もらいに駈けてくるのである。 食事がすみ、食後の茶をのんでしまうと、次兄は、みつ口を長兄の家の門までつれて行った。 茶館でゆっくり話をするために長兄を呼び出してくるまで、みつ口に、そこで待っているように と言った。夫人にすがたを見られると、夫人の長話を聞かされて面倒だから、かくれているよう にと言いおいて、次兄はなかへはいり、庭づたいに兄の部屋へ行 0 た。昼飯をすませた長兄は、 尿火がかんかんおこっている火鉢のそばの長椅子のうえで、いびきをかいて寝入っていた。 腕を軽くゆすられたので、長兄は大きな鼻息をひとっして眠りからさめた。ちょっとのあいだ 寝ばけていたが、用件がわかると、や 0 と身をおこし、かたわらにおいてあ 0 た毛皮の長衫をひ つかけて、足音をしのばせながら、弟のあとについて外へ出た。彼らが出ていくのに気づいたの は、きれいな若い妾たけであった。彼女は誰が通 0 て行くのかと、扉から顔を出した。王一は黙 っていろと手で合図した。妾は気が弱くて第一夫人を恐れているが、根が人のいい親刧な女なの で、知らぬ顔をしていてくれるのである。もし夫人にきかれても、好意的にうそをついて、姿を 見かけなかったと言ってくれるだろう。 0 彼らは、うちつれて茶館へ行 0 た。そこで、みつロは、もう一度、はじめから話をした。長兄 地は話をききながら、自分には王虎のところへやる息子がないことを残念がり、次兄の息子がうま くやっているのをねたんだ。しかし、その感情をおもてにはあらわさす、みつ口にたいして、 大 んぎんにその労をねぎらい、末弟のところへ送ってやる銀については、すべて次弟の意見に賛成 した。そして家にもどるまで感情をおさえていた。 だが、家に帰ると、急に、ねたみの感情がせきを刧ってあふれだした。彼は、まっすぐに長男 チンサ
166 は気持をひきしめようとして、自分にそう言いきかせた。父の墓参をすましたら、すぐにこの家 を去って壮途につこう。墓参は子としての大事な義務であるし、ことに大冒険のかどでのことで あるから、おろそかにはできない。それをすましたならば、一刻もはやく出発しよう、と決心し 翌朝、六日目の朝、彼は次兄に言った。 「お父さんのお墓におまいりして、お線杳をあげてきたら、すぐに出発します。ながく滞在し ていて、部下がぐうたらになってはたいへんです。まだこれからさき長くけわしい道があるので すから。私に必要な軍資金については、なにかお考えになっていることがありますか」 すると次兄は答えた。 「毎月きめただけのものは送るよ。ほかには考えていないーー・、」 王虎は、いらいらして叫んだ。 「借りたものは、かならすお返しします。私はこれからお父さんの墓へ行ってきます。二人の 子供に支度をさせておいてください。明朝はやく出発しますから、今夜は飲みすぎたり食いすぎ たりしないように注意してください , そう言いおいて彼は出かけた。長兄の息子はつれて行きた くないものだと心のなかでは思ったが、両家のあいだに面白くないことが起ってもいけないので ' ことわることもできない。出がけに、家にしまってある線杳を持ち出して、父の墓へ向った。 この父と子の二人は、父の存命中から、ひどく気持がかけはなれていた。父は王虎を無理に百 姓にしようとしていつも畑ではたらかせたので、王虎の少年時代は苦い思い出ばかりであった。 王虎は土地を憎悪しながら育った。いまでも彼は土地を憎悪している。王虎は、いまは自分のも こ 0
「末弟が結婚費用がすぐほしいというのです。私たちがきいたこともないような、娼婦だか何 だかわからぬ女と結婚するのだそうです。あの弟も私より兄さんに似ているんですね」 長兄は、そう言われて頭をかき、何か言いかえしてやろうと言葉を考えていたが、喧嘩をする のはやめにして、おだやかな調子で言った。 「おかしいね。結婚の世話をするべきおやじは死んでこの世にいないのだから、弟が結婚して 身をかためる必要を感じたら、ますおれたちのところへ婚約やなんかのことを頼みにくるものと ばかり思っていたがね。一人、二人、わしは候補者も考えておったのだ」 彼は心のなかで女をよく知 0 ていると自負しているし、城内でも指折りの令嬢たちを、すくな くともうわさでは知 0 ていたので、誰よりもよい嫁をえらんでやれたのにと、それが残念だ 0 た のだ。 次兄は利子を損しなければならぬ危急の場合だと考えていらいらしているので、長兄ののんき な話をせせら笑った。 「たしかに兄さんのことだから、一人や二人の女のことは、いつも心に考えていたことでしょ 0 うよ。しかし、そんなことは、私にと 0 ては問題ではない。間題は、弟の要求してきている銀千 地元のうち、兄さんがどのくらい出せるかということです。こんなにいきなり言われたのでは、私 の財布からは、とてもそんな大金は出せませんからね」 長兄はこの言葉をきくと、暗い表情をうかべて弟を眺めた。それから、ふと 0 た膝の上におい た手をみつめながら、しわがれた声で言った。 「わしの財布はおまえが知 0 ているはすだ。わしには現金は何もない。わしの土地をまた売 0
から急がねばならぬと強調していたことも気にかかる。彼らは、王虎がどれほど強いのかもわか らないので、もし王虎が戦いに敗れて重罰に処せられるようなことにでもなれば、実兄である自 分たちも、巻きそえをくって罰せられるかもしれないと恐れたのである。とくに長兄のほうは、 弟がどんな女と結婚するのか見たいと思うので、結婚式に行きたがっていた。みつ口が彼の好奇 心を刺戟するようなことを言って帰ったからである。しかし彼の夫人は、王虎の結婚式のことを きくと、おごそかな顔で引きとめた。 「県公署から役人を追い出したなどということは、めったにない奇怪なことです。もし弟が反 逆罪に間われたら、わたしたちまでが、みんな罰せられることになりますよ。国家に対して反逆 の罪をおかしたものは、一門一族みな死刑になるときいていますー たしかに、むかし国王や皇帝が国内から反逆者を駆逐しようと努力していたころには、そんな 苛酷な刑罰が実施されたことがある。長兄は芝居で、そういった筋のものを見たことがある。ま た、ひまつぶしに好んでききに行く小屋掛けの講釈師の物語でも聞いたことがあった。いまはも う身分が高くなったから、そんな小屋で、いやしい群集にまじって、講釈をきくなどということ はできないが、それでも大好きなものだから、流しの講釈師が茶館へきたりすると、呼びこんで 熱心にきくのである。だからいま、夫人からそう言われるど、以前きいたそんな話を思いだして、 恐怖で青くなった。そして次弟の王商人のところへ行って言った。 「弟が戦いに負けて罰せられるようになったとき、おれたちゃ息子たちが巻きそえをくわない ように、あの弟は不孝者だから勘当したというような書類か何かをつくっておいたほうがよくは ないかね」
いがさつな人間で、いつも家じゅうになりひびくほど大きな声で話をするし、赤ら顔で不遠慮な 女だった。彼女は一日に何回となくかんしやくをおこし、喧華している子供たちの頭をつかまえ て鉢合せをさせたり、袖を二の腕までまくり上け、手をふ屮あけてびしやりとひらてで子供の頼 をひつばたいたりするので、家のなかには、朝から晩まで怒号や泣きわめく声が絶えなかった。 召使たちも主婦におとらすがさつで、大きな声を立てていた。しかし次兄の妻は、がさつではあ るが、子供好きであった。そばを通りかかる子供をつかまえては、ふとった頸ッ王に鼻をすりつ けて可愛がった。彼女は自分ではとても倹約だったが、子供たちが行商人の売りにくるアメとか、 あつい甘い飲物とか、砂糖漬のさんざしの棒などを買いたがって銭をせがむと、いつもふところ の奥ふかく手をいれて小銭を出してやった。 このにぎやかでほがらかな家のなかにいて、次兄は、もの静かな落ちついた態度で、いつも商 売上の算段ばかりしていた。彼は、家じゅうのものに対して、いつも上機嫌であった。この夫婦 をたがいに気があっているのである。 この家にきてはじめて王虎は、功名をいそぐ計画を、しばらくのあいだ忘れた。部下は休養し にて飲食にふけっている。王虎も次兄の家でのんびりすることができた。この家は、なんとなく居 地む地カいいのである。彼は、あのあばたづらの甥が自分の手もとへきたとき、愉快そうに笑って ばかグいた理由が、はじめてわかったような気がした。そして長兄の子が、いつも瞳病でおどお 大 どしている理由も、わかったような気がした。彼は次兄夫婦の満足しているようすを感じた。子 供たちのみち足りた心も感じとった。子供たちは、あまりたびたびからだを洗ってはもらえない し、召使もただ毎日子供たちに食事をさせ、夜はどこかへ寝かせてしまうといった程度にしか、
154 ワン・ホウ 七日七夜、王虎は城内の宏荘な屋敷に滞在した。兄たちは彼に御馳走をし、賓客として彼をも てなした。四日四夜は、長兄の家ですごした。長兄は弟をよろこばせるために、できるだけのも てなしをした、しかし彼の知っているもてなしかたは、自分が楽しいと思うことを弟にもさせよ うとすることであった。長兄は、夜ごと弟のために酒宴をはり、歌妓や琵琶をひく女のいる茶館 へ案内したり、劇場へ案内したりした。まるで弟をよろこばせるよりも、自分自身がたのしんで いるようなものだった。というのも、王虎は一風変った人間だからだ。彼は空腹をみたすに必要 なだけしか食べようとせす、ほかの人がまだ食べているのに、もう箸をおいて坐っていた。酒も 自分の気のむくだけ飲むと、もう飲もうとはしなかった。 チャンサ 誰でも宴席では快に飲んだり食ったりして、しまいには汗をかいて長衫も下着もぬいでしま わなければならないほど陽気に騒ぐものである。なかには、もっと食べたいばかりに、わざわざ 庭に出て胃のなかにつめこんだものを吐いてから、また新たに食べはじめるものもいるのに、王 虎はそういう酒宴の席でも黙って坐っていた。空腹さえみたしてしまうと、おいしい吸物にも、 珍しいので高価な海蛇の肉にも、箸をつけようとしなかった。甘い菓子も口にしない。たいてい いっさ の男が、どんなに腹いつばいのときでも食べる果物や砂糖漬のはすの実や蜂蜜などにも、 い手を出そうとしない。女と遊んだりたわむれたりする茶館へ長兄につれられて行っても、王虎 に帰った。長兄の息子の頬には、幾月ぶりかで、はじめてうれしそうな色がうかんだ。彼はいそ いそと自分の家にはいって行った。
また彼が罰せられるかもしれぬということも事実だった。だが、彼がこんなにもいそぐもっと深 い真の理由は、この女を渇望するあまり、やむをえぬ日数以上は待ちきれなかったことである。 女を無事に自分のものにしてしまわねば心を安んじて戦うこともできす、武人としての価値を発 揮することができないことを知っていたのだ。だから彼は、みつ口をせき立てて、はげしく強く 命令しておいたのである。 「あの商人の兄は、きっと、銀はみな人に融通してあるから、すぐには間に合わんとほざくだ ろう。おまえは兄のいうことなんそ、きく必要はない。ただ、王虎はまだ、豹将軍を殺したとき に奴から取った名剣をもっており、鋭利この上もなく、たちまち人をあやめる剣だと言え」 みつロはこの恐を最後の手段としてとっておいて、はじめのうちは用いなかった。しかし次 兄が、またもう一つ別の理由、つまり、そんな家も家族もないような女は娼婦にちがいない、そ んな女と正式に結婚して家へ入れては家門の恥だという理由から、結婚費用を出ししぶったので、 とうとうそのおどしを使うことにした。みつロは、その女は匪賊の山寨にいた女だということは、 心の底では言いたかったのだが言わなかづた。何らかの方法で、その女と王虎が結婚するのを中 止させたい誘惑にかられ、兄たちに助力を頼もうかとも思ったが、王虎が自分の思い立ったこと は何でもやりとげる性質であるのを知りぬいているので、その誘惑をおさえて、おどしを使うこ とにしたのである。 これを聞くと次兄は、あちこちとび廻って、貸し出してある銀を、できるだけ集めにかからね ばならなかった。融通してある銀を、そんなに急に引きあけるとなると、利息が損になるので、 残念でたまらなかった。だから彼は、陰鬱な面持で長兄のところへ行って言った。
は身を固くし、まじめくさって、剣を皮帯からつるしたまま、ゆるめようともせす、例の黒い眼 で無表情に眺めているだけだった。べつだん不愉快そうにも見えないが、さりとてよろこんでい るようにも見えなかった。声が美しいとか、顔が美しいとかいって、とくにどの歌妓に目をつけ るということもなかった。歌妓のうちには彼に眼をつけ、その浅黒いたくましさと立派な風貌に 心をひかれて、そばへ寄っては、しなやかな手をかけたり、なまめかしい、ものうげな流し眼を 送 0 たりして、しきりに気をひこうとっとめるものもいたが、王虎は、一向に無関心で、身じろ ぎもせす、じっと坐っていた。どの歌妓にも、みな同じような眼を向けるだけで、ロもとはあい かわらすきりりと結んだままだ 0 た。たまに口をきいても、きれいな女たちが耳にしたことのな いようなことばかりだった。平気で、すけすけと、 「なんだ、その歌は。かけすが鳴いているみたいじゃないかなどと言ったりした。 厚化粧をした色つぼい小柄な女が、意味ありげに彼の顔を見ながら、小声で歌をうたいはじめ た。すると彼は、「もうあきあきしてしまった」と叫んで席を立ち、茶館から出て行った。長兄は、 、、よ、つこ。 これからが面白いのにと思い、残念がったが、弟のあとを追って出ないわけこよ 0 事実、王虎は母親ゆすりでロが重く、必要なこと以外はめ 0 たにしゃべらなか 0 た。そのかわ 地り、いざとなると、歯に衣をきせす、思ったことをすけすけ言 0 てのけるので、一、二度そんな 経験をしたことのある人は、彼のくちびるがちょっと動くのを見ただけで、恐れをなした。 大 ある日、長兄の夫人が王虎のところへきて、何かとお世辞をならべて自分の息子のためにとり なしをしようとしたときにも、彼は、いつもの調子で、ありのままのことをぶちまけた。午後の ことだった。王虎が茶を飲み、長兄が小さなテーブルで酒をのみながら坐っている部屋へ、夫人
申しあげれば、それでたくさんかと思います」 「そんなことをしていて給料は十分にもらえるのかね ? 」と長兄は弟の生活をふしぎに思って きいた。彼は自分を立派な人間だと思っているから、弟が自分を軽蔑している様子には気がっか なかった。 「もらうときもあり、もらわないときもあります . 長兄は報酬をもらわすになにかをする人間がいるということは考えられなかった。そこで、つ づけて言った。 「部下に給料をくれないというのは、おかしな話だね。私がもし軍人で、部下をもった将校だ ったら、給料をくれない将軍なんそやめにして、別の将軍のところへ行くだろうな」 三男は返事をしなかった。彼は出発前にしようと思っていることがあったので、次男のところ へ行って、ひそかに頼んだ。 リ・ホソ 「お父さんの若いほうの妾の梨華に金をきちんと忘れすにやってくださいよ。私に送るぶんか ら毎月五元すっ差し引いて梨華にやってください」 次男はこれをきくと、びつくりして細い眼をみはった。彼は、そんな多額の金を他人にやって しまうような人間の気持が容易に理解できない種類の人間なのである。 「あの女に、どうしてそんなにたくさんやるのかね ? 」 三男は何か奇妙にあわてた様子で答えた。 「あの白痴の姉の面倒もみてくれているんだからねー もっと何か言いたいことがありそうに見えたが、それ以上なにも言わなかった。四人の部下が 1
びとしきり駄々をこねて、「・ほくは行くんだ。叔父さんと一緒に行くんだ」と叫びながら、下男が 手をひつばるままに、そこを出て行った。 このぎが一段落になると、夫人は椅子にくすおれるように坐り、悲しげにため息をついて言 「あの子は、いつもあんなに強情つばりで、どう扱かっていいのかわかりません。あなたに差 しあけた次男よりも、よっぽど教育するのがむすかしいのですー 王虎は、にこりともせすに、さきほどからのありさまを見ていたが、このときになって、やっ と口をひらいた。 「強情でも、意志のないものよりは、意志のあるもののほうが教育しやすい。いまの子を私に まかしてくださったら、なんとか立派なものにして見せますよ。しつけをしてないから、あんな みつともない騒ぎになるんです」 . 夫人は腹が立ってたまらなくなった。自分の息子のしつけが悪いなどと言われては、その場に いる気がしない。そこで、気どった態度で立ちあがり、頭をさけながら、「お二人で話しあいにな にることもたくさんおありでしようから」と言って出て行った。 地王虍は、なさけない男だというような顔つきで長兄を眺めた。しばらくのあいだ、二人は何も 言わなかった。長兄はまた酒をのみはじめたが、酒の味もうまくなさそうだった。彼は悲しけな 大 顔をしていたが、とうとう、 いつもに似す考えこんで、ロをひらくまえに重々しくため息をつい てから、述懐した。 「わしにはわからぬ謎がある。それはこうだ。女は若いときは、すなおで、やさしくて、男の