彼が恥かしくてほんとの理由を言いかねていると、彼女は笑って、小さな人差指を彼の眼のま えでふりながら言った。「わけはちゃんとわかっているわーーーあなたは女の子がみんな自分に恋 すると思っているのね。そして、恋をするのがこわいんでしよう ! 」 それをきくと、老夫人が、おだやかに言った。「愛蘭ーーー愛蘭ーーーすこしおつつしみなさい」 そこで元は、 いくらか不安そうに笑って、その場はそれですませた。 ところが愛蘭は、そのまますまそうとはせす、毎日彼をつかまえては言った。「逃がしはしな いことよ、元ーーなんといったってグンスを教えるんだから ! 」彼女の生活は、ほとんど遊ぶこ とに費やされていて、学校から飛ぶように帰ってくると、本を投げ出し、はでな服に着かえると、 芝居だの、ほんものそっくりで出てくる人物が動いたり話をしたりする写真を見に出かけた。し かもこの頃では、ほんのちょっとでも元と顔をあわせると、翌日からダンスのけいこをはじめる といって彼をからかうので、恋愛のことを考えて彼はかたくならざるをえなかった。 この問題が今後どう展開するのか、元にはわからなかった。というのは、愛蘭と一緒に出たり はいったりしている美しいおしゃべりな女の子たちが、彼にはまだ恐しかったし、また、愛蘭が 彼女らの名を言い、彼女らに対しては「あたしの兄の元よ」などとい 0 て彼を紹介するのだが、 地元には、みんな同じように見え、同じように美しいので、まだ誰がだれだか見わけがっかなかっ たからである。それに、このような美しい娘たちよりも、元には自分の心の奥深くにあるものが おそろしかった。彼女らの小さな軽率な手が彼のうちにかきたてるかもしれぬある秘かな力がお そろしかったのである。 ところがある日、愛蘭のいたずらに油をそそぐようなことがおこった。その夜、元がタ食に自
もうわたしには、辛抱できませんわ。この頃では夫の両親と同居する女なんて、あまりいません よ。わたしだって、ほとほといやになりましたわーそれから、そんなふうな女のおしゃべりが、 なおもつづくのであった。 一座のうちで元が最大の好奇心をもって見たのは、愛蘭が詩人と呼んだ二番目のいとこの盛で あった。それは一つには元自身が詩を好むからであり、一つにはその青年をつつむ優美さが気に いったからであった。それは華奢な優美さで、暗色のあっさりした洋服を着ているので、いっそ う目立って見えた。彼は、美しかった。そして元は、美しいものは大好きであった。それで盛の 卵形の顔や、若い娘の限のような、あんすのかたちをして、やさしく、黒く、夢みるようなか ら眼をはなすことができなかった。それというのが、このいとこには、ある感情が、心の奥に、 ある理解の表情があり、それが元の心をひきつけるからである。元は盛と話したいと思った。し かし、盛も三番目のいとこの盂も話をせす、やがて盛は本を読みはじめ、。ヒーナツツがなくなる と孟はどこかへ行ってしまった。 しかし、こんなに人間でいつばいの部屋では話をするのも容易ではなかった。子供たちは何か といえば泣くし、お茶とか食べものとかを運んでくる召使が、たえす通るので、扉はしよっちゅ う音をたてるし、いとこの妻は、びそひそ声で話をしているし、愛蘭は、その話に興昧を持った ふりをして大声で笑ったりしていた。 こうして、ながい一夜はすぎた。豪な晩餐会がひらかれ、伯父と上のいとこは信じられない ほど食べた。そして、ある料理が思ったほどでないと、一緒になって苦情を言い、肉や菓子の料 理の出来ぐあいを比較し、ある料理がうまくできていると大きな声でほめ、自分たちの批評をき
王商人は、いつもよりも策謀にとみ、かっ抜けめがなかった。彼は要所要所にわいろをつかっ たが、事件に関係したすべての人がありがたいと思うだけ贈って、もっとほしがる欲心を起させ ないように用心した。釈放命令が、こんどは署長のところへ到達した。王兄弟は署長がそれを受 めんっ けとる時刻を、よく気をつけていた。彼らは誰でも面子がつぶれることには堪えられないことを 承知していた。だから、命令がきたころを見はからって、なにも知らない顔をして警察署長を訪 間し、かなりの贈物をおくり、何度も謝罪して、長男の釈放を願った。きわめて腰を低くして、 相手を慈悲ぶかい人として懇願した。とうとう署長は、無造作に、そして恩にきせるような横柄 な態度で、わいろを受けとった。それから長男を牢から出させ、説諭を加えて放免した。 王兄弟は察暑長のために盛宴を張った。これで事件は解決した。青年は、ふたたび自由の身 となった。しかし彼の恋情は、人獄のために、い くらか冷却した。 けれども娘のほうは相変らす強硬で、またやかましく父をせめたてた。こんどは署長も、いく らか心がうごいてきた。この王一家が、いかに有力であるか、兄弟の一人が、いかに強力な軍閥 であるか、王商人が、いかに莫大な金をもっているか、ということがわかってきたからである。 彼は媒酌人を立てて王一のところへ由・し入れた。 「二人を結婚させて両家の交誼をいっそうかためようではありませんか」 こうして交渉はどんどん進んだ。婚約がむすばれ、きたるべき最初の吉日をえらんで婚礼がと り行われることになった。王一夫妻はほっとして、うれしさでいつばいであった。花婿のほうは、 一」の急激な事態の好転に、ちょっとぼんやりしていたが、以前の情熱がよみがえってきて、これ も心から満足していた。花嫁は勝利に酔っていた。
しだが、旧時代の人間というものは、なんと恥すべきなので うに両親になやまされているらし、 あろう、とロのなかでつぶやいた。そして自分は、この自由な時代の男女にふさわしい方法によ って彼女に接近しよう、と考えた。断じて仲だちはもとめまい、両親にも、彼女の兄にも世話に なるまい、という決心なのである。熱にうかされたようになって、あわただしく幾冊かの愛読の 小説をひらいて、自由恋愛の主人公は恋人にどんな手紙を書くのであろうかと研究した。それか ら彼は、それに似た手紙を書いた。 その手紙を彼は娘に宛てて書き、終りに自分の名を記した。手紙は礼儀ただしい巧妙な一言葉で はじまっていた。それから、自分は自由な霊魂であるとか、あなたもそうだと思うとか、だから あなたは私にとっては太陽の光にほかならないとか、あなたは牡丹の花の色であり笛の美しい音 であるとか、あなたは、あのせつなに私の胸から心臓を摘みとってしまったのだとか、そんなふ うなことを書きつらねた。手紙を書きあけると、彼は自分の專属の下男を使にして彼女のところ へとどけさせた。そして、その返事を熱病にでもかかったみたいになって待っていた。両親が病 気ではないかと心配したほどである。やがて下男は、返事はあとからおとどけするそうです、と 言って帰ってきた。彼は待つよりほかはなかったが、待つのは、とてもいやな気持だったので、 地家じゅうのものが、しやくにさわった。弟や妹がそばにくると容赦もなくなぐりつけた。召使ど もを叱りとばした。気のよい父の妾でさえ、「あなたは気が狂いかけている野良犬みたいです ! 」 大 と叫んで、自分の子を彼の手のとどかぬところへつれて行ってしまったほどであった。 三日後に使のものが返事を持ってきた。その三日間、返事を待ちかねて門のあたりをうろうろ していた長男は、それをひったくって、自室へとんで帰り、封を切ろうとして、あまりあわてて、
ばで見張っていないと、帳場でぶらぶら怠けていたり、ほかの店員たちと笑ったり、世間話をす るだけである「十二歳にな 0 たばかりの末の子まで見習いとして店に入れてあるが、すこしでも ひまがあると往来へ出て、ほかのいたすら小僧どもと銅銭を投ける賭けをしている。その腕白小 僧どもは店の戸口のところで集まって彼を待っているのである。彼は何しろ主人の息子だから、 だれも彼の気にさわるようなことは言わないし、また彼が銅銭をほしがってやいやい言えば、誰 かが店の銭箱から一つかみ取り出してやるのである。そして、みんなでよく見張 0 ていて、王商 人の姿が見えると、あわててその子をそっと店に走り帰らせるのである。王虎は、この兄がもう けにばかり熱中していて、息子たちのことはすこしもかまわないのを知った。彼がそんなに熱心 に集めた財産を、いっか子供たちが同じ熱心さで浪費するだろうということも、また、子供たち が店員づとめを辛抱しているのは、父の死を待っているのであって、父さえ死ねば、働かすにの んきに暮せると思っているのだということを、この次兄は、すこしも考えっかないのだ。 また王虎は、長兄の息子たちが、いかに気むすかしく、おしゃれであるかを知った。夏は凉し い絹、冬はあたたかい毛皮というふうに、肌ざわりのいい上等のものでなければ身につけないの である。青年だから、何でもさかんに食うべきだのに、ろくに食べもせす、ぶらぶら歩きまわり、 これは甘すぎるの、あれは辛すぎるのと文句を言い つぎつきと料理の皿をつき返し、奴隷たち を、ああでもない、 こうでもないと奔命に疲れさせるのであった。 こうしたありさまを眺めていると、王虎は憤らすにはいられなかった。ある晩、彼が亡父のも のだった庭をあるいていると、女のくすくす笑う声が耳にはいった。ふいに、どの奴隷かの子で ある小さな娘が、庭のまるい門を駆けぬけようとした。おどろいて、息をきらしている。王虎が
出てきて、月をあちこちゅらめかせているようだ。赤ん坊たちは母親の胸に眠っている。どこの 家の幼い者も、とっくに母の胸をもとめて眠っているころである。ただ王一夫人の末の娘だけは 起きていた。彼女は、今年十三歳になったばかりの少女だが、すらりとして、気が勝っており、 最近婚約がきまったので、おとなびていた。王一の第二夫人は、やさしい母親で、二人の子供を 抱いていた。一人は一年以上になるが、もう一人は生れてやっと一か月をすこし過ぎたばかりで ある。王一は、いまも変らすこの女を愛しているのである。王虎の妻たちはというと、これもお のおの自分の子を抱いていた。男の子は頭を母の腕によせかけて眠っており、満月の光が、その 顔にいつばいに降りそそいでいる。王虎は、その小さな眠り顔を、何度も何度も、あかす眺めて 夜半をすぎると歓楽はっきた。王一の息子たちは、一人すっ席から姿を消して行 0 た。彼らに は、ほかに楽しいことが待っているし、年長者たちの前に長くかしこま 0 て坐っているのは退屈 だったからだ。彼らは気がねをせすに平気で立って行ったが、王商人の次男は、うらやましそう にそのあとを見送っていた。父親がこわいので、思いきってついて行くことができないのだ。召 使どもも疲れて早く休みたがっていた。彼らは席から姿を消し、そちこちの戸口にもたれかかっ て、あくびをしたり、たがいに愚痴をこぼし合ったりしていた。 「小さい子たちが夜明けから起きたので、朝 0 ばらからその世話をしなければならなかったよ。 たいじん だのに、あの大人たちは、真夜中まで飲みあかそうっていうんだからね。だから、まだ用事があ るんだよ。わたしたちを寝かさないつもりかね」 うたげ けれども、ついに宴もおひらきになった。それよりまえに、王一は酔いつぶれてしまっていた
に必要だったのである。なせならば、この春、彼の生活は、これまで夢にも思っていなかった方 向へねじまけられたからである。 ある一つのことでは、元は盛よりも愛蘭よりも非常におくれていて、孟とくらべてさえおくれ : 彼らは、この大都会で青春を ていた。この三人は元よりもあたたかい空気のなかに暮してした。一 すごし、大都会の刺戟が彼らの血のなかに注ぎこまれていた。ここには青年にうったえる無数の 刺戟があった。壁にえがかれた恋愛と美人の絵、外国の男女が演する恋愛映画が上映されている 映画館、わすかな金で女を一夜買えるダンスホ 1 ル、こうしたものは、なまの刺戟である。 このほかに、恋愛をあっかった物語や小説や詩が、どんな小さな店にでも売っていた。昔はこ うしたものはすべてみだらなものとされ、若い男女の心の火に油をそそぐ発火剤として、誰も、 おおっぴらには読まなかったものである。ところが、今日では、外国の微妙な思想が侵人してき て、芸術とか天才とかその他の美名の下に、若いものが、これらの作品を、いたるところで読ん いかに名前は美しくとも、依然として発火剤は発 だり研究したりしているのであった。しかし、 火剤であり、昔ながらの火は燃え立たせられるのである。 に若い人たちは男も女も大胆になり、古い慎みぶかさは失われてしまった。手を握りあっても昔 地のようにみだらな行為とは見られないし、若い男が自分で若い女に婚約を申し込んでも、娘の父 栽が男を法廷に訴えるようなことはしなかった。昔は、そしていまでも、外国風の自由な習慣が 大 ういうことが行われているのである。そして、二人が公然と 普及されていない奥地の町では、そ 婚約すると、まるで未開人のように自由に行き来する。そして、よくあることだが、若い血がは げしく燃えすぎ、まだそのときにならぬうちに肉と肉とが触れあうようなことがあっても、両親
は神さまの思召しじゃねえのかね。人間のカで追いはらえるものなのかね。ともかく、本のなか うん、こりや、たいしたものだそ。なにしろ、植えつけ にも役に立っことが書いてあるだな ても種子をまいても、虫に食われりや、なんにもならねえだでな」 そう言って百姓が自分の畑につかう殺虫剤をくれと頼んだので、元は、よろこんでわけてやっ た。こうしたことで、彼ら二人は、ある意味では友達になった。元の畑は誰よりもよくでき、こ のため彼は百姓に感謝し、百姓のほうでも彼の豆がよく育ち、隣の畑のように虫に食われなかっ たことを元に感謝した。 このような友達を持ち、わすかながら働く土地を持ったことは、元にとってよいことであった。 なぜなら、その春のあいだ大地の上でせっせと働いていると、これまで知らなかった満足感が湧 いてくるのをおぼえたからであった。元は服を百姓の着るような普通の服に着かえ、靴までわら じに変えることをお・ほえた。そして百姓は、未婚の娘はいないし、女房はもう年をとって醜かっ たので、元を自由に自分の家に出入りさせた。それで元は野良着を百姓の家にあすけておいた。 こうして元は毎日ここへくると百姓に早変りした。彼は自分でも思っていた以上に土地に愛情を 持った。種子が芽ばえるのを見ているといい気持で、そこには詩があった。それは、かって彼が 表現しようと思い、それについて詩をつくってみたものの、ついに表現することができなかった ものであった。彼は畑の仕事そのものを愛し、自分の仕事がすむと、しばしば例の百姓の畑を手 伝った。そして、百姓に招かれるままに、気候もあたたかくなったので、百姓の女房が食卓の用 意をした打穀場で一緒に食事をすることもあった。彼は次第にたくましく陽にやけていったので、 ある日とうとう愛蘭が言った。「元兄さん、どうしたの。日ごとに黒くなるじゃないの。百姓み
がら骨ひとつ見えず、やわらかい、ふくよかな肉におおわれた美しい腕が、むきだしになってい 四た。子供のように細いが、女らしくふつくらした手首には、彫刻した銀の腕環をかけ、両手の中 指には銀のヒスイの指環をはめ、黒玉のようにつややかに黒い髪は、美しく化粧した顔をふちど るようにカールしてあった。肩には、やわらかい、雪のように白い外套をかけていて、部屋には いってくると、それをさっとはねのけ、自分が美しいことをよく意識し、自分の美しさに無邪気 な誇りをもって、はじめに元のほうを、それから母のほうを、にこやかに笑いながら見た。 夫人も元も愛蘭を見て、眼をはなすことができなかった。愛蘭のほうも、これを見て、心から うれしそうな、勝ちほこった笑い声をあげた。この笑い声で夫人はやっと娘から眼をはなし、静 かに言った。「今夜は誰と一緒に行くの ? 「盛のお友達とよ」と愛蘭は陽気に答えた。「作家なのよ、お母さまーーー有名な小説家ーーー伍 リーヤン 麗陽よ。 それは元もときどき耳にしたことのある名前であった。ーー、事実、西洋風の小説家として有名 な人物で、その小説は自由奔放、男女間の恋愛を取り扱い、たいていの場合、主人公の死で終っ ていた。そんな小説なので、元は人にかくれて読み、読んだことを恥かしく思っていながら、そ の小説家に会うことには、すくなからす好奇心をもっていた。 「ときには元もつれて行ってあけなさいよ」と母はおだやかに言った。「あまり勉強がすぎる って、いつも言っているんですよ。たまには妹ゃいとこたちと、すこし気晴ししていけないこと はありませんからね 「そうよ、元兄さん、あたしのほうは、すっとまえから待っていたのよ」と愛蘭は、あふれる
部屋にはいると、伯父が大きな腹を族から両手で抱えあけるようにして立ちあがった。その腹 からは錦織の長衫がカーテンのようにたれていた。伯父は、あえぎながら、客にむかって、挨拶 あねうえ の言葉をのべた。「ええと、嫂上に、弟の息子に、愛蘭 ! ところで、ええと、この元も背が高 くて、色が黒くて、おやじによう似とるな いや、似てはおらんー・ー・たぶん、いくらかおやじ よりはおとなしいようだーーー」 伯父は太鼓腹に波うたせて、あえぐように笑い、またやっとのことで椅子に腰をおろした。っ づいて伯母が立ちあがったが、元が横目で見ると、ととのった灰色の顔をしていて、黒い繻子の てんそく 上衣とスカートを着た、きわめて質素な上品な婦人で、両手を袖にいれて前でくみ、小さな纏足 をした足なので、立っているのもお・ほっかなげであった。彼女は一同に挨拶をして言った。「お ねえ 変りもなくて、なによりでございます、嫂さん、それに元さんも。愛蘭、あなたはやせましたね 細くなりすぎましたよ。近ごろの若い娘さんは、やせるために食べるものもろくろく食べす、 男の服のような大胆な、からだにびったりした服を着るようになりました。どうそおかけくださ 住伯母のそばに元の知らない女が立っていた。磨きたてたパラ色の頬、石鹸で洗ってびかびかし 地ている肌、田舎風に額からまっすぐにたらした髪、非常に明るいが賢こすぎるというほどではな い眼をした女である。誰もこの女の名を教えてくれないので、召使なのか、そうではないのか、 大 元には見当もっかなかったが、やがて母が、この女にむかって、ていねいな挨拶をしたので、こ れが伯父の第二夫人であることがわかった。そこで元がちょっと頭をさげると、その女は顔をあ からめ、田舎の女がするように、両手を袖に入れておじきをしたが、ロはきかなかった。