485 グル・ヨーガ ラマの優しさを心深くに刻むのだ ゲシェ・カラク・ゴムチェンは、こう語っている。「ラマはこの世のあらゆる業にた くみであるばかりではなく、また現世を越えた業に熟達した達人である必要がある : また、あらゆる仏教文献 ( 戒律を説いた小乗の教え、大乗の教え、密教の教えの三種の文献 ) に通じているよりも、ラマにありったけの献身をささげることのほうが、価値は大きい」 とくに、密教 ( 秘密真言金剛乗 ) にあっては、どのような修行の体系を学ぶにしても、 ラマの存在は、はかりしれない重要性をもっている。そのために、グル・ヨーガ ( ラマ イ・ナルジョル ) を説明するあらゆるタントラにおいて、このヨーガこそが、あらゆる 生起次第と究竟次第の瞑想よりも、すぐれていると宣言されているのだ。 あるタントラには、こう書いてある。 気の遠くなるほどの長い時間をかけて 何十万回も神の姿を瞑想することよりも 自分のラマを一瞬だけ瞑想するほうがまさっている このことは、とりわけこれから私たちが学・ほうとしている「ランシン・ゾク。ハ・チェ
うもののあまりのよこしまさにいやけがさして、ラマが正しい教えを説かないまま去っ てしまうことのないよう懇願することによって、無知の愚かさを克服するわけだ。 三乗の教えを説いてくださるよう懇願します ここでいわれている「三乗」には複合的な意味がこめられている。声聞、独覚、菩薩 という外の三乗をさしてもいるし、密教の外の三乗、つまり所作タントラ、行タントラ、 ヨーガタントラの三乗のタントラという意味もあり、さらには密教最深奥の三乗、マ、 アヌ、アティの三つのタントラをさしているとも考えられる。いずれにしても、仏 教の全真理を説いてくれるよう懇願していることにかわりはない。 ニルヴァーナ 六つめは、ラマたちが完全な涅槃に入ってしまわないように願う「祈り」の支分で ある。誤ったものの見方にうち勝つのが目的である。 輪廻に迷うものすべてが空性に溶けいるまで 涅槃に入らないように祈願します ここでも礼拝の支分の時と同じように、あたりをみたす無数の変化の分身を生みだし
37 はじめに ヴィマラミトラ (VimaIamitra) ニンティク体系は、グ ル・リンポチェの口頭伝 授によるものと、ヴィマ ラミトラの口頭伝授によ るものとの、二系列でで きている。ゾクチェン・ タントラのもっとも重要 な 17 タントラ (rgyud- bcu-bdun) のほとんど は、彼によって翻訳され グル・リンポチェ (Padmasambhava) チベットに仏教を定着さ せるのに決定的な役割を はたしたウッディヤナの ニンマ派、カギュ グル。 派ではチベット仏教の祖 として、敬われている。 0
しかし、それは生き生きと活動している。そこには見るものと見られるもの、主体と対 象の区別はなく、自己とその外の世界にあるものを分ける「二元論」も、働いてはいな い。だから、ここは平安このうえもない状態なのである。この法身から、光が溢れ出て くるようにして、知性的な力が、放射される。それが報身と呼ばれる。法身をよく磨き あげた鏡にたとえれば、そこからやってくる光を、報身ということが出来るだろう。応 身は、この報身から流れ出す。報身の知性力は、たとえば歴史上のシャキャムニのよう に、さまざまな姿をとって、輪廻に迷う者を救うために、ブッダの応身となって、私た ちの世界にあらわれるのである。 つぎの「ニンティクーという言葉は、さらに密教的な色彩の濃い内容をもっている。 あとで詳しく説明するように、密教の全体は、所作タントラ、行タントラ、ヨーガタン トラ、無上ヨーガタントラという、四つのクラスのタントラでできている。このうちの、 無上ヨーガタントラには、マモ ( 母 ) とか、ダーキニー ( 空を行く者 ) などと呼ばれる、 多くの女性の神々が、重要な役目をはたしている。彼女たちは、修行者を助けて、すみ やかに奥深い神秘の体験に、 いざなってくれる。私たちがこれから学んでいく密教の体 系にも、たくさんのダーキニーが登場してくる。そして、彼女たち女神の心は、ゾクチ = ンの状態にある。「ニンティク」とは、そういう彼女たちの心のエッセンス、「心の 滴」を意味している。つまり、「ニンティクーという言葉は、女神の心を通して実現さ
スートラ 外と呼ばれるはじめの三つの乗は経典に重きをおいている。戒律や倫理規範の実践修 行を長い期間、積み重ねなければならない。 マントラ 残り六つの乗は、これに対してタントラに重点をおいている。また真言が重要な役割 を演じているから「真言乗」とも呼ばれている。真言乗はことさら行動倫理の実践を強 調することはないが、その独自な瞑想修行をつうじて、はじめの三乗がめざすものをす みやかに、ダイレクトに体験し、実現しようとするものだ。三つの内の乗の所作では祈 疇が中心となり、行はこれにヨーガの実践を結びつける。ヨーガはこの行をもっと純化 して、坐法、呼吸法、観想法などの瞑想修行を体系として整えたものである。 最後に残った三つの秘密の乗は、インド密教の伝統で言う無上ヨーガタントラに相当 している。しかし、分類の原理や、瞑想法を詳しく見てみると、これはやつばりニンマ 派に独自な分け方なのだということがわかる。 ーヨーガでは、マンダラの観想が重視される。観想によって、世界を清浄な神々 のマンダラに変様させる修行がおこなわれ、それをとおして、輪廻であるサンサーラと、 解脱であるニルヴァーナとが、もともと同じものであることを理解しようとするのであ る。欲望につき動かされる心の本性が、もともとは清浄であることが、体得できるのだ。 『サンワ・ニンポ ( 神秘の核心 ) ・タントラ』を中心にして構成され、しばしば父Ⅱ方便
450 それに、・フッダたちの広大な心にとっては、人間にとっての浄不浄などという概念自体、 意味を持たない。 日常の価値観よりも、真理にむかう心の純粋さのほうが、大切で、プ ツダたちはただそれだけを、喜ぶのだ。貧乏でシャキャムニにちっちゃな・ハターラン。フ しかささげられなかったトン・ニュグマという女性を、シャキャムニが心から喜んだこ とを語る昔の物語にもあるとおりだ。また、昔、あるレプラの女性が、自分のもらった ーカーシャパ ( 大伽葉 ) にささげたことがある。そ 少しばかりのお米のスープを、マ、 の時、膿がスープの中にこ・ほれ落ちた。しかし、大聖者は彼女の心根の美しさを尊いと 考えて、いつもと変わることなく、そのスープを静かに飲み干した。そして、それによ って、この女性の思いは報われて、彼女は素晴らしい再生を得たということである。 このマンダラ供養は、功徳を積むためには、とても有効な修行のやり方なので、どん なに高い段階にまで修行が進んだとしても、その間つねにマンダラ供養をおこたらない ようにしなさい、と多くのタントラが説いている。 功徳の集積なくして、達成はない 砂をし・ほっても油は採れないように このタントラの言葉は、マンダラ供養のようなやり方で、功徳を集積しないままに、
278 私の存在は文字の形をとるようになる それらの文字は私と同じ存在だから 深い敬意をこめて扱っておくれ ここで・フッダは、言葉の大切さを、強調しているのだ。民衆の諺にも、「言葉の上に 像を置くな」というのがあるけれど、ブッダの真理をこめたあらゆる表現の中で、像に よるイメージよりもなによりも、言葉によって伝達されたものこそが、私たちにいちば ん多くのものを語ってくれるのである。言葉は、なにを取り、なにを捨てればいいのか を、鋭く弁別して、私たちに教えてくれる。こうして伝えられたダルマの教えは、それ だから・フッダの存在そのものと、まったく同じ意味をもっていることになるわけだ。 密教の象徴物となったら、なおさらだ。ヴァジュラ ( 金剛杵 ) やディルブ ( 金剛鈴 ) が たんなる道具でないことは、誰でも知っている。ヴァジュラはブッダの精神性と五つの 叡智の活動を、しめしている。ディルプは所作タントラやヨーガタントラでは、大日如 来をあらわしているし、もっと高度なタントラでは「ヴァジュラダーツ・ヴィシュヴァ ( 金剛界の大母 ) 」をあらわしているものと、みなされている。またそこには、密教の 八母神を象徴する、八つの神聖な文字が彫り込んである。ディルブの鈴はその形によっ て、このように・フッダの形態性をあらわし、その音をとおして、ブッダの言葉であるダ
264 ぜんぜい 三宝と善逝と三つの柱に 《管》《風》《心滴》の自性菩提心と 本体、自性、抱摂力のマンダラに 覚醒の精髄を得るその日まで 深く帰依します ジグメ・リンバはこの短い詞章の中で、じつに複雑なことをいちどきに言おうとして く、具体的なあ いる。まず、ここでいう善逝とは、三宝 ( 仏・法・僧 ) が力を発揮すべ しうま らわれをもって、この世界に働きをおこなうさまをさしている。三つの柱とは、 でもなくラマ・守護神・ダーキニーのことをさしている。《管》《風》《心滴》の自性で ある菩提心という言い方は、母タントラ系の密教特有の考え方をしめしている。深い瞑 想の中で《心滴》から軽々と放たれる透明な光としてあらわれる智慧を、菩提心と呼ん でいるのである。ロンチェン・ニンティクはダーキニーに守られた密教だと言われる。 つまり、ダーキニーの神秘力をもとにしている母タントラ系の密教を土台にして、その 上により高度なゾクチェンの華を咲かせようとしているのである。そこでこの密教的な 菩提心には、心の本性の三つの様態である本体、自性、抱摂力のマンダラがかさね合わ せられて、全体の帰依の対象がつくられていくのだ。つまり、ジグメ・リイハはこの短
昔たてた誓いをおまえは忘れてしまったのか この世界にみちみてる苦しみのことを忘れたのか 慈悲の心をもって地上に降り立って 地上の苦しみを清めておあげなさい これに、サンワイ・タク。ホはこう約束した。 はじまりの時から、私は誓いを破ったこととてなく 終わりない未来にいたるまで、誓いは破られることはない 私を望むものがあるときには、いつなんどきでも 私はあらゆる願望に答えて、さまざまな形態で出現しよう ガ このように誓ったのち、サンワイ・タクポはマラヤ山の頂上に集まった五人の貴種の ョ 前に出現して、彼らに『ドウ・ゴン・ドウ ( 思念を集めたスートラ ) 』と言う、アヌョ ガの密教を教えた。また、北インドのウッディャナ地方のダナコーシャ湖のほとりでは、 グ ヴァジュラ。、 ニがカラップ・ドルジェに、 『ベル・サンワイ・ギュウ ( 吉祥秘密タント ラ ) 』や『プル。 ( 』や『マモイ・ギ = ウ ( マモ女神タントラ ) 』などを、伝えた。そして、
ンポ ( 完全なる自然な完成 ) 」の教えの場合には、重要な意味をもってくる。大乗仏教で も顕教では、分析力や論理力をフルに活動させれば、そこで説かれている真理を会得す ることも、むずかしくはない。「外のタントラ」の教えの場合でも、そこで得られるの は、それほど高度な達成ではなく、むしろそれはより深い修行のための土台となってい くものだから、教えを会得するのは、そんなに困難ではない。また、「内のタントラ」 の中でも、マ、 ーヨーガやアヌヨーガにおいては、第三灌頂であたえられる象徴的な 「叡智 ( イェシこ」をよりどころにして、真実の「叡智」にたどりつこうとするが、そ のさい、達成にはなお、修行者が自分から自分に働きかけるなんらかの「カ」を、必要 としている。ところが、「ランシン ( 自然に、自然のままで ) 」と呼ばれる、私たちのゾク チェンの教えにおいては、このような働きかけの「カーさえ無化した、まったき自然状 態の中での、達成がめざされる。そのために、そこでは、ラマとのきずなが、なににも かえがたい重要性を持つのだ。それは「黄金の鎖」に、たとえられる。破戒などによっ ても、けっして腐食させることのできないような、絶対的な「きずな」という意味であ る。ラマから注ぎこまれる「叡智 [ が、あなたの心の連続体に、ゾクチェン状態という 達成をもたらすのだ。そのために、ゾクチェンにおいては、ラマとのきずなが、他にお けるよりも、はるかに大きな意味をもっことになる。 サラハがこう一三ロっている。