して、わしの息子に恥かしくないような娘が、こんな田舎にいるかな」 元は父が話しているあいだ、その顔を見ているうちに、し 、ままで知らなかったものが自分の心 のなかにあるのをさとりはじめた。「媒酌人はいりません」と彼はゆっくり言ったが、心はその 言葉の上にはよ、つこ。 オカオ一つの顔がーー、若い女の顔が、心にうかんできた。「ぼくは自分で話し ます。このごろでは、ぼくたち若いものは自分で話すのですーー」 今度は王将軍が眼をみはる番であった。彼はきびしい調子で言った。「勝手に男が話せるよう な女に、ちゃんとした相手がいるかな。そんな種類の女には気をゆるすなと、昔からわしが訓戒 していたことは忘れていないだろうな。おまえが選んだのは立派な女か」 しかし、元は微笑するばかりであった。彼は負債を、戦争を、その他このごろの不愉快だった ことも忘れた。ばらばらだった彼の心が、とっぜん、これまで知らなかった一本のはっきりした 道に結びついたのである。すべてを語りうる人がここにいる。そして、その人に対して、どうし なければならないかがわかったのだ。この老人たちには、自分というものも自分の必要としてい るものも理解できないのだ。自分が、もはや彼らの時代のものではないことが、わからないのだ。 g その点、外国人と選ぶところはない。しかし、自分は自分の時代に属する女を知っている。自分 地は古い時代に根をおろしているので、その根をぬいて、そこで生きて行かなければならぬ新しい 必要な時代に移しうえようとしても、なかなかそれができす、それで心が分裂して悩んでいるの 大 だが、彼女は古い時代に何の根ももっていないのだ。 その女の顔が、これまで会ったどんな 人の顔よりもはっきりと心にうかんできた。あまりはっきり見えるので、ほかの人の顔の影がう すくなり、眼のまえにいる父の顔さえぼんやりとなった。自分を自分から解放してくれるのは彼
262 っておりますから、いただければ、すぐに着手できます」 こうして短い会見は終った。戦争の練習をしていた練兵場から隊伍をととのえて帰ってくるた くさんの兵隊のあいだを通るとき、嫌悪の念が、つよく心に湧きおこ 0 たにもかかわらず、これ らの兵隊が、だらしなく笑ってばかりいる父の部下とは非常にちがっていることを、元は、みと めざるをえなかった。ここの兵隊は、みんな若く、すくなくとも半分は二十歳以下であった。そ れに彼らは笑わなかった。王将軍の部下は、いつも、さわいだり笑ったりしていて、練兵がすん で休息に帰るときなど、おたがいに押しあったり、どなったり、冗談をとばしたりするので、中 庭は陽気なあらあらしい声でいつばいになったのだった。元は、父とともに奥に暮らしていた 少年のころ、遠くでどなったり笑ったりする彼らの騒ぎで、毎日食事の時間がわかったくらいで ある。ところが、ここの若い兵隊たちは粛々と帰ってきて、歩調がおごそかなほどそろっている ので、その足音は一人の巨人の足音のようであった。笑い声ひとっしなかった。元は、つぎから つぎと彼らに出会ったが、その顔は、みんな若くて単純でまじめそうであった。これが新しい軍 隊なのだ。 その夜、彼は美齢への手紙のなかで書いた。「彼らはあまり若くて兵隊とは思えないくらいで した。そして、その顔は田舎の少年の顔でした」それから、ちょっと考え、その顔を思いうかべ ながら、また書いた、「しかも、その顔には兵隊の表情があります。ぼくのような生活をしたこと がないから、あなたにはわからないでしよう。彼らは単純な顔をしています。あまり単純なので - 見ていると、飯でも食べるように単純に人を殺すことができるのが、ぼくにはわかるのです 死のように恐るべき単純さです」
るのだが、椅子のひじですりきれたのであろうか、袖のところにはつぎがあたっているし、足に 夘は布の上履きをはいているのだが、踵がめくれていて、手には長剣さえ持っていなかった。 元が、「お父さん ! 」と呼びかけると、老人は声をふるわせながら、「ほんとにおまえか」と答 えた。そして二人は手をとりあった。鼻も口も、かすんだ眼も、昔より大きいように思われた。 しなびた顔には大きすきるのである。そのような父の年老いた顔を見ると、元は思わす眼に涙が あふれるのをおぼえた。その顔を見ていると、これがあの王将軍だろうか、これがいつも自分が 恐がっていた父、その渋面や真黒い眉が、かってはあれほどおそろしかった父、眠るときすら長 剣を手から離さなかった父だろうかと思われるほどだった。しかし、それは、王虎将軍にまちが いはなかった。なぜならば、それが息子だとわかると、彼はすぐに「酒を持ってこい」と大声に 命じたからである。 のろのろと人の動く気配がして、あらわれたのは例のみつロであった。彼も年をとってしまっ たが、いまだに将軍に仕えているのである。彼は醜い顔をほころばせながら、将軍の子息を迎え 王虎が元の手をとって部屋へつれて行くと、杯に酒をついだ。 そこへ、また一人あらわれ、つづい・てまた一人あらわれた。元が会ったことのない、すくなく とも会ったことがないと思う人で、一人は老人、一人は若いが、いすれもまじめな顔をした裕福 そうな男である。老人は、しなびて小さく、暗灰色の小さな模様のある昔風の絹の長衫をきちん / と着こなし、上半身には、にぶい黒の絹の袖のある上衣を着、頭には小さなまるい絹の帽子をか ぶっていた。帽子には近親の喪に服していることを示す白い紐のボタンをつけていた。黒ビロ 1 ドの靴をはいている足にも、踵の上あたりでは、子にも白木綿の布を巻いている。これも喪の
しいわ、・・・ーねえ、やってみましようよ , ーー」女がどこまでもせがむので、盛は、とうとう自分の 手で彼女の両手を腕から離させて、彼女の希望どおりにすると約東した いかにも気がすすま ぬようなそぶりだったが、元には、それがそぶりだけなのがわかっていた。 ようやく女の部屋を出たとき、元は、一、二度大きく呼吸をして、ごまかしのない日ざしのな かの景色を、うれしく見まわした。二人とも、しばらくは黙っていた。元は自分の頭にあること が盛の心を傷つけるのをおそれて黙っていたし、盛は盛で顔にうすら笑いをうかべて、何事か自 分ひとりの物思いにふけっていた。とうとう元は、なかば盛を困らせてやる気でロを切った。 「ほくは女の口からダーリング ( 愛するものよ ) というような言葉をきいたのははじめてだ。・ほ くには何のことだか、よくわからなかったくらいだ。彼女は、そうすると、よっぽどきみを愛し ているのかね ? 」 だが盛は笑って答えた。「ああいう言葉には何の意味もないんだよ。彼女は誰にでもああい 言葉を使うんだーーああいう連中の一のくせさ。しかし音楽は悪くないね。ぼくの気分をよく とらえているよ」元はそのとき盛の顔を見て、盛が自分では気づかすに顔に出した表情をそこに 見た。盛が女の言った甘ったるい、ばかけた言葉が気に入っていること、彼をほめあげ、彼の詩 を作曲することによって彼女の示した媚態が彼の気に入っていることを、その顔は明白に語って いた。元はそのときはもう何も言わなかった。しかし心のなかでは、盛と自分とは行き方がちが 、生活もちがう、自分としては自分の行き方が一番いいのだ、もっともそれがどんな行き方な のか自分にもよくわからないが、盛のそれでないことだけはたしかだ、と思った。 だから、従兄弟をよろこばせるために、この都会にしばらく滞在して見物し、地下鉄とか繁華
連中までが生き生きした健康な表情になり、寒い風が西から吹きつけているのに、みなあたたか そうにしている。 「これがあたたまるのに一番いい方法だ」微笑しながら元は言った。「火にあたるより、すっ といい」青年たちは元を敬愛しているので、彼の気に入るように一緒に笑った。だが農村出の二 人だけは、元気な赤い顔になってはいても、まだ気なすかしい表情をしていた。 その夜、自分の部屋に一人になったとき、元は今日の一部始終を美齢に書き送った。飲食と同 じよ、つに、 この頃では一日の終りに彼女にその日の出来事を書き送るのが、欠くべからざる日課 になっていたのである。書き終えると、彼は立って、窓辺へ行って市街を見わたした。黒っぽい 瓦屋根の古い家々が、月光のなかに黒くつらなっている。だが、それらにまじって、いたるとこ ろに新しい赤屋根の洋風の四角い建物が高くそびえているーー・その無数の窓に灯火がかがやいて いる。大きな新開道路が、市街をつらぬいて、ひろびろと光の帯をつくり、月の光をうばってい る。 この変貌しつつある市街をながめながら、しかし元は、ほとんどその光景を見ていなかった。 g 彼が何よりもあざやかに見ていたものは、美齢の顔であった。じつにあざやかに、若々しく、彼 地女の顔がそこにあり、市街は、その顔の背景にすぎなかった。すると、急に未完の詩の第四句が 心にうかんで、まるで印刷されたようにその詩はできあがっていた。彼は机に走り寄って、いま 封をしたばかりの手紙をとりあけ、封を破って、つきの言葉を書き加えた。 「この四行の詩は今 できたものです。最初の三行は畑でできたのですが、最後の結句がうかばないままで家へ帰り、 そしてあなたのことを考えました。すると、まるであなたがに まくにロ授してくれたように、すら
も、その瞬間にさえ、あとになるまで自分でも知らなかったのだが、愛蘭につきそっている美齢 のすがたが非常にはっきりと眼にやきつけられていた。 結婚式は、とどこおりなくおわり、二人のあいだに誓約書がとりかわされ、新郎新婦が作法ど おり両家の人々や来客一同に挨拶し、それから盛大な祝宴とお祭騒ぎがつづき、新婚夫婦が蜜月 の旅へと立ち、すべてが無事にすんで、家へと帰る途々、そのことを考えていた元は、ふと美齢 のことを思い出し、そんなことを思い出した自分を意外に思った。彼女は愛蘭のまえに立って歩 いていたのだが、愛蘭の美しさとならべても、美齢のかげは、すこしもうすくないような気がし た。元はよくおぼえているが、彼女は袖の非常に短い、襟の高い、うす緑色の、やわらかい、な がい衣裳を着ていて、その顔は衣裳の色以上に清らかに、なんとなく蒼ざめ、毅然としているよ うに見えた。愛蘭とはまるでちがっているというそのことのために、彼女は、そのような美しさ にたいして自分がもっているものをしつかりとまもっているようであった。というのは、美齢の 顔は、愛蘭のように、顔の色や、表情の変化や、輝くような眼や、微笑などに負うところのもの は何もなかったからである。美齢の気品高い顔は、しまった清らかな肉の下の非のうちどころも ない骨格の線からきたもので、それは若さをうしなったすっと後までもその力と高貴さをのこす 線だと元は思った。いまの彼女は年のわりに老けていた。しかし、年をとると、いっかは、その まっすぐな鼻、その恰好のいい頬とあご、はっきりとしたくちびる、頭にびったりと撫でつけた くせのない、短い黒い髪などは、ふたたび彼女に若さをあたえるであろうと思われた。浮世の苦 労も彼女をひどく変えることはないであろう。彼女の物腰には、いまでも何となく重々しさがあ るが、それだけに年をとってもなお若さをたもっているだろうと思われた。
なかった。盛までが感心して叫んだ。「きみは運のいい男だな。われわれ酒に弱いものは赤くな るが、きみは蒼くなるほうらしい ? 眼を見なければ、誰もきみが酔っているとは思わないだろう。 だが眼だけは火のように燃えている ! 」 この夜の酒宴で、彼は、どこかでまえに会ったことのある女性と会った。盛が、その女性をつ 「このひとは、・ほくの新しい友達だ。一度だけ、きみにゆずるから、踊りたま れてきて言った。 え。そうして、このひと以上にグンスのうまいひとがいるかどうか、あとで報告してくれ」そこ で元は彼女を抱いて踊っている自分に氣がついた。真白な、よく光る長い洋風のドレスを着た、 すらりとした小柄な女性だった。ふと、その顔を見おろしたとき、元は、このひとを知っている く、くちびるの厚いのが情熱的な感じで、美人ではないが、どこ と思った。まる顔の、色が浅黒 か異様な、一度きりで眼を離せる顔ではなかった。容易に忘れられない顔である。すると彼女の ほうでも、いぶかしそうに言った。「おや、あなたでしたのーに船が = 緒でしたわね、お忘れに なった ? 」それで、熱している頭をはたらかせてみると、たしかにおぼえていたので、彼は微笑 みながら言った。「そうそう、自分はいつも自由でありたいと叫んだのは、あなたですね」 価すると、彼女の大きな黒い眼が急にまじめになり、濃い口紅を真赤に塗ったくちびるをつき出 「この国で自由な生活をするのは容易なことではないわ。わたし 地すようにして、彼女は答えた。 は自由は自由ですけれどーーーものすごく孤独なのよーー」急に彼女は踊りをやめて、元の袖を引 つばって叫んだ。「どっかへ行って坐ってお話しましようよ。あなたは、わたしみたいにみじめ ではなかったでしようね : : : わたしは末っ子で、母はもうなくなりました。父はいま、この市で 二番目の役人です : : : 妾が四人もいて , ー、、みんな芸者あがりですの : : : あなたは、わたしがどん
翌日、生活を決定づける二つの事件が起 0 た。朝はやく老夫人が彼に言 0 た。「当分のあ メイリン いだ、あなたはこの家にいないほうかいいのじゃないでしようかね。美齢にしても、あなたの心 がわかっていながら、毎日顔をあわさなければならないことが、どんなにつらいか、考えてやっ てください」 これにたいして、昨日の怒りが残っているので、元は腹だたしそうに答えた。「よくわかって いますよ。ぼくだってそうなのですから。ぼくも毎日美齢と顔をあわせなくてすむところへ行き たいと思っています。美齢の姿を見、声を聞くたびに、結婚をことわられたことをおもい出さず g にすむところへ行きたいのです , 地元は、こうした言葉を、はじめは威勢よく、怒りをこめて言ったのだが、おしまいごろになる と声がふるえてきた。なんとかして怒りをもちこたえ、美齢の顔が見えないところへ行きたいの 大 だと言おうとするのだが、そのことを考えると、じつは、なにものにもまして彼女の姿が見え、 彼女の声がきけるところにいたいのだと知っているので、みじめな気持になった。しかし、けさ の老夫人は、またもとのおだやかな婦人にかえっていて、いまはもう美齢をかばう必要もないし、 、刀しノ . し と元は自分に言ってきかせた。どこかで彼らは、昔のようにカづよく、自分たちの生 活をいとなんでいるのだ。彼らのことを考えて、元は、ちょっとほほえみ、そのあいだ自分の苦 しみを忘れ、考えにふけりながら家へと帰った。自分も、なんとかして自分自身の生活を発見し なくてはならない。 四
じじっ美齢はおどろいていた。茶椀と箸をそ . っとおき、なんと答えてよいかわからず、じっと 老夫人を見つめていた。しかし、すぐにひくい蚊のなくような声で、「わたし、どうしても承知し しいえ、そんなことはありません , と夫人はま なければならないのでしようか ? 」と言った。 じめな顔になって答えた。「いやなら承知する必要はありません」 「では、おことわりします」と美齢は安心したように顔をかがやかせながら、うれしそうに答 えた。それから言葉をつづけた。「同級生にも結婚させられた人がいて、みんな学校をやめたく ないと言って泣いています。それで、わたしもびつくりしたのです。ありがとうございます、お 母さま , そういうと美齢は、いつも静かでひかえめなのに、いそいで立ちあがると、感謝をあら わす昔からのしきたりどおり、夫人のまえに身を投け出して、おじぎをした。しかし夫人は彼女 をたすけおこし、片手をからだにまわして抱きよせた。 それから夫人が元のほうを見ると、彼は顔から血の気がうせて蒼白になり、泣くまいとして歯 でかみしめているくちびるまでが蒼白だった。夫人は彼が気の毒になり、娘のほうを見て、やさ しく言った。「こんなことがあっても、あなたは元がきらいにならないでしようね」 g すると彼女は、いそいで答えた。「もちろんですわ、お母さま。元はわたしの兄さんなんです 地もの。好きですけど、結婚したくないだけです。わたしは誰とも結婚したくありません。学校を 卒業して医者になりたいのです。いくらでも勉強したいのです。女はみな結婚します。でも、わ 大 たしは、ただ家や子供の世話をするだけのような結婚はしたくありません。わたし医者になる決 9 心をしています ! 」 美齢がこう言ったとき、夫人は勝ちほこったように元のほうを見た。元もこの二人の女を見た
330 「いつでもではなく ときにはあれを、と 彼女はまた微笑して首を振った。そして答えた。 きにはこれをと、その場合に応じたほうがーー・、人はいつでも同じではいられませんもの」 またしても二人は、いつのまにか無言で顔を見あわせていた。二人は完全に死につつある人を 、 - 彼らにとって、もはや死は存在しなかった。だが元は、また何か言わなくてはなら 忘れてした。 / なかった。何も言わずにいることに、どうして耐えられよう ? 「あのーーー、あの、いまぼくがしたのはーーーあれは西洋の習慣ですーーもしあなたがきらいなら 」なおも彼女を見守りながら彼は言った。もし彼女がきらうのなら、ひざまずいても、ゆる しを求めるつもりだった。それにしても彼女は接吻の意味を知っているのだろうか ? だが彼は そのことはロに出せなかったので、相手の顔をみつめたままでロごもった。 すると、静かに彼女は言った。「西洋の習慣が、みな悪いとはかぎりませんわ ! ーそして急に 彼女は彼を見ようとしなくなった。うつむいて地面を見ていた。このときの彼女は、どんな古風 な娘にも負けないくらい、はにかんでいた。彼女の瞼が一、二度またたくのが見えた。彼をあと に残してここを立ち去ろうとして、ためらっているように見えた。 しかし彼女は行かなかった。元気を出して、身体をまっすぐにしてしゃんと立ち、顔をあけて 1 じっと彼を見かえした。微笑をうかべて、待っていた。それを元は知った。 彼の心臓の鼓動は高まった。全身が早鐘をつく心臓になったかと思われた。彼は夜気をふるわ せて声をあげて笑った。さっきおれは何を心配していたのだろう ? 「ぼくたちは」と彼は言った。「ぼくたち二人はーー、なにも怖れる必要がないのだ」