はなお、中世的な考え方、感じ方、生き方が新しい近代的なそれを圧迫していたから、人々はこ れと対決するためには、それだけ強力に、またはっきりと近代的なものを打ち出さなければなら 5 なかった。文化の領域においては、・フルジョア革命を経て近代的なものが全面的に勝利を占めた 一九世紀よりも、絶対君主が支配する一七、一八世紀の方が、近代的なものがより純粋な形をと ってあらわれたといえる。シェークスビア、コルネーユ、ラシーヌ、モリエール、ゲーテ、シラ 1 などの国民文学がいっ栄えたかを想い出されたい。カントはフリードリヒ一一世とほぼ同時代の 人である。 しかし、これらの近代化は文化という観念の世界だけのことにとどまる。歴史を前進させるた めには、さらにこれを現実化させなければならない。観念の世界だけでなく、現実の世界の変革 を必要とする。こうしてフランス革命の到来が必至となり、新しい時代の幕があけられるのであ る。
信仰の自由を唱え、教会の力が政治や経済の問題に干 リベルタン 渉してくるのを拒もうとする寛容派、自由派でもあっ これに対するもう一つの中心、総督オランニエ家は、 封建貴族層のみでなく、国内の中小市民や農民のあい だに強い支持を得ていた。そして、このオランニエ家 、へ、にの政治指導を望む「オラン = = 派、は、共和派に対抗 する大きな勢力であった。とくに中小の産業市民層は、大商業資本家の経済的、政治的支配に反 撥し、政治的にはオランニエ家の統一支配を望む傾向が強く、宗教的にはカルヴィン主義による 信仰の統一を望んでいた。 一六〇九年、スペインとのあいだに「十二年間の休戦、が締結されたときに、はやくもこの対 立は激化した。当時、オランダの軍事的指導者は、沈黙公ウイレムの子、マウリツツ ( 一五六七ー 一六二五年 ) であった。父が独立戦争の前途いまだ予断をゆるさない一五八四年に狂信的な一青 そげき 年に狙撃されてこの世を去ったときには、彼は弱冠一七歳にすぎなかった。しかし、その卓越し た軍事的才能は、きびしい戦野の明け暮れにますます磨かれて、彼の率いる軍隊はよく祖国の独 立を守った。彼は政治、外交の能力は父から受け継いでいなかったが、この点では幸いにもすぐ マウリツツ伯
三十年戦争は表面、宗教戦争でありながら、その実、最も露骨な現世的利益の 国際法の必要性 いいながら、じつはだれもが領土、金、 戦いであった。だれもが信仰のためと 権勢を求めていることは、もうどんなぼんやり者の目にもかくせなかった。中世以来、君主の行 動をいつも正当化してきた宗教や道徳の鍍金は、君主自身の行動によって完全に剥がれ、物質的 あら 利益という地金が赤裸々に露われ出たわけである。 その生まれからしてキ この戦争中にはっきりしたもう一つの変化は、神聖ローマ帝国という、 リスト教的な普遍的、超国家的国家が有名無実になり、国際関係がそれぞれ独立の主権国家同士 の関係に単純化されたことである。これはまたローマ法王が政治的な力をまったく失ったことを も意味している。 こうして一七世紀にヨーロッパの国際政治は、信仰の違いや善悪ではなく、もつばら現実的利 益によって行動する国家群によって動かされるようになった。だが、こういう国家同士の関係を 疑問をたいへん切実にし 支配する新しい規則がなくてよいものだろうか。じつは当時、こういう さんか た別の事情があった。それは目をおおわせるばかりの戦争の惨禍であった。 戦争とは暴力だから、どんな戦争でも残酷なものにはちがいない。しかし中世までの戦争は、 たてやくしゃ 同じ支配階級である貴族たちが立役者だったため、彼らのあいだに騎士道とよばれる戦争のルー ルができていた。それに戦争の規模が小さかったし、したがって被害もわりと少なかった。 じがね かね
たがって実際には、経済的に強力で政治的発言力の強い州が連邦議会を動かしていた。それは、 共和国の行政費、軍事費の過半を負担し、他州を圧倒する経済力をもっているホラント州であっ た。オランダという呼び名もこの州の名から出ているのもむべなるかなである。そして、このホ ラント州の中心勢力が、アムステルダムの富裕な門閥大商業プルジョアジー、すなわち行政の実 ぎゅう 権を握る「商人貴族」であった。彼らが、強大な経済的実力をバックとしてホラント州議会を牛 耳り、これを通して連邦議会を支配し、オランダの政治を動かす最大のカであった。 しかし、オランダにはもう一つの政治的中心があった。それは、法的には高級軍事官僚といっ スタットハウダー た地位にすぎない「総督」である。この官職は、オランダ独立戦争の指導者であり独立の恩人 ともいうべき沈黙公ウイレム ( 英語ではウィリアム、一五三三ー八四 ) 以来、代々資質すぐれた軍事 的指導者や政治家を生む名門オランニエ家 ( 英語ではオレンジ家 ) がほとんど独占的に握っていた。 そして、同家の声望は国の内外に高く、軍事上の指導力は強く、事実上のオランダ王室のような 栄 評価さえ得ていた。 の ダ このようにオランダの政治構造には、楕円形のごとく二つの焦点があった。そして、この二つ ン をたがいに排除しあって、絶対に結びつかない力だった。一方の中心である商人貴族は、州と都オ 市の独立性を強調する「共和派」であり、戦時にはたえず商業、貿易上の利害得失の観点から情 むね 勢を判断して、しばしば和平を求める講和派であった。また、彼らは、宗教的には寛容を旨とし、
囘国土を主として大農場に分割する。 以上七項のうち一項を欠いてもノーフォークにおける改良は成り立たなかったろう。 , 一 要点は、曰囲いこみ、泥灰土の利用、同大麦ークローヴァ ーー小麦ーカプの輪作であるが、 これを普及させるのに大きな功績のあったのがノーフォークに大所領をもっていたタウンゼンド 子爵である。 一七世紀の末以来、中小地主に対して大地主の所領が拡大する傾向が出て カプのタウンゼンド きて、たとえば、一七一四年にニューカースル公は十二州にわたって所領 をもち、その年収は四万ポンドに達したが、べッドフォード公はもっと裕福で、・ヘッドフォード 州ではほとんど一エーカーといえども彼に属しないものはなかったといわれる。 どの州にも、同じように裕福ないくつかの家があった。大所 領を獲得することは、大地主となること以上に、これに伴う社活 の 会的信望と政治的権力に魅力があったためである。そしてその 人 ス ンうちの少数の大地主が、近代的な農業経営に積極的に乗り出し ン て農業の進歩に貢献した。タウンゼンド子爵 ( 一六七四ー一七三イ ウ タ 八年 ) は代表的な一例である。 彼の家は一六世紀中ごろには有名なパストン家とならぶノー
独立戦争から脱落してス。ヘインの支配下にもどった南ネーデルラノトは、経済的 戦争と経済 にも衰退した。一六世紀のヨーロッパ経済を指導した世界的商業都市アンベルス ( アントワー。フ ) も没落した。これに対して、苦しい独立の戦いを続ける北ネーデルラント ( オラ ンダ ) は、その戦いが苦しければ苦しいほど、死力をつくして国民的エネルギーを集中的に積極 へいしゆっ 的に発揮した。それはまた経済的にも勝ちぬく強い活動力の迸出となった。 へいごう 一五八〇年、ポルトガルを併合したスペインが、オランダ海上貿易の中心となっていたリスポ いやおう ンへのオランダ船舶の出入を禁止したとき、オランダは否応なしに直接東インドへの進出を行な わなければならなかった。 また、戦争再開の年 ( 一六二一年 ) に発足した西インド会社は、敵国スペインにできるだけ大 きな損害を与えることによって、祖国の完全な解放達成のために「責任の一端を果たすーことが 目的とされていた。ニューファンドランド南端からマゼラン海峡に至るアメリカ大陸沿岸全域と、 西インド諸島、北回帰線から喜望峰に至るアフリカ沿岸と諸島とにわたる広大な地域の航海、貿繁 易の独占権を与えられたこの会社は、スペインの植民地と貿易の富を「戦いとる」機関であった。ダ 戦争はオランダの商業活動を阻することもあったが、一方では逆に、広大な植民地をもっスペ オ インと戦争を続けることによって、オランダはその領土へくい込み、その富を吸いとることがで きた。したがって、一七世紀前半のオランダの戦争継続論者は、単に戦争讃美の観念論者ではな
き と画 のネ ていた。同様に国土もほとんど借に、人口は二五 0 万から 歳ス 六五〇万に、軍隊は八万から二〇万に増えていた。この輝 リ = かしい治績のゆえに、彼はとくに「大王」とよばれるよう になり、プロシア人の偶像となった。 フ の像いやそれどころか、一九世紀後半になってプロシアを中 年肖 晩の心にドイツ帝国がつくられるようになると、フリードリヒ 大王は剣をもってドイツ国家の発展に道をひらいた国民的英雄であるばかりか、さらに国民の幸 福のために一生を捧げた理想的君主としてたたえられるようになった。こうして「フリードリヒ 大王伝説ーが生まれる。いつも質素な青色の軍服をまとい仕事に精励した王、疲れをいとわず国 内を巡回して民情を視察した王、新聞の検閲を廃し宗教の自由を保障した王、貧しい農民を保護 し、みずからを「乞食の王ー「貧者の代理人」とよんだ王 : : : 等々。これらはたいてい事実であ る。しかし、事実の全部でなく一部であり、多面的な彼の行動や政策の一面にすぎない。部分的 真実ばかりで組み立てられた歴史像は、しばしば本当にあった姿からかけ離れてしまうことがあ る。伝説のフリードリヒ大王像もまたこのようなものであった。 フリードリヒには、彼を民衆にいっそうなじみ深くさせるような効果的な逸話 粉屋の訴訟事件 がたくさんある。「粉屋アルノルト事件」もそのようなものの一つである。 558
なか 0 たが、従兄であるフランス王ルイ十四世がもっているような無制限の権力をうらやましが った。宗教に対してもほとんど関心がなかったといってよいが、カトリック教が君主にとって最 も便利な宗教であると考え、できれば、イギリスをカトリックの国家にしたいくらいに思ってい こういう性格の王をたすけたのが忠臣 ( イド ( 一六〇九ー七四年 ) すなわち後のクラレンドノ伯 である。彼は元来、王の専制や恣意的な権力には反対で、コモンーローやイギリスの歴史的制度 を重んじ、長期議会の初期にはチャールズ一世の専制に反対して議会の中心人物として活躍した が、大抗議書のころから、これ以上革命を進める必要がないとして王党派にはしった。ネーズビ ーの戦いの後、皇太子チャールズのおともをして、フランスのノルマンディー沖のジャージー島 におもむき、この島で、有名な『イギリスにおける反乱と内乱の歴史』の著述に着手した。 この本は王党派の書いたピ = ーリタン革命の代表的な歴史叙述で、クロンウ = ルなどは「反逆 づ 者であり、暴君であり、利己的な奸計をかくすため宗教を利用した個人的野望の持主」とされて「 いる。 ( イドは皇太子の最も忠実な顧問で、一六五八年皇太子から大法官の称号を与えられたが、 んだ 王 チャールズ二世帰国のお膳立てをしたのも彼である。 チャールズ二世は帰国に先だち、一六六〇年四月四日オランダの・フレダで、 ( イド 王帰る の手になるいわゆる「プレダの宣言」を発した。
涯を通じて啓蒙君主の義務と責任を示す言葉として用いられた。 すいこう フリードリヒはこの論文の草稿をヴォルテールに送り推敲を頼んだ。哲学者はこれを「マルク あっせん スアウレリウス ( ローマの哲人皇帝 ) 以来君主が著わした最良の書ーとほめたたえ、彼の旋で とくめい 翌四〇年オランダで匿名で出版された。 フリードリヒのフリードリヒのマキャヴェリ批判はずいぶん一人よがりなもので、おおかた的 啓蒙思想 はずれだった。だが、彼はマキャヴェリ批判に名をかりて、じつは自分の啓蒙 主義への傾倒と、まだ実際の政治に汚されていない自分の理想を一生懸命語りたかったのである。 そこで、『反マキャヴェリ』は代表的な啓蒙君主としてのフリードリヒの政治思想を知るための 大切な文献となるし、また、彼の理想と現実の行動とのあいだにあるギャップを探る手がかりを 提供してくれる。 まず、彼の啓蒙的政治思想とはどんなものであったか。彼は論文のなかで、君主の人民に対す る義務についてよくしゃ・ヘるが、人民の政治的権利については何もいわない。国家の成立につい て社会契約説を持ち出すときも、注意深く主権在民の結論をかくしておく。彼は、やがて専制君 主になるべき自分の立場に合わせて、啓蒙思想のなかの革命的な部分をみな捨てさったのであっ た。フリードリヒがのちに君主としてやった行動に照らしてみると、彼が利用したのは啓蒙思想 の合理主義だけであって、これによってユンカーの我儘をおさえ、その支配体制をいっそうスマ アンチ
父は息子を国教会方面で身を立てさせたいと希望していたが、ロックは医学の勉強をはじめた。 そして科学的興味から化学者ポイルと親交を結び、ポイルの歿後その遺稿を出版した。 一六六六年、ロックは先に述べたホイッグ党の大立物シャフッペリーと知りあい、その侍医兼 こう 秘書となり、以後一五年間彼と行をともにした。このころ、ロックはデカルト哲学に触れ、シャ 一六六八年王立協会の会員となった。一六七一一年 フツ・ヘリー邸でみずから種々の実験を行ない、 シャフッペリーが大法官となると、ロックは彼の下で秘書をつとめたが、一六八二年、シャフッ れんざ べリーがチャールズ二世のホイッグ弾圧に対する武装抵抗計画に連座し失敗して、オランダに亡 命した。ラッセルやシドニーの処刑を見て危険を感じたロックもオランダにはしった。ジェーム ズ二世がオランダに対しロックの身柄引渡しを要求したので、以後彼は仮名を使い友人の宅を転 転して、追及を免れた。ロックが公然帰国できたのは、最初に述べたように名誉革命後のことで あった。 づ さて、ロック哲学のいちばん大きい仕事は、近代的な「自由」の観念を明らかにしたことであ 9 彼は、「自由ーというものを「拘束から解放される」という消極的な自由から「自己自身に規王 範を課する」という積極的な自由へと発展させた。この仕事はルネサンスの「解放」に対する宗 教改革の「自律」によく似ているが、ロックは、これを宗教改革のような神学的表現においてで かめい