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検索対象: 大地(三)
232件見つかりました。

1. 大地(三)

233 はない」そして彼は、その男が偽者で、匪賊のスパイかもしれぬと、ひそかに怖れたのであった。 ところが、その明日という日は、とうとうこなかった。というのは、王虍将軍の兵営にも、そ のうわさがったわっていたからである。その日、元は、いつものように起き、戸口に立って食事 をし、お茶をすすり、はるか遠くを眺めながら空想にふけっていると、遠くに、人の肩にかつが れた轎が一つ、それからまた一つつづき、そのまわりを一隊の兵隊がとりかこんで歩いてくるの が眼にうつった。そして、その兵隊が父の兵隊であることが軍服でわかった。そこで彼は、急に 食物もお茶もほしくなくなり、家のなかへはいって、食べものをテーブルの上におき、近づいて くる轎を待ちながら、心のなかで吐きたすような気持で考えた。 ( たぶん、あれは父だろう たがいに何と口をきけはいいのだろう ? ) いっか一度は、かならす父と顔を合わせなければなら ないこと、そして、いつまで逃けおおせられるものではないことがわかっていなかったら、彼は 畑を通って子供のように逃けだしたい気持であった。彼は、ひどく乱れた心を抱いて待っていた。 むかしの子供時代の恐怖を、なりにもふりはらったが、待っているあいだ、ものを食べる気には なれなかった。 ところが、轎が近づいてきておろされると、出てきたのは父ではなかった。男ではなくて、二 人の女であった。一人は母、そしてもう一人は母の侍女である。 めったに母に会ったことがないし、またこれまで母が家を出た記憶がないので、元はまったく 驚いてしまった。いったい、 どうしたのだろうといぶかりながらも、挨拶をするために、ゆっく りと出て行った。母は侍女の腕にもたれて彼のほうへ歩いてきた。白髪で、上品な黒い服を着て いて、歯がすっかり抜けているので頬がく。ほんでいた。しかし頬には、いまだに美しく赤味がさ

2. 大地(三)

どもにとって、そんなにえらく見えるのかと思うと、いささか得意になり、いよいよ威風堂々た る態度をつくって進んで行った。 やがてナツメの木の茂る亡父の墓地についた。王龍が、はじめてここを墓地とさだめたころに は、このナツメの木は、まだしなやかな若木であったが、いまは曲りくねって、こぶだらけであ った。そして根もとから、幾株もの若木がわかれて出ていた。王虎は亡父に敬意をあらわすため に、墓地からすっとはなれたところで馬をおり、ゆっくりとナツメの木に歩みよった。部下の一 人が赤毛の馬の手綱をもって立っていた。王虎は、うやうやしい態度で、静かに亡父の墓の前へ 行き、三拝の礼をした。紙銭や香をはこんできた部下が、まえに進み出て、王龍の墓にその大部 分をそなえ、ついで王龍の父、王龍の弟、それから王龍の妻ーー王虎が母としてかすかにお・ほえ ているにすきない阿藍の墓の順に供えた。 王虎はふたたび、うやうやしい態度で、静かに墓前に進み、線杳に火をつけ、紙銭を焼き、ひ ざますいて頭をさげて、順々にどの墓の前でも同じことをくりかえした。それがすむと、立った まま、身じろぎもせすに物思いにふけっていた。火が燃えて金や銀の紙銭が灰となった。線香の っ煙は冷めたい大気のなかに、するどい杳りをただよわせた。陽もささす、風もない、雪もよいの、 火色にくもった寒い日である。線香のほそい煙が、うす暗い空に、くつきりと立ちの・ほった。将 軍が亡父をしのんで物思いにふけっているあいだ、部下は物音一つ立てすに待っていた。やがて 大王虎は身を返して馬のところへ行き、馬上の人となって、もときた道を戻って行った。 物思いにふけっていたとき、彼はすこしも父の王龍のことを考えていたのではなかった。自分 のことを考えていたのである。彼が死んで地下に横たわっても、子として墓に詣でてくれるもの

3. 大地(三)

170 また窮民は、王家の一族はにくんでいても、王家の所有に属するあの土の家は襲わなかった。 そうなその家は、ようやく引きかけている洪水のなかの丘の上に立っていて、梨華が、白痴と せむしと一緒に、まったく安全に、つらい冬をしのいで暮していたのであった。梨華の慈悲ぶか いことは誰知らぬものもなかったし、彼女が王家に乞うて窮民に食糧をほどこしたりすることも 知っていた。だから多くの罹災者が、小舟やタライをうかべて彼女の家へ泣きついてきた。彼女 は彼らに食をあたえた。一度、王商人が彼女のところへきて言った。 「こんな物な世の中になってきたから、あんたも城内へ移って、大きな家でみんなと一緒に 暮したらどうですかね」 しかし梨華は例の落ちついた調子で答えた。 いえ、そうはできません。べつにおそろしいこともありませんし、わたしを頼りにしてい る人たちもあることですから」 しかし、冬が深くなり寒気がつのってくると、彼女でさえ、ときどきおそろしくなることがあ った。まだ舟の中に住む人々や、樹の枝にかじりついている人々は、飢えにさいなまれ、凍った 水面をわたる寒風に吹きさらされて、野獣のようになってきて、梨華がまだ白痴とせむしを養っ ているのさえ腹立たしくなってきたのである。彼女からもらった食べものを手にしながら、彼女 の面前でも、ぶつふついうのであった。 「こんなものをまだ生かしておくのかな。ちゃんと五体の満足な人間が、ちゃんとした子供を かかえて死にかけているというのに ! 」 そんなつぶやきがたびかさなり、しだいに高くなってゆくので、不具者のくせに満足に食べて

4. 大地(三)

のである。 自分で思っていたほどの人間ではなかったと感じると、自分の前途が、いたすらに長く無意味 にひろがっているような気がしてきて、果してえらくなれるのかどうか、疑わしくなってくる。 かりにえらくなったところで、その偉業を伝えるべき子供がない以上、すべては死とともにうし なわれ、持っているものは他の者の手にわたってしまうのだから、なんの役にも立たない。戦場 で闘ったり、策略をめぐらしたりしてまで、何かを残したいと思うほど、兄や兄の子供たちを愛 してはいない。彼は暗い静かな部屋のなかでうめいた。苦しいうめき声が洩れた。 「おれはあの女を殺したとき二人を殺したのだ。一人はおれがもつはすであった子供だ」 それから彼は、ふたたび思いだす。すると、きまって妻の死んだすがたが眼にうかんでくる。 ほうふつ 白い美しいのどをつき刺され、傷口から真赤な鮮血がほとばしり出ている、その光景が彷彿とし て、いつまでも瞼から去らないと、彼は、たまらなくなってきて、急にこの寝台に寝ていられな くなるのであった。もちろん寝台は洗い清められ、塗りなおしてあるから、どこにも血の痕はな いし、枕も新しい。また、誰にもこの寝台の上で起ったことを語らないし、妻の死体がどこで処 分されたかも王虎は知らないが、とにかく寝ていられなくなるのである。起きて、ふとんにくる まって、暁の弱い光がほの白く窓からさしこなまで、みじめな気持で椅子の上でふるえているの であった。 こうして冬の夜は、毎夜、同じようにすぎて行った。とうとう王虎は、これではやりきれない と心に叫んだ。こうした悲しい、わびしい夜がつづくと、しだいに気が弱くなり、大望も消えて しまう、と気がついたからである。彼は自分で自分が恐ろしくなってきた。何にたいしても興味

5. 大地(三)

かりになっていたのだが、ただ彼はそれに発火剤を投じようとしなかっただけであった。 しかし、ついに発火剤は投じられた。それは彼も予想できなかったし、また、誰に予想でき ないことであった。 それはこういういきさつであった。ある日、元は教師が宿題として壁にはり出した外国の詩を 写すため、教室に残っていた。そして、おそくなったのでほかの学生はみな帰ってしまった、と 彼は思っていた。たまたまこれは、彼も盛も、それから革命党員だという、あの顔の蒼い女学生 も出席する講義であった。元が写しおわってノートをとじ、ペンを - ホケットに入れ、立ちあがろ うとしたとき、彼の名を呼ぶ声がきこえ、こういうものがあった。「王さん、ちょうど、 しとこ ろなのでお願いするんですけど、この詩の意味を説明していただけません ? あたしよりあなた のほうがよくおできになるんですもの。教えていただければありがたいのですけど」 それは非常に気持のいい声であった。若い女の声だったが、愛蘭や彼女の友達のような、なま めかしい声ではなかった。若い女にしては、なんとなく深みがあり、たつぶりと、身にしみるよ うな調子なので、なんでもない言葉を言っても、単なる言葉以上の意味をもつように思われる声 地だった。元がいそいで顔をあけて見ると、驚いたことには、そばにあの革命党員の女学生が立っ ていた。その蒼い顔は、いつもよりも蒼かったが、そばに立っているのを見ると、その黒い細い 眼は、すこしも冷たいと一、ろはなく、心のあたたかさと感情があふれ、凍ったような顔の冷やか 四さを裏切って、蒼い顔色のなかで燃えていた。彼女は、じっと彼を見つめ、それから静かにそば に腰をおろし、彼の答えを待った。日常、誰にでも話しかけるような冷静な態度であ 0 た。

6. 大地(三)

210 は藍色の上衣を開け、陽にやけてはいるが、すべすべたし、はちきれそうな胸を見せて、高い若 若しい声で叫んだ。「お父さんは私を殺すだろうと思っていました , ーーそれがお父さんの旧式な 唯一の解決策なのですからねーーさあ、殺してください ! 」 しかし、そう叫びながらも、彼は、父には自分を殺せないとわかっていた。ふりあけた父の腕 が、そろそろとさがり、剣がゆっくりと空を切って落ちるのが見えた。そして、息子がもはな さすみつめていると、父のくちびるが泣きだしそうにふるえ、そのふるえをとめようと父がくち びるを手でおさえるのが見えた。 父と子が、こうしてにらみあっているとき、若いころから将軍に仕えてきた忠実なみつロの老 人が、眠るまえに主人の気持をしず物る、いつものあたためた酒をもって、はいってきた。この 老人には青年のほうは、全然眼にうつらなかった。見えたのは老主人のすがたばかりで、ふるえ ている顔や、弱々しい怒りの色が急に消えるのを見ると、老人は声をあけて走りより、いそいで 酒をついだ。すると王虎将軍は、息子のことも忘れ、剣をほうり出し、ふるえる両手で大盃をつ かみ、ロへ持って行って、いくどとなく飲んだ。一方、忠実な老僕は、もっている錫の酒壷から、 どんどんついで行った。王虎将軍は、ひっきりなしに、「もっとつけーーーもっとっげーーー」とつぶ やくように言い、泣くのを忘れた。 青年は立ったまま二人を見守っていた。彼は、この二人の老人を見守っているのだが、一人は 傷つけられた気持のやりばを、ひたすらに子供つぼく酒に求めているし、一人は、みにくいみつ ロの顔を主人おもいの愛情にゆがめながら身をかがめて酒をついでいる。それは、こんなときで 、酒と酒によるなぐさめしか念頭にない二人の老人にすきなかった。

7. 大地(三)

て寝台から起きまいと決心した。それでいながら、いまの出来事が気になってたまらす、とても じ 0 と寝てはいられなか 0 た。そのとき、とっぜん馬のことを思いだした。馬は打穀場の柳の木 につないだままで、飼料をやったり世話をしたりするように老人に命じてなかったので、いま〒 もつないだままになっているにちがいないと思い、彼は起きあがった。というのが、彼は普通の 人間よりも、そういうことには、やさしい心をもっていたからである。部屋は、ひどく冷えこん でいたので、羊皮の上衣をびったりとまとい、靴をさがしてはくと、辟一づたいに手さぐりで戸口 まで行き、扉をあけて出て行った。 燈のついた中の部屋には、老若とりまぜて二十人ばかりの百姓たちがいた。そして、彼のすが たを見ると、一人立ち二人立ちして、みんな立ちあがり、じっと彼をみつめた。彼は、おどろい て一同を見たが、あの老小作人の顔以外には、知・つている顔は、ひとつもなかった。やがて、一 同のうちでも、もっとも年長の、もっとも温和な顔をした、青い服の百姓が、すすみ出た。むか しながらの田舎風に、まだ白髪を辮髪にして背中にたらしていた。その男は、おじきをして、元 にむかって言った。「この村の年寄りどもが、あなたさまに御挨拶にまいりましただ」 元は、かるく会釈し、一同にも席につくように言い、自分も、彼のためにあけてある白木のテ ーブルの一番の上窮についた。待っていると、やがてさっきの老人が口を開いた。「お父上は、 いつおいでになるのでごせえましようか」 元は簡単に答えた。「父はこないよ。。ほくは、しばらくひとりで暮したいと思ってきたのだ」 これをきくと一同は、蒼い顔をして、たがいに限を見あわせた。そして、例の老人が、またひ とっ咳ばらいをして口をひらいた。この老人が一同の代表者であることがわかった。 「この村の しらき

8. 大地(三)

しみなやんだのであるが、そのことを知っているものは、だれもいなかった。そのため彼は、年 齢のわりに、ぎまじめで、無ロで、いつも憂鬱そうにしていた。父を愛していながら、父に誇り をもっことができなかったのである。 たから、この夜明けの淡い光のなかに立った元は、ながい年月の心の戦いに疲れて、すでにカ もっきはてていた。それから逃げ出したい気持だった。あらゆる戦いから、どんな大義名分から も逃げ出したかった。しかし、どこへ行けばよいのか。人の目を盗むこともできす、父の愛情に よって、この壁のなかへとじこめられていたので、彼は友人もなく、行くところもなかったのだ。 やがて元は、戦闘と戦闘の物語ばかりのなかで育ってきたこれまでの生涯のうちで、これほど 平和なところはないと記憶している場所を思いだした。それは小さな古い土の家で、一介の農夫 だった祖父の王龍が、金持になり、家を起し、城内に移り、王大人と呼ばれるようになるまで住 んでいた家であった。その家は、いまでも村はすれにあって、三方は静かな畑地になっていた。 元はおぼえているが、家の近くの小高い丘の上には、王龍の墓をはじめ、ほかの家族たちゃ祖先 の墓があった「子供のころ、父が、その土の家の近くの町に住んでいる一一人の兄、地主の王一と ワン・アル IJ 商人の王二をおとすれたとき、一緒につれられて、一、二度、あるいはもっとたびたび行ったこ 地とがあるので、よく知っていた。 あの小さな古い家へ行けば、平和で、ひとりきりになれる、そう元は思った。なぜなら、元も 大 よくおぼえている、あの静かな、おちついた顔をした女が尼僧になってしまってからというもの、 父が年をとった小作人をすまわせている以外に、誰も住んでいないからだ。元はその女を一度見 たことがある。二人の妙な子供と一緒に住んでいた。一人は髪の毛の白い白痴で、これはもう死

9. 大地(三)

でしよう」青年は、この自分の言葉に、すこしほほえんだ。そのはかない冗談で父の心をなだめ、 父の心をやわらげようと希望しているかのようであった。 けれども王歴は一言も答えなかった。「お父さん、私はあなたを選びました」と言った息子の 言葉の意味がわからなかったのだ。王虍は、だま 0 てじ 0 と坐っていた。生涯の苦痛が彼の心を 一面に覆っていた。長いあいだ濃霧のなかを歩いていた人が急に晴れわたったところへ出るよう に、その瞬間、王虎は生涯のあらゆる夢からさめたのである。彼はわが子をながめた。そこにい るのは彼の見知らぬ青年であった。彼は、わが子を夢み、その夢にそ 0 くり合うように彼を育て てきた。だが、いまここに立っているその息子は、彼の見知らぬ青年であった。平凡な百姓にな るというのか ? 王虎はふたたびわが子をながめた。そして眺めているうちに、わけのわからぬ、 いっかも味わったことのある奇妙な心細さが、ふたたび心にしのびよるのを感じた。それは少年 の日に、あの土の家が牢獄と思われたときにいつも感じたのと同じ、なやましい心ぼそさであっ た。大地のなかに埋まっている彼の老父が、ふたたびその土の手をさしのべて彼の息にふれたの である。王虎は、わが子をななめに見て、ロに手をあてたままつぶやいた。 「ーーーおまえは軍閥の子ではないー 地 とっせん王虎は、し 、くら手でおさえても、くちびるのふるえがとまらないのだ、と田 5 った。泣 きたかった。その瞬間に屏があいて、腹心の老いたみつ口が入ってこなかったら、声をはなって 泣いたことであろう。みつロは酒瓶を持ってきた。酒は新たに燗をしたもので、立ちの。ほる杳り 力、かんばしく鼻をうった。 この忠実な老人は、昔の習慣どおり、扉をあけるやいなや、すぐに主人のほうへ眼を向けた。

10. 大地(三)

王虎は、大股に自分の天幕へはいって行 0 て、部下に、その男をつれてくるようにと命じた。 その男の裏切りを警戒して、五、」ハ人の護衛兵だけを残し、あとのものはみな外へ出した。しか し、この男は、王虎をおとしいれる意区などなく、ただひたすら劉門神にたいする復讐の念にも えていることは明らかであった。彼が、つぎのようにいうのをきいて、王虍は、そうさとったの である。 「私は劉門神にたいする憎悪と怒りがあるだけです。もう一度、城内へもどって、あなたのた めに城門を開いてあけたいと思います。私のお願いしたいことは、たた一つだけです。私と私に したがっている少数の部下を、あなたの部下として保護してください。もし劉門神を殺しそこね たら、彼は兇悪な敵ですから、私はさがし出されて殺されてしまうでしよう しかし王虎は、それだけの援助をしてもらって、それくらいの報酬ですませるような人物では なかった。彼は、二人の兵士のあいだにはさまれて立っているその男を、しつかりと見すえて一言 「きみは、じつに男らしい人間だ。侮辱はしのべるものではない。立派な人間は侮辱をしのぶ 「べきではない。きみのような勇敢な立派な人物を部下にすることは、わしとしてものそなところ だ。かえって、きみの部下やその他の兵に、銃をもって降伏してくるものは、一人も殺さす、わ 地 が軍に編入するとったえるがよい。きみは、わが軍の大尉に任命する。そして銀二百元を賞与と 大してあたえる。銃をもってきみにしたがってくるものには、それそれ銀五元すつあたえよう ゆがめていた男の顔が急に明るくなった。彼は熱情をこめて言った。「あなたこそ私がこれま での生涯にさがしもとめていた将軍です。もう、まもなく夜が明けます。今日この太陽が中天に