ワン・ルン この頃になると、はじめからそうなるのではないかとおそれていたように、叔父は王龍の重荷 になってきた。叔父は、王龍の父の弟で、もし自分や家族が食えなくなったら、王龍によりかか るのが、親戚として当然の権利だと考えている。王龍と父親が貧乏で食うものにもこと欠いてい た時分には、叔父は自分の畑から、七人の子供と妻と彼が食べるだけのものを、どうやら手に入 れていた。ところが食えさえすれば彼らはけっして働かないのである。叔母は、家の掃除もしな いし、子供たちは、顔にくつついている食物すら洗うのをめんどうがる。娘たちは大きくなって、 結婚する年頃になっても、村道をほっつき歩いて陽にやけて赤茶けた髪に櫛をいれようともせす、 ときには男と平気でロをきくような恥さらしなことまでする。ある日、一番上の娘のそういう様 子を見かけて、王龍は一族の恥だとふんがいし、思いきって叔母のところまで出かけて行った。 「あんなにどこの男とでも口をきくような娘は嫁のロがねえだそ。もう三年も前から嫁入りの 司年頃になっているのに、まだあちこちほっつき歩いているだ。今日も村の往来で、どこかののら くら野郎が、肩に手をかけるのを、平気で笑っているだ」 地 叔母は、からだを動かすことはあまりすばしこくないが、ロだけは達者だ。その舌で王龍にま 大くし立てた。 「そうかね、だけど、結婚の持参金だの嫁入りの費用だの媒酌人の御礼だの、そんなものは誰 が払う ? どうしていいかわからないくらい土地があるのに、あまった銀貨で御大家の土地まで を村長にしようという話さえ起きてきた。
の静けさのなかに二人だけであった。木綿糸をよじったのを燈心にして豆油をつめた、小さなプ リキのランプのゆらめく餡からくる光だけが、彼らを照している。 「手伝い女も必要ねえというのか ? 、彼は驚いてきき返した。このごろ彼はこういうふうに、 ひとりで会話をすることになれてきていたのである。彼女は頭や手を動かすだけで、さもなけれ ば、その大きな口から気の進まぬふうに時おり短い言葉が洩れるだけなのだ。彼はこんな会話に もそれほど不自由を感じなくなっていた。 「それでも家のなかに二人の男だけじゃ、しようがねえだろう」彼は言葉をつづけた。「おふ くろのときは村から手伝い女をつれてきただ。おれは、こういうことは何もわからねえだ。あの 黄家には、奴隷の婆さんかなにかお前の知合いで、きてくれるものはいねえかね」 彼女がきてから、黄家の話をしたのは、これがはじめてだった。彼女は彼のほうに向き直った 9 これまで見たこともないような顔をしていた。細い眼は大きく見ひらかれ、顔には陰気なりの 色がうかんでいた 「あの家には、そんな人はひとりもいねえですだ」彼女は叩きつけるように言った。 彼は煙草をつめていたキセルをとり落して、びつくりして彼女を見た。しかし彼女の顔はすぐ にもとへ戻り、何も言わなかったように、箸をそろえていた。 「どうしたんだー彼は、あっけにとられて言った。しかし彼女は何も言わなかった。そこで彼 はさらに言葉をつづけた。「おれたちは二人とも男で、お産の役には立たねえだ。お父つつあん にしたところが、お前の部屋へ入るのはますいだろうしーーおれにしたところが、牛のお産さえ 見たことがねえだよ。おれが不器用な手でやったら、赤ん坊に怪我させちまうだろう。黄家なん
言葉を使ったらいいか、わからねえのです」 老夫人は非常に威厳のある態度で注意深く彼をみつめ、何か言おうとしたらしいが、奴隷が差一 しだした阿片のキセルを手にしたとたんに、彼のことなど忘れてしまったように見えた。一瞬、 もや 身をかがめて、むさ・ほるようにキセルを吸うと、その眼の鋭さが消えて、忘却の靄でもかかった ようになった。王龍は、彼女の眼がふたたび彼をとらえるまで、その前に立ちつくしていた。 「この男はここで何をしているのかね ? 」彼女は、とっせん怒ったようにたずねた。まるで何、 もかも忘れてしまったかのようである。門番の顔には何の表情もない。黙って何も言わない。 「私は女をいただきにきましただ。老夫人様」・王龍は驚いて言った。 「女 ? 何の女 ? : : : 」老夫人が言いはじめた。かたわらにつき添っている女奴隷が身をこご めて何かささやくと、老夫人はやっとわれに返った。「ああ、そうか、ちょっと忘れていたよー ーとるにも足らぬことなのでね , ーーお前は阿藍という女奴隷をもらいにきたのだね。あれは、ど こかの百姓と結婚させる約東をしたのをお・ほえている。お前がその百姓かね ? 」 「それが私ですだ」王龍は答えた。 「阿藍をすぐに呼んでおいでー老夫人は奴隷に言いつけた。急に老夫人は、早くこんなことを 片づけてしまって、ひとり静かな広間で、ゆっくり・阿片を吸いたくてたまらなくなったらしい すぐに、がっちりしたからだっきの、やや背丈の高い、そして清潔な青木綿の上衣と神子をは いた女が、女奴隷に手をひかれてあらわれた。 王龍は胸をどきどきさせながらそのほうをちらと見て、すぐに眼をそらした。これが彼の妻と なる女なのだ。
112 に足りない額である。子供たちは兄がビタ銭八枚、弟が十三枚で、全部合わせれば明日の朝の米 代には十分である。ただ、それを一緒にしようとすると、弟のほうは泣きわめいて、どうしても 出したがらない。自分で乞食をして稼いだ銭を大事にして、夜も手のなかにしつかり握りしめて 眠る始末である。そして翌朝、自分の米ガュを買う段になって、やっと手ばなした。 一日じゅう、言いつけどおり道ばたに坐っていただけで、物乞 老人は全然かせぎがなかった。 いをしなかったのだ。居眠りをし、眼をさますと目の前を通りすぎるのを眺め、疲れるとまた眠 った。老人だから、文句をいうものもいない、老人は自分の椀に何も入っていないのを見て、こ う言っただけだった。 「わしは畑を耕やし、種子を蒔き、収穫をとり入れ、そうしてわしの飯茶椀を満たしてきただ。 その上わしには子供もあれば、孫もおる」 子供もあり孫もあるのだから、当然彼らに養ってもらえるのだ、と子供のように信じこんでい るのである。 ワン・ルン もう王龍は飢えに苦しめられることはなくなった。子供たちにも、毎日何か食べさせられる。 オーラン 毎朝、米ガュの食える見込みもついたし、毎日の彼の労働と阿藍の乞食の稼ぎとで食い扶持を払 える見込みもついた。そのような生にもなれてきた。すると彼は、自分たちがその〈りに〈ば りついて生きているこの都会について考えはじめた。毎日、人力車をひいて町じゅう駈けまわっ ているのだし、この町の事情も一日じゅう勉強しているわけである。そこここの秘密の遊び場が
になっただ。そしてお前に金をくださるためにーー、金があれば食うものが買えるーー・食うものが チャンサ あれば生命が助かるだそ ! 」叔父は、それだけいうと、あとへさがり、よごれてぼろ・ほろの長衫 の袖をひるがえして、手を組み合せた。 王龍は動かなかった。立ちあがりもせす、来訪者たちに会釈しようともしなかった。顔をあけ て彼らを見ただけである。たしかに町からきた人たちで、よごれた絹の長衫を着ている。やわら かい手をしていて、爪を長くのばしている。十分に食 0 て、はなはだ血のめぐりのよい顔つきで ある。とっぜん彼はこの男たちにたいして無限の憎悪を感じた。うちの子供らは飢えて畑の土ま で食べているというのに、町からきたこの男たちは十分に飲み、かっ食らっているのだ。しかも 彼らは彼の困窮につけこんで、彼の土地を奪おうとしてやってきたのだ。彼はいまいましけに彼 らを見あけた。眼は深く落ちく・ほんでおり、顔はドクロのようであった。 「土地は売らねえだ」彼は言った。 叔父が前にすすみ出た。このとき、王龍の二人の男の子のうちの小さいほうが、足と膝で這っ て戸口のところまできた。このごろは体力がなくなって、赤ん坊のときに逆戻りして這って歩く のである。 「これがお前の子か ? 」叔父が叫んだ。「この夏わしが銅貨をやった、肥った子がこれか ? 」 人々はみなこの子を見た ~ 日ごろ全然涙を見せたことのない王龍が、このとき、とっぜん声も あげずに泣きはじめた。涙は、のどもとの大きな苦痛のかたまりを集めて溢れ、あとからあとか らと頬をつたわって流れた。 「いくらで買ってくれるた ? 」とうとう彼はきいた。三人の子は、どうでも養わなければなら
王龍はじっと立っていた。困ったという感じが胸をうった。女か ! 叔父の家で厄介なことは かり起るのも、すべて女の子が原因なのだ。いまそれと同じように女の子が彼の家に生れてしま ったのだ。 彼は何もいわす、壁のところへ行って、隠し場所のしるしであるざらざらした個所を手さぐり して土の蓋をとりのけた。そこにしまってある銀貨を手さぐりで九個かそえた。 「銀貨をもち出してなにするですだ ? 」妻が暗闇のなかから不意に声をかけた。 「叔父に貸さなけりゃならねえだ」彼は手短かに答えた。 妻ははじめ何もいわなかったが、やがていつもの抑揚のないたどたどしい調子で言った。 「貸すとは言わねえほうがいいですだ。あの家では借りるということはねえです。貲うという・ ことがあるだけです」 「それはおれにもわかってる」王龍はにがにがしく答えた。「血のつながりがあるというだけ で、銀貨をやるのは、肉を切りとってやるようなものだでな」 そして戸口へ行って、叔父に金を投げるようにあたえると、いそいで畑へもどり、大地の底ま で掘りかえすような勢いで働きだした。しばらくは銀貨のことだけが頭にあった。銀貨ーー・彼が もっと土地を買いたいと思って、苦しい思いをして、畑の作物から手に入れ、貯えておいた銀貨 が、無造作に只クチ台のテーブルの上に投け出されるのを見、やくざ者の手にさらわれるのを心 のなかに見るのであった。 怒りがおさまる前にタ方がきた。彼は腰をのばし、家のことや食事のことを思い出した。そし て、今日新しく養うべき口が一つふえたことを考えた。彼の家にも女の子が生れはじめたことが
ですよ」すると社鵑が急いで言た。「あの息子さんがいい青年になって、何もせすに考えこむ だけで暮らすにしては大きくなりすぎたということくらい、誰にだってわかりますよ」 王龍は、うまくはぐらかされたが、息子にたいする怒りは、まだ残っていた。 「いや、あの子は行かせねえだ。おれは自分の金をそんなばかげたことに使いたくねえだよ」 王龍はそれ以上そのことはロにしなかった。蓮華は彼がまだぶりふりして不機嫌なのを見て、杜 鵑を去らせ、彼を一人きりにしておいた。 それからしばらくのあいだ、別にどうということもなかった。若者は、急にまた落ちついてき たようだ。ただ、学校へ行こうとはしなかったが、王龍もこれは許した。長男は、やがて十八歳 である。母親に似て、がっちりしたからだっきになってきた。父親が家にいるときは、自分の部 屋で読書していた。王龍は安心して、心のなかで考えた。 ( あれは若いものにありがちの気まぐれだったのだ。自分のほしいものが、まだわかっていね えのだ。あとほんの三年間だで、もし特別に銀をすこし奮発すれば二年でいいかもしれない、い ゃうんと奮発すれば一年でいいかもしれん。収穫が順調にすみ、冬麦の種まきが終り、豆の手入 れでもすませたら、一つ、かけあってみよう ) 地やがて王龍は息子のことを忘れてしまった。というのは、イナゴに荒されたところを別とすれ ば、すばらしい豊作で、蓮華のためにつかった費用くらいは彼はもう手に入れてしまったからで 大 ある。カイ。 、皮よふたたび金銀が惜しくなった。一人の女に、よくまああんなに平気でつかったも のだと、ひそかにあやしむときもあった。 それでもまだ、はじめのころほど強くではないが、彼女に魅力を感じることがあった。叔母が
つけてきたのである。蓮華は怒りに身をふるわせ、小さな足で地だんだ踏んで、笑っている白痴 の娘を指さして叫んだ。 「こ・んなものがそばへくるなら、あたしはこの家を出て行きます。こんな白痴をがまんしなけ ればならないなんて、全然聞いていなかったわ。知っていたら誰がくるものですか。なんてきた ない子供たちでしよう ! 」そして、かたわらの、ぽかんと口をあけて双生児の女の子の手をつか んでいる男の子を突きとばした。 子供たちを可愛がっている王龍は、怒りに燃えて荒々しく言った。 「子供たちの悪口をいうたら承知せんそ。相手が誰であろうと承知できん。この白痴の娘の悪 ロだって、聞くのはいやだ。子供を生んだこともないくせに、お前なんか、何が言えるというだ」 彼は子供たちを集めて言 0 た。「さあ、行くだ。もうこの女のところへくるじゃないそ。この女 はお前たちをきらっているだでな。お前たちを好きでねえということは、お前たちの父親も好き でねえということだて」そして白痴の姉娘に彼はたいへんやさしく言った。「さあ、あの日向ぼ っこの場所へおいで」娘は微笑した。彼は娘の手をとってつれ出した。 彼は、この白痴の娘の悪口を言い、ばか呼ばわりをした蓮華のことを、ひどく怒った。そして、 地この娘を思う新しい苦痛の重荷が心にのしかかった。そこでその日も、つぎの日も、彼は蓮華の ところへ行く気にならす、子供たちと一緒に遊び、町へ行って白痴の娘にまるい大麦の菓子を買 ってやり、この甘いべとべとする菓子によろこぶ彼女の赤児のようなようすに、心をなぐさめら れた。 ふたたび彼が蓮華のところへ行ったとき、彼が二日間こなかったことについては、二人とも口
しく高いように思えた。女は狭苦しい薄暗い廊下を案内して、歩きながら声をかけた。 「今晩はじめてのお客さまだよ」 廊下に沿った扉がいきなり全部開いて、まだらな光のなかに、あちこちから若い女たちが頭を のそかせた。日光をあびて葉鞘から咲き出た花のようであった。しかし社鵑は冷酷に言った。 「あんたじゃないよーーあんたでもないよーーあんたたちをお望みじゃないんだよ。こちらさ リエンホフ んは、あの蘇州からきた桃色の顔をしたちびさんがお目当なんだよーー・蓮華さ」 さざめきが、ざわざわと嘲けるように廊下を流れた。ざくろのように赤い顔をした小娘が大き な声で言った。 「蓮華にはお似合いだわーーーこのひと、泥くさくて、にんにくのにおいがするわー 王龍は自分がありのままの百姓に見えることを恐れていたので、この言葉は短刀のように彼を 突き刺したが、しかし彼はとり合わなかった。腹巻にある銀貨をおもい出したので、びくともせ ずに歩きつづけた。やっと女は、しまっている扉を平たい掌で容赦なく叩き、待ちもせすになか へ入った。部屋のなかには、ほっそりした若い女が、花模様の赤い掛ぶとんをかけた寝床に腰を かけていた。 誰かがこんなに小さな手があると彼に話しても、彼は信じなかっただろう。それほど小さな手 きやしゃ 大 と、華奢な骨組と、濃いバラ色の蓮の蕾の色に染めた長い爪の指とであった。また、もし誰かが このような足があると話しても、信じられなかったであろう。それほどに小さな足が男の中指ほ どの長さしかない桃色の繻子の靴をはいていた。そして寝床の端で子供のようにその足をぶらぶ
188 「あんたがほかの人と同じように銀貨を持っていれば同じようにしたってかまわないわよ」 彼は、自分も好きなとおりにやれるくらいの大旦那であり、金持であることを、彼女に見せな ければならなかった。そこで、手を腹巻に突っこむと、銀貨をいつばい擱みだして言った。 「これで足りるかね ? まだ足りねえかね ? 」 彼女は、その一握りの銀貨に眼をみはると、もうそれ以上ぐすぐずしていなかった。 「こっちへきて、どれがお望みかおっしゃいよ」 王龍は自分の言葉も上の空でつぶやくように言った。 「いいや、どれがいいのかおれにはわからんけど」と言いながら、欲望に打ち負かされて、さ さやいた。「あの小さいのーーーあのとがった顎に小さな顔をした、白と桃色のマルメロの花みた いな顔の、手に蓮の蕾を持ってるあの女だ」 女は簡単にうなすくと、彼を手招きして、こみ合っているテーブルのあいだを縫って進んで行 った。王龍はすこし間をおいて彼女にしたがった。最初のうちは、みんなが自分を見上げている ように思えたが、勇気を出して見まわしてみると、誰も自分になんの注意も払っておらず、ただ 一人か二人、大きな声で、こんなことを言っただけである。「もう女のところへしけこむほど遅 いのかな」すると、また別の男が言った。 「こう宵の口からはじめなければならねえとは、えら く元気のいい奴がいるもんだな」 . ・ しかしこのときには彼らは、せまい、まっすぐな階段をの・ほっていた。王龍は家の階段という ものをのばったことがないので、・ひどくの・ほりにくかった。それでも二階へあがってみると、そ こは平家となんの変りもなかった。ただ、窓のところを通りがかりに空をのそきこなと、すばら