手 - みる会図書館


検索対象: 大地(一)
368件見つかりました。

1. 大地(一)

らさせていた。 彼は彼女をみつめながら、寝床のそのかたわらにきごちなくかけ、この女はあの絵のようだと 思った。その絵を見ただけに、もし彼女と出あっても、すぐにそれとわかったことだろう。だが、 他の何よりも彼女の手はあの絵にかかれた手にそっくりであった。なよやかで細く、乳のように 白かった。両手を桃色の絹の服の膝・のところでからみ合せている。彼はその手にふれ得ようとは、 夢にも思わなかった。 彼は絵を見ているかのように、女をめていた。びったりした短かい上衣につつまれた竹のよ うにすんなりとした姿を見やった。白い毛皮でふちどった高い襟の上にある、描いたような美し いとがった顔を眺めた。眼があんすのようにまるく、講釈師が春の美人のあんずのような眼を讚 美する意味が、いまやっとのみこめた。彼には、この女が生身でなく、絵に画いた女のように見 えた。 このとき彼女は小さな、なよやかな手をあげて、彼の肩におき、彼の腕をゆっくりとなでおろ した。彼は、こんなにもかるくやわらかに触れるものを知らなかったし、もし見ていなかったら、 なでたことも知らなかっただろう。それでも彼は、そのなでおろしてゆく小さな手をみつめた。 それはまるで通ったあとから炎を点じるかのようであり、袖のなかまで焼け、腕の肉が燃え上る かのようだった。その手は袖口まで来て、彼のむき出しの手首のところで、一瞬技巧的にためら やがて彼のかたい黒い手のなかにすべりこんできた。彼はそれをどう取ってよいのかわから ず、ふるえはじめた。 そのとき、風にゆれる塔の銀鈴のように、軽やかに、せわしけにひびく笑い声を聞いた。そし

2. 大地(一)

「真珠かね ? 持ってますだ」 彼は彼女の顔を見ずに、ただその皺だらけの濡れた手を見ながら、つぶやくように言 0 た 9 「何にも使わすに真珠を持ってるなんて無駄だな」 彼女はゆっくりと答えた。 「いっか耳飾りにしようと思っていたですよ」 彼が笑うのを恐れて、また言 0 た。「末の娘が結婚するときのために持 0 ていようと思います 彼は無理に心をかたくして大きな声を出した。 「なせだ。土みたいにまっくろな女が真珠をつけることはねえ。真珠は美しい女のためにある だ」そしてすこし黙っていたが、やがてとっぜん叫んだ。 「おれによこせーーー真珠がいるんだ」 ゆっくりと彼女は濡れた皺の寄った手をふところに入れ、小さな袋をびきだして彼に渡し、彼 . がそれを開けるのを黙ってみつめていた。真珠は彼の手の上にのり、太陽の光をやわらかくいっ ←ばいに受けてかがやいた。彼は笑い声をあげた。 地しかし、阿藍は彼の服を叩きはじめ、眼からゆっくりと大粒の涙が落ちても、手で拭こうとも しなかった。ただ、石の上にひろけてある服を、木の棒で、しつかりと叩くばかりだった。 大 こうして、銀貨をすっかり使いはたすまでつづくかと思われていたところへ、とっせん、王龍 ワン・ルン

3. 大地(一)

ら垂らしているものも町にはいなかったから、本来なら、いつまでもこのままの状態がつづくは ずであった。ところがある晩、彼が広間の奥のテーブルで茶をのみながら眺めていると、二階に 通じるせまい階段を降りてきたものがあった。 この町で二階があるのは、西の門の外にある西塔とよばれる五重の塔と、この茶館だけだった 9 西塔は上に行くにしたがってせまくなっているが、この茶館の二階は、階下の建物と同じ大きさ である。夜になると、女たちの高い歌声や、陽気に笑う声や、少女たちの手が優美にかなでる美 しい琵琶の音が、上の窓から流れてきた。夜がふけると、楽の音が往来にまで流れでるが、しか し王龍が坐 0 ているところでは、茶を飲んでいる人々の談笑や音と、麻雀のをもてあそぶ音、 サイコロをころがす音のみがきこえた。 その夜、いつものようにそこにそうして坐っていた王龍は、背後に、せまい階段を降りてくる 女の足音がしたのに気がっかなかった。肩に手をかけられたので、びつくりして、ふり返った。 こんなところに知っている人がいようとは思いもかけなかったのである。見あげると、細面の、 ドチュエン あでやかな女の顔があった。社鵑であった。黄家の土地を買ったとき、彼がその手に宝石を渡し、 そしてその手が老大人のふるえる手をしつかりと持ちそえて売買契約書に印判を押させた女であ 地る。彼を見ると彼女は笑った。その笑い声は、するどいささやきに似ていた。 「あらまあ、農夫の王さんね , 彼女は農夫という言葉を、いやがらせのように、わざと引っぱ 大 って発音した。「こんなところでお会いしようとは思わなかったわ」 王龍は、自分が単なる田舎者ではないということを、どうでもこの女に示してやりたいと思い 大きく笑ってから、高すぎるほどの声で言った。

4. 大地(一)

にこわばった大きな、ごっごっした彼女の手をとってなでてやった。彼女の言ったことは本当た リエンホフ と思い、自分のやさしい気持を伝えたいと心から願って彼女の手をなでてやっているのに、蓮華 がすねたように口をす・ほめたときほども愛情や感動が湧かないのが、ふしぎでもあり、悲しくも あった。彼はそれを恥じた。そのこわばった、死にかかっている手をとっても、すこしも愛情が わかないし、かわいそうだと思う気持さえ、何かしらそれに反撥するものがあって妨げられてし まうのである。 そういうことがあるので、彼は彼女に対していっそう親切をつくした。特別な食べものを買っ てきてやったり、白魚とキャベツの芯でつくったうまいスー。フを飲ませたりした。そのうえ、蓮 華のところへ行っても楽しめなかった。長いことつづいている死の苦悶に絶望した心をまきらせ ようと彼女のところへ行っても、阿藍のことが頭をはなれす、阿藍を思うと蓮垂を抱いていても、 手が離れるのであった。 阿藍の意識がはっきりして、周囲のことに気がつくときが、たまにあった。そんなとき、一度 一ドチュエン ←彼女は杜鵑を呼んだ。王龍がびつくりして社鵑をつれてくると、阿藍はふらふらしながら腕をつ 地いてからだを起し、率直な調子で話しかけた。 ホワン 「お前は黄家の老大人につき添っていたし、美人だと言われていたけれど、あたしは一人の男 の妻になって、息子たちを生んだ。お前はいまでも奴隷なのね」 社鵑が怒って何か言い返そうとしたので、王龍は彼女をなだめて外へつれ出した。 「あれはもう何を言っているのだか自分でもわからねえだで」

5. 大地(一)

しい女を女房にできたらどんなにいいだろう、と思ったのだ。父親は不平そうな彼の顔つきを見 てどなりつけた。 「べっぴんの嫁なんそもらってどうしようというだ。野良で働きながら家の仕事もすれば子供 も産む、そういう女でなくちゃいけねえ。べっぴんの嫁で、そんなことができるか。そ は着るものと顔のことしか考えてやしねえだ。この家には、べっぴんはごめんだ。わしらは百姓 なんだ。それによ、大家のきれいな女奴隷に生娘がいるなんて、聞いたこともねえ。若旦那がた しこめ がみんな手をつけちまうだ。べっぴんの百番目の男になるよりも、醜女でも最初の男になるほう がいいじゃねえか。考えてみなよ、きれいな女が、金持の若旦那のやわらかい手と同じように、 土百姓のお前の手をよろこぶと思うか。女を慰みものにする連中の金色の肌と同じように、お前 の陽やけした面を好くと思うか」 王龍だって父親のいうことは百も承知だ。それでも返事をする前に感情の高ぶるのを抑えられ ない。やがて彼は乱暴に言った。 「いくらなんでも、あばたとみつロだけはおれはごめんだ」 「どんなのがくるか、まあ、もらってからのことさ」と父親は答えた。 とにかくその女はあばたでもみつロでもなかった。それだけはたしかだが、それ以上は何もわ からない。彼と父親は金メッキした銀の指環を二つと銀の耳環を買い、父親がそれを婚約のしる 大しとして女の所有者の家までとどけた。それ以上は、今日行けば女をもらえるということ以外、 妻となるべき女については何も知らないのである。 彼は冷たく暗い町の楼門にはいった。水を運ぶ人夫が手押車に大きな水桶を積んで一日じゅう

6. 大地(一)

ワン・ルン ある夜、王龍は、」緒に寝ている妻の乳房のあいだに、何か男の握りこぶしほどの大きさの固 いかたまりがあるのに気がついた。彼は言った。 「そのからだにくつつけてるものは何だ ? ー 彼は手をのばしてさわってみた。さわるとくりくりと動く固いもので、布に包んで、ぎっちり としばってあった。最初彼女ははけしく渡すことをこばんだが、彼が奪いとろうとしかけると、 さからうのをやめて言った。 「どうでも見たいんなら見てもいいだよ」そして首にかけている紐を切って、その品物を彼に 渡した。 ポロ布で包んであった。彼はそのポロ布を破った。すると、いきなり彼の手のひらに、たくさ んの宝石がこ・ほれ落ちた。王龍は呆然として眺めた。こんなにおびただしい宝石が一か所にあっ まっているとは、誰しも夢にも思えないだろう。西瓜の実のような紅、小麦のような黄金色、春 の若葉のような緑、大地から湧き出る泉のように澄んだのなど、色さまざまな宝石である。これ まで宝石などというものは名前をきいたことも見たこともなかったので、それが何という名の宝 ←石なのか王龍は知らなかった。しかし、その陽やけした黒いごっごっした手にのせて、なかば暗 、地闇の部屋のなかでさえきらめき光るのを見ると王龍は、すばらしい財宝を手にしたことを知った。 彼はその色彩と形に酢わされて、身動きもできなかった。彼と妻はともに彼の手にあるものをみ 大 つめていた。やっと彼は息をはずませてささやいた。 「どこでー・ーーどこで , ・ーー」 彼女も同じように低い声でささやき返した。

7. 大地(一)

している貧乏人の仲間にも属していなければ、金持の屋敷に住む人間でもなかった。彼は土地に 生きる人間であり、足の下に土地を感じ、春には牛を追うて畑を耕やし、秋には鎌を手にとり入 れをするのでなければ、生きがいを感じることができないのだ。だから、連中からは離れて、黙 って彼らの話に耳を傾けていた。自分は土地をもっている。先祖から受けついだ小麦畑がある。 ホワン 黄家から買った肥沃な田がある、という考えを、いつも心の奥に秘めていたからである。 この連中が、い 9 も好んでロにするのは金銭のことであ 0 た。一尺の小布を買うのにいくら払 ったとか、小指ほどの小魚を買うのにいくら払ったとか、日にいくら稼げるとか、そして、いっ も結局は、この塀にかこまれている屋敷の人が金庫のなかに持っているほどの金を手にしたら、 おれたちは何をするだろうか、というところに話は落ちる。毎日、彼らの話は、こうして終るの である。 「奴の持っている黄金がおれのものになり、奴が毎日腹巻に入れている銀貨もおれの手に握り、 妾どもが身につけている真珠も、奥方が身につけているルビイもおれのものになったら : : : 」 こういうものをすべて手に入れたら彼らはどうするか、聞いていると、話は食うことと寝るこ ←とばかりで、これまで食べたことのない山海の珍味を食 0 てみたいとか、どこそこの豪勢な茶館 地でバクチをしてみたいとか、きれいな女を買ってみたいとか、そういうことにつきるのである。 そして結局誰にも共通していることは、この塀のなかに住む金持がけっして労働なんかしないの と同様に、彼もけっして労働はしないだろう、ということであった。 そのとき王龍は、とっぜん大きな声で言った。 「もしおれが金銀財宝を持っていたら、おれは土地を買うだな。いい 土地をな。そうすれば、

8. 大地(一)

にしますー ワン・ルン 王龍は腹巻をさぐった。昨日、西の畑の池の葦を刈って一荷半ほど町の商人に売ったので、彼 女の要求額よりもすこし余分に腹巻にもっているのだ。彼はテーブルの上に銀貨を三枚おいた。 それから、ちょっとためらった後、もう一枚銀貨をつけ足した。これは、いっか茶館へ行った際 ' 睹博をしたくなったときの用意にと思って、ながいことしまっておいたものだ。しかし睹でとら れるのがこわさに、彼は台のまわりをうろついたり、サイコロがころがされるのを見物するだけ で、とうとう手を出さなかった。町へ出て時間があまると、きまって彼は講釈師の掛小屋で講釈 をきく。そこでは古い昔の物語に耳を傾け、鉢が廻ってきたとき銅貨一枚入れれば、それでいし・ のだ。 「この銀貨もとっておけーと彼は言い、言葉のあいまに、火附紙にランプの火をうっして吹き ながら煙草に火をつけた。「子供に絹の端布でも買って上衣をつくってやるだな。何というても 最初の子だでな」 彼女はしばらく無表情な顔で金をみつめて立ったままで、すぐには手にとろうとしなかった。 やがて半ばささやくように言った。 「銀貨を手に持つのは、わたしははじめてです」 彼女はとっぜん銀貨をとって手に握りしめると急いで寝室へ入って行った。 王龍は坐って煙草を吸いながら、いまテーブルの上においた銀貨のことを考えた。あの銀貨は 土から生れたのだ。耕作し掘りかえし労力をそそぎこんだ土から生れたのだ。彼は自分の生命を 土から得ているのである。汗のしすくが土から作物を生み、作物が銀貨を生なのだ。これまでは

9. 大地(一)

144 よりしかたがない。もっとも彼は、このとっせんの事件に度をうしなって、自分でも自分の気持 がわからなか ? たのである。 こうして彼は巨大な門の内側へ押し入れられた。群集にはさまれて足も地につかないありさま である。怒れる野獣の咆哮に似た群集の叫びが、まわりから起っている。 つぎつぎと中庭を通って王龍は、一番深い奥庭まで押しながされて行った。一この屋敷に住んで いる人の姿は、男も女も一人も彼は見かけなかった。まるで無人の宮殿のようであった。しかし 庭園の岩間には早咲きの百合が咲いているし、早咲きの春の木も、まだ黄葉もない枝に金色の花 を咲かせている。それに室内のテーブルの上には料理の皿が出ているし、・台所には火が燃えてい るのだ。群衆は富豪の屋敷のようすをよく知っていて、召使や奴隷たちが住んでいるところや料 理場のある前方の建物には手もふれす、まっすぐ奥のほうにと進んで行った。そこには公子や婦 人たちの豪奢な寝台もあるし、彼らの絹の衣裳を入れた箱もある。黒や朱や金色に塗った美しい 箱もあるし、彫刻をほどこしたテーブルや椅子もたくさんあり、壁には掛軸がかかっている。群 衆は、これらの財宝に襲いかかり、箱や戸棚を開けては、なかにあるものを手当りしだいにつか み出し、奪いあい引っぱりあう。衣裳や寝具やカーテンや皿が、手から手へと渡り、他人の持っ ているものを、また別の手がっかむ。自分のもっているものを見る余裕はない。 この配乱のなかで、王龍だけは何もとらなかった。彼はこれまで他人のものをとったことがな い。だから、とっさにはそれができないのだ。はじめ彼は群集のまんなかにいて、あちこち押し まわされていたが、そのうちにどうやら意識をとりもどして、根気よく人々をかきわけて端のほ うへと進み、やっと群集の外側へ出ることができた。急流が渦を巻くと、その端に小さな渦がで

10. 大地(一)

負けぬように、声を高くしたのである。「ムシロを結んで小屋がけができたら、つぎには乞食を するだよ。それにはます泥だの汚ないものをからだにぬりつけて、できるだけ哀れつぼい恰好を することだて」 : こも物乞いをしたことがない。それに南の見知らぬ人々に物乞い 王龍は生れてからこのカた誰冫 をするのは、どう考えてもいやだった。 彼はくりかえしたすねた。 「どうでも乞食をしなければならねえのか ? 「そうだよ , ロもとのいやしい男は答える。「しかしそれも何か腹に入れてからの話さ。南の 人たちは米をたくさん持ってるだ。だから、毎朝、公設食堂へ行くと、銅銭一つで白い米のカュ を腹いつばい食えるだよ。そこで腹ごしらえをしてから乞食にとりかかるというわけだ。そうし て豆腐でもキャベツでもにんにくでも買うだよ」 王龍はすこしうしろへさがって、壁のほうを向き、そっと手を腹巻へつつこんて、残っている 銅銭をかそえた。ムシロを , ( 枚買い、銅銭一個すつ出してみんなでカュを一椀すっ食っても、ま だ銅銭が三個あまる勘定になる。このぶんなら新しい生活をはじめることができる。彼は急に安 ←むした。だが、鉢を手にもって通行人に物乞いをするというのは、どうにも困る。老人や子供や、 地あるいは妻にさえ、それはたいへんいい仕事かもしれない。しかし彼は二本の腕をもっているの 大 「手を働かせるような仕事はねえだかね ? 」とっぜん彼はふり向いて男にたすねた。 「なに、働く仕事だと ? 男は軽蔑したように言って、唾を床にはいた。「お前さんが好きな ら金持をのせて人力車をひくだな。そして駈けながら血の汗を流すだよ。客待ちをしていると、