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検索対象: 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民
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1. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

」弟や職人などの労働者をつかって作業を行なった。もっともこのマ = = ファクチャの協業は一〇名ないし一一〇名ぐらいで、大規模なもので 婦はなかった。 ~ す『ロビンソンⅡクルーソーの漂流記』で有名なデフォー ( 一六六〇ー ま一七三一年 ) は『イギリス旅行記』のなかで、ウエストーライディン 、イ車 グのハリファクス付近の羊毛工業のことをつぎのように書いている。 ぎ 「目立った家にはどの家にもマニュファクチャすなわち仕事場があっ それからどの織元も、自分の仕事場に使うために物を運搬する馬を 一、二頭飼っていなければならぬ。市場から羊毛や食料品を家に持ち かえったり、織糸を紡毛工へ、織物を縮絨場へ運び、仕上げがすめば市場へ持っていって売った りするためである。またどの織元も、ふつう、家族のために一、一一頭もしくはそれ以上の牝牛を 飼っている。このために、家のまわりにある囲いこみ地の小区劃が使われる。 織元の家々のあいだに、おびただしい数の小屋もしくは小住宅があり、労働者がそこに住んで いる。その婦人や子供たちは、たえず、梳毛、紡糸などに忙しく、手のあいている者などはない。 これが、戸外にほとんど人影がない理由である。どの織元の家でも、戸をたたいてみるならば、

2. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

クワでも数少ない西欧主義者の家で、その屋敷はフランスのサロンのように西欧式の家具や絵画 でかざられていた。 。ヒョ ートル ( 一六七二ー一七二五年 ) はアレクセイ帝の一四番目の子であるが、ナターリアにとっ ートルの子供部屋は、西欧の調度品でか ては最初の子であった。はじめて物心ついたころの。ヒョ ( 翼琴 ) が用いられた。幼 こまれ、この赤子をあやすのにドイツ製のシンパルとクラヴィコード 、。ヒョートルは「戦争ごっこ」が大好きで、子供部屋にはおもちゃの兵器がごろごろころがって おり、その種類の多いのには大人たちもびつくりしたほどであった。 彼が三歳のとき父が死に、先妻の子でビョ ートルには異母兄にあたるフヨードルが皇帝の位に ついた。これ以後フヨードルの母方のミロスラウスキー家が権勢をふるい、ナルイシキン家の出 である。ヒョ ートル母子は宮廷では日陰者になった。彼が一〇歳になったとき、フヨードルが歿し、王 ードルには「頭のおかしいー兄イワンがう 後嗣をめぐって、お定まりの御家騒動が起こった。フョ いたが、総主教と大貴族が協議してビヨートルを皇帝に推戴することに決した。しかし、イワンふ の姉ソフィアはひとりこれを喜ばなかった。 マ ン ソフィアは、「学問好きで、精力家で、野心家」といわれたが、二五歳の娘ざかりでありなが ( ら、「四〇代の中年女のようにみえた」というから、あまり美しい女性ではなかったらしい。い ったいこのころのロシアの皇女たちの運命ほどあわれなものはなかった。若いうちは宮廷のテレ

3. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

、だ。彼は戦術家、軍隊指揮者としては兄のようにすぐれ、政治家、外交家としては父のように すぐれていた。そのうえ美男子で騎士的な挙動と温和な気質とがよく融合していたから、彼の人 気は年ごとに高まった。彼の息子 ( のちの総督ウイレム二世 ) は英王チャールズ一世の娘と結婚し ており、一六三一年には総督職のオランニエ家世襲が法制化された。やがて連邦議会は彼に殿下 の称号をおくり、オランニエ家は実質的にオランダ王家の資格をもつようにみえてきた。 オランダの平和な牧野と都市の上には、北海から吹きこんでくる北風が、いっ 平和な市民生活 も時ならぬ嵐のようなあわただしさをもたらす。しかし、平和を乱すのは嵐だ この国にはたえず内紛と戦争の黒雲が襲いかかってくる。独立と自由を勝ちとるた けではない。 めの戦い、海外発展のための戦い、そして発展した国力を維持するための戦いが続き、平和が訪 れることはほとんどない。 しかし、このような情勢のなかにあっても、オランダの市民、農民は平和を愛し、富める者は 富めるなりに、貧しい者は貧しいなりに、それそれ市民生活を楽しもうとしていた。一七世紀に オランダを訪れた外国の旅行者はみな一様に、この国のどこにも見られる生活の簡素さと静かな じみ 家庭生活に結びついた繁栄の状態に感じ入っている。この無駄のない地味な生活態度は、オラン かんじよう ダ人の商取引における勘定高さとともに、独特なオランダ人気質となっている。 ーパーティ ) 」といえば、御馳走寄りの会であり、「オランダ式勘定」 「オランダ式宴会 ( ダッチ

4. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

信仰の自由を唱え、教会の力が政治や経済の問題に干 リベルタン 渉してくるのを拒もうとする寛容派、自由派でもあっ これに対するもう一つの中心、総督オランニエ家は、 封建貴族層のみでなく、国内の中小市民や農民のあい だに強い支持を得ていた。そして、このオランニエ家 、へ、にの政治指導を望む「オラン = = 派、は、共和派に対抗 する大きな勢力であった。とくに中小の産業市民層は、大商業資本家の経済的、政治的支配に反 撥し、政治的にはオランニエ家の統一支配を望む傾向が強く、宗教的にはカルヴィン主義による 信仰の統一を望んでいた。 一六〇九年、スペインとのあいだに「十二年間の休戦、が締結されたときに、はやくもこの対 立は激化した。当時、オランダの軍事的指導者は、沈黙公ウイレムの子、マウリツツ ( 一五六七ー 一六二五年 ) であった。父が独立戦争の前途いまだ予断をゆるさない一五八四年に狂信的な一青 そげき 年に狙撃されてこの世を去ったときには、彼は弱冠一七歳にすぎなかった。しかし、その卓越し た軍事的才能は、きびしい戦野の明け暮れにますます磨かれて、彼の率いる軍隊はよく祖国の独 立を守った。彼は政治、外交の能力は父から受け継いでいなかったが、この点では幸いにもすぐ マウリツツ伯

5. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

らた 」よル田 せを さ活 対の 較街 と一絵 ビの のなス 上康一 紙が風に乗ってイートンまで飛び、オクスフォードからは太陽の光が異常に赤く染まって見えた とい、 ) 。 大火のあとただちにロンドンの復興計画がたてられた。建物は石造か煉瓦造りに限られ、屋根 も統一され、一階の高さは一〇フィートときめられた。天才的建築家クリストファー 六三一一ー一七二三年 ) が遠大な復興計画をたてたが、もとの家の所有者が旧地所に家を建てたいと がんばったため、狭い街路をひろげることができなかった。こうしてレンの計画は実行をさまた げられたが、多くの教会建築が彼の名を永遠に伝えるものとして残っている。セントーポール大 聖堂はその代表作である。 ジン横町。当時下層階級のあいだ に広まったジン愛用の弊害を諷刺 したホガースの絵 イ 90

6. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

エルの死は急速にこれを実現させた。国王四七歳、新しい王妃は二〇歳であった。 一六〇一年九月、皇太子、のちのルイ十三世がうまれた。その後も王の漁色は絶えなかった。 マリー王妃は嫉妬深く、王の身辺にスパイを放ち、ときには口論のすえ夫に打ってかかることも 最愛の女性を失い ( それは毒殺ともうわさされた ) 、政略結婚をせざるをえなか あったという。 をしカカなものであったろうか った「老色男ーの胸中よ、、 : 、 九歳で即位したルイ十三世 ( 在位一六一〇ー四一一一年 ) の摂政となったのは、母后マリ 宮廷革命 = ド日メディシスであった。「なんらの才もなく、ゆっくりと床を離れて、お化 粧や身のまわりを飾って一日をすごす」ような摂政は、同じイタリア人の寵臣たちに左右されて ー公は、摂政と意 国政がみだれた。フランスが「異国人どもの手中に落ちた」ことを嘆くシ = リ 見が合わず、隠退してしまった。アンリ四世におさえられていた貴族たちは、「国王の時代は去 み 歩 って、諸侯の時代が来た」と自負して、王権に対して反抗を始める。 の この結家 こうした情勢のなかでは、摂政はハプス・フルク家に対して和平策をとらざるをえない。 果、ルイ十三世とスペインーハプス・フルク家の王女アンヌドートリッシ = との婚儀が政略的に これで精神的にも、肉体的にも、カ 成立する。一六一五年、王とアンヌはともに一四歳にすぎない。 完全な夫婦がうまれうるであろうか。「王は青春の情熱も喜悦も味わわなかったーと、ある歴史 家は記している。 ぎよしよく

7. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

家に歓呼した市民たちは、いまや口々に「国王ばんざい」とさけびつつ、王の行列にむらがって くる。この群衆を制しようとする兵士たちにアンリはいった、「よしなさい、彼らは王が見たい のだ。」 しかしまだ物語の終わりではない。なおも残存している反対勢力に対して、王は軍事力、買収、 かいじゅう その他あらゆる手段をつくして懐柔にこれっとめなければならなかった。後日、王国各地のすみ きじゅん やかな帰順について祝意を表せられたとき、王は言下に「買収したんだよ」と答えたといわれて かね いるから、かなりの金や領地がばらまかれたらしい。ギーズ家の残党もやがて王権に服した。 つぎは新教徒に対してである。王は自分の改宗が先例となることを願ったが、新教徒たちはこ レれに好意をもたず、依然としてカトリック教会を敵視してい そこで発布されたのが、一五九八年四月のナント勅令であ歩 カる。それは新教徒に信仰の自由、公職就任権、安全保障など家 たを許しつつ、一種の休戦を受諾させたものである。 そその政略的性格はともかく、宗教上の寛容を認めた点におカ 力いて、ナント勅令はヨーロツ。ハ思想史上、大きな意味をもっ ている。 じゅだく

8. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

業とそれに結びつく商工業は崩壊のおそれを濃くしてぎていた。そしてイギリスもまた・ハルト海 貿易を行なうことがでぎず、地中海貿易も障害を受けた。もちろん、オランダ本国へ軍隊を上陸 こうちゃく させることはできない。戦いは膠着状態に入ろうとしていた。 このような状態のうちに、両国ともに戦争を終わらせようとする気運が動いて 平和への離れ業 きた。そして、オランダの政治を指導するデウィットは、イギリスのクロン ウエルと講和の交渉を進めていった。しかし、この交渉にあたってイギリスが提示してきた二七 の個条からなる講和条項は、イギリスが戦勝者の立場に立ってオランダを屈服させるようなきび しいもので、どれをとってみても容易に承認できるようなものではなかった。そればかりではな く、このなかにはどう考えてみても受け入れることの不可能なものが一つあった。それは、オラ ンニエ家が総督職および軍司令官などの職につくことを 禁止するという いわゆる「オランニエ家排除条項」であ 栄 る。イギリスは、オラン = = 家の指導のもとにオランダ繁 ダ ン ウの軍事力が強化されることを非常におそれていたから、 オ デこの条項を拒否すれば講和はのぞめないのである。とい ン って、これを受け入れれば、オランニエ派の怒りは爆発 ャ して内乱が起こるであろう。したがって、連邦議会にお

9. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

4 にふくれあがった。彼らの邸もそれに比例して立派になった。これ に反し、農民の畑はせばまり、暮らし向きはいっそう苦しくなった。 エルべ川の西では、貴族が衰え、農民が向上していったのに、同じ 時期に東では、農民はしぼみ、ユンカーがふくれあがった。 拡張されたユンカーの農場では新しい耕作方法がとり入れられ、 しようやと れ版 一さ銅常雇いの農業労働者も使われるようにな 0 た。これも農業の近代化、 」掠一資本主義化といってよいであろう。しかし、それは、当時イギリス っ力で典型的に見られたような、農民が資本家になり上がるコースでは 「一にクなしに、地主貴族が古い特権をも 0 たまま、いやそれを利用しなが 士ジら資本家になる別のコースであった。 東ドイツの諸侯の国々のなかでいちばん有力だったの勃 中農外交上手 ア は、ベルリンに都をもっホーエンツオレルン家のプロ シ シアである。この国が、一七世紀に、急速に頭をもたげ、勢力をひプ ろげた何よりの秘密は、歴代の王たちの「外交上手」にあった。だ軍 が、この「外交」とは、じつは、強国のあいだを巧みにたちまわる 7 こうもりの処世術にほかならない。

10. 世界の歴史〈8〉 絶対君主と人民

たものは、貴族やジェントルマンにせよ、大商人や金 ク融家にせよ、いずれも有産階級として支配階級を形づ わく ロくったもので、名誉革命はいわばその枠のなかの争い ンであるにとどまった。 ジ ウィリアムがイギリスに迎えられた 名誉革命の 哲学者ロック 翌年の一六八九年、王妃メアリーと 同船してイギリスに帰ってきた一人の哲学者があった。 その名はジョンロック。彼は「名誉革命の哲学者」として知られ、一六九〇年公けにした『政 府二論』の目的は「わが国の偉大な再興者である現王ウィリアムの玉座を確立し、王の正統性を 人民の同意のうちに基礎づけること」であった。 一六三一一年、ロックはイギリス第二の港プリストルに近い小村のジェントルマンの家に生まれ た。父はビューリタンの法律家で、革命には大尉として参加した。ロックはオクスフォード大学 で古典やスコラ哲学を勉強したが、ビューリタニズムには共鳴しなかった。卒業後同大学のテュ ーター ( 個人指導教師 ) などをつとめていたが、一六六〇年の王政復古を平和と善政の到来として 歓迎した。もっともこのとき、ロックは王政復古が絶対主義の復興に通ずるなどとは夢にも思っ ていなかったのである。 20 ど