250 私に信をいだいたすべての者たちのために 私は行かざるところはなく あなた方の戸口に立っ 私の生命は死を知らない 信をいだく者すべての者の前に 私パドマはあらわれる チベットでは、すみきった信をいだくことの大切さを、いろいろな物語に託して語り 伝えてきた。たとえば「犬の歯も信心から」という諺があって、それはこんな話に由来 している。 昔、とても信心深い老婆がいた。老婆の息子は商売がらインドにしよっちゅう出かけ ていたので老婆はこの息子に何度も「インドはお釈迦さまの生まれた国だろう。なあお まえ、インドから何かありがたいものをもって帰っておくれ。一生懸命それを拝むか ら」と頼みこんでいた。しかしそのたびに、商売にかまけていた息子は、母親の頼みを 忘れて手ぶらでインドからもどってきた。とうとう業を煮やした老婆は、今度手ぶらで 帰ってきたら自殺してやる、と息子におどしをかけた。 ところが息子は今度もうつかり忘れ、帰りの道すがらやっと母親の言葉を思いだし、
91 人に生まれる では、ブッダの教えが説かれ、実践されている土地が、辺境にたいして、中心と呼 ばれるのだ。長いこと、インドは地理的にも、精神的にも、中心の土地であった。 だが、今ではその土地に仏教は説かれておらず、ブッダガャも荒れ果ててしまって いる。ダルマという観点から見れば、インドはもはや精神的な中心ではなくなって しまっているのだ。 ブッダがこの世にあった頃、チベットは人もあまり住んでいない、まったくの未 開の土地だった。文字どおり、そこは辺境の土地だったのである。ところが、そこ には、しだいに人間が住みつき、偉大な王たちが、あらわれるようになった。ハト トリ・ニエッエン王のとき、『。ハンコン・チャクギャ。ハ』という仏教書が、ツアッ アと呼ばれる仏塔の小さな模型や、そのほかの仏具といっしょに、宮殿の屋根に降 りてきた。これが、チベットに仏教の広まる、最初の印となった。このあとに続く、 五王のときに、仏教の意義はしだいに理解されてくるようになった。 観世音菩薩の化身であった、偉大な王ソンツェンガンポは、翻訳官トンミ・サン ポータを、インドへ派遣し、サンスクリット文法や語彙を学ばせた。彼はチベット にもどって、インドの文字にならって、チベット文字の体系をつくり、また文法を 理論化した。このとき、観世音菩薩にかんする二十一のお経や、『ニエンボ・サン ワ』のような本が、はじめてチベット語に翻訳された。ソンツェンガンポ王は、大
新しい」 自分の心の連続体を浄化することよりも、慈悲の瞑想のほうが、大事なのである。昔、 インドでアビダルマの教えが、三度にわたる攻撃のために、減亡の危機にひんしていた ことがある。そのとき、サルウェイ・ツルテイム ( 透明な持戒者 ) という名の、一人の ・フラーフマン ( 司祭階級の者 ) の尼が、つぎのような誓願をたてた。「私は女性の身に生 まれてしまったから、このようなアビダルマの教えの危機のときにも、何もすることが できない。しかし、私にも一つだけできることがある。私は、尼であることをやめて、 男性と交わろう。そして、この世にアビダルマの教えをもう一度広めてくれる、男の子 を産み出すのだ」。彼女はクシャトリア ( 戦士階級の者 ) の男性と交わって、アサンガと いう男の子を生んだ。つづいて、彼女はプラーフマンの男性と交わって、ヴァス・ハンド ウを生んだ。二人の男の子は年頃になって、インドの習慣で、父親の職業をつぐ準備を はじめた。ところが、母親は兄弟を呼んで、こう語った。「私は、おまえたちに世俗の 父親の職業をついでもらうために、おまえたちをこの世に生んだのではないのだよ。お まえたちには、ブッダの教えを広めてもらいたいのだ。ダルマを学んで、アビダルマの 提 菩 教えをもう一度、世界に広めておくれ」 発 ードラについて、アビダルマをまなぶ ヴァスパンドウはカンユミー ルの学僧サンガ・ハ ために、北インドをめざした。アサンガのほうは、「鳥足山」にむかった。そこでマイ
432 「サハジャの叡智」と呼んでいるのだ。「サハジャ」という一言葉は、「二つのものが一体 である」とか「二つのものは同時に発生する」などという意味を、持っている。その思 想を体得するのは、とてつもなくむずかしい。それを理解し、体得するためには、まず、 行と智の二つの供養を蓄積し、すぐれたラマのあたえてくれる神秘的な加持力に頼って いくことからはじめなくてはならない。もっと能率のよい、他の方法などを探しても、 そんなものはみつからない、 とこのタントラは語っているわけである。 。、はこう衄っている。 密教行者すべての理想である、インドのテイロー あらゆる現象は相互依存しあって生起するという この真理の意味がしかと体得されないうちは 行智の供養の車軸をつかんで けっして離すな、ナロー 一アイロ ハと同じインドのすぐれた成就者ヴィルバも神秘詩の中でつぎのように語っ ている。 いっさいの障りにうち勝ち、真理にたどりつかんことを願っても
わけュニークな密教なのである。 教え方もユニークならば、体験をつくりだす方法や技術がまた、ユニークなのだ。マ ームドラーやラムデは、べンガルを中心にした、インドの後期密教の教え方に、忠実 にしたがっている。その意味では、インド正統的な密教と言えるかも知れない。しかし、 ゾクチェンには、それたけではおさまりがっかないような、不思議なユニークさがある。 ゾクチェンの世界は、ミラレバやマルバがいるマ、 ームドラーの世界などに較べると、 どことなく派手さを欠いているように見える。しかし、それはみせかけにすぎないのだ。 ゾクチェン密教が、あなたに与えることになるであろう体験のあざやかさは、文字どお り、言語を絶している。そこでは、心の本質が、純粋な光となってあらわれる。私は、 このようなゾクチェンのスタイルを、とても気に入っている。 ゾクチェンというチベット語は、「偉大な完成」という意味をもっている。これには、 ふたつの意味がこめられている。ひとつは、これによって、仏教のめざすあらゆる修行 が完成する、という意味で、ゾクチェンパ ( ゾクチ = ンの修行者 ) の並々ならぬ自負を、 あらわしている。もうひとつの意味は、もっと深い。それによると、心は本然の状態に あるとき、それ自体として完成している、あらゆる生き物の意識活動は、もともとゾク チェンとして完成している、純粋である、解脱している、などといった意味が、ここに はこめられていることになる。つまり、この修行によって、私たちはどこか自分とは別
とんでもない大罪を重ねた人間だ、と言ったが、・ とうやらそれは正しかったようだな。 私の知っている法では、そういうおまえを解放することはできない。おまえは私のもと で学ぶよりも口タク地方のドヲルン寺院にいる偉大な翻訳者、インドの聖者ナロー 直弟子であるマルバのもとに行くがいい。彼は密教に新しい風を吹き込んでいる。おま えは私ではなく、彼とカルマのつながりをもっている」 翻訳者マルバ ( マルバ ・ローツアワ ) 。その名前を耳にしただけで、ミラの内部に、 い知れぬ喜びがこみあげてきた。髪の毛は総毛立ち、目からはとめどもない涙が、こ・ほ れだした。そこで、彼はただちに旅立った。 その数日前から、マル。ハとその妻は、不思議な夢を見つづけていた。彼らは、夢を通 して、ミラの到来を予知していた。マルバはそこで、谷間でミラを迎えるために、農夫 のかっこうをして、畑に出かけて、道端で彼を待った。 最初ミラが出会ったのは、マルバの子供だった。 ミラはこの子に、この近くでマルバ という偉いラマを知らないか、とたずねた。子供は答えた。それはたぶん僕のお父さん のことじゃないかな。お父さんは、ときどきインドへ出かけては、本をいつ。よ、 て戻ってくるんだ。そこで、ミラはさらに進んだ。向こうに畑を耕している農夫が見え た。この農夫の顔を見ると、不思議なことに、大きな喜びの感情が、彼の中にわきあが ってきた。しかし、彼はその農夫が、自分の求めるラマだとは、まだ気づかなかった。
545 グル・ヨーガ 必要です。現在、インドのドルジェデン ( 金剛座 ) に、ウッディャナ国出身の蓮華生 トマサイ ( ヴァ ) という、神秘の誕生をおこない、五つの大科学に通じ、究極の真実 を究め、あらゆる密教の奥義に達した人物がいると聞きます。彼ならば、すべての種類 の神魔を調伏する力を持っていることでしよう。もしも彼をチベットに招くことができ れば、神魔をおさえ、王の計画を実現することも可能となるでしよう」 王がたずねる。「そんな人物をチベットに呼ぶことなどできるだろうか」 「できます。なぜなら、かってそのような祈願がなされたことがあるからです。昔ネパ ールの馬飼いの娘デチオーマには四人の息子がおり、さまざまな動物の飼育によって、 。、ールのポード 生計をたてておりました」と言って、僧はネ ナートで巨大な仏塔 ( スト ー。 ( ) が建てられ、そのときいくつもの祈願がなされたいきさつを語った。 マサンバヴァ そこで、王は臣下の者数人に、黄金の贈り物を持たせて、インドのパ のもとに遣いをたてた。 / 彼らは首尾よくこの偉大な行者に出会うことができ、ぜひとも チベットへおいでになって、寺院の建つべき土地を鎮めて下さい、と頼んだ。。ハド ンバヴァはチベットを訪れよう、と約束してくれた。チベット への道すがら、彼は多く の神々や魔物を服属させ、とうとう「赤い岩」に到着した。 そこで、 ハドマサン・ハヴァはまことに強烈な調伏をおこなった。これには、さしもの 神魔も降参し、ようやくその地にはサムエ寺が建立される運びとなったのである。この
場を転々としながら、多くのラマのもとで、小乗・大乗・金剛乗 ( 密教 ) にいたる仏教 哲学と倶想技法をあらかた総なめにしてしまう。この中にはニンマ派の教義体系だけで なく、サキャ派、カギュ派、。 ケールク派というチベット仏教の他の派の教義体系も含ま れている。だが、そこでいちばん心ひかれたのは、やはりニンマ派のゾクチェンの教義 と瞑想であった。こののち六年間、ラマ・ケツン・サンポは山中に隠棲して、ゾクチ = ンⅡアティヨーガを究極の完成にまで鍛えあげていった。 山をおりて、一九五五年から若い僧たちに仏教哲学と瞑想の教授をつづけていたとこ ろに、中国人民解放軍によるチベット侵攻が勃発した。一九五九年、ケツン・リンポチ 工は愛馬とともに・フータン、シッキムをぬけてインドのカリンポンに脱出、長い亡命生 活の始まりであった。シッキムやカリンポン、ダージリンに滞在中は、ほとんど孤独な 瞑想の日々がつづいた。 一九六一年、突然、ダラムサラのダライ・ラマから、ニンマ派最高のテルトンである きドウンジョン・リンポチェの代理として日本へおもむくよう要請がくだる。四十歳にな え ったケツン・リンポチェは東京に着き、以後約十年間にわたって、東洋文庫の研究員を ま 著務めるかたわら、全国七つの大学でチベット語や仏教哲学を講ずる教師の生活を送り、 その間にたくさんの日本人チベット 学者を育てるのに力をつくした。 一九七〇年、ふたたびインドにもどったケツン・リンポチェは、ダラムサラにあるチ
35 はじめに 弟の のえ僧 工教学 ジのる ドエさ ・チ称 プクと ッゾ王 フガ子転 ガラップ・ドルジェ (dGa'-rab-rdo-rje) ) 金剛薩垣の応身 ( 叩。。 1- sku) として、北インド のウッディヤナに出現し た。人間に伝えられたゾ クチ = ンの相承系譖の初 祖である。 マ・ンジュシュリ
527 グル・ヨーガ 私がこの世界を去って 二八年ののち 三界の神の領域に知られる あらゆる教えの至上のエッセンスが インド大陸の東にすむ 人にあって人にすぐれた ジャ王と呼ばれる者のもとに かくれもなくあらわれる またルー。 トラ山の頂上に ランカ島の王のごとき 劣った生物たちの友のもとに ラクナドルジェによってもあらわれる こう語ったのち、ブッダは入滅なさったそうだ。そして、この予言のとおり、マ、 アヌ、アティの三つの仏教の教えが、地球上に出現した。 まず、マハ ーヨーガがあらわれた。ブッダが入減して二八年ののち、ジャ王の夢に七