係であるが、彼は「反マキャヴェ リ」の項でさきに引用したように「君主の野心」を固くいましめ、「侵略戦争ーを強く非難しな がら、その舌の根も乾かぬうちにシレジアに侵入した。その結果、彼の治世のはじめ二〇年間は 戦争の連続だった。また、彼の国内政治のやりかたも、「人民の下僕ーという言葉が暗示するヒ ューマンな感じはあまりなく、「合理主義ーの冷たさが支 一 ~ ヒ配している。そして、生涯を通じて、国家のエゴイズムに ドほかならぬ「国家理性」の命ずるまま、どんな「マキャヴ エリストも顔負けするほど、大胆かっ非情にふるまった勃 、語のであった。 “と 一たしかに、フリードリヒの思想にある理想主義の香りと、プ 一方、行動での徹底した現実主義 ( そのさい、彼は自分の軍 テ 悪徳ぶりを自慢しさえする ) の対比はとくにいちじるしい。 ヴそこで、彼の「二重人格」をうんぬんする者も出てくる。 アンナ