210 は藍色の上衣を開け、陽にやけてはいるが、すべすべたし、はちきれそうな胸を見せて、高い若 若しい声で叫んだ。「お父さんは私を殺すだろうと思っていました , ーーそれがお父さんの旧式な 唯一の解決策なのですからねーーさあ、殺してください ! 」 しかし、そう叫びながらも、彼は、父には自分を殺せないとわかっていた。ふりあけた父の腕 が、そろそろとさがり、剣がゆっくりと空を切って落ちるのが見えた。そして、息子がもはな さすみつめていると、父のくちびるが泣きだしそうにふるえ、そのふるえをとめようと父がくち びるを手でおさえるのが見えた。 父と子が、こうしてにらみあっているとき、若いころから将軍に仕えてきた忠実なみつロの老 人が、眠るまえに主人の気持をしず物る、いつものあたためた酒をもって、はいってきた。この 老人には青年のほうは、全然眼にうつらなかった。見えたのは老主人のすがたばかりで、ふるえ ている顔や、弱々しい怒りの色が急に消えるのを見ると、老人は声をあけて走りより、いそいで 酒をついだ。すると王虎将軍は、息子のことも忘れ、剣をほうり出し、ふるえる両手で大盃をつ かみ、ロへ持って行って、いくどとなく飲んだ。一方、忠実な老僕は、もっている錫の酒壷から、 どんどんついで行った。王虎将軍は、ひっきりなしに、「もっとつけーーーもっとっげーーー」とつぶ やくように言い、泣くのを忘れた。 青年は立ったまま二人を見守っていた。彼は、この二人の老人を見守っているのだが、一人は 傷つけられた気持のやりばを、ひたすらに子供つぼく酒に求めているし、一人は、みにくいみつ ロの顔を主人おもいの愛情にゆがめながら身をかがめて酒をついでいる。それは、こんなときで 、酒と酒によるなぐさめしか念頭にない二人の老人にすきなかった。
た。この着物は、外出するときには着るが、事務所にいるときには、もったいないので、ぬいで いるのである。彼は兄の家へ行って、門番に、主人は在宅かどうかときいた。門番が案内しよう とすると、王二は門のところで待っているから、と言った。門番がはいって行って奴隷女にきい てみると、 ( クチ場へ行っていらっしゃいます、という返事だった。王商人はこれを聞くと、さ っそくそこへ向った。夜のうちに降った雪がまだのこっている寒い日だった。食うために出歩か ねばならぬ行商人とか、兄のように遊びのために出て行く連中の通ったあとが、往来の中央を踏 みかためて細い小径をつくっていた。王二は、まるで猫が石のごろごろした道をひろい歩くよう に、用心して歩いた。 彼は睹博場へ行って、そこにいる男に兄のいる部屋をきいた。扉をあけると、火鉢に炭をかん かんおこしてあたたかくした小さな部屋で、数人の友人たちと賭けごとをやっていた。 王一は、・弟が扉から ~ 目を出したとき、勝負を途中でやめて席をはすせる口実ができたことを内 心ひそかによろこんだ。中年から賭けごとをはじめたので、彼はあまり勝負が上手ではないから だ。父の王龍が生きていれば、息子たちに町の睹博場で睹博をすることなど許さなかっただろう。 王一の長男は子供のときからやっているから頭もよくはたらくし上手だった。二番目の息子でさ え、勝負に加われば、たいてい勝って銀を儲けてくる腕前をもっていた。 だから王一は、弟がなかば開かれたのあいだからのそきこむと、よろこんで立ちあがり、あ わただしく友人たちに向って言った。 「弟が何か用事があるそうだから、やめなければならない」部屋があたたかいのでかたわらへ ぬいでおいた毛皮の上衣をとりあけて、王商人の待っているところへ出て行った。しかし、ちょ
見て、義憤を感じたものだった。しかも、いまこの車夫がおすおすとふるえ、走った後なので汗 をながしながら、元の絹の服や血色のよい顔を見て、「旦那、心づけをすこしはすんでおくんなさ い」といったとき、彼は全然同じ気持になれなかった。元は自分を金持と思っていなかったし、 。いくらやっても満足しないということをきいていたからである。そ こうした車夫というものよ、 れで彼は強く言った。「約東の賃金は、それだけじゃないか」すると車夫は、ため息をつきなが ら答えた。「へえ、お約東は、これだけでございます。ーーでも、旦那の優しいお心におすがりし たいと思いましてーーー」 しかし元は、その男のことなど心にかけていなかった。門のほうへ行くと、そこにあったベル を押した。車夫は自分が忘れさられたのを見ると、またひとっため息をし、頸にまいていた、き たない布きれで、ほてった顔をふき、汗もたちまち凍るようなきびしい夜風にふるえながら、通 りをふらふら帰って行った。 下僕が門をあけにきたが、彼は元をあやしそうにみつめて、しばらくのあいだは門のなかに入 れようとしなかった。それというのが、この都では立派な服装をした見しらぬ男が、門のベルを 仼ならし、自分はこの家に住んでいる人の友人だとか親類だとか称し、招き入れられると、外国製 地のピストルを出し、強盗、殺人、そのほか思う存分のことをし、ときには仲間がはいってきてカ をあわせ、子供や大人をつかまえて連れ去り、身代金を要求するようなことがあったからだ。そ 大 れで下男は急いでまた門をしめ、元は名をなのったのだが、しばらく門の外に待たされた。やが て、ふたたび門が開き、こんどは大柄な白髪の、濃いスモモ色をした服の、しすかな、いかめし い顔の婦人があらわれた。相手が自分を見ているあいだ、元もその婦人をみつめた。やさしそう
「やはりその学校へ留学させたほうがよいと思うかね」 教官はうなすいて賛成の意味をあらわした。王虎は、つらそうに少年をみつめていたが、とう とうたすねた。 「そしておまえも行きたいだろうな」 い 0 たい、王虎がわが子の意見を問うことは、きわめてまれであ 0 た。わが子のためになすべ きことは自分が一番よく心得ていると信じていたからである。しかしこのときは、子供が行きた くないと言いはしまいか、言 0 たらそれを口実に行かせすにすむ、というかすかな希望をいだい ていたのであ 0 た。しかし少年は、ネズの下に咲いている一群の白百合を見ていた眼を、すばや く上に向けて、父の顔を見て答えた。 「行くのでしたら行きますが、ほかの学校へ行けたら、たいへんうれしいです」 この返事は王虎にはおもしろくなか 0 た。彼は太い眉を寄せ、ひけをひ 0 ばりながら、気むす かしげに言った。 「軍官学校よりほかに、おまえの行くべき学校があるか。軍閥にならなければならんものが、 地本ばかり読んで、なんの役に立つのか , 少年は低い声で、つつましやかに答えた。「人からきいたのですが、このごろは畑の耕作法や 大 農業に関するいろいろなことを教える学校があるそうです」 王虎は、こんなばかばかしいことをきいておどろいた。そんな学校があるとは、きいたことも なかった。にわかに彼は、どなりだした。
分の部屋から出て行くと、彼が母とよんでいる夫人が、ひとり食卓について待っていた。愛蘭が いないので、食堂はひどく静かであった。こんなことは元にとってめすらしくなかった。なせな ら、愛蘭が友人と遊びに行っているときなど、二人きりで食事をすることがよくあったからだ。 ところが、今夜は彼が食卓につくやいなや、夫人は静かな口調で言いだした。「元、ずっと前か らあなたに頼みたいことがあったのですが、あなたが一生懸命に勉強をして、朝は早くから起き るし、睡眠をよくとらなければいけないことがわかっていたので、いままで言いださないでいた のです。でも、うちあけていうと、ある間題で、わたしは、ほとほと手をやいているのです。だ れかに力をかしてもらわなくてはならないのですが、わたしは、あなたのことを実の息子のよう に思っていますから、ほかの人には頼めないことでも、あなたには頼めるのです」 これをきいて、元はひどく驚いた。というのは、夫人はいつも確信にみち、落ちついていて、 考え方にしろ理解にしろ、まったく円熟しているので、他人の助けを必要とするとは考えられな かったからである。彼は茶椀をもったまま夫人を見あけ、いぶかしそうに言った。「・ほく、どん なことでもしますよ、お母さん。だって、・ほくがここにきてから、ほんとの母もおよばないほど やさしくしてくださったんですもの。いちいち数えきれないほどの御親刧をうけているんですも 彼の声や顔にあふれている率直な善良さに、思わす夫人の表情も崩れた。夫人は、くちびるを ふるわせながら言った。「話はあなたの妹のことです。わたしはあの子のために一生を捧げてき ました。あの子が男でなかったことが、ますわたしの最初の悩みでした。あなたのお母さんとわ たしは、ほとんど同じころ妊娠しましたが、やがてお父さんは戦争へおいでになり、帰っていら
の王商人のところへ行ってもい、。 一瞬間、あの家に行ったら愉しいだろうと思うと、記憶のな % かに朗らかな陽気な顔があらわれた。伯母の顔だ。彼の伯母やいとこたちのことを思った。しか し、それと同時に、いや、父からそんな近いところに行ってはいけない、伯父がきっと父に知ら せるだろう、あそこはあまり近かすぎる、と考えた。汽車に乗って、遠いところへ行こう。妹は 遠い海岸の都会にいるのだ。しばらくのあいだその都会に住んで、妹にも会い、陽気な環境のな かで愉しみ、また、きいただけで見たことのない外国の事物をすっかり見たいと思った。 そう思うと気がせいた。夜があけないうちから、彼は寝床をとび起き、顔を洗うお湯を持って くるように大声で宿屋の召使をよび、服をぬぐと、南京虫を追払うためによく打ちふり、召使が あらわれると、こんな不潔なところへ泊めたと言ってどなりつけ、一刻もはやく立ち去ろうと支 度した。 召使は元がかんしやくをおこすのをみて、金持の息子だと気づいた。なぜならば、貧乏人はそ ついしよう うすぐにはどなりつけたりしないからである。そこで追従たらたら用事をいそいだので、夜があ けるころまでには、元は食事をすまし、売りはらうために赤い馬をひつばって宿を出た。このあ われな馬を、彼は肉屋で二東三文に売った。一瞬間、元が苦痛を感じたのは事実だった。自分の 馬が人間の食べものになると思うと、ちょっといやな気がしたからだが、すぐに彼は、こんなに 気が弱くてはいけないと心を鬼にした。もう馬はいらないのだ。自分はもう将軍の息子ではない のだ。自分は独立独歩の王元であり、どこへ行こうと、なにをしようと自由な青年なのだ。そし て、その日のうちに、彼は海岸の大都会へ彼を運ふ汽車に乗りこんだ。
130 「おれも、いまでは年をとってきて、もう昔のようなわけにはいかぬのは、おまえも知ってい るとおりだ。おまえの意見は、なんでもきくようにするよ。この厄介な問題をきりぬける方法が あれば、きっとおまえの意見に従うよ、約東する」 じつのところ夫人にしても、この手におえぬ息子をあやつる方法を思いついたわけではない。 しかし、うつぶんを誰かにもらさすにはいられなかったのである。王一は彼女の気持が高ぶりは びなた じめたのを見てとると、大あわてで家をとびだした。庭のところを通ると、妾が日向で子供をあ やしているのが眼にとまった。彼はロばやに彼女に言った。 「奥さんがおこりかけているから、何か持って行ってあげておいてくれ。お茶でも、お経の本 でも、なんでもよい。それから奥さんをほめるんだ。あれこれの坊主たちが、ああ言ってほめた、 こう言ってほめました、てなことを言って、おだてておいてくれ ! 妾は、言われたとおり従順に、子をだいて立ちあがり、向うへ行った。王一は往来へ出て、ど っちへ行こうかと迷いながらも、この妾にはじめて逢った日を、ありがたいと感謝した。もし夫 人と二人だったら、とてもやりきれない生活だろうと思うからである。彼の妾は年をとるにつれ て以前よりもいっそう温厚で穏和になってきた。この点で王一は、まったく運がよかった。とか く妻妾が同居していると、しばしば喧嘩したりして、家庭生活がやかましいものである。とくに その一方か、あるいは両方が、主人を愛しているときは面倒なものなのだ。 しかしこの第二夫人は、いろいろこまかい事柄で王一をなぐさめてくれ、召使たちがしようと しないことまでしてくれた。召使どもは、この王一の屋敷の実権は誰が握っているかを心得てい るから、王一が男か女の召使に大きな声でなにか命令すると、「はい はい」と返事するだけで、
は実に頓知のきくおどけ者で、当意即妙の舌をも 0 ていたから、人を笑いころけさせるのである。 ことに、すこし酔ってくると、おもしろい言葉が口をついて出てくるのである。 彼は、叔父が来着するときくと、あわてて妻に、どこかの箱へつつこんでおいた軍服をさがし ださせた。そして部下の兵士に召集を命じた。この部下たちも、あまり安楽な生活を送っていた ので、兵士というよりは、彼の下男の ) なかっこうになっていた。彼は、ふとった足をズボン に入れながら、よくもこんなきゅうくつな軍服をしん。ほうして着た時代があったものだと感心し た。彼の腹もまた青年時代よりはすっと太くなっていて、上衣のまえが合わないので、腹にひろ 希をまいてごまかすことにした。それでも、ともかく軍服をつけた。部下も、ともかく救 ~ 列し た。そうして一同は王虍の入城を待った。 二、三日で王虎は城内の様子をすっかり見てとった。商人たちが自分と警備司令官のために設 けてくれた豪奢な宴会の意味もわかった。また彼は、甥が軍服をくるしがって汗をかいているこ ともよく知っていた。・ある日、風がなくて、陽光がひどく暑いので、あばたは、がまんできすに 広い帯をといた。すると、軍服の前がはだけているのが見えた。王虎は、ひややかに考えた。 ( おれの兄貴の子だから、こいつも、つまるところ商人なのだ。ありがたいことに、おれの子 地はこんなのではない。あれが立派な貴公子であるのがうれしい ! ) そして、あはたを相手にせす、ほめもしなかった。ただ冷淡に言った。 大 「おまえが、おれのかわりに訓練してくれている兵隊は、鉄砲の操作も忘れてしまったようだ な。どうも、もう一度戦争をさせる必要があるようだ。来年になったら、おまえが先頭に立って 指揮をして、あいつらを戦争にふれさせるようにしてはどうかね . 一
しかし彼は、かなり賢明なところがあ 0 た。こんな時節には、人々は正義などということは気 にもかけないことも、自分が深く恨まれていることも知っていた。王虎が軍閥であるという事実 だけでも自家の安全に相当に寄与していることも知っていた。だから彼は奮発して、王虎に大量 の穀物を送ることと巨額の銀を貸すことを約東した。利子も二割以上は取らないことにした。あ る日、茶館で三人のあいだでこの交渉が成立したとき、立ち会った王一は、深いため息をついて 言った。 「おれも王二のように金があるといいんだがな。じっさいおれは年々貧乏になってゆくばかり だ。王二みたいに商売はやれんし、すこしばかり貸しつけてある金と、すこしばかりしか残って いない親ゆすりの土地しかないのだ。しかし兄弟に金持があるというのは結構なことだな ! 」 これをきいて王商人は、ひどくしぶい顔をして、苦笑を禁じえなかった。そして、あからさま えんきよく に言った。彼は婉曲な言いまわしや、上品な機智など持ちあわせない男であった。 「私にいくらかの財産があるとすれば、それは、はたらいてかせいだからですよ。子供らは店 ではたらかせるし、絹物はいっさい着せません。それに女といえは女房だけですからね」 IY 王一は近年あまりかんしやくを起さなくなっていたが、こう露骨にやられては、がまんできな 地かった。二人の息子の望みにまかせて海岸地方へ行かせるために、残っていた土地の大部分を売 却してしまったことを、王二が非難しているのだとわかっているから、しはらくは心のなかでむ 大 すむすしていたが、とうとう奮然として言った。 「そうか。おれは信じているよ、親は子を養わねばならぬものだとな。おれは子供らを、おま えよりもいくらか大切に考えている。帳場なそで貴重な青春の力をむだに過ごさせたくはないの
て寝台から起きまいと決心した。それでいながら、いまの出来事が気になってたまらす、とても じ 0 と寝てはいられなか 0 た。そのとき、とっぜん馬のことを思いだした。馬は打穀場の柳の木 につないだままで、飼料をやったり世話をしたりするように老人に命じてなかったので、いま〒 もつないだままになっているにちがいないと思い、彼は起きあがった。というのが、彼は普通の 人間よりも、そういうことには、やさしい心をもっていたからである。部屋は、ひどく冷えこん でいたので、羊皮の上衣をびったりとまとい、靴をさがしてはくと、辟一づたいに手さぐりで戸口 まで行き、扉をあけて出て行った。 燈のついた中の部屋には、老若とりまぜて二十人ばかりの百姓たちがいた。そして、彼のすが たを見ると、一人立ち二人立ちして、みんな立ちあがり、じっと彼をみつめた。彼は、おどろい て一同を見たが、あの老小作人の顔以外には、知・つている顔は、ひとつもなかった。やがて、一 同のうちでも、もっとも年長の、もっとも温和な顔をした、青い服の百姓が、すすみ出た。むか しながらの田舎風に、まだ白髪を辮髪にして背中にたらしていた。その男は、おじきをして、元 にむかって言った。「この村の年寄りどもが、あなたさまに御挨拶にまいりましただ」 元は、かるく会釈し、一同にも席につくように言い、自分も、彼のためにあけてある白木のテ ーブルの一番の上窮についた。待っていると、やがてさっきの老人が口を開いた。「お父上は、 いつおいでになるのでごせえましようか」 元は簡単に答えた。「父はこないよ。。ほくは、しばらくひとりで暮したいと思ってきたのだ」 これをきくと一同は、蒼い顔をして、たがいに限を見あわせた。そして、例の老人が、またひ とっ咳ばらいをして口をひらいた。この老人が一同の代表者であることがわかった。 「この村の しらき