はじめは、その女は、しぶとくて怒っていましたがね、そのうちに、しばらく黙っていて、 それから自分でこの男の名を言ったのですよ。全然拷間にもかけないのにね ! 」 元が見ていると、老夫人はこれをきいて、なんのことかわからない様子で呆然としていた。彼 はなにも一一一一口うことができなかった。黙ってはいたが、心のなかでは、・ほんやりと考えていた。 ( で は、彼女の愛が憎しみにかわったのか ! 愛では、おれをしばれなかったーー・・そこで、憎しみで ' しつかりとしばりつけたのだ ! ) こうして、彼は連行されて行った。 その瞬間でも、元は死刑はのがれられないと覚悟していた。この数日、革命運動に加盟してい たことが判明したものは、すべて死刑にされたことを、それは公然とは知られていなかったが、 彼は知っていたし、あの女が彼の名を口にしたのなら、彼の罪状についてこれより確かな証拠は ないからである。そう覚悟はしたものの、死という言葉が彼には現実に考えられなかった。彼と 同じような青年がすしづめにされている監房に押しこめられたときも、真暗だったので入口でつ ますいて倒れて、石守が、「さあ、ひとグで起きろ。明日は、ほかのものが起してやるからな」 とどなったときも、彼には死という言葉の意味が理解できなかった。石守の言葉は、明日の彼を 待っている弾丸のように彼の心臓をつらぬいたが、元は薄闇をとおして満員の監房を見まわすだ 地 ( ここにあの女がいて、 けの余裕があり、そのなかは男ばかりで女がいないのを見て安心した。 大おれが死ぬことを彼女に知らせ、結局はおれが彼女のものになったことを知らせるよりは、知ら せすに死んだほうが、どのくらいいいかわからない ) と彼は考えた。これが彼に安心をあたえた 9 なにもかもがあまりに急な出来事だったので、元は、なんだかここから救い出されそうな気が
300 ・ : 彼は、かなり長いあいだ一人で坐って考えこんでいた。そのあいだに求ーイに命じて、何度も 杯に酒をつがせた。 その歓楽の夜も果てて、家へ帰るころには、飲んだ酒が熱病のように体内で燃えていたが、そ れでも元は、まだしつかりしていた。もう一人では歩けないほど酔っている愛蘭の夫を肩により かからせても平気なほど、しつかりしていた。愛蘭の夫は真赤な顔で、おろかな子供のように、 よだれをたらしていた。 元が家へはいろうとして扉をたたいたとき、扉が急に内側からひらかれた。そして、それをひ らいた下男のわきに美齢そのひとが立っていた。愛蘭の夫は彼女を見た瞬間に、ふと元と美齢と のことを思いだしたらしく、急に叫んだ。「美齢さんーーあんたも行けばよかったーーーあんたの 競争相手の美人がいたよーーそれが元をなかなか離さないんだーー。物騒な話じゃないかーー・え え ? 」そう言ってばか笑いをしながら、ごろりと倒れてしまった。 美齢は答えなかった。二人のすがたをみると、彼女はひややかに下男に命じた。「お姉さまの 御主人を寝室へつれて行きなさい。ひどく酔っていらっしやるようです」 だが、下男が行ってしまうと、彼女は急に燃えるような視線で元をその場におさえつけてしま った。こうして、とうとう二人は二人きりになった。元は美齢の大きな眼で見すえられているの を感じると、急に寒い北風に吹きつけられたように酔いがさめた。身うちのほてりが、みるみる 去ってゆくのがわかり、一瞬、彼は美齢がおそろしくさえなった。それほど彼女は長身をまっす ぐにして、まともに腹を立てていたのである。元はものが言えなかった。 だが彼女はだまっていなかった。この日頃、ほとんど彼に話しかけなかった彼女が、いまこそ
・が故国を出たのは二十歳のときであ 0 たが、多くの点で彼はまだ子供であ 0 た。いろん な夢が混沌として胸のうちにうすまくばかりで、やっと手をつけたばかりの計画も、みなどうし というより、ほんとうに自分がやりとげるつもりかどうか たらやりとけることができるのか さえはっきりしない有様であった。生れてから今日まで、ずっと誰かしらに監督され、見守られ、 世話をされてきたので、そうした保護を受けることしか知らなかった彼は、あの監房に投けこま れていた三日間の経験のあとでさえ、悲しみというものの本当の味を知るにはいたらなかった。 外国に彼は六年いた。 その年の夏、いよいよ帰国の支度をととのえたときは、ちょうど二十六歳の誕生日を迎えよう としていた頃で、たいていのことについては、もう立派な大人になっていたが、一人前の大人に なる最後のしあけをするものとしての悲しみにはまだ見舞われたことがなく、そんなものが必要 だということも彼にはわかってはいなかった。たぶん、ひとに間われたら、彼は自信ありそうに、 つぎのように答えたであろう。 「ぼくは大人です。自覚をもっています。自分の目的を、ちゃんと知っています。かっての夢 は、いまは実現できる計画にな 0 ています。学業も終えました。故国に帰ってからの生活の準備 はすっかりできていますー 地 まったく元にとって、この六年間の外国生活は、彼のこれまでの生涯の半ばを占めているよう 大に思われた。むしろ、それ以前の十九年間は小さいほうの半分で、この六年間のほうが、より大 きな、より貴重な半分であった。なせなら、この六年間こそ、自分を一定の進路にみちびき、そ の方向にしつかりと自分を据えてくれた時期だったからだ。しかし、実をいえば、自分では知ら
312 いでいただきたいと頭目にあやまりました。だから、町に騒動が起りさえしなかったら、ど ) に か無事にすんだはすなのです」 ここで従兄弟は言葉をとめると、急にふるえだした。元は、しつかり彼を抱いてやりながら言 った。「まあ急がないで、熱いお茶でも飲んでください。心配なさることはありませんよ。どん なことでもしますから。話ができるようになってから、また話してください」 それで、従兄弟は、やっとふるえをとめて、話がつづけられるようになった。まだびくびくし ていて、ささやくような小声でつづけた。「まったく、新しい時代の間題は、私にはわからない ことばかりです。近頃は私の町にも革命党の学校ができて、青年たちがみな行っているが、歌を うたって、壁にかけてある新しい神様の画像の前でおじぎをしています。古い神々は、みんなき らわれているようです。まあ、それだけなら大したことではないが、そのうちに彼らは、出家を して僧になった私らの従兄弟のセムシの男を、仲間に引きいれましたー・・ - ーあなたは、むろんその セムシの従兄弟はご存じないでしよう」ここで従兄弟が言葉を切ったので、元は沈痛に答えた。 「すっと前に、一度会ったことがあります」そしてあのセムシの少年のすがたを頭にうかべると 同時に、父が、あの少年は軍人の魂を持っていると彼に話したのを思いだした。あるとき王将軍 が土の家へ立ち寄ったとき、セムシが将軍の外国製の小銃をほしがるので、持たせてやると、ま るで自分のもののように、うれしそうに、あちこちを調べていた。それで王虎は、「あれがセムシ でさえなければ、わしは兄に頼んで養子にするのだが」と言ったものである。そうだ、たしかに お・ほえている。「それでーーそれからどうしました ? 」と元はうながした。 小男の従兄弟は、また話しだした。「この僧侶になった従兄弟までが、気ちがいじみた革命さ
て外へ出た。自分でも思いもかけぬほど、彼は夫人のくるのを待ちこがれていたのだ。そしてそ こに老夫人はいこ 老夫人のそばにいるのは美齢であった ! 元は、一度たりとも美齢が来ようとは思ったこともなく、希望もしなかった。あまり驚いたの で、美齢の顔を見つめるばかりで、ロも容易にきけなかった。 「ぼ、ぼくはーーー赤ん坊はどうし てあるんです ? 」 美齢は、つねに変らぬ平静な、しつかりした声で答えた。「わたしから愛蘭に、今度だけはき て赤ちゃんを見てやらなくてはいけないと言いました。そうしたら運よく愛蘭は御主人がある女 性とあまりしげしげ逢いすぎるというので大喧嘩をしていたところでしたので、四、五日お母さ まのほうにいるほうが好都合だったわけなのです。あなたのお父さまはどこにいらっしゃいます 「すぐにお目にかかりましよう」と老夫人は言った。「美齢ならば容態がわかるだろうと思っ たので、つれてきました」元も、いまは猶予せすに二人を案内した。三人は王虍の枕頭に立った。「 話し声が高かったためか、それとも、ききなれぬ女の声がしたためか、とにかく王虎は、ふと g 昏睡からさめた。彼の重い瞼が開くのを見て、老夫人は、やさしく言った。「旦那さま、わたく 地しがおわかりですか」すると老いたる虎は答えた。 「うむ、わかるーー」そのまま、またうと うとと眠りに落ちたので、彼が本当にわかったのかどうか、それは誰にもわからなかった。しか 大 し間もなく彼は、もう一度眼をあけて、今度は美齢をみつめ、夢みるように、「わしの娘じゃなー と一一一口った。 元は娘ではないと説明しようとしたが、美齢はそれをとめて、気の毒そうに言った。「わたし
いだろうか、いすれにしても自分の故国は、このような土や岩や水でできてはいない、と思った 9 山岳地帯をあとにすると、つぎには同じく奔放な色彩に富む平野と、数か国にも敵しそうな 広さをもっ田園がひらけ、その豊沃な大地から莫大な作物を生みだすために、巨獣のような機械 が、すさまじく活動していた。その有様を元はきわめてはっきりと見たが、これは彼にとって山 彼よ、これらの大きな機械をじっと見ながら、故郷の老農夫が彼に鋤の 地以上の驚異であった。 , し 持ちかた「・狂いなく地面へふりおろす鍬の使い方を教えてくれたことを思いだした。あの農夫は ' いまでもああして土地を耕やしているのである。ほかの百姓もみなそうだ。それから元は農民た ちの小さな畑が、それそれたがいに釣合いをたもって、きちんと作られることや、人間の排泄物 をためておいて、作物のわずかばかりの陌子にそれを注ぎかけ、青々とゆたかに実らせ、苗木の 一本一本が実れるかぎり実るように工夫して、一本の麦も、一尺の土地も、その価値を極度まで 発揮させることを思った。だがこの国では、一本の麦や一尺の土地に心をわすらわすものは一人 もいない。きっとここでは、畑はマイルを単位にしてはかられ、作物の本数など誰もかそえたり はしないだろう。 こうして、最初のころは、たった一人の男の二つの言葉を別にすれば、元にとっては、あらゆ るものがよく思われ、何でも自分の国のものよりもすぐれているように思われた。村々は清潔で、 生活はゆたかであり、畑ではたらく人と町に住む人とは、ちがった装いをしていることはわかる 大けれども、農村の人々もポロをまとっているわけではなく、この国の家々には一つとして泥や でできているものはないし、鶏や豚が勝手にうろついているところもなかった。これらはみな感 心していいことだーーーすくなくとも元はそう臥った。 わら
た。父が死ねば、このまわりの畑は、法律上、彼のものであり、この家も、彼のものになる。そ れは祖父が死んだあと、ずっと昔に、そう割当てられているのだ。それから彼は、農民たちの土 地への要求がいかにはげしくなっているかを語った老小作人の言葉を思いだした。ずっと以前に も彼らは自分に敵意を持っていた。その頃は、それほど痛切には感じなかったが、彼らは自分を 異郷人視していたのである。こんな時代には確実なものは一つもない。彼は怖ろしかった。この 新しい時代では、誰が、何を、自分のものだと言えるだろう ? たしかに自分のものだと言える のは、自分の二本の手、自分の頭脳、愛する心のほかにはな、 そして自分の愛する人を、お れは自分のものとは呼べないのだ。そう思っているとき、ふと彼は低い声で自分の名が呼ばれる のをきいた。見ると、そこの戸口に美齢が立っていた。いそいで近寄ると、彼女は言った。「あ なたのお父さまは、もっとおわるいのかと思っていました」 「咽喉でしている呼吸が手をふれるたびに弱くなります。明け方が心配です」と元は答えた・ 「では、わたしも眠らすにいましよう」と彼女は言った。「御一緒に待ちましよう」 この言葉をきいたとき、元の心臓は、一、二度、はけしく鼓動した。「御一緒」という言葉が、 これほどこころよく、うれしく使われるのを、きいたことがなかったからである。けれども彼は 地何と言ってよいかわからなかった。無言で彼は泥の壁にもたれかかった。そして戸口に立ってい る美齢と二人で、暗澹と、月下の畑をみわたした。ちょうど月のなかばなので、月はまるく冴え 大 わたっていた。眺めているうちに、二人のあいだの沈黙が次第に堪えられなくなってきた。とう とう元は胸が燃え立って、すんすん彼女のほうへ引き寄せられそうになったので、何か平凡なこ とを言って彼女の答をききたいと思った。さもないと自分は、うつかり手をのばして、この自分
170 るのですから、いっそわたしの家がいいと思ったのですーー、そして、わたしにできることといえ ば、あの人が奥さんを離婚して自由なからだになるまで、あまり深入りさせないようにすること だけでした : : : 奥さんというのは、事実、昔風の人でしてね。伍さんの御両親がえらんで、伍さ んの十六のときに結婚させたのだそうです。伍さんと奥さんと、どちらがお気の毒なのか、わた しにはわかりません。二人の悲しみが、おたしにはわかるような気がします。わたしも同じよう な結婚をして、愛されすに暮らしてきたのですから、他人事とは思えません。しかも、愛されな いということがどんなものか、わたしにはよくわかっていますから、自分の娘は好きな人と結婚 させようと誓っていますので、二人の悩みがよくわかるのです。でも、それも片づきましたよ、 元、結局はこうなるより仕方がなかったのですがねーーーどうもこのごろでは、こういうことが手 軽に片づくようです。離婚が成立して、気の毒な奥さんは生れ故郷の奥地の町に帰ることになり ました。いよいよ帰るとき、わたしは会いに行きました。奥さんは伍さんと、この町で一緒に暮 らしていたのですから , ーー、もっとも名ばかりの同棲だったと奥さんは言っていましたけどね。行 って見ると、奥さんは二人の女中に手伝わせて、嫁入道具の一つとして買った赤い革の鞄に衣裳 を詰めていました。そして、わたしに言ったのは、『こういう終局がくるにちがいないと思ってい ました こういう終局がくるにちがいないと思っていました』という言葉だけでした。 しくもないし、伍さんより五つも年上で、このごろは誰でも話している外国語も話せないし、足 は昔は仰足していたらしく、大きな外国風の靴をはいて、それをかくそうとしていました。あの 奥さんにとっては、ほんとにそれが終局なのですーー・・そうなっては、あの人の人生に、あと、な にが残 . っていましよう。でも、わたしは、そんなことを考えている余裕はありません。愛蘭の :
小さな船に乗っているのだよーー - ・実業家の叔父さんが近海の島へ商品を運んでいる船だ。叔父さ んのロききで乗せてもらったのさ。ぼくらは手近かな港までこの船で行って、外国へ行くために 必要な書類がとどくのを、そこで待っことになっているのだ。きみは自由になったのだ。きみは 自由になったのだよ、元。だけど、これにはたいへんお金がかかったのだよ。きみのお母さんも、 ぼくの父も兄も、かき集められるだけ金を集めるし、二番目の叔父さんからも、たくさん借りた のだ。きみのお父さんは気が狂ったようになって、自分も女に裏切られたことがある、自分も息 子も、こんどこそは永久に女とは縁切りだ、と言っているそうだ。そして、きみの結婚のことは 断念して、結婚費用や手もとにある金を、みんな送ってきたので、そんな金を一緒にして、きみ の自由を買い この船で逃げ出すことができたのだ。上から下まで金をばらまいてね , - ーー」 盛がこんな話をしているあいだ、元は、きいてはいるのだが、すっかり疲れはてていて、その 意味がよくのみこめなかった。ただ船が上下に揺れるのと、飢えたからだにしみこんで行くスー 。フの快い旧皿さを感じるだけであった。やがて盛が急に笑顔になって言った。「でも、孟が無事な ことがわかっていなかったら、こんな場合、・ほくは、こんなによろこんで国を離れられたかどう ・ほくは弟のことが心配だった。きみは かわからないよ℃やつはまったく抜けめのない男だよ ! 監獄にいれられて死刑ときまったことがわかるし、孟はどこにいるものやら、無事でいるものか、 もう殺されたものかわからないし、父も母も、きみと弟とのことで、うろうろしていたのだ。と ころが昨日きみの家と・ほくの家とのあいだの街を歩いていると、誰か紙片をそっと渡すものがあ る。見るとそれには孟の字でこう書いてあるのだ。『ぼくを探したり心配したりしないでくださ 両親もぼくのことはもう気にかけないでください。ぼくは無事で自由な天地にいます』」
らっしやるものたから、心にもないことを言っていらっしやるのですわ。お母さまは愛蘭のため 四にできるかぎりのことをなさいました。それは愛蘭にもよくわかっていますし、わたしたちみん なにもわかっています。さあ、もうやすみましよう。 わたし、スープを持ってまいりますー 老夫人は美齢の言葉に、おとなしく立ちあがった。これでみると、こういうことがいままでに もよくあったらしい。老夫人は、うれしそうに娘の肩によりかかって部屋を出て行ったが、元は、 いま聞いたことで心が混乱して、相変らず一言も口がきけす、二人が出て行くのを見守っている ばかりであった。 骨肉をわけた妹の愛蘭が、そんな無朝道なことをしたのか ! 彼女は自由を、そんなふうに用 いたのか。二度とも虎口を脱したとはいえ、そのような無軌道な情熱が、妹のおかけで彼の生活 にも二度しのびよったことがあったのだ。彼は乱れた心を抱いて、そろそろと自分の部屋へひき あけた。 , 冫し 彼こよ愛も苦しみも、それだけが単純に訪れたことはなかった。いつも心が二つにわか れて争っていたのである。いまも、彼の心の半分は、一点のけがれもない女として誇りたく思っ ている妹に、そんなことが起るべきではないと思うがゆえに、愛蘭の無思慮さを恥じていながら も、また心の他の半分では、その無軌道さのうちに、ひそかな甘美さを感じ、自分でもやってみ たいと思うのであった。だから彼は、はんもんせざるをえないのである。帰国後、これがはじめ て彼に訪れた疑惑であった。 結婚式が終ると、子としてこれ以上父のところへ帰るのをのばすのはよくないと元は思った。 それに、もともと彼も行きたかったし、またこの家にいることがいまでは悲しく思われたので、